Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P94, エピローグ
筆者は幼少期から創価学会に所属する学会二世である。入会届や御授戒は亡き父が行い、自分の意志で入会したのではない。これは宗教二世問題として挙げられる一つではある。幸か不幸か、物心ついてから日蓮本仏論の南無妙法蓮華経を信仰し、池田大作を師と仰ぎ、現在までほぼ創価学会の組織と密接な関係であった。小中学校時代に断続的ないじめに遭った時も、地域密着の学会末端組織の先輩たちに、創価学会の有能な人材に育ち社会に貢献することが人間としての意義であり使命であり無上の幸福であると励まされてきた。多くの霊的信仰体験にも遭遇し、成人して医師となって以降も、創価学会の総体革命の一員として医療に従事しつつ末端組織の会員や組織拡大のために努力し、数人を折伏し入会に導き、創価学会の仏法を根底とした講演も行い、毎年財務という寄付(会内では御供養と称していた時代もあった)も行ってきた。公明党に疑問を持ちながら、公明党の候補者という理由だけで顔見知りでもない人の宣伝や票稼ぎをしていた。これも恩返しや仇討ちの修行だと教え込まれていたのだからしかたがない。省みれば本当に自分自身が恐ろしくなるが、創価学会が学会流の仏法を世界中に広げ、その暁には世界一の宗教団体になり、すべての組織・機関が創価学会員及びその関係者で占められるという、すなわち広宣流布という理想社会が実現すると本気で信じていた会員の一人だった。
組織内では、本尊や池田大作への絶対の信を説き、これを批判することはタブーである。「無疑日信」(むぎわっしん、疑いなくひたすら信じること)や「以信代慧」(信をもって慧に代える)等、都合よい仏教用語が利用され、創価学会の主張、関連・推奨する内容以外は信じないようにマインドコントロールされている。学会の信仰や指導内容・公明党等に疑問を持った時の相談相手も同様に洗脳されているため、解決にはならない。筆者は医療現場で日常的に科学的エビデンスに基づく対応をしながら、結果の善悪を問わず、学会の主張に反する現証にしばしば遭遇し疑問を持っていたが、その疑問こそ科学的に証明することが自身の使命だと考えてきた。そしてその強迫的な追究を続けてきた結果、ついに拙論文で述べてきた真実、すなわち、自身にとっては幼少時から持ち続けてきた信念を覆す驚愕な真実にたどり着いた。信教は自由だが、脱会は簡単ではない。世間では脱会者への嫌がらせや迫害は、組織的なものから個人的なつながりからでも起こるし、その歴史もあるが、筆者にはそれよりはるかにこの信仰が自身の自我や個性・信念の基盤となってきた重い現実がのしかかり、大いなる葛藤を乗り越えなければならなかった。
先述してきた通り、創価学会は自己流の〝仏法〟や、組織の論理を優れたものとし、池田大作を守るためなら国法を犯してもよいという信念をもちながら、様々な犯罪を重ねてきた歴史をもつ。当然ながら万人救済の法則を説く仏法には、このような教えは存在しない。さらに、「御書のとおり実行しているのは創価学会しかない」「日蓮仏法を広宣流布しているのは創価学会のみである」等々の趣旨を掲げながら、数々の虚偽・捏造を重ね、独善的な姿勢を貫いてきた創価学会は、日蓮の言う文証・理証・現証の点から、御書の通り日蓮の教えを忠実に実行してきたとはとてもいえない。とりわけ、亡き池田大作の姿勢は、日蓮仏法や日蓮の姿勢とは様々な点で対極にあった。
加えて、日蓮・日興の末流である創価学会と日蓮正宗は、自身の教学や日蓮や南無妙法蓮華経の内容を科学の進歩に合わせて批判・検討することはほとんどない。宗教では、人や法を絶対的な信の対象とし、本尊とする。しかし、科学では新理論が常に提唱・証明・更新され、絶対的な法則は存在しない。宗教も科学も真理を基調とするが、真理は常に相対的であり、絶えず更新をくりかえしている。こうした真理の追求によって人類は進歩してきた。信仰の世界でも、日蓮の姿勢である、道理としての正邪善悪の検討の上で最高の法則や修行法を帰命の対象(本尊)とする立場なら、日蓮の教えの根本である南無妙法蓮華経についても、その道理を持続的に追究するべきである。むろん、日蓮は、当時の学問レベルに応じて法の正邪善悪・高低浅深を判断し、一心欲見仏・不自惜身命の境地で、最高の真理を法華経の中に洞察し、南無妙法蓮華経の唱題を唯一最高、真実の教えと定義した。しかし、現在の学問レベルは日蓮の時代に比べて進歩している。なのに、日蓮門流や創価学会は鎌倉時代の学問を基準とした日蓮の教えの表現に固執・盲従し、さらには、あろうことかその狭き解釈をめぐって対立していて、肝心の日蓮の生涯にみられた真理を追究する姿勢やアップデートがほとんど見られない。つまり、学問の進歩に応じて法の正邪善悪・高低浅深を判断し、最高の真理「法」を見出すという、日蓮が模範を示した仏法の基本的な信仰姿勢が、日蓮門流や創価学会にはほとんど見られない。
さらに、日蓮が述べた血脈の精神は、自分と他人を区別せず、身命を惜しまず一心に成仏を目指すものだが、日蓮の後世は、解釈の違いや独善的な態度で互いを批判している。
筆者は、創価学会の教え、池田大作の矛盾や欺瞞、悪行を指摘せざるを得ない状況になったが、日蓮の教えや生涯の姿勢を模範として真実・真理の追究と広宣流布をめざそうと試みている。
そこで拙論文では、「依法・不依人」の原則に基づき、日蓮正宗の「血脈」と創価学会の「師弟不二」を検討し、仏法の歴史と真理・真実である「一切根源法」に迫った。これは、教義や伝承の真偽を見直すので、結果として古い教えに囚われた多くの信仰者の感情に逆らうという副作用を伴う。筆者は、宗教を否定するつもりは毛頭ないが、信仰は、本来、真実と誠実を核心とすべきと確信する。新たな真実を知り、受け入れることは、歴史や道筋を理解し、信仰を正しく導くことになる。時代の発展と共に、意外な事実が発見され、それが既往の絶対的な信念の更新を迫るものであったなら、常に真実に対して誠実に、以前の誤りを訂正し懺悔して、新たな真実の下に教義や信念を改め、再出発するべきだ。その姿勢こそが真の信仰であり、信仰を深め、真の幸福への道になる。日蓮の生涯もその連続であったのだ。
「罪を憎んで人を憎まず」の諺は、「依法・不依人」の原則に基づいている。拙論文では、この原則に基づき、信仰者のあり方や論理の再考を促した。なぜならそれが人々や人類社会の幸・不幸を左右すると確信するから。もちろん、たとえ非科学的であっても理不尽であっても、その信仰は自由だから、また、将来、それが科学的に証明される可能性も秘められているから、個人的な信仰や信仰者自体を否定するものではない。
信仰者の姿には、信仰の内容と信心の厚薄及び行動の強弱によりその成果や害毒が三世にわたって厳然として顕れる。真理に気づかない状態を仏法では無明という。誤った教えによって受ける不幸な因果応報を座視しながらも誤りを糺さない態度は、万人を幸福に導く日蓮仏法に反する。新たな真実に目覚めた筆者自身も、信仰する正しい「法則」により、常に新たな智慧と勇気が得られる実感があり、その教えは科学的普遍性自体であると確信している。
科学は仮想の「神」を否定するが、皮肉にも量子論などの先端物理学理論は仮想の「虚数」をもって成り立っている。この点においては、科学も宗教の一部と言えないわけではなかろう。
しかし、科学においては全ての論理や主張は相対的であり、絶えず更新される。したがって過去に正しいとされたものも間違いや限界が絶えず発見されてきて、未来も同様となる。
これに対してほぼすべての宗教は教義がドグマであり、過去のまま更新されない。
だから、ルネサンス以降は科学による真実の発見についていけず、科学と袂を別つしかなかった。しかし、その宗教の意義や役割は、万人の幸福の追求・救済にあり、欲望や癒しの対象として投影できるものすべてが、個人的についていえば、その評価が大化けすることにある。しかし、これらが悪用された害毒は無量である。例えば絶対者を崇める宗教の信者は、熱心であればあるほど、終末期などは、麻薬使用量が少なく充実している。自分たちの信奉する主張が絶対であるとする信念が、一時的満足をもたらす反面、残酷な侵略や戦争を生み出してきた歴史に、謙虚に目を向けるべきである。
「依法・不依人」は、法則に従い、人の主張ではなく真理や価値を追求することを意味する。これは、人の姿・権威や主観的な解釈に頼らず、正しい教えに基づいて行動することである。人が幸福になるための真理・法則が間違っていれば、それに従っても幸福になれない。人の主張は常に変化し、真理・法則を正しく解釈したつもりでも間違っていることがある。権威者が邪論を述べたり、罪人が正解を主張したりすることだってある。国家やマスコミや世界機関(国連やWHOや有力なアカデミック機関など)などの権威もが、特定の誤った主張・思想・陰謀などによって抱き込まれ、多くの不幸な事件や洗脳・情報操作が繰り返されているのも現状である。
だから、「依法・不依人」に基づき、その主張内容が法則・真理に合っているかどうかを見分けることが大切である。科学の進歩は「依法・不依人」の原則に基づき、真理・法則の発見とその蓄積による。ところが、宗教組織は逆の「不依法・依人」(法ではなく人の勝手な主張に従う)の論理でドグマや独善的理論を真理と謳い利用してきた。これはしばしば紛争や戦争へと発展してきた。これらは人類発生当時から起源をもつとされるアニミズム、すなわち自然や万物に魂が宿るという信仰から派生・発展したことから、拙論文では「不依法・依人」の教えや主張・宗教などをまとめて「アニミズム」と定義し、非科学的信仰を象徴する用語として用いた。つまり、特定の絶対者や創造主・宇宙や特定の物体・仮想の神仏など、自分以外の他者を信仰の対象としたものはすべて「アニミズム」とし、科学的な信仰の対極とした。ただし、筆者はアニミズムの存在意義や価値を否定するものではない。
アニミズムやその派生の宗教が、人類発生以来からの生き残り・文化の発展や福祉に寄与する一面は大いなる評価に値する。
すべての主張は「依法・不依人」の原則に基づいてなされ、科学の論理・客観性・再現性を基準に評価・検討されるべきである。
拙論文では、依法・不依人の原則に基づき、日蓮仏法の「血脈」と「師弟不二」の真の意味を検討した。血脈は、師から弟子へ教えが受け継がれることを示し、師弟不二は、師と弟子が一体となり、共に成長することである。しかし、師が間違った指導をした場合、その師と一体化すると間違った行動をすることになり、これは「依法・不依人」ではなく、真逆の「不依法・依人」である。ここでは、日蓮の教えは依法・不依人であったが、日蓮の後世の一派である日興門流から日蓮正宗・創価学会の一連の歴史において、その根底の教えや信念が次第に「不依法・依人」となり、日蓮仏法を曲解した非科学的なアニミズムに陥って、修羅界の闘争となった歴史を示した。日蓮仏法における真の血脈と師弟不二は、日蓮の遺文である生死一大事血脈抄等を理解すれば解決する。そしてその根拠となった日蓮仏法を今日の科学に沿うようにアップデートした解釈を採用した。
拙論文P01~P06では釈迦~日蓮の仏法の流れから、万民を幸福に導く真の日蓮仏法とは万物の根源法であって、これに基づいた菩薩の修行法であることを、日蓮の本尊観・師弟観・成仏観もあわせて紹介した。すなわち信仰の根本とすべき対象=本尊は南無妙法蓮華経と定義した法則であり、師とはこの法則、弟子とはこの法則を実践する一般民衆を指す。師弟不二とは俗世間での師弟とは違って、法と法に帰命する衆生との一体を意味する。そして血脈とはこの法則を正しく実践し、団結して弘め、後世に伝承することである。絶対的幸福という成仏とは荘厳な完成された仏になることではなく、それをひたすら不惜身命で目指す行動をする境涯を指す。いいかえれば、未完成ながら命を捨てて人としての完成を目指す行動をすることである。アプリオリの存在とされた仏としての久遠実成の釈尊も、迷いの凡夫が理想像として投影した方便である。三世の因果を説き、迷いである現世利益に囚われずに完成を目指す法へ導く方便として、賞讃される仏や極端な罰論などが設定され、法を伝える集団の利益のために利用された。また、現代医療の発達によって、死後の生命についての様々な教えも方便であったことを示した。
加えていえば、各自は自身の命より大切なものはないのだから、自身の命を捨てて目指す行動すなわち、命を捨てるに値する高尚な行動こそが生命にとって究極の幸福なのである。この前提に立てば、目先の欲や権力・名声等といった現世利益は全く取るに足らないものとなり、それにまみれた一生は儚いものとなるであろう。この様相を法華経では没在於苦海(苦しみの海に没した状態)とある。法則・道理に基づき、苦の本質である様々な現世の利害得失等から自らを解放し、成仏と称する完成への修行道を説いたのが、本来の仏法である。
日蓮は、八風を例に挙げて、現世利益獲得には否定的だったが全否定しているのではな。完成への「小分のしるし」と彼が述べているように、現世利益は必要かつ十分なものとしてのみ肯定されていて、仏界の境涯による行動過程で同時又は後から自然に実現していくものである。つまり、目的が仏界であり、現世利益はその手段にすぎない。日蓮が言う、法華経の行者の祈りは必ず叶うというところの祈りとは、その目的が成仏(生命にとって最高の目的)にある。したがってこれが叶うのであれば、それよりはるかに微々たる現世利益が叶うのは言うまでもない。またその現世利益自体も成仏した境涯にとってのものと欲にまみれた無明の境涯にとってのものとは根本的に異なる。元々、釈迦の教えは苦(現世利益への執着)からの脱却だった。儚い現世利益を第一に肯定し目的にすることは、仏法本来の教えと真逆である。
P07~P65までは、時代を経て日蓮の精神が失われ、人類発祥以来のアニミズムに逆戻りし、絶対者や霊力を設定する「不依法・依人」の日蓮本仏論となり、さらに派生した法主本仏論、池田本仏論の害毒によって、日蓮の精神とは対極の様々な因果応報・栄枯盛衰の様相を示した。池田時代の学会の興隆の根底理念は、すでに池田の入信神話形成から池田崇拝の確立・強化を経て言論出版妨害事件までにて確立されていた。
その言論出版妨害事件を詳細に検討し、創価学会の正史における改竄や会員への洗脳などを様々に示した。学会が池田本仏論を基に迷走し、法主本仏論の日蓮正宗と対立を深め、池田会長辞任、更に創価学会破門、その後の組織内に派生したアニミズムによる顛末について検討した。
これは二〇二三年の池田死去までほとんど変化せず、世間では日本第一の宗教団体になり、総体革命も進んで、世界的な名声や栄誉も獲得した。しかしこの姿こそが、真の日蓮仏法の視点に立てば、真の血脈も師弟不二も失われ、アニミズムによる、欲や権力等の世俗の現世利益にまみれた、無明での迷走劇であり、因果応報の顛末である。
日蓮仏法における真の血脈と師弟不二は、日蓮の遺文である生死一大事血脈抄等を理解すれば解決する。そしてその根拠となった日蓮仏法を今日の科学に沿うようにアップデートを試みた解釈を採用した。
P66~P74では、エーリッヒ・フロムの著作を参考にした現代人の哲学的分析や近代哲学、現代科学、宗教の本質などを参考に、創価学会の社会的性格を検討した。学会員も含む一般の現代人が、凡夫の弱さゆえに現世利益に囚われ、真の自由から逃避して既成の権威と共棲関係に陥っていて、それはかつて藤原弘達が指摘したファシズムの温床でもあり、フロムの指摘通り真の自我の確立(仏界の境涯)に、到達し難い状況を示し、その解決への考察を行った。人類も既成の様々な権威に共棲し自動人間となって久しい。同様に会員も組織の束縛から解放されていない。この原因は個人の無力さ、すなわち無明の苦海に没在した状態にある。これでは自由に選択し個性を発揮して生きるという自我の確立は幻想であり、民主主義はうわべだけのものとなっている。いうまでもなく自由な思想の表現は自己が独自の思想を持ってこそ実現し、組織権威から自由になるには自己疎外を克服した自我の確立、すなわち不惜身命で完成へ向かう行動(仏界の境涯、人格の陶冶)があって初めて実現する。この意味で、現世利益に囚われ、選挙の票取りに駆り出される熱心な創価学会員の成仏の達成は疑わしい。なぜなら熱心な会員は現代人と同じく、無意識的に組織と共棲し、自動人形として操られているからだ。学会員は自身から創価学会関連事項をすべて除いたら、いったい何が自我として残るのか? 同様に現代人は所属し共棲する規制の権威や流行・常識・一般的良心や利害関係等をすべて除けばいったい何が真の自我として残るのか?
P75以降は、日蓮の悟り・教えを現代科学の所見、とくに神経学を基に再検討し、万物一切根源法の一端に迫った。それは更新が可能な科学的な「法」を本尊とし、それを「血脈」として残したといえる。しかし、その「法」をアップデートすることまでを日蓮は明確に示さなかった。後世の受け止めは、すべての法が南無妙法蓮華経への「一なるものへの解消」につながり、他宗の中にも深遠な物理化学的真理を含むものを排除するドグマとなってしまった。
結果、日蓮自身は、自らの科学的信念と行動を貫き通したが、その後世は、日蓮仏法をアニミズムや処施術、果ては誤った概念(師弟不二など)を信念とする創価学会など、日蓮の意向に反した様々な宗教組織を生み、総じて堕落させてしまったといえる。
続いて一念三千の現代科学的な再解釈を通じて、万物が成仏する仕組み、十界の境涯についての考察や因果応報のシステム、ニューサイエンスによる捉え方などで、日蓮仏法のアップデートを試みた。さらに、生死一大事血脈抄などの解釈のアップデートを行い、具体的な成仏への行いや宗教のあるべき姿、今後の宗教者としての個人的・組織的在り方などについて述べた。
創価学会は、見かけは日本第一の宗教団体になり、総体革命も進んで、世界的な名声や栄誉も獲得した。しかし真の日蓮仏法の視点に立てば、この姿こそが、真の仏法の血脈も師弟不二も無く、根源のアニミズムによる、欲や権力等の世俗の現世利益にまみれた、無明での迷走劇であって、真の日蓮仏法とは無関係な因果応報の顛末である。これは皮肉にもかつて、日蓮が破折し、二代会長戸田城聖が退治しようとしていたことである。結果としての凋落傾向は、無明の流れ・栄枯盛衰の掟を正確にたどっているようで、今世紀に入ってから始まっていたが、池田が鬼籍に入る前後から顕著になっている。先日の参議院選挙においても明らかだ。
省みれば、言論出版妨害事件での謝罪演説も含めて、真摯に反省すべき機会は幾度となくあった。当時の渡部一郎公明党国会対策委員長の演説を借りていえば、組織の回復は、象(創価学会組織)が反省するときしかない、蟻(組織内外の、真実を訴える叫び)とは関係ない。
日蓮の仏法の教え――それは、目先の現世利益を捨て、ただひたすら成仏を目指して妙法蓮華経と唱えること、日蓮の弟子・檀那等が、自他・「あれ、これ」の分け隔てなく、水と魚の関係、たがいにとって不可欠であるとの認識をもって、身体は異なっても目指す心は同じくひたすら成仏のみを目的として、南無妙法蓮華経という法を唱え実践していくことにほかならない。学会に限らず現在の日蓮教団は、互いの組織利益を捨て、互いを排斥することなく、団結して、これに取り組むべきである。したがって、例として扱ってきた創価学会についていえば、学会員一人ひとりが直面している課題は、組織による洗脳から覚醒し、組織や権威の奴隷であるのをやめ、各自が自分自身の思想を日蓮仏法の真の実践によって確立しながら、学会の組織的な力の真の主人となって、その力を再組織化することである。言い換えれば真の日蓮仏法に回帰して自我を確立(仏界の境涯を湧現)し、組織の奴隷から脱皮してその主人となることだ。これはトップダウンの打ち出しにとらわれず、日蓮の生涯を模範とした草の根運動を展開し、ボトムアップで時代遅れの教義を更新し、集約することを意味する。現実問題を直視し、活動内容を見直し、組織と個人の目的を一致させ、会員が自我を確立して積極的に努力することが必要である。この論理は創価学会に限らず、広く一般に組織・団体から人類全体の課題、そして根本である構成員の我々一人一人の課題もこれに尽きる。
すなわち学会員は、固執してきた教義、仏法は勝負などという日蓮仏法の誤った解釈をやめ、創価三代会長の永遠性という幻想を捨て、隠蔽された都合の悪い歴史を清算し、きちんと真実を書き直しながら、組織の一員として新たな一歩をふみだすべきであろう。さらに、物体のマンダラに囚われず、真に信ずるに値する「法則」を、日蓮の生涯を模範として追究し、これを信仰の本尊とすべきであろう。さらには、日蓮仏法に違背した現世利益への執着を絶つためには、豪華な各地の会館は公共施設として寄付するか、地域の神社仏閣と同様に一般開放し、公共の用途に使用するのも一つの方法である。そしてその維持・管理やそれに必要な費用も、真の日蓮仏法を志すものとして、地元の地域ごとに会員も含む広く一般人の勇士による、無私の供養によって賄うべきであろう。
また、個人の成仏を目指す一貫として、組織全体が真に日蓮仏法の血脈に回帰するようにあらゆる取り組みをなすべきであろう。こうして一人一人の会員が、真に日蓮仏法を自ら学んでその血脈に回帰し、ただひたすら成仏のみを目的とした実践を貫くならば、先述したように組織全体が自然と回帰・再興隆していく事になるであろう。もうすでにIT・AI時代は、かつてないスピードで発展し続けている。狭い末端組織の中だけに埋没するのではなく、一般に普及した高度な科学技術を利用して広く世界中に視野を広げ、組織の現世利益を放棄・断捨離して、真の日蓮仏法を、ひたすら成仏のみを目的として、広めていくことが求められていると考える。
ところで、拙論文も未完成ながら、ようやく一応のエピローグにこぎつけた。ご参照賜り、バージョンアップ点をご指摘賜れれば幸いである。また、筆者がここで演じるキャラクターは性的マイノリティであるトランスジェンダー(LGBTの中のT)で、容姿の画像は論文や記事内容と乖離してふさわしくないと、多くの人からご指摘・忌避されることは百も承知であるが、このキャラクターこそは筆者自身の自我の独創性であることをご容赦賜りたい。拙論文の主意からも、この内容自体も不完全であり、多くの智者により更新されるべきと筆者はわきまえている。日蓮のたどり着いた成仏とは、絶えず不惜身命で未完成な状態から完成へと目指すことであったからだ。この成仏観は宗教的ドグマではなく真理法則である。なぜならポパーによる定義すなわち批判・更新の余地があることをもって永久に科学的法則とみなせるからだ。筆者も命の続く限り、真の幸福である成仏を目指してこの姿勢を貫いていこうと思う。
繰り返しになるが、拙論文全般を通じて、人間としての最高の幸福境涯とされた真の成仏は、P05で示した「一心欲見仏・不自惜身命」の境涯で行う菩薩の行動(利他の行動)であることを念頭においた。さらに、日蓮の師弟不二の精神と行動に基づき、とりわけ日蓮が、大恩人で師匠であった道善房の誤りを辛辣な言葉の中に感謝を込めて破折したのを模範として、筆者自身が多大な恩恵を受けた学会および亡き池田大作への恩返しと、誤りの破折の意味として、学会の理念の改善・更新の必要性を、感謝の意味を込めて随時述べた。もちろん筆者は創価学会を恨んではいない。筆者自身の今があるのは創価学会のおかげであり、メンターであった池田大作や末端組織の会員の皆様には感謝の念が絶えない。拙論文の主意で多くは批判的に述べたが、池田大作名の多くの著作等も筆者にとっては人生の宝物であり、道徳や人生の教科書として役立つものも多いので大いに活用している。そして筆者が講演などで主張してきた非科学的内容等への訂正と懺悔を、拙論文をもって行い、今後もさらなる更新を続けながら真の社会福祉と民衆の幸福、人類への貢献のために、自分なりにひたすら成仏を目指して菩薩の行動を実践し、真実の日蓮仏法を広宣流布していく決意である。拙論文で引用した藤原行正ら造反者たちの指摘はほとんど皆、筆者も遭遇・経験し、率先して実践してきた内容とも重なる。まさに、筆者も末端組織の生き証人である。これも筆者が、仏法やその御供養の精神などの理解が誤っていた罪業であり、罪障消滅するまで未来永劫その果報を受ける。まことにもって本当に申し訳ない。拙論文をもって懺悔する次第である。そして学会員の皆様にも、真の日蓮仏法の原点に基づいて行動をしてほしいと願い、臆せず包み隠さず真実を明かそうと拙論文を連載した。後に学会を造反した側近幹部たちの葛藤は、筆者にも容易に想像できるし、いまだ洗脳から覚醒していない熱心な同志へも、自身の過去の姿も同じであったと振り返って受容できている。本当に宗教というものは恐ろしい。司法は政教分離があるから、個人の内面までは介入できない。
筆者は職業柄、治療や説明等において科学的エビデンスを常に示してきた。だからこそか、筆者がたどり着いた結論は自身の人生を変えた。筆者は未熟な臨床一年目からも患者や病院の職員等から「先生」と祭り上げられ、厳しい医療現場やコンクリートジャングルの中で無謬・完璧を装うことが常に求められてきた。学会組織内では池田を師と仰ぎ、「無謬・完璧」を装う『人間革命』等を教科書として実践しなければならないという脅迫観念にも囚われて、自身を追い詰め、ついには自我を喪失し、フロムのいう自動人間となっていた。TVドラマでよく見かけるが、周囲には白衣の権威を振りかざす半面、上司には正義を曲げて媚び諂うように自動的になってしまう自分自身が嫌だった。「心理的に自動人形であることは、たとえ生物学的には生きていても、感情的、精神的には死を意する」。 臨床では無難な成果を積み重ね、学会でも学会流仏法の研鑽が評価されて教学部教授に認定されたが、次第にうつ病になって、再発を繰り返した。これは筆者の宿業である。ときに全てが億劫になり生きる意味や気力も見失った。挙句、苦悩から逃避し、鳥になって空飛ぶ刹那を楽しんで輪廻転生してやり直そうと、唱題しながら一人でビルの屋上に何度か立った。しかし臆病なため実行できなかった。あるとき階下と大空を眺めたら、どうせ鳥の刹那を楽しむなら視野の狭いちっぽけな都会のビルではなく、もっと天の近くで大自然を見下ろす場所にたったひとりで自力で立ってみたらどうだ?と微かな声を聴いた。わずかな体力と智慧を振り絞って何回かの試行錯誤の後、唱題しながらやっとのことで富士山麓の鬼ヶ岳山頂の岩上に立った。この時の360度のパノラマは、筆者の人生を180度変えた。眼下の壮大な景色もさることながら、大空や富士山が手を伸ばせばすぐ届くような一体感・恍惚の歓喜に包まれた。これはクライマーズハイともいわれている。三世永遠の生命観に立てば、苦難を避けても転生先で業を受け継ぐから何の解決にもならない、それどころか、この大自然(国土世間)・社会環境(他人や社会、衆生世間)・肉体と精神(五陰世間)が一体としてすべて自身の生命である!なんとすばらしいことか!
軽装だったので、無事に里へ下り帰宅できたことは幸運だった。危険なので読者の皆様は絶対にマネしないでください。これ以降筆者はほぼフル装備で登山を楽しむようになった。この時自分の普段の仏法理解が観念的なものにすぎず、いつしか周囲との共棲により、人間は自然や社会を支配すべきという西洋医学的なものの見方に染まっていたことが分かった。つまり心は肉体を支配するものであり、他人や社会や自然を自己と対立視し、時には敵対し支配するものと見做していた。一念三千では、他人や社会や自然すべてが自身の生命である。自身の生命すなわち自分の一念三千の境涯すら愛することができない者が、どうして他人の境涯を愛し救うことができようか?
その後は見聞きするものすべて自身の生命であると僅かずつ実感しつつ、嫌な自分や他者をあるがままに受容し愛することができるようになった。周囲から全て支えられて生きていること、その生命のすばらしさ、その感謝とともに自分や他人の過ちや在り方を認め赦すことが次第に楽にできるようになった。更に、一歩一歩、足元の安定を確認しながら険しい登山道を歩むように、どんなに遠回りしても焦ることなく完成への道を歩んでいる実感が得られるようになった。生命は永遠である。自身は永遠の生命観に立った「一心欲見仏 不自惜身命」に少しずつ近づいている。これは、あきらめることしか道がないところの、年齢を重ねることによる衰えや機能の喪失を差し引いてもはるかに超える価値的な自我である。一念三千から見れば皆各々の業と使命がある。亀のようにのろいが確実に成仏という完成へ向かっている実感を筆者は得ることができた。その後も再発はあったが乗り越えることができ、この数年はうつ病は治っていて、この強迫観念がプラスに転じた結果こそが、まさに拙論文の内容となった。
コロナ禍が少し落ち着いた2023年に、十分な装備をして久しぶりに鬼ヶ岳山頂の岩上に立ち、当時の思い出とともにパノラマ動画を撮影した。これはYouTubeに投稿している。
ただ、筆者の貧弱な国語力により、内容が厳密かつ上から目線になってしまった。また、入手困難な文献を世に残すために引用を多用し、自論にも取り入れ、長文・駄文になってしまったきらいがある。またケアレスミスの解消に尽力したつもりだが残余も多いと予想され、読者の皆様には一読するにも大変な労力を要することも含めてどうかご勘弁賜りたい。
最後に拙論文を投稿中にも、コメントや励ましなど、ネットを通じて皆様から温かい多大なご支援を賜った。心より深く感謝し御礼申し上げる次第である。