Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P86, 生命とは何か、万物の統一理論を求めて(1)、九識論の誤り、本尊の意義
今回は、長文になるため、以下の部分
■ 意識と神経過程の謎
■ 自然科学的な倫理の考え方
を、コメント部分(コメント1,2)に記載した。
■ 真実世界の仮定=客観化
科学的方法の二つの基本原理は、自然が理解できるという原理と、客観的に見るという原理である。(コメント5,6、7、8)
自然は完全に解明できるという幻想は、自然哲学者と呼ばれたミレトス学派から始まった。
しかし、不確定性原理は、皮肉にも自然界には厳密な因果関係がないことを示した。
客観化は、我々の周の「真実世界の仮定」が前提になっている。 これは、自然の複雑な問題を理解するときに我々が使う、単純視である。
実は我々は気づかないうちに、自然を理解するべき領域から認識の主体(我々自身)を取り除いてしまっている。そうすると、我々は人間性も失って、世界に属さない見物人になってしまう。このやり方で、世界ははじめて客観的な世界になる。
私の体(私の精神的活動と密接につながっている)は、客体(私の周りの真実世界)の一部だが、私はこの客体を感覚と知覚と記憶で描いている。他の人の体も、この客体世界の一部である。私は確かな理由で、他の人の体も意識の場所につながっていて、その場所そのもののようだと信じている。
それはひょっとしたら幻かもしれないが、それを確実に保証する手段はない。だから我々はこの場所にあるものを、我々の周りの真実世界の一部を作る客観的な存在だと疑いもなく受け入れている。
さらに我々自身と他人との違いはなく、我々の目的や意志はうまく合っているから、我々自身も、我々を囲む真の物質的世界の一部だと受け入れる。
つまり我々は、自身の心が作り出した世界を見る自分自身を、その世界の一部にする。だが、それは間違った考えに基づいているので、悪い結果につながる。
すなわち、元々我々は、自分たちを世界から切り離して世界を描くことでしか満足できる世界を得られない。
これは恐ろしい事実であるが、これに気が付く人は少ない。対象のこうした世界は、実は色も音も温度もないものである。それらは、我々の感覚によって生まれるものであり、我々の精神がなければ、この世界には存在しないことになる。
シェリントン著『人間の本質』によると、物質の世界は、我々の精神を消して作られたものである。だから、精神は世界の一部ではなく、世界と関係がない。スピノーザの言葉で言えば、精神は世界に影響を与えず、世界から影響を受けないという。
すなわち「身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない。」(B・スピノーザ著『倫理学』第三部、定理二)
しかし、これは一見矛盾する見方である。
心理学者のC・G・ユングは、これと同じ問題について、違う視点から批判的に語っている。(コメント11)
自分たちを世界から切り離して、世界を客観的に見るという考え方は、満足できる世界像を得るための高いコストだと考えられる。しかし、ユングは、それが不可能な状況を作り出したと非難して、このように述べている。
――自然科学はすべて、心の働きに基づいており、知識はすべて、心から生まれている。心は宇宙の中で最も不思議なものである。心は、世界を認識するために必要なものである。西洋ではほとんどの場合、心の重要さを認めなかった。外部の世界が心を押しのけて、消してしまったのである。――
この、ユングの言うことは正しい。しかし、心がその役割を失ってしまったことは、危険なことである。ユングは心の消失に不満を持っている。
それに対して、物理学や生理学の古い考え方を代表する有名な人たちは、「科学の世界」は客観的であり、心や感覚は必要ないと主張してきた。
A・S・エディントン(コメント12)は、二つの机の話をしている。一つは普通の机で、彼はそこに座っている。もう一つは科学的な机で、感覚ではなく、この物体のほとんどはからつぼの空間でその中に散らばった電子と原子核でできている。これらがからっぽの空間のなかを少なくともそれ自体の大きさの十万倍の距離で常に離れたままで渦巻いている。
彼は、物理学の世界からみれば日常生活は影に見えると述べている。しかし、最新の科学は、物理学の映し出す世界が影のようだということに頼っていない。我々は気づくことなく、自然をそのまま扱っていると考えた。
■ 人格は個体の内部にあるのか?
これは難しい問題である。我々は自分の行為に責任を持ち、褒められたり責められたりする。しかし、我々は本当に行為をする「主体」なのか。ひょっとしたら我々は本能や周囲に操られているだけなのではないか?
今でも自然科学のみではこの答えは難しい。
我々の世界観は、感覚器官を含む精神が作り出したものだ。だから、我々の世界観はすべて精神の作品であり、それ以外のものにはなり得ないのだ。
しかし、意識という精神は、その作品の中では異質なものであり、脳が主な役割を担っているであろうが、身体のどこにも収まらない。そして我々は普段、この事実に気づかない。なぜなら、我々は人間の人格や動物の個性を、それぞれの個体の中だけにあると思い込んでいるからだ。
それが実は個体の中だけではないことが仏法では説かれている。
我々は人間の人格を、脳の中にあると思っている。そこから、理解や愛や表情が出てくると思っている。
例えば物理的に、目について単純に考えるとき、この感覚器官がただ感じるだけのものだということを見落としていないか。我々は逆に考えて、目から出る光は、「明るい光」ではなく、「見る光」と考えたがる。新聞のマンガや古い図で、そのような「見る光」を見たことがあるだろう。彼らは、光学の道具や法則を図で表そうとして、目から点線が出て物に当たり、矢印で方向を示した。特に女性の方には、新しいおもちゃを子供にあげたときの子供の目を思い出してみよう。そして物理学者に、実際には目から何も出ていないと言ってみよう。実際には、子供の目自体は客観的に物の姿を感じるだけのもので、ずっと光の粒子に当たって受け入れているだけなのだ。なんと、実際にだ。とても奇妙な現実である。ここで、何かが足りないように感じないだろうか。
九識論での眼識ではこの足りないものを補っている。眼識も含めて五識は、これらの厳密なシステムとともに、それぞれの五感が認識・識別するものと捉えている。そして、そこからの情報を受けて綜合したものとして意識を捉えている。
人格や意識が体の中にあると考えるのは、現実を理解するための便宜的な方便にすぎないが、これは九識論においても同様である。そしてこの事実を受け入れるのはとても難しい。
例えば「優しい表情」は、体の中にあると思われるが、体の中を厳密に見てみると、とても複雑である。
すなわち無数の細胞が特別な形で組み合わされ、その形はとても複雑で調べることができないが、素晴らしい協力と伝達の仕組みになっている。そこでは、常に変化する電気化学的なパルスが、神経細胞から神経細胞へと送られていて、たくさんの接点が、一瞬でつながったり切れたりしている。同時にそこでは化学的な変化が起こっているし、未解明な変化もある。生理学が進むと、これらのことをもっと知ることができるだろうが。
例えば四苦八苦のなかの愛別離苦――すなわち愛する人との別れの苦しみを例に挙げてみよう。
神経学的にはいくつかの外向きのパルスの流れが見える。このパルスは頭から出て、長い細胞の突出部(動きの神経線)を通って、腕の筋肉に届く。その結果、このパルスは、あなたの震える腕を動かして、あなたに別れを告げるのを助ける――永遠の、悲しい別れのためにである。同時に、他のパルスの流れが、涙で悲しい目を覆うために、涙腺から液体を出す。目から脳中枢を通って、腕の筋肉と涙腺につながるこの道のどこでも人格は見つからない。そして、心の中のひどい苦しみや、どうすればいいかわからない不安――それらはあなた自身を苦しめているようで、あなたはそれを現実として受け入れなければならない――を、その道のどこを探しても見つけることはできない。生理学がどれだけ進んでも、たぶん同じだろう。
さて、我々の頭には、精神や感情に関係する物質的なモノは何も見つからない。
そこに見つかるものは、識別という「働き」だけである。これは深く考えてみれば、それはむしろ安心すべきことである。
私が、死んだ友人に本当に悲しみを感じて、友人の死体を見なければならなかったら、こう考えると慰めになるかもしれない。すなわちその死体は、本当は彼の人格があった場所ではなく、ただ「現実的に〔人格を〕参照する」ための象徴にすぎない。そして、すでに真実として、そうなっているのである。
物理学者ヴォルフガング・パウルイが、ユングとの対話をもとにして書いた本『人格とは何か』にも、同様のことが述べられている。(コメント19)
ちなみに仏法の一念三千では、このような愛別離苦の一念を、地獄界の地獄界として、個別の十如是、三世間を参照することができる。そして色心不二(各々個別で、肉体と精神は一体)・依正不二(各々の主体と環境は一体)を説き、哲学的な理解を得ることができるし、人格というのもこの一部である。
人格に限って言えば、その死体はその時点の一念を説明すれば、自然は無情ではあるが上記の如く、ただ「現実的に〔人格を〕参照する」ための象徴にすぎなかったのであり、すでに真実として、その死体にはなんら人格的な働きは消滅しているのである。そして、あるのはその死体に直面している他の個体の生命の境涯――すなわち愛別離苦という個別の一念なのである。これは、自然が無情と言う通り、他の人間や生物にとっては全く別の一念――すなわち、たとえばウジ虫や細菌にとっては天界の満足な境涯、また、人間社会においても金儲け主義の葬儀屋や宗教団体(坊主丸儲けという言葉さえある)にとっては・・・以下省略――となることは、簡単に理解できるだろう。これも食物連鎖や社会構成の一つであり、こうして、万物は変化し循環しているのである。
そこに意味や意義を見出し更新してきて、未来もまた同様なのが、文化的生物として各々が乗り越えるべき課題なのである。
■ 主体と客体の現代物理学的見方
仏法では依正不二といって、主体と客体は一体であると説いている。
一方、量子物理学の主要な学派が提唱した、主体と客体の関係についての考え方は、ボーア、ハイゼンベルク、ボルンなどの物理学者によって発展した。
それは簡単に言えば、自然の対象や物理的な系は、それに触れなければ説明できないということだ。
この触れるというのは、物理的な相互作用のことで、対象を観察するために必要である。
たとえば観察の対象は光線によって照らされ、反射した光が目や測定器に届く。これは、対象が私たちの観察によって変化することを意味する。また、対象を切り離しておけば、何も分からない。つまり、対象に干渉することは避けられず、完全な観察は不可能なのだ。観察により、いくつかの特徴は分かるが、他の特徴(最後の観察によって生まれたもの)は判別不能である。
この理論は、物理的な対象の完璧な記述がなぜできないのかを説明するために出された。自然は科学的には完全には理解できないということになる。
こうして最近の物理学の発見により、主体と客体の間の不思議な境界はなくなったのである。
これは、仏法の「依正不二」を見事に説明している。
主体と客体の区別は、古今の多くの思想家によって認められてきた。しかし、この区別は更新すべきである。
主体と客体の区別を受け入れた哲学者の多くは、私たちの感覚や知覚や観察力は、個人的で主体的なもので、カントが言う「物それ自体」の本質を反映していないと主張した。カントは、「物それ自体」については何も分からないと断言した。
このように、主体性の考え方は古くからある。しかし、我々が周囲の環境から受ける印象は、我々の知覚器官や状況によって変わる。それだけでなく、我々が観測するために使う装置によっても、環境自体が変化する。
量子物理学の法則によれば、この変化の影響は、ある程度以上には小さくできない。だがこれは、主体が客体に直接影響を与えるとは言えない。なぜなら、主体は感じたり考えたりするもので、エネルギーの世界には属さないからである。感覚や思考は、エネルギーの世界を直接変えることはできない。
これらはすべて、主体と客体の区別を認める立場から見たものである。日常生活では、この区別は必要である。しかし、私は哲学的には、この区別は捨てるべきだと思う。カントが示したように、この区別は論理的には成り立たない。彼が言った「物それ自体」は、空虚な概念である。我々は、それについて何も知ることができないのである。
私の精神も世界も、同じものでできている。両者は、たくさんの関係を持っている。しかし、これはすべての精神と世界に共通である。世界は、私にとってただ一つのものである。一つの存在でも、一つの知覚対象でもない。主体も客体も一つである。両者の間に壁はない。物理学の実験が壁を壊したというのは間違いであり、そもそもそんな壁など存在しなかったのだ。
(コメント16,17,18)
■ 多元の意識的自我と一つの世界
シュレディンガーは述べる。
「感覚力をもち、知覚力をもち思考する、この私たちの自我を、科学的な世界描像のなかに見い出せないその理由は、次の十七字で容易に示すことができます。つまり「世界描像とは自我そのものなのである」と。自我は世界全体と同一なのですから、その部分として世界に含まれるわけがないのです」(「精神と物質」P87)
すなわち我々の自我は感じたり考えたりするものだが、科学的な世界の一部ではない。なぜなら「世界は自我そのものだから」。
しかし、自我はたくさんあるのに、世界は一つしかないという矛盾ができる。これは、自我の共通点から「真実の世界」という考え方を作ったからであるとシュレディンガーは述べる。
以下も、彼の論を参考にして述べていく。
私の世界とあなたの世界は同じなのだろうか。
真実の世界とは何だろうか。
我々が見ている世界とは違うのだろうか。
これらの疑問は解決できない。なぜなら、多くもの自我がたった一つの世界を作るという矛盾があるから。
この矛盾を解決する方法は二つあるが、どちらも奇妙である。
一つは、ライプニッツのモナドという考え方である。
モナドはそれぞれが世界で、他のモナドとは関係ないというものである。しかし、モナドは予め調和している。だがこの考え方はあまり人気がない。(コメント20)
もう一つは、精神や意識は一つだとする考え方である。
多くの精神があるのは見せかけで、ウパニシャッドの教えと同じである。
これは他の神秘主義者も共有する考え方で、神と一体になった体験をした人は、東洋も西洋も同じである。
ウパニシャッド以外にも、13世紀のイスラムの神秘主義者アジズ・ナザフィーの言葉がある。
以下はフリッツ・マイヤーの論文から引用したものである。
『動物は死ぬと、精神は精神世界に、肉体は肉体世界に戻る。肉体だけが変わるのであって、精神世界は一つの精神でできている。肉体世界の奥にあるその精神は光っていて、動物が生まれるとき、窓のようになって光を出す。窓の形や大きさによって、光は多かったり少なかったりする。だが光自体は変わらない。』
オルダス・ハクスリーは自著『永遠の哲学』で、色々な時代の神秘主義者の名言を紹介している。似たような素晴らしい言葉が並び、違う民族や宗教の人たちが、驚くほど同じことを述べている。彼らは、お互いのことを知らず、時空を超えて、地球の遠く離れた場所にいたにもかかわらず。
だが、この考え方は、西洋の思想家にとっては奇妙に感じられ、非科学的で人気がなかった。なぜなら、我々の自然科学――ギリシアから始まった科学――は、客観的に物事を見ることに基づいているからである。
客観的に見ることで、科学は、認識する主体や精神について正しく理解できなくなっていたのだ。
だから我々は、東洋思想からも学ぶべきだが、それは簡単ではない。我々は、科学的な考え方が得た理論的な確実さを失わないように気をつけなければならないからだ。
私は、先述した仏法の「一念三千」の法則から、精神や意識は一つだという考え方を支持する。これは、ライプニッツの複雑なモナド論(コメント20)とは対照的である。
我々の経験は、意識は単数形でしかありえないと示しているし、我々が複数の意識を持つことができるとは到底考えられない。
しかし、もしかしたら、複数の意識を持つことが可能な場合があるのかもしれない。
そこでチャールズ・シェリントン卿の言葉を引用して、この問題を考えてみる。
シェリントンは、優れた才能と冷静な科学者である。彼は、ウパニシャッドの哲学にも公平であった。
同一性の考え方と科学的な見方とを結びつけるとどうなるだろうか。
(次の ■ シェリントンの矛盾 は、コメント3,4参照)
東洋と西洋の思想において、この生命の矛盾を解く方法は異なっている。
精神の本質については、東洋の同一化の教えを西洋科学に取り入れることで、両方の考え方の違いを説明できる。
精神は、その性質上、唯一無二のものである。
すべての精神は一つで、不死である。
なぜなら、精神には常に現在しかなく、過去や未来はないから。
これは宗教的な見方であって、自然科学的な見方ではないと言われるかもしれないが、宗教は科学と敵対するのではなく、科学の成果によっても裏付けられるべきであろう。
■九識論
この問題を解くカギとして、東洋の有力な精神分析の一つ、九識論がある。
ちなみに日蓮は十八円満抄において、九識論を修行という観点から、仏の智慧である五智を当てはめ、以下のように述べている。
十八円満抄 御書P1365
「問う一家には五智を立つるや、 答う既に九識を立つ故に五智を立つべし、前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり。」
《質問。天台の法門には五つの智慧を定義するのか。
答え。すでに九識を定義しているから、仏の智慧として五智を定めたのである。仏智のなかでは、最初の五識での智慧は成所作智・第六識では妙観察智・第七識では平等性智・第八識では大円鏡智・第九識では法界体性智にあたる。》
また、日蓮は御義口伝にて
「南無妙法蓮華経は、一心の方便なり。妙法蓮華経は、九識なり。十界は、八識已下なり。心を留めてこれを案ずべし。「方」とは即ち十方、十方は即ち十界なり。「便」とは、不思議ということなり」
と述べていることを念頭に置いておく。
九識論は、人間の心の作用を九つの種類に分けた法門である。これ らの識(認識作用)は、感覚器官(根)が対する環境(境)に触れ、識別する部位(識)によって生じる。その部位により五識(眼、耳、鼻、舌、身)、意識、末那識、阿頼耶識、阿摩羅識がある。
あくまで自分自身の、主体的・主観的な認識であり、客観的なものではない。だから再現性はない。
西洋中心の科学的な分析は、客観的で、万人はこう見るという立場であるが、九識論は、自己の生命(環境も含む、万物をリソースとする)を、自分自身はどう見るか・認識するかという観点での分析である。
この意味では、一念三千における仏界の境涯は架空の方便であった(拙論文での先述と、上記の御義口伝参照)が、九識論の第九識(阿摩羅識、九識心王真如の都)は、法(万物一切法)の認識すなわち悟りであるから、実在する認識である。
ただ、後述通り、現代における九識論の説明の多くは、天台の時代の非科学的制約を受けている。すなわち第八識・第九識における認識の対象(環境、境)の設定がなく、生命流とか生命そのもの等としてすりかえている。これは業論や死中(死んでいる間)の生命活動が存在するものと設定されていたことによる(罰論など)誤りである。
識別作用と定義する限り、その対象がなければならない。すなわち生命である主体が「何を」「どのように」認識するか、その有様(作用、働き)が識=認識だからである。
これに基づいた日蓮の遺文も説明不足でアニミズムに陥っていて、たとえば彼の上行菩薩としての自覚も、それを他者が科学的に説明し保証する道は、残念ながら途絶えている。
ここでは、現代科学に合わせたアップデートとして、九識論を説明する。
1. 五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識):眼根(眼や視神経など)が色境(周囲からの光の波長)に触れ、眼識部位(脳の視覚を担当する部位)に視覚が起こる。この一連の仕組みでおこる識別作用を眼識と呼ぶ。
これを西洋風(科学的)に言い換えれば、波長をもった光の刺激(色境)が、眼球~視神経(眼根)を通じて、視覚を統合する脳領域(視覚野)に伝えられて初めて光や色などで作られている視覚の認識が起こる。
注意すべきは、視覚や視野というと、目の感覚だけを意味するが、眼識という場合は脳の認識作用まで含んだ概念である。すなわち視覚で得られた内容の意味づけや価値判断、注意する選択等も含まれる。眼球の向きや瞳の大きさ、水晶体レンズを調節したりして得られるまでを視覚や視野というが、眼識は、得られたそれら漠然と映った景色の中で自身にとって意味のある特定の部位を選択したり価値判断をしたりする認識も加わった概念である。眼識は視力や視野だけでなく、その刺激を弱めたり補ったりする能力も含んでいる。これによって、我々は関係の薄いもしくは嫌な風景を受けつつも、映り込んでいる他の関心に注意を向けることができる。
同様に、耳根が声境(音波)に、鼻根が香境(匂い)に、舌根が味境に、身根が触境(触覚)に縁したとき、それぞれを対境(対象とする環境)とする耳識、鼻識、舌識、身識が生じる。
大きな雑音を伴っていても相手の会話や特定の対象物の音を聞き分けたりできるのは、聴覚だけでなく、それを統合する耳識があるからであり、きんもくせいの香りが漂うなかでもおにぎりの腐った匂いが分かるのも、味のグラデーションや、触れたもののバリエーションも皆、それぞれの認識も含んだ耳識、鼻識、舌識、身識の所作である。
根(主体)と境(観察の対象となる環境)と識(識別・判断等の作用)の三つの要素があってはじめてこれらの認識が生まれる。この根(主体となる感覚器官)が眼・耳・鼻・舌・皮膚の5つの認識をまとめて五識という。この五識は意識~第九識の影響も、その認識の内容として常に受けている。
この五識において、仏の境涯にある者が持つ智慧を成所作智という。この智慧は、衆生を導き、利他の行動を達成するための智慧や洞察を指す。これに対して、六道輪廻の凡夫一般が持つ智慧は、肉眼である。それが愚かな場合は猿智慧などと呼ばれる。
2. 第六識(意識):意識とは、その認識の主体(根)が脳、その対象となる環境は下界から五識を通じて得た一切の情報や過去の記憶領域からの情報、さらにはそれらを統合した情報(法境)で、それらをもとに理性や感情として、物事を判断し推量する精神的な認識をいう。簡単に言えば思慮分別などの「心」である。意根が法境に縁して物事を判断し推量する心の作用である。
意識は、五識や経験だけでなく、さらに第七識・第八識・第九識の影響を直接受けている。
第六識までは、対象が主体の外部の環境に縁して起こる心であり、「思量識」ともいう。
ここにおいて仏が得る智慧は妙観察智といい、主体や環境、自然の動きを正確に把握する智慧である。仏が衆生を導くために先の五識に伝えて正しく行動をさせる智慧でもある。
違いや分け隔てをする認識であり、科学的知見もここに入る。
また、六道輪廻の凡夫が煩悩を実現するために発揮する様々な「悪智慧」や「邪知」もここに入る。
3. 第七識(末那識):末那識は自分自身(自我)を対象(境)として起こる心である。すなわち自己自身に対するもの、自己反省するところ、自我をどう見るかの認識である。
主に五識と意識からの情報を統合しながら自己中心的に働く心で、自我意識の一つである。
また同時に第八識からの情報も受け、さらに業の因果応報によって潜在する貪・瞋・痴の三毒、また我癡、我見、我慢、我愛の四つの煩悩に影響される。
しかし反面、愛・慈悲・智慧・洞察などプラスの価値を生みだし、自己の独自性・独創性・創造性の基となる認識でもあり、自我の確立、自己の信念や思想の形成、人格陶冶、自身を完成へ向かう努力などの源泉となる認識である。
この認識の根(主体)も境(対象)も脳の前頭葉が中心となった脳全体であり、無意識に作用していて、この内容は第六識の意識に上って初めて表面に出る。
心理学や西洋の哲学での分析対象は主に五識~末那識までか、末那識の本質である。
この末那識も、その他第九識までの認識の影響を直接受けている。
末那識に顕れる仏の智慧を平等性智という。平等性智は、対象に対して共通性、平等性を洞察する智慧である。万物に差別はない・すべて平等に尊厳を持っていると悟る智慧である。その対象が自我であるので、貪・瞋・痴の三毒や我癡、我見、我慢、我愛の四つの煩悩を克服した内容である。
六道輪廻の凡夫においては、人格障害・適応障害や、承認欲に基づく詐病などの行動の基、また様々な共棲や依存症の根底になる認識作用でもある。「狡知」や「奸知」などもここに入るだろう。
4. 第八識(阿頼耶識):阿頼耶とは蔵(くら)を指す。第八識(阿頼耶識)は、定義上は、この生命自体(蔵)を認識する心(識別作用)である。生命自体の善悪等の行為やその結果や報い(境界)が現れるという因果応報を見ようという働きである。生命は主体と環境が一体であり一念三千の法則に従っている。この因果応報をどう認識するかの作用である。
先の御義口伝からすれば、十界の生命を認識する作用は五識から第八識までのすべてである。
例えばこれが正確に見ることができる仏の智慧を、ちょうど大きな円鏡に映る鏡に例えて大円鏡智という。この智慧は簡単に言うと、仏眼のひとつである。あくまで智慧があったら見ることができるが、現実にはそれがない状態(無明、悟りを得ていない状態)がほぼすべての生命状態であるから、この阿頼耶識という認識は、六道輪廻を彷徨う一般の凡夫には、第七識までを根底で裏付け正当化する認識と考えて差し支えない。すなわち凡夫における阿頼耶識の智慧は、邪知・無知蒙昧をはじめ、第七識までにあげたあらゆる間違ったマイナスの智慧である。
ここで重要な注意点を述べる。残念なことに一般の宗教書等には、阿頼耶識が、上記までの五識~第七識が起こってくる根底・基盤、蔵そのものであり、一切法を含蔵する生命の無意識の領域とか、業の起こる生命の流れ、生命自体等と、主体として説明されている。これが時代の制約を受けた誤魔化しであると気がつかなければならない。
正確には、自身の生命自体としての「蔵」はあくまで阿頼耶識の自身による「認識の対象」であって、「蔵(生命)そのもの(主体)ではない」。その内容は主に業(因果応報など、身口意の三業)を認識するのである。阿頼耶識はあくまで認識「作用」であって、「業や生命そのものではない」。生命自体はあくまで阿頼耶識の根(主体)である。だから、凡夫におけるその利己的な認識作用がなんら正確であるという保証はなく、業に関する認識(例えば罰論とか願兼於業など)は、美辞麗句・理路整然であってもほとんどすべて間違いである。
例を挙げれば川田洋一博士の「生命哲学入門」(1994/7/31、第三文明社)P46-54には、阿頼耶識自体を「永劫の未来をさして流れゆく生命の根本流」「根源的実在」と言い、生と死において生じたり消えたりするものではない等と説明している。さらに、死においては潜在識として在り続け、生において他の七識が顕在化するなどと述べている。また、倶舎論の種子説も持ち出して、「私たちの潜在識は、あらゆる〝生命の種子”の蔵であり住居である…」などと解釈している。だがこれらは元々の定義から外れた妄想であり、阿頼耶識の説明になってはいない。
彼が言う「生命流」や「根源的実在」などはあくまで阿頼耶識の「認識の対象」すなわち環境(境)であって、阿頼耶識を説明する「作用」ではない。彼の言う「根源的実在」といえるものは阿頼耶識の根すなわち「主体」のことである。つまり彼は、客体と主体をあべこべに説明し、これを作用としての認識として誤魔化している。ちなみに多くの定説が、表現の違いこそあるが、彼の解説と同じである。
そもそも道理として、また、前ページで先述した現代科学の証拠・知見として、生きている間は業の認識ができるが、死んでいる間は生命活動そのものが無いのだから、認識作用も存在しない。これは言うまでもないことである。また、認識の対象である身口意の三業(行い)そのものも、死んでいる間は行いえない。
もし、死んでいる間に何らかの認識作用があると仮定すれば、現代科学の所見(全身麻酔中や一部の新睡眠中における時空感覚の消失)と矛盾する。さらに死後の生命として描かれた様々な対立する諸説の存在を科学的に肯定することになって矛盾する。
このように、彼をはじめとする阿頼耶識の定説が「偽」すなわち誤りであることが数学の背理法で証明できる。すなわち、死んでいる間に生命活動がある(認識がある)と解釈すること自体が間違っているのである。
つまり、第八識は生命流などではなく、死んでいる間はこの阿頼耶識は、当然ながら他の識も合わせてすべて九識そのものが実在しない。
この誤りによって天台は、法華経に説かれた罰論を含むすべての死後の生命の描写をそのまま正当化した。これは当時、数学をはじめとする科学が未発達であったことによる。
日蓮が、観心本尊抄で、仏界の客観的説明に躓いて失敗したのも、基にした天台の教学にこのような限界があったからである。
日蓮の上行菩薩の自覚も、戸田の獄中の自覚も、自らの業を見た阿頼耶識における内容であるが、その認識はあくまで生前でのみ可能すなわち生きている間に限るのであって、しかもそれが正確かどうかの保証など、一切ないのである。なぜならそれは今世における経験(五識~阿頼耶識の蓄積)も受け、その認識時点での九識も影響しているからである。
5. 第九識(阿摩羅識):阿摩羅識は、主体が自身の独自の生命、その対象は自身の独自の生命法則で、この法則を認識する作用を指す。自身の生命は一念三千の原理から、万物をリソースとして時空を超えて一体となっているので、この認識作用は、万物一切根源法を認識する作用である。一言でいえば「悟り」である。主体も対象も法則、そしてその認識作用も悟りの境涯すなわち仏の境涯に限定されている。他の八識で出てきた一切の染法を離れた清浄無染の根本識であり、無垢識とも清浄識とも言う。先述した御義口伝では第九識が南無妙法蓮華経となっているが、これは主体・客体・認識作用すべて、同じ言葉としての定義と考えることができる。
阿頼耶識と同様に、死んでいる間も主体は万物のリソース内に何らかの不可思議な方法や情報を残して存続するが、その認識作用は生きている間のみであり、死んでいる間は存在しない。
さらに重要なことを加えておく。
以上の説明は最初に五識、最後に第九識を説明したから、読者の皆様は五識が表層意識であり、第六識、第七識と順に深くなっていき、第九識が最も深層で、かつ根本であるように理解されたかもしれない。しかしこれは誤解である。一部の解説はこの体たらくをご丁寧に三角形や円錐形などの図を用いて説明している本もある。先端が五識で底辺部分が第九識であるかのように。
これはとんでもない誤解を生む。
一念三千の論理に立てば、十如是で本末究竟等とあるから、識別作用である如是作も、その主体である如是体、その客体であるその他すべての十如是も本末究竟等、すなわちすべて等しく平等の立場にある。つまり、五識も~第九識もすべて平等・対等・並立して存在する。すなわち各認識がそれぞれ全てにおいて平等に影響し合っているのである。図形イメージでいうと平面上または立体状でもいいが、「すべて均質に混ざり合って一様である」ことになる。
たとえば五識の作用が直接に阿頼耶識に反映し、その果報としてまた五識に返ってくる。その逆もある。この因果倶時の作用があらゆる認識作用の間にも及ぶ。これが一念の動き、すなわち一瞬の生命活動なのである。
■ マンダラの内容の多様性・独自性
九識論に不確定性原理などの科学所見を総合してみると、日蓮の書いたマンダラの内容は、あくまで日蓮の心(というフィルター)によって描かれた世界である。日蓮自身は自作ではない、色づけすることなく描いたと述べているが、その述べ方こそが現代物理学の知見では間違った文言だ。確かにその内容は万物の一般法則であることには間違いない。しかし、描き方には必ず個性がありバリエーションがある。
さらに重要な点は、観察行為によりその対象も変化するという現代物理学の知見を踏まえると、万物の生命法則も自身の生命法則(業の内容も含む)も、万人それぞれに描き方が異なってくるし、描いたことによってそれぞれの法則が描いた内容とは違った形に変化していることになる。こうして、日蓮の定義した南無妙法蓮華経でなければならない必然性・統一性が崩れる。
だからこそ、そこで、これを選ぶのも自由である。正しい法則には違いない。
ただ、それをどう意味づけ、どう色づけるかは、生命それぞれに自由であり、生命の独創性・創造性・尊厳性が問われるのである。すなわち第九識の法界体性智が仏界の智慧としてあるというならば、それを実現する勇気と智慧が試されることになる。簡単にいうと、その仏眼の内容こそが試されていることになる。生命が誰一人として同じものがない以上、各自が描く法則の描き方が必ずしも同一にはならないことが法則・道理である。これは自明なのだから。
当然ながら、誤った師弟不二などの理念による共棲関係のもとでは、出現不可能な智慧でもあり、不可能な認識でもあるのが第九識である。
ここに、絶対的に根本尊敬とする本尊の意義を、考え直す必要が発生する。
すなわち、創価学会をはじめとする宗教団体のように、御本尊を特定のものに限定することは、道理に反することになる。更に、個人の尊厳や独自性を最大に尊重する仏界とは程遠いものとなる。
第九識の正しい認識でなら、信仰の対象とする御本尊の内容を、既成のものを選ぶのも自作するのも、全く自由である。そしてそれは生命自体の独自性・尊厳性の現れなのである。