Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P59, 自分一人が「本物の弟子」、暴力団の利用後切り捨て(2)
■ 正信会の窮地
菅野憲通はこう述べている。
「そして、翌五十四年三月の福島副会長の放言によってさらに追い込まれた池田大作は、引責辞任という妙手を装って最悪の事態を回避するのであった…この点についても、昭和五十四年七月当時、日達上人はじめ多数の僧侶が、池田大作にまたしても約束を破られたことに気づきはじめていたのである…
昭和五十四年七月二十二日、日達上人が急逝された際に乗じて、策を弄して管長の座についた阿部師の登場によって、宗門は再び弾圧の嵐が吹き荒れ、…はっきり自分の所信を語る僧侶は一人残らず追放され、あとは懲戒権や人事・財産権を一手に掌握した独裁管長の恐怖宗政の下、あきらめと保身の殻の中に心を閉ざしてしまう人々ばかりとなった。…そして十余年、当時の事情を知らない教師が次々に養成され、宗門行政は密室の中に行なわれ、池田大作の傀儡ともいうべき自称管長の『正信会は僧俗和合を破壊する謗法の徒』との一方的な主張のみが大手をふってまかり通る時代となってしまった……。
しかし我々は、これで少しもくじけるものではない。…力と演出によってつくられた虚構は、時間という天敵によって必らず崩壊する。…
…いま池田大作や阿部自称法主が、最も恐れているのは、この時事懇談会の時のように、宗門人が本音で自由にものの言える時代ではなかろうか…
平成二年二月仏生日
編者一同」(「時事懇談会記録、P11-13)
これを見て思うのは、日蓮正宗だけでなく創価学会も現在でも批判拒否体質である。それは、この様な過去の不都合な事実・真実が純真な会員の前で暴露されることを最も恐れているからであろう。
「本音で自由にものの言える」ことこそ、基本的人権の一つであろう。
真実を追究する科学的な討論の場では、反対意見であっても「本音で自由にものの言える」ことが、ごく普通の健全な姿である。
つまりは、中世の独裁体制そのものが、いまだに生きのこっているのであろう。
かれらの宗祖である日蓮は、社会的には弱い立場にあっても権力を恐れず、公で正邪善悪の討論を根本として主張していた。それは結局実現を阻まれ、権力によって迫害された。
今、日蓮の弟子を名のりながら、少数の主張を権力をもって弾圧することは、師と仰ぐ日蓮の顔に泥を塗る行為と言われてもしかたがないであろう。
同様な独善的行為は、自らが日蓮を本仏と仰ぎ仏意仏勅の団体であると豪語する創価学会の組織内でも数多く指摘されている。
例えば、
「創価学会が個々の会員に、政治を自分たちでよく考えて行く材料を提供していった結果として自公連立が成り立っているのであれば、それはそてでいい。でも実際に行なわれていることは、洗脳と異論の封殺です」(「宗教問題28」2019/11/30、合同会社宗教問題、P66)
という指摘もある。これは一般社会では言語道断である。
日寛アニミズムの修羅道争いは、やはり再問題化する。
大石寺法主の細井日達がその年の7月に急死。
この前後で造反前の山崎正友は、阿部日顕の相承疑惑をマスコミにリークしたり、当時毎日新聞記者で創価学会批判記事を書いていた内藤国夫を抱き込んだりした。
再び最高指導者として返り咲いた池田は、以前より創価学会の傀儡化状態であって策を弄して法主となった阿部信雄(阿部日顕)と、最初はうまくやっていた。
細井日達を支えた活動家僧侶たちは正信会を立ち上げたが、阿部日顕は彼らをことごとくカット(切り捨て)した。これは先述の引用で明らかであるが、大石寺の歴史上でも見られた切り捨てズムの一つであろう。
しかし、1990年、池田大作が阿部日顕を批判したことが発端となって、その後日蓮正宗と創価学会は分裂することとなる。
■暴力団の利用後切り捨て(2)
以下は前ページで取り上げた暴力団の利用についての続きである。
1985(昭和60)年11月12日、新宿区信濃町の創価文化会館で、後藤組系幹部ら3人が発砲、現行犯逮捕された。
「これには池田もビビッただろうな。…それで慌てて、俺んところに…このXを通じて池田が詫びを入れてきたことで、その後はまた学会に協力してやることになったんだ。」(後藤忠政著「憚りながら」P110 )
当時1990年の少し前に、小多仁伯は勤め先の会長から、この人の母が後藤忠正氏に注意し大人しくさせたいと相談を受け、原田稔現会長(当時副会長)に会っている。
(この方の母は後藤忠正氏が若い頃から家に出入りしていて食事や小遣いの面倒をしていて、その世界では恩義を感じている人という)
このとき原田稔は、
「『せっかくのお話ですが、あなたも御承知のように創価学会は、これまで、そのような方々の助けを借りてきた歴史も正直言ってありました。しかし、この世界の人たちは、一度頼みごとをすれば、次々に深みに入り込みます』『学会本部では、さんざん検討をしましたが、何を言われようとも、この世界の人たちとの関係を断ちきろうということになったのです』と話しておりました」(福本潤一・小多仁伯著「カルト創価の終焉」2010/10/12、日新報道、P73-74)
こうした反省にも裏腹、続いて小多仁伯は、〝百条委員会〟で世話になったS氏を池田大作の特命で選挙応援した際、S氏から〝百条委員会〟の件、池田大作を守った件、山崎正友や後藤組の動きすべてを聞き、S氏が創価学会と後藤組の関係を予想し危惧していたことを述べ、
「原田氏が反省していた、目的のためには図らずも暴力団を〝手駒〟に使わざるを得なかった創価学会の体質こそ検証しなければならないと思いました。
その根本原因は、池田大作氏の常日頃からの指導『目的のためならば、あらゆる手段を使え』という狂った思想に起因しています。
『池田先生を守る』『創価学会をバカにさせない』という学会流身勝手な思い込みによる反社会的事件は、一向になくなりません」(同書P76)
と指摘している。
この根本原因によってさまざまな反社会的事件が引き起こされ、それらは世間の批判にさらされてきたが、それらはたとえ創価学会の本部・執行部が直接関与しなくとも、全国の支部長以下引き入る末端組織で独自に十分に起り得ることであろう。そしてそうした事が起った時はほぼ中枢へ報告されるであろうから、結局は組織的に隠蔽されたりもみ消しを図られたりする。(例えば最近発覚した例として、参院選で当選を果たしたばかりの熊野正士公明党参議院議員のセクハラLINEについて等、本稿では敢えて詳細には触れない)
1991年(平成3)年11月、日蓮正宗・阿部日顕が、池田名誉会長を破門し、宗門と学会の対立は激しさを増していく。
「暴力団と一切関わらなくなったはずの創価学会は、またしても後藤組後藤忠政氏との関係を深めました」(同書P79)
翌1992年4月、大石寺『妙遠坊』で発砲事件、同年5月、大石寺『奉天寮』に火炎瓶投入事件が発生した。
「更に一九九五年十二月頃、先に名前が出た藤井富雄と後藤忠政の〝密会ビデオ〟が永田町に出回り、藤井氏から『五人の邪魔者の抹殺』を後藤忠政氏に依頼したという現場を撮られたといいます。
創価学会のカネに飽かせての反社会的な行動は、有害宗教カルトと言われる所以です」(同書P79-80)
「俺は山崎より、このXのほうと波長が合った。…Xは実に組織に忠実だったよ。私利私欲じゃなしに、俺とのトラブルを含め、学会の抱えているさまざまな問題を何とか収めようという姿勢だった。だからこそ、俺もまた学会に協力してやろうという気になったんだ。…俺自身はXを悪い人間とは思っていない。一番の悪はやっぱり裏で、山崎だの、Xだのに〝汚れ仕事〟させといて、表では善意に満ち溢れた教祖サマ面してる、池田大作だろうな。」(後藤忠政著「憚りながら」)
この『X』という人物は、メディアの報道や小多仁伯からすると、池田大作の側近で公明党のドンと言われた藤井富雄・元公明党東京都議会議員であろうと推定されている。
このXと後藤忠政氏が東京都港区内で2人が〝密会〟した様子を収めたビデオの存在が、メディアなどで取り沙汰された。
以下は魚住昭著「野中広務 差別と権力」P284による。
「野中さんが会いたいというので久しぶりに会った…『公明』代表の藤井富雄さんが暴力団の後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。そのテープを自民党側に届けた者がいる…』
藤井は創価学会名誉会長・池田大作の側近といわれる東京都議で、後に野中とともに自公連立の牽引車となる人物である。当時は新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる『公明』代表をつとめていた。
その藤井が山口組きっての武闘派として知られる後藤組(本拠・静岡県富士宮市)の組長・後藤忠政と密会している場面を隠し撮りしたビデオテープがあるというのである。
『脅かされているので妥協したい…?』…
平野の問いに権藤が答えた。
『…このままだと公明系(の新進党議員)がもたなくなる…』
平野は権藤と二人で党首の小沢に報告に行った。小沢は、
『学会が困っているんだから、話し合いをしてやれよ』
と、権藤・野中ラインでの交渉開始を了承したが、
『条件が二つある。一つは予算を修正すること。もう一つは自民党にも経済構造改革の必要性を分かっている人がいるから、住専問題を機会に改革のきっかけを作ることだ』
と釘を刺した。住専予算をめぐる権藤・野中の水面下の交渉はこうしてはじまった…」
■ 住専国会で新進党切り崩しの材料となった『密会ビデオ』…
「当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井が『命を狙われている』という噂が流れた。…亀井付のSPが増員され、亀井の車はつねに警視庁の警備車両二台にはさまれて移動する騒ぎになった。『参院のドン』と言われた村上正邦の元側近が語る。
『騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオのなかで、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら四人の名前を挙げ『この人たちはためにならない』という意味のことを言ったというんです。受け取り用では後藤組長に四人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。それで亀井さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって対策会議が開かれたんです』
…ビデオの映像はかなり画質が悪いうえに雑音が混じっていて声が聞き取りにくかったが、専門家に鑑定してもらった結果、登場人物は藤井と後藤にほぼ間違いないと分かったという。
『…『野中にはバレないように気をつけろ。何をされるかわからないから』という話でした。ところがしばらくして村上が『えらいことだ。野中に嗅ぎつけられた』と騒ぎだした…野中さんが亀井さんに『見たでえ』と言ったらしいんです。それからずいぶんたって村上が『野中が一仕事したみたいだな』と言ってました。『何ですか』と尋ねたら『あのビデオで信濃町(学会)をやったみたいだぞ』という返事でした。
そのころの野中は亀井とともに反学会の急先鋒だった…『公明党は選挙のたびに全国の学会施設や電話をただで使っているのではないか』と具体的な証拠を挙げながら公明党と学会の『政教一致』を突いた」
このビデオについて後藤忠政氏は述べている。
「そのビデオが撮影されたのは、俺の知り合いで、Xとも懇意にしていた六本木の会社社長の事務所だ…当時はXとしゅっちゅう〝密会〟してたもんでな(笑い)。その後、知り合いの社長がそのビデオをどうしたかについても知らない。ただ、最終的には亀井(静香・現国民新党代表)が持っていったと聞いているが……。」(「憚りながら」P110)
再び魚住昭著に戻る。
「どうやらこじれかけた学会と後藤組の関係は藤井の登場でいったん修復されたらしい。
私は富士宮市で後藤組の内情をよく知る男に会った…彼が密会ビデオ事件の真相を知る立場にいるのは間違いない。
『密会ビデオは本当に存在したのか』
と聞くと、男は言った。
『間違いなくあったよ。もしビデオが単なる噂にすぎないものだったら、あれほど藤井が泡を食うはずがないじゃないか』
後藤・藤井の関係はいつから?
『今から十数年前のことだ。墓苑の問題で藤井が(後藤に)会いに来た…』
『密会ビデオ』騒ぎが起きてから二年近くたった九七年十月二十九日午前二時すぎ、東京都新宿区にある藤井宅の南隣の鉄製門扉が爆破された…
ビデオが流出した九五年末ごろから学会と後藤組の関係は再びこじれだしたらしい。私は男に『自民党がビデオの問題で創価学会に揺さぶりをかけたのを知っているか』と尋ねた。
『その話も聞いているよ。ヤクザより政治家のほうが汚いね。(後の)自公連立は後藤組がきっかけをつくってやったようなもんだ。公明党は与党になってからもう四年になる。それでどれだけ得したことか』
男はビデオ問題で弱みを握られた学会側が自民党に接近し、それが後の自公連立につながったと言いたいようだった」(魚住昭著「野中広務 差別と権力」P287-291)
事実、この時期の公明党の変質ぶりについて、平野貞夫はこう述べている。
「政府・与党(註、自社さ政権、橋本龍太郎首相)が住専問題の原因、責任を明確にしないまま税金投入を決めたことに、新進党は反対していました…新進党(註、公明党の衆議院議員が合流中)はかなり与党を苦しめた。しかしその裏で自民党が創価学会にプレッシャーをかけ、新進党内を揺さぶっていたのです。表向きには宗教法人基本法案を持ち出し、池田名誉会長の国会招致を要求。水面下では、創価学会の過去の醜聞を蒸し返していた。元創価学会幹部女性の池田氏に対する損害賠償スキャンダルや、山口組系暴力団・後藤組と学会幹部の会談ビデオの存在、そうした材料で、自民党は創価学会を脅していたわけです…
ただあの時やっぱり公明系の人々は、少数派の〝万年野党〟から脱して、政局にきわどく切り込んでいく立場になれば、〝きれいごと〟だけではやっていけないんだなと気が付いたんでしょう。そこが彼らのターニングポイントになった」(「宗教問題28」P46)
その後1993年に細川首相の非自民連立政権にて公明党が初めて〝与党〟となる。池田大作のいわゆる〝デージン発言〟も物議をかもした。
1997年には新進党が解党し小沢一郎は自由党を立ち上げ、公明系の衆議院議員は公明党として復活、自自公連立政権となった。この後25年にわたって公明党は連立与党である。
■相変わらずの切り捨てズム
後藤忠政氏は述べる。
「俺が今回、初めて創価学会との経緯を話したのは、2つほど理由がある。ひとつは、あいつら(学会)のやっていることが、俺が付き合っていた30年前と同じ、いやそれ以上に悪くなっているからだ。学会、いや、池田大作のために、それまで散々働いてきた連中や、俺みたいに協力してきた人間を、用済みになったと思ったら、簡単に切り捨てるようなやり方が許せんのだよ。
山崎にしたってそうだ。最後には私利私欲に走ってしまったが、それまでは池田のために〝汚れ役〟に徹していたのは紛れもない事実だ。にもかかわらず学会は、悪事がバレそうになったら、山崎ひとりに押し付けた。
俺が昔、(池田に対する)内容証明を出した竹入さんにしろ、矢野さんにしろ、また然り、だ。それまで散々、池田のために尽くしてきたのに、ちょっと力をつけた途端に切り捨てられたんだから、そりゃ、竹入さんや矢野さんが、〝居直る〟のは無理もない話だよ。」(「憚りながら」P111)
この「用済みになったと思ったら、簡単に切り捨てる」という指摘は、寛政の法難の時に、日寬教学でわいていた大石寺のとった姿勢と、今回の池田大作の姿勢が同じ構図であることを見事に物語っている。
江戸時代の大石寺から続く伝燈の修羅道として、日蓮の教えや姿勢とは全く異なったこのような伝統が、「師弟不二」や「血脈」という美名の下で受け継がれてきているといえまいか。
それ以降の創価学会の歴史も、さらにこの事実を裏付けているように見える。
竹入義勝は1967年(昭和42年)の衆院選で初当選し、衆院議員を8期務め、19年間、公明党委員長を務めた。
いわば、創価学会の発展に努めた功労の人物である。
しかし政界引退後の1996年、『朝日新聞』に掲載された『55年体制回顧録』で、公明党と創価学会が政教一致の関係であったことを明らかにしたため、公明党、創価学会からは除名処分を受けた。以降、彼は、仏敵とされ、学会の機関紙『聖教新聞』等で、創価学会から徹底した誹謗中傷を受けている。
矢野純也も1967年(昭和42年)の衆院選で初当選し、竹入の公明党委員長就任と同時に、公明党書記長に就いた。衆議院議員を9期務め、86年、竹入の後任として、公明党委員長に就任。93年に政界を引退し政治評論家に転身、公明党・学会批判を行なった。
その後2005年(平成17年)5月、伏木和雄(元衆議院議員・元同党副委員長)、黒柳明(元参議院議員・元同党副委員長)、大川清幸(元参議院議員)ら3人が矢野に対し、評論家活動を辞めるように脅迫し、自宅から100冊近くの手帳を奪い去る事件が起こった。
この事件を報じた『週刊現代』(2005年8月6日号/13日号)の記事に対し、伏木ら3人は、矢野と、同紙の版元である講談社を名誉棄損として提訴した。
一審の東京地裁は2007年12月、『強奪の事実は認められない』として、矢野と講談社に660万円の支払いを命じたが、二審の東京高裁は、伏木ら3人の元公明党議員が『矢野に対し、多数の創価学会員や公明党員が危害を加えるかもしれないなどと脅迫して、手帳などを提出させた上、妻の部屋まで捜索してプライバシーを侵害した』などと認定し、一審判決を破棄、伏木ら3人に対し、矢野に計300万円の慰謝料を支払うよう命じた。
3人は即日上告したが、最高裁は2009年9月1日、上告を棄却し、矢野の逆転勝訴となった高裁判決が確定した。
またこの間、矢野は、自著『黒い手帳 創価学会『日本占領計画』の全記録』(講談社)にて、独裁国家建設を目指す池田の野望や、学会の違法活動の実態を告発した。
後藤忠政氏は、指摘している。
「逆に言えば、自分の手下に次から次へと居直られるような池田大作という男は、たいした人物じゃないってことだ。他人様から到底、褒められるような人物じゃないから、自分で自分を褒める本をせっせと作っては、学会の信者に買わせてな。ああいう見苦しい生き方もないもんだ。
そんな池田が裏で何をしてたかといったら、山崎やXをパイプ役にして、俺たちヤクザを散々利用し、仕事が終われば知らんぷりだ。それで俺たちがちょっとでももの言おうもんなら、今度は警察権力を使って潰しにかかる。
で、それでマスコミにバレそうになったら、今度は頬かむりだ。竹入さんにも、矢野さんにも、俺にした仕打ちとまったく同じことをしてるんだよ。だから、俺もこうして公の場で居直らせてもらったわけだ。」(「憚りながら」P114)
「それともうひとつ、創価学会、いや『池田教』が、この日本という国家を乗っ取ろうとしていることが、見過ごせないんだよ。
日蓮正宗という宗教を利用して、人を集めて、会員にして、その学会員から莫大なカネを上納させて、さ。日本では信教の自由が認められているから、キリスト教だろうが日蓮正宗だろうが、わけの分からん新興宗教だろうが、宗教を持つこと自体は構わんよ。けど、それ以上のこと、公明党を作って政治に入り込んだり、創価大学作って、〝優秀な人材〟を官僚にしたり、法曹界を牛耳るために人を送り込んだりしちゃいかんだろう。
外務省には、池田にノーベル平和賞を取らせるためだけに働く、学会員の組織があるらしいじゃないか。法務省にも、池田を守るための組織ってものがあるんだろ?
だいたい神崎(武法・元衆議院議員、公明党常任顧問。元検事。09年に政界引退)にしろ、浜四津(敏子・元参議院議員、元弁護士)にしろ、もともとはあの山崎の弟子だしな。
どんな宗教信じるかは勝手だ。しかし、その宗教のために国会や官僚組織に入り込むというのは、筋が違うんじゃねえか。特定の宗教の利益を目的とする人間が、国家権力の中枢にいるのはまずいよ。あいつら(学会)が何を信じようと勝手だ。また池田個人がどんな考えを持っていようと構わん。だけど、その宗教の理屈を国に持ち込む、さらにはそれで牛耳ろうとするのは、少なくとも自由主義国家じゃ許されることじゃねえだろ。そもそもこんな組織(創価学会)が『自公連立政権』だとか言って、国家の中枢でデカイ面してきたこと自体が、間違いなんだよ。
でも、誰かが言ってたな。『公明党はいずれ自然に消滅するだろう』って。なぜって、党員も学会員もじいさん、ばあさん、貧しい人が多い。新しい血が入らないんだ。10年、20年経てば年寄りは死んでいくし、貧しい人には上納する金なんかない。かといって、ここまで悪事がバレてたら、今さら『折伏』されて、学会員になろうっていう者もいないだろう。『公明党の最大の支持層がこれじゃあ、消滅していくしかない』って。これには納得したなあ。」(「憚りながら」P113-116)
まさにこの指摘通りに創価学会・公明党の衰退は始まっているように見える。
日蓮仏法の広宣流布の名のもとに小説「人間革命」の連載・映画「人間革命」「続・人間革命」を上映しながら、同時期に裏では修羅道どころか、餓鬼道・畜生道をも手に染めていた創価学会の真実。
得度した元極道の親分からの、痛烈な真実の指摘である。
純真な創価学会員に、ほんの少しでも理性の欠片さえあれば、そして、日蓮大聖人の御書の通り、「依法不依人」を前提として再検討してみれば、盲信から脱却できると思われるが。
「…暴力団と創価学会の最高幹部の密会は大きい出来事です。
ましてや、その後藤組をここまで肥大化した創価学会マネーの存在は、今後の検証が待たれます。
こうした、創価学会と後藤組の数十年に亘る関係こそ、大スキャンダルとして大新聞は取り上げるべきでしょう。
MC(マインドコントロール)されている学会員は、大本営が発表する〝山友(註、山崎正友)の仕業〟〝池田先生は関与していない〟〝暴力団の言うことは信用できない〟〝マスコミは相手にしていない〟などと、いとも簡単にコントロールされてしまいます。
これらの動きは、参議院選挙に向かって、創価学会の前進を阻む『三障四魔』であり、団結して粉砕していこうと問題をすり替えています」(「カルト創価の終焉」P78)
「原田稔氏や執行部の考えは、暴力団関係者との癒着は清算したいと思っていても、独裁者・池田大作氏の言いつけであれば聞く以外にないという哀れな関係にあります」(同書P80)
■絶版された随筆「桜の城」
今一度「嵐の4.24」をおさらいしよう。
これは、会長辞任劇から20年も経った後の1999年4月27日、聖教新聞に随筆「新・人間革命」で連載され、随筆「桜の城」2000/6/6聖教新聞社 P53-61におさめられているが、この書は絶版となった。
なぜ現執行部になって絶版になったのか?
拙論文57ページで先述もしたが、ここでは「私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と、自分こそ戸田の唯一の弟子の道をつらぬいたのに、学会幹部は自分を結局護らなかったとしている。
「そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった…中略…
戸田会長は遺言された。
『第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる』と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神はどこにあるのか」(随筆「桜の城」P58-59)
この池田の思いの部分は、その後出版された「民衆こそ王者」で、同じ時期を描いた部分では、見事に削除されている。
つまり、この部分は、池田大作が公から姿を消した後、現在まで続く創価学会幹部にとって都合が悪い部分であると容易に想像できる。
「そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった」
との部分は、まるで池田が自分一人だけが宗門と戦ってきて、側近幹部等には「学会を死守しようという闘魂も」なく、自分と共に戦ってきたものはいなかったかのような表現である。
更に
「宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き元弁護士たちである」と、責任を自らの弟子である側近の顧問弁護士山崎正友になすりつけている。そして、
「それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである」というのである。
そういう山崎正友を知り尽くして宗門への策謀に利用していたのが、他ならぬ池田大作であることも先述してきた。
だから、「情けなく、また、私はあきれ果てた」と続くが、「あきれ果てた」のは側近たちや真摯に交渉の話し合いについた宗門の方が莫大ではないだろうか。
「戸田会長は、遺言された。
『第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ! そうすれば、必ず広宣流布ができる』と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか…」との表現は、その後の歴史を鑑みれば、全く以って独りよがりにしか受けとめられないのではないだろうか。
そもそもここでの戸田の遺言も、捏造であろうし、第三代会長を決めずに(その余裕もなく急に)亡くなった戸田の遺言が、『第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ!…』は、有り得ないだろうことも先述した。
その後2年間も会長が決まらなかったことも、それを裏付けている。
戸田城聖の遺言を捏造し、自分に都合よく恩師の精神をでっち上げ、側近を「哀れな敗北者の姿よ」という。
拙論文でも前ページで検証してきたが、自らが編集した「戸田城聖全集」を検証すれば、戸田の精神に違背している自身の姿が明白であろう。
現在でも、「ブラボー わが人生」として、ときに大々的に90歳代の高齢者が勝利の信仰体験と共に笑顔のアップ画像が機関紙で取り上げられているというのに、一向に、信仰の勝利の証である、万弁の笑みをうかべた93歳池田の正面アップ顔画像は、一切掲載されない。多くの会員が待ちわびているであろうが……
「『私は何も変わらない。恐れるな!
私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!』と」とあるが、その後の勝敗の姿は、客観視できるだれの目をもってしても明らかなのではないだろうか。
更には、自分こそ戸田の唯一の弟子であったのに、周囲は皆、私を護らなかった、裏切ったという思いが記されているが、数々の先述の指摘によると、周囲を敵視し、裏切っていたのは他ならぬ池田自身であった、と私には見える。
池田大作が、師弟不二の名目で、その立場を利用して側近をいじめていた例は拙論文57ページで先述したが、造反したかつての同志や弟子たちから、次々に暴露されている。
ただ、一般会員でも、初期のころの、各会館で行なわれた幹部会の同時中継では、池田が壇上のパイプ椅子に並んで座っている秋谷会長などを、悪口する様子が見られたが、やがてこうした場面はカットされて中継されるようになった。
ところで、いじめについて、池田は、子供たちに、こう述べている。
「池田 本当に『気づかなければ』いけない! いじめている人は、自分がどんなに残酷なことをしているか、気がつかなければ!…中略…
――いえ、そうとも言えないんです。本当に、『いじめている側』は、びっくりするほど鈍感なのです。
池田 こんな考え方が、わずかでも大人の側に残っているかぎり、いじめはなくならない。
『いじめる』ほうの子が、そのことで、どれほど自分の人間性を破壊しているか、全然わかっていない。自分で自分の人間性を破壊し、自分の知性を破壊しているのです…中略…
人権とは『人が人を、いじめない』ということです。(池田大作著「希望対話――21世紀を生きる君たちへ――」2007/3/16 聖教新聞社 P189-191)
類似した内容は福島源次郎の「蘇生への選択」でも指摘されている。また拙論文56・57頁でも創価学園生に対しての指導を指摘したように、一方でこういうきれいごとを子供向けに指導していたとは、まったくもっていただけないと思うのは私だけではないだろう。
嵐の4.24で、池田が名誉会長に退いた後、創価学会執行部は北条会長・秋谷副会長体制になった。それは表向きだけで、宗門との問題解決のポーズに過ぎなかった。
原島崇は、「池田先生の財産はすべて預からせていただきます……」と誓約書を則近に出させていたと述べている。
名誉会長のまま再び最高指導者だった池田は、日蓮正宗の阿部日顕と、最初はうまくやっていた。
法主になる前は創価学会の傀儡であった阿部日顕は、先述した菅野憲通の述べるが如く創価学会と対立していた正信会僧侶をカットした。
彼は法主就任後、こんどは池田に不満を募らせる。そして再び両者は決裂する。
ジャーナリスト乙骨正生は、この流れを以下のように述べている。
「創価学会は、1991年11月…日蓮正宗から、教義違背を理由に破門された。これを創価学会は、あたかもカソリックから分離独立してプロテスタントを確立したマルティン・ルターによる宗教改革に擬して『魂の独立=平成の宗教改革』と称して正当化を図った。
もっとも信徒団体として日蓮正宗の本尊・教義に依存してきた創価学会は、水面下では日蓮正宗の教義を否定し独自の教義解釈を表明する準備を進めてはいたものの、日蓮正宗の本尊・教義を礼賛してきた歴代会長の言説との論理矛盾や自家撞着、会員に与える動揺などを考慮して、小出しかつ小刻みな本尊・教義の改変は実施したものの、抜本的な改変には踏み切れず、独立した教団とは言うもののドラスティックな展望を打ち出すことはできなかった。
しかし2010年に池田名誉会長が病に倒れ、事実上の再起不能となったことから、原田会長を中心とする集団指導体制に移行(原田会長インタビュー・『朝日新聞』16・9・22付)した創価学会は、これ以後、本尊・教義の全面的な改変に着手。14年には『創価学会会則』の教義条項を変え、日蓮正宗の根本本尊である『戒壇の大御本尊(弘安2年の御本尊)』の不拝と、日蓮正宗(大石寺)教学の中核である『日寛教学』の否定を表明。さらに17年には『会憲』を制定し、牧口(常三郎)・戸田(城聖)・池田(大作)の『三代会長』を『広宣流布の永遠の師匠』と位置づけるとともに、自らの『本地と使命』を『日蓮大聖人の仏法を唯一世界に広宣流布しゆく仏意仏勅の教団』であるとして、その名称を『日蓮世界宗創価学会』と規定。また教団そのものを仏と位置づける『創価学会仏』なる概念を示して、日蓮正宗とは異質な日蓮系の新興教団として世界宗教を目指すとの旗幟を鮮明化した」(乙骨正生「『創価神学』の敷衍&新たな『世襲の素因』兆す〝怪〟人事」、FORUM21、P4-5)
犀角独歩は言論出版妨害事件以降からの創価学会の経緯を簡潔に述べている。
「池田大作は、『闘争』から『平和主義』という、社会一般に通用する看板を創価学会にかけかえる一方、学会内部では自身の神格化ならぬ〝仏格化〟を巧妙にしかけていった。
宗教界の王者は、やがて『久遠の師』と呼ばれるようになる。久遠とは、『法華経』に説かれる『五百塵点劫』というはるか遠い過去を意味する。つまり、池田は戦後日本で創価学会会長になったのではなく、はるか遠い過去からの指導者だったのであり、未来もまた、永遠の指導者であると言い出したのだ。
仏教で永遠の指導者といえば、釈迦をおいてほかにはない。しかし創価学会の母体であった日蓮正宗では中世から、日蓮こそ、釈迦に代わる末法の仏であるという『日蓮本仏論』を教義としその命脈を継ぐのが総本山大石寺法主であるとしてきた。
創価学会はこの日蓮本仏論と法主絶対主義を『池田崇拝体制』に置き換えていったのである。まさに換骨奪胎だ。
昭和五十二年、創価学会と日蓮正宗との間に勃発した第一次紛争は、そうした背景で起こった…
五十四年、日蓮正宗からの厳しい勧告により、池田は創価学会長と、日蓮正宗信者の最高位・法華講総講頭を辞任…
池田は反省し、日蓮正宗に忠誠を誓うポーズも取った。しかし、池田を弾劾した細井はその年に逝去。…五十六年、細井に代わって大石寺法主となった阿部日顕は、日蓮七百遠忌に当たり、池田を慶讃委員会委員長に就けた。五十九年には、池田は法華講総講頭に復帰する。
池田は阿部とは良好な関係を構築していたように見えた。ところが…阿部はしばしば宗義上の理由から、池田への苦言を繰り返していた。やがて阿部と池田の亀裂は深まることになる。
また阿部と池田の仲がこじれた現金な(ママ)理由として、創価学会は七百遠忌慶讃で日蓮正宗に三百の寺院を建立寄進すると約束したのだが、学会の会館建設ばかりを進め、寺院を後回しにする印象があった…池田は面従腹背であった。
平成元年、ついに池田大作は阿部日顕批判を口にする。日蓮正宗との第二次紛争が起こった。創価学会は用意周到で、『宗門批判キャンペーン』を口コミやFAXなどを縦横に活用して行い、さらに出版界をも巻き込んで大々的に展開。その時、すでに宗門攻撃の準備は整っていたのだ。計画的に創価学会がしかけたケンカだった。学会の会館入口に阿部の似顔絵を敷き、来場する会員に踏ませることもした。こうしたやり方、口を極めた批判文書の数々は、まさに草創期以来の〝闘争根性〟の発露である。池田も創価学会も変わっていなかった。
…いつの時代にも創価学会は自己反省をせず、『自分たちは絶対に正しく、間違っているのは相手である』という独善的な態度で一貫し、常に攻撃的であった。その姿勢が実に象徴的に出ていたのが、このときの第二次紛争だったのだ。自らへの反対者に容赦のない人格攻撃を加えるその姿に、創価学会の正体を見る思いを抱いたものだった」(犀角独歩「池田大作が健在であっても今の創価学会は何も変わらない」、宗教問題28、2019/11/30、合同会社宗教問題、P24-26)
この指摘のように、日蓮正宗と創価学会は決裂後、双方が機関誌や著作、マスコミ、裁判などを通じて多大に相手を攻撃し、会員の引き抜き(いわゆる脱講・脱会)合戦が繰り広げられた。
こうした状況の中でも、池田の小説「人間革命」の連載が復活し、続いて小説「新・人間革命」連載が開始された。これは新たな指導と都合よい歴史の書き換えも兼ねた組織固めであろう。池田の世界旅行の度に出合う著名人との会見や意見交換などを著作グループが池田大作著として出版、また金やツテなどや現地のSGIも巻き込んで池田大作名の名誉称号を集める。
こうしてさらなる「池田本仏」化が実質的に進み、実質的には実態を知らされない純粋会員による池田崇拝集団が巨大化していった。
そして、創価学会を世界で唯一の仏意仏勅の団体とし、日蓮正宗を敵視し、日蓮正宗を〝日顕宗〟といって誹謗中傷し続けた。
公明党の実態が政教一致であることを手記などで暴露した竹入・矢野を仏敵として人格攻撃をした。
相手を人格攻撃するしかないのは自分たちの説得力のある正当性の論理が組めないからであろう。
まさに独善的体質の現れである。
創価学会の人格攻撃は、阿部日顕や竹入、矢野らにとどまらず、過去に造反した幹部などにも向けられた。
池田大作は戸田を宣揚し利用しながら、その唯一の弟子であったとした自分自身を褒めまくるスピーチと著作を弟子たちに原稿として書かせた。
事実、2001年11月12日第11回本部幹部会で、池田大作は、次のようにスピーチしている。
「『その『一人』とは誰であったか。だれが戸田先生の教えのごとく、命がけで世界にこの仏法を弘めてきたか。私は〝その一人こそ、自分であった〟と誇りと自負をもっている。(拍手)
ゆえに、本物の弟子である私に続く人間こそ「本物」なのである。後世のために、あえて明確に言い残しておきたい。
どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』である。また、それこそが、創価学会が二十一世紀を勝ち抜いていく『根本の道』なのである…中略…
(第11回本部幹部会、2001年11月12日、池田大作全集第93巻)
このスピーチは、創価学会員の間では現代の御書に値する小説「新・人間革命」の結びの部分のモデルになっている。
つまり、自分一人が戸田城聖の「本物の弟子」であると宣言し、「本物の弟子である私に続く人間こそ「本物」なのである」と、明確に述べているのである。
それ以外は「偽物」であると言っていることになる。
日蓮正宗や創価学会を脱会した信者を「偽物」の弟子である、『創価の三代の師弟の魂』を受け継がない「偽物」であると主張していることになる。
さらには御用ジャーナリストを巻き込んで、阿部日顕や多くの造反者に対する人格攻撃を繰り返す中、池田大作は、脱会しないで組織内についた内部の創価学会員に対して〝魂の独立〟〝創価ルネサンス〟を成し遂げたと喧伝している。
まさしくこれこそ、「師弟不二」「血脈」などと名を変えて日蓮仏法を利用する「池田教」の教祖宣言に相当するのではないだろうか。
そして、先述した山崎正友の指摘の如く秋谷・原田等の現執行部幹部を完全に配下に置き、表の顔を宣揚して多くの会員の羨望を集めながら、ひとり、学会に君臨し続けた池田と、それを忍びながら持ち上げ讃嘆し続けた側近その他の幹部や職員たちによって、創価学会のヒエラルキーが成りたっている。
しかし、仏法の因果は甘くはなかった。
業が熟した時がやってきたのだ。
池田大作は2010年半ばから公の場に全く姿を現わせなくなった。
裁判所から公人とされていながら、その行動や健康状態すらも詳細な発表がなされなくなった。
世間には、おそらく脳梗塞であろうとか、死亡説などが飛び交ったが、
現執行部は学会員や公には「お元気です」の一点張りで、現在に至っている。
犀角独歩の指摘は続く。
「虚像の平和主義
確かに創価学会はこれまで、社会一般に向けて『池田大作名誉会長は平和主義の指導者です』というイメージを流布してきた事実がある。
ただ要するにそれは、池田本人と創価学会による〝演出〟なのだ。池田を平和主義者と世間一般に思わせる条件を次々と用意して、つくり上げたキャラクターだったと、わたしは見ている。
池田には大量の著作があり、確かにその中で反戦平和や核廃絶などを多々訴えている。しかし出版点数から考えて、こんな量の原稿を一人の人間が書けるはずはない。また彼は多くの世界の要人に会い、名誉称号や名誉博士号を授与されてきたが、それに向けての準備と演出は、創価学会が組織を挙げて行ってきたことだろう。
『平和主義者・池田大作』は世間一般からの自然な評価を得て、世論となって認知された事実ではない。
もちろん、創価学会外の著述で池田を平和主義者と賞賛するものも散見されるが、それこそが〝創価学会御用達〟の演出である。池田大作の歩いてきた歴史とは、どうみても〝闘争の歴史〟でしかなく、そこから浮かび上がる人物像に、わたしは平和主義を見出せない。
池田の現在の健康状態がいかばかりであるか、わたしは詳しく知らないが、お見舞は申し上げておきたい。
ただ、池田が今も健康で、元気に創価学会を率いていたら、本当に今の創価学会は〝悪事〟を行っていなかったのだろうか。そんなことはないだろう。創価学会の歴史とは、池田に反対する人々を排除し、〝極悪人〟のレッテルを張って人格攻撃を繰り返す、いわば〝粛清の歴史〟だったからだ。
池田の意に反する人々が、今までどれだけの数、葬り去られてきたことか。こうした事例を見るにつけ、池田がいま健在であっても、執行部に逆らう会員の査問・除名は行われていたことだろう」(同書P26-27)
現在でも池田の活動として、池田大作名として各会合などへのメッセージや贈り物、また池田への名誉称号の受取、池田大作著としての著作物の刊行などが、以前と同様に続けられ、あたかも池田が健在であるかの如く繕われながら続けられている。
これはきわめて不自然である。
しかし、純真な会員は少なからず、それらを何の疑問もなく受け入れ喜んでいる。
池田大作の現在の健康状態がいかばかりであるか、ここにきて、お見舞を申し上げておく。