Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
■池田大作の、会長時代によく見られた指導例
「天晴れぬれば地明かなり 法華を識る者は世法を得可きか」(観心本尊抄、御書P254)
《天が晴れれば地は明かとなる。法華経を識る者は当然に世法を得ている。》
この日蓮の遺文ひとつとっても明らかなように、世法・国法よりも自らの主張する〝仏法〟や組織の論理を優れたものとして、池田先生を守るためなら国法を犯してもよいと、様々な犯罪を重ねてきた創価学会に、日蓮直結・御書直結を掲げる資格が存在しないことは、既に歴史が証明している。
更には、「御書のとおり実行しているのは創価学会しかない」と、現在も創価学会は言い張っているが、これが文証・理証・現証の点からも適切でないこと、御書の通り日蓮の教えを忠実に実行してきたとはとてもいえないことは、良識ある誰の目から見ても明らかであろう。
その宗教的最高指導者である池田大作の姿勢は、様々な点で日蓮の姿勢とは似ても似つかない、対極にあることは、後述する。
このような創価学会組織の体質は、古くからジャーナリズムの指摘があったが、戸田城聖の時代、組織が小さい期間は、狸祭り事件など、組織内での出来事など、マスコミに問題視されたのは比較的小さいものであった。
前稿「私の池田大作観(1)」では、主に創価学会の言論問題(1969年の言論出版妨害事件)以前の歴史について少々記載した。
その後の創価学会の歴史については、公式書籍やインターネットの公式ホームページ、また日蓮正宗の公式ページ、また反創価のページや出版物がマイナーではあるが出そろっているので、詳細はそちらをご参照願いたい。
池田が会長に就任後は、戸田時代からの折伏路線を受け継いだものの、その伸び率は鈍り、さらに言論出版妨害事件でつまずき、世界へは、反戦・平和路線へと歴史を書き換えながら、それでも750万世帯を公称するようになった。
しかし、これは側近らによると、捏造であったという。
御本尊は一旦は受けたものの、駅などのゴミ箱に棄てられたり、行方不明にした人も数多くいた。
こういった事実や実際の会員数の増減の経過なども公表せず、現在も公称827万世帯という。
池田会長就任以降は、日蓮正宗の教え(日寬教学)や戸田城聖監修「折伏教典」が教学の中心だった。が、次第に、池田大作の独自解釈が加わっていった。
創価独自の師弟の道、師弟不二、そして、梵我一如の宇宙論である。
古代からの仏法を、科学の発達した現代に展開するという意図であったが、結局のところは梵我一如に絶対者を混ぜ込み、これを仏として信じるという、本来の仏法とはかけ離れた呪術的アニミズム、外道に陥っていたものだった。
日蓮の遺文や法華経の文を、背景の文脈を度外視して、都合よい部分を切り文にして曲解し、巧みに論の根拠にしているのが特徴である。
また、内部組織に配布され活用された、日蓮仏法の真髄とされる「勤行」についての、池田会長の指導によれば、勤行を毎日やればどんな願いも叶い、体の調子もよくなり、それが弱々しいと病気になる、ご本尊に響く題目が大事で、それが功徳になる、
体の不調は勤行を怠っているからで、それは自分が一番良く知っている、勤行は最高の健康法である。御本尊に響く題目が重要で、それが功徳を生むとされ、疲労しても寝るより勤行をするほうが寝不足も解消され、仕事も順調に進むとされた。さらに、勤行は宇宙のリズムと合致しており、何よりも信じることで智慧に代える、智慧が出るという「以信代慧」、そして信じるとは疑うことなく受け入れること「無疑白信」が、ここでは強調された。
その「信」の対象は組織内で配布された日蓮正宗の曼荼羅だけではなく、誤り多き生身の人間としての会長、さらに延長利用されて組織の幹部から先輩まで及んだ。
創価の師弟の道は、日蓮の法に則った仏法の師弟ではなく、「無疑白信」という用語を利用した絶対的主従関係であった。
「宇宙と合致しているのだから生命が大宇宙のリズムに乗らない訳がない」等の指導もあった。このような非科学的なドグマでも、「以信代慧」という仏法用語が権威的に利用されて、理性的な思考が停止させられる。
そして指導された人は自ら思考停止し「信じる」「受け入れる」ことでも、脳内麻薬が分泌されて、一時的な満足感が得られるのである。
「イワシの頭も信心から」のことわざは、大なり小なり科学的に事実ではある。
その効果はプラゼボ効果として解明されている。
そして、これらは男女間(同性愛も含む)の和姦にも似ている。
同意があれば、信じる・信じさせる、受け入れる・与えること、また、支配する・服従することは、脳内麻薬が分泌されて、どちらにとっても「気持ちのいい」こととなる。
宗教的な救済の中身は、こういった要素もあるだろう。
フロムは「権威主義的性格」として論議している。(「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳50版 1971/5/20 東京創元社 P182))
池田や幹部たちの、皆さん方に題目を送りますという言葉も組織内ではよく聞かれたが、そもそも、人に物をプレゼントとして贈ることは可能だが、題目をプレゼントとして贈ることは科学的に可能な、効果のあることなのだろうか。
もし可能としても、そこに何らかの作用、たとえば福運とかを贈ることは可能なのだろうか。
当然のことながら、そんなことはないだろう。
仏法の因果は厳然である。
身口意の三業は、自分だけが積むものであって、人や子孫に贈られるものではない。
題目を贈るとか、回向するとかいうのは、その発言する者の真心として、その者の身口意の三業にはなるが、その贈る先の対象に福運とか救済とかを何らもたらすものではない。
まったくもって、エビデンスもなく、エビデンスを証明する思考実験すら不可能なのである。
ちなみに、その贈る先の対象に仇や災いをもたらそうとするのが「呪い」である。
そもそも「祈り」と「呪い」の違いは、その贈る先の対象にもたらすものが「救済」か「災い」か、言い換えれば「幸福」か「不幸」かだけの違いであり、本質的には同じことであって、科学の答えとしては、物理化学的にはその対象に何の作用も及ぼすことはありえないのである。
池田大作は、日蓮仏法の教えを、御本尊や仏を、「大宇宙の生命」「大宇宙のリズム」などという仮想物に実体化し、外道の教えに下げてしまった。
その文献は、多く挙げることが出来るが、一部、例を挙げておく。
法華経の智慧第3巻 P32-34 では、池田大作は、「虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、『いま』永遠なる宇宙生命と一体になり、『ここで』全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な『生命の旅』といえるのではないだろうか。」
と、述ている。
ここでも、「永遠なる宇宙生命と一体になり」とは、外道の説である。
「全宇宙を見おろす境涯を開ける」なんてあり得ず、「宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な『生命の旅』というのは勝手な妄想であって、科学的根拠がない。
具体的な悩みを抱えて勤行・唱題しているとき、いったい何人がそういった実感をもっているのだろうか。
もっとも、虚空会を含む法華経自体が、釈尊の後世が創作した壮大なSF物語である。
かつて、創価学会は、富士宮の日蓮正宗総本山大石寺へ、会員に対し「いざ鎌倉」と称し精神を鼓舞して登山会を頻繁に開催していた。
いつでもどこでも虚空会につながることができるならば、登山会も不要なのであり、近年財務部員の浄財で建てられたという信濃町の広宣流布大聖堂も、そもそも必要ないのではないだろうか。
またこの文の前に池田は「御本尊を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である」と述べたが、ここでの「御本尊」が、物体としての「曼荼羅掛け軸」を指しているから、アニミズム宗教としては正解となるだろう。
だが残念ながら日蓮の信仰は、法則(=南無妙法蓮華経)への信仰であるから、この表現のままでは不正解である。
ここは、「御本尊」を、「法としての南無妙法蓮華経」に、明確に入れ替え、「法である南無妙法蓮華経を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である」とすべきであろう。
■石田次男の指摘、外道である池田大作アニミズム
石田次男は自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」の中で、池田大作の主張展開する仏法を、仏法ではなく外道であると指摘している。
彼は、戸田城聖亡き後の会長を継ぐ人物と見られていたが、無欲で会長職を自ら望まず、池田大作に敗れ、さらにその後、池田に冷遇され、結局創価学会を造反した人物である。
池田大作著『人間革命』第12巻P150-154で 登場人物 石川幸男のモデルとなった。
この書は、日寬アニミズムを根底にしてはいるが、創価学会の都合の悪い裏事情や歴史の告発もあり、その中で、依法不依人にしたがって、比較的真実の指摘と考えられる部分をとりあげてみる。
彼によれば、仏法では、全ての法は仮有であり実有ではないとされるが、池田はこれを否定し、宇宙の妙法という実有を説いている。池田の教えは仏説や師説に対して傲慢であり、自説を誇り他を卑しむ態度が見られる。仏法の本質は心が中心であり、妙法は仏身であるとされるが、池田は仏身以外の妙法を説いている。これは仏法の本質から逸脱しており、学会員はこの点を深く理解しなければならない。池田の考え方は個在主義に基づいており、仏法の教えと相反するものである。(前掲書P52-54)
ここで言うところの「個在主義」とは、要するに前述してきた「アニミズム」に相当する。
これは釈迦がバラモン教の「梵我一如」を「諸法無我」といって真っ先に否定し、日蓮も「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と激しく否定し折伏した「アニミズム」であることは前述した通りである。
石田は続いてP54-56で、天台の解釈を用いながら、五蘊仮和合、空仮中などの仏法の基本理念や日蓮の諸法実相、当体蓮華を解説しながら、池田を完膚なきまでに、こう破折した。すなわち、仏法では、全ての法は因縁によって成り立つとされ、心に三千や十界が具わっているという「個在主義」は誤りである。天台大師は縁起を説き、心と外部環境が相互依存していると教えている。池田の宇宙論や宇宙リズム論は、真言宗やバラモン教の思想に基づいており、仏法の本質から逸脱しており、物質で人間を説明するようなものである。仏法の「妙法は必ず仏身」のみ具わり、心具の概念は因と縁の仮和合によって成り立つものである。また、池田は御書の一部を取り上げて、仏界が人の外側の環境にも備わっていると解釈しているが、これも誤りである。仏法の妙法は心と縁起の関係に基づいており、宇宙の根源法則としての妙法は存在しない。真言宗の「大日如来」やバラモン教の「梵我一如」思想は、宇宙が人間の外側に存在するという考え方である。しかし、仏法では妙法は仏身にのみ具わり、宇宙の根源法則として存在することはない。「宇宙は法界ではなく・法界の素材でしかない」。宇宙のリズムや法則は仏界とは無関係であり、仏法の教えに反している。仏法の本質を理解するためには、心と縁起の関係を正しく認識することが重要である。
この破折はある程度は的を得ているが、石田自身も古典物理学的時間概念や、日寬のアニミズムにとらわれているため、心も含めた客観的な理解には至っていないと思われる。
ここで、石田は「宇宙は法界ではなく・法界の素材でしかない」というのは、彼なりの分かりやすい指摘である。
「妙法は必ず仏身」という石田の捉え方は、日寬教学によるものである。
つまりは、個別にあるのは自動再生する法則としての法界だけであって、宇宙から素粒子まですべては、互いに共有するリソースである一面を、仏法の文言を使って述べている。
しかし結局は、彼は池田の宇宙論などを仏法でないと指摘しながら、自らも日寛アニミズムに捉われ、真の仏法ではない非科学的な主張になっている。
真の仏法による科学的見地に立ってみると、宇宙の森羅万象は全て、法界にあまねく各々独自の生命法則が瞬間瞬間に織りなす、素粒子から宇宙すべてを互いにリソースとして共有する仮の和合である。
だから、永遠・無始無終、諸行無常・因果応報、諸法実相なのである。これが、宇宙の根源法則として存在する妙法である。
■戸口浩氏の指摘
同様の考え方は、戸口浩氏にもみられる。
戸口浩著「池田創価学会の真実」1992・4・25,日新報道,P224-229では、池田大作のとなえる仏法の破折を、日蓮本仏論に基づく日寬教学を受け継いだ日蓮正宗の宗門の教えに依って行っている。すなわち池田は、南無妙法蓮華経を宇宙根源の法として強調し、これに基づく教えを展開しているが、人法勝劣的であり、仏法の本質を誤解している。南無妙法蓮華経は仏身であり、単なる存在法ではない。また、三宝(仏、法、僧)を破壊するものであり、現実社会に即応することを強調しすぎていると批判している。
「久遠本有の妙法蓮華経は、大聖人の具有し玉ふ…」との表現に端的に現れているが、戸口の論はアニミズムの日寬教学から一歩も進展がない。、
これは日蓮本仏論を前提として、南無妙法蓮華経のいう「法」という名前に、勝手に本仏としての変化偏在・諸行無常の概念を、理想的な完成された人格としての報身・応身と称した人格としての仏の概念を無理やり入れたアニミズムの論である。明らかに、霊力・超自然的能力を備えた人格として奉るというアニミズムである。報身・応身にすがって、功徳が得られるとされるからである。
また、戸口はここで「法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏こそが衆生に知恵と慈悲を与えることができ、法身の理は衆生の生活とは直接には何の関係もないのである。」と述べたが、これは、完全に法華経が採用している諸法実相・一念三千を完全に理解していない証左である。
諸法実相・一念三千は、地獄・餓鬼・畜生・修羅~仏までの十界の衆生全てに「三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)」が具わっていることを説いている。(よもや彼らは、これを知らないとは言わないだろう。)
そしてそれぞれに十如是が具わっているのであり、他の生命とも作用・反作用を及ぼしながら瞬間瞬間の因果をおりなしていくのである。
仏だけが利益をもたらすのではない。
菩薩だって縁覚だって同様に、その境涯なりに他の衆生に利益(あるいは害毒)をもたらすのである。
しかも、仏界即九界・九界即仏界と説かれるがごとく、仏界は他の九界の一念の因果となってあらわれるのであって、煩悩即菩提・地獄即寂光もこの法理ではないか。
だから、日蓮も、御本尊はよそに求めてはならず「胸中におはします」と述べているではないか。
「法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏」を「生身の日蓮」もしくは久遠元初の自受用報身如来という立派な名前をつけた「空想上の日蓮」とし、ここからにしか利益や救済がないとしたことは、論理の構図から既にアニミズムの延長に陥っているのであって、これこそが、拙記事や日寬教学の部分で何度も述べているが、仏法を習いつつもかえって外道に堕していると、日蓮自身が指摘していたではないか。
戸口浩が主張するところの、利益が得られるという「法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏」を、「色相荘厳の仏」と入れ替えてみたら、日蓮が真っ先に破折した邪宗の教えと同じになる。
これは正真正銘のアニミズムの論理構図である。
「法」そのものが利益をもたらすのではない。
「法」そのものが利益をもたらすというのは、タナボタ式のないものねだりである。
法そのものが正しいのは大前提であるが、科学的法理に基づいて一瞬一瞬自ら行動を起こして法を修行し善行を行ってこそ、因果法則によって智慧も力も出てくるのであり、またそれが因となって次の結果がでて、因果の連鎖によって自力で現実変革を成し遂げ、悪業を清算・滅罪し、宿命転換もできうるのである。
「法」から利益を得ようというのは、「法」という名目で高級な「イワシの頭」を利益が得られる功徳樹に祭り上げて、タナボタを祈願するアニミズムとまったく同じ論理構成である。
祭り上げるのが「イワシの頭」であろうが「鯛の頭」であろうが、「応身・報身の釈迦仏」であろうが「日蓮」であろうが、高尚に見える教学をいかに弄したとしても、これらに超自然的な功徳や救済を求める論理自体が、大自然の様々な構成要素に救済を求めて安寧を祈るという、古代からのアニミズムの構図・構成と同じなのである。
ちなみに多くの宗教がこれに類している。
(ちなみに頼みとなる印象の、これらを扱う宗教学は、この体系や歴史などを論じる学問であって、その科学的真理・真偽を厳密に検証する学問ではないところが残念な点である)
だから、理性や科学的道理からの追求に絶えられないか、因果や論理の無限後退に陥るような、ドグマが設定されているのであり、科学から袂を分かたなければ論理的な建前がなくなり、存続自体が危うくなるのである。
また、ここで彼が言う「〔僧宝〕への帰依をゆるがせにすることになりかねない。」という言葉にも、端的にアニミズムの論理がにじみ出ている。
たしかに〔僧宝〕は、尊敬し大切にするものではあるが、帰依する(信伏随従する)対象なのだろうか。
そうではないだろう。
これを本気で主張していること自体がアニミズムであり、日蓮仏法から乖離した外道でる。
牧口常三郎は、神札問題に際し、天照大神は尊敬するものではあるが、帰依するものではないと折伏したが、〔僧宝〕への帰依は、これと同じ論理で破折すべきことである。
全ての〔僧宝〕も、人間の尊い生命として尊厳な者であり、尊敬するものではある。
しかし、帰依するものではない。これに帰依するということ自体が外道であろう。
宗教上の、修行の科学的効果は、教えの哲学的真理を信じることが動機づけ(モチベーション)となって、種々の修行の持続によるプラセボ効果を受けながら、さらに確信を強めて、慈悲の行動を起こす。
この一連の一念の連続を通して現実変革を成し得ていく。
これによって善業を積み、永遠の因果応報の流れの一時点である今世の宿業を転換しゆくことにつながっていく。
見出した願望、目標や使命は、今世では成し遂げられないで終わることも多々あろうが、確実に来世に受け継がれていく。
三世永遠の生命論理、業による因果応報、一瞬一瞬の一念の連続、これらは、個々人に限定した科学的再現は不可能ではあるが、十分に科学的合理性がある。
この正しい「法則」に帰命した行動が、上記の宗教的効果(=功徳といわれる)をもたらすことが思考実験でも十分に証明される。
ただ、帰命する対象が物や人格などのアニミズムであれば、その帰命する対象の性質・性格・特徴を真似る・帯びることになって、時々刻々とした変化に対応できない事態がいつかは発生し、さまざまな行き詰まりや問題が発生することになるのである。
これが、「依法不依人」に基づく法則であるか、「依人不依法」の実態のアニミズムであるかの相違である。
仏法は当初から「依法不依人」に基づく法則体系であって、おすがり信仰のアニミズムではない。
法華経の中で予言された「白法穏没」によって発生していた、アニミズムに基づく各派を、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として、真っ先に破折し、依法不依人の法華経を立てたのが、日蓮ではなかったか。
この原点に立ち返り、その科学的普遍性のある教えの部分を厳選抽出して、科学文明の発展と人類や地球の救済のために、多くの知性を集めてつねにアップデートしていくことが望まれていると、私は考える。