Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P61, 虚妄のベール、原理主義的な学会員と隠れ会員、査問・除名ー切り捨てズム
■虚妄のベール
高橋篤史は「『平和の団体・創価学会』というつくられた虚妄のベールを剥ぐ!と題してこう述べる。
「では、なぜ一九七〇年を境にもはや過去の人となっていた牧口を引っ張り出し『反戦平和』を表看板に掲げだしたのか。
大きな転機はその年初頭に起きた言論出版妨害問題とみられる。創価学会はマスコミによる批判にことのほか神経質だが、批判本の出版に圧力をかけた事実が明るみとなり、それが政教一致批判も絡む社会的関心に発展したのが言論問題だ。…
そこで社会の批判をかわすため創価学会は融和政策を打ち出す。公明党の綱領から『王仏冥合』の文言を削り、後には『国立戒壇』も引っ込めた。そして、さらなる組織拡大のフロンティアを学生・インテリなどリベラル層と見定める。当時は学生運動が真っ盛りで、学会は前年六月に『新学生同盟』として知られるようになる学生団体の組織化を始めていた。そして掲げたのが『反戦平和』だ…
組織防衛・組織拡大のためには機を見るに敏なのが、池田氏や創価学会の特徴と言える。一連の宗教外交も組織拡大のためである。宗教団体でありながら一貫した思想性は二の次だ。
変質などしていない
こうして見て来ると、一種の権力志向である創価学会が自民党との連立以降、『反戦平和』を以前ほど強調しなくなったのはさもありなんである。現実政治において青臭い理想論はあまり役立つものでない。政権に残り続けるにはリベラル層が拍手喝采するような『反戦平和』はむしろ邪魔になる。二〇〇三年のイラク戦争を公明党は支持した。創価学会もそれを是認したということだ。池田氏が健在のころの話である。だから、二〇一〇年に同氏が公の場から姿を消して以降(脳梗塞説が有力)、現執行部が『反戦平和』の旗を捨てて学会を変質させたとする陰謀論は正しくない。
じつのところ、一般的な学会員は選挙には熱心だが、政策には関心が低い。選挙時に大車輪の活躍を見せる婦人部は、外部から『反戦平和』の傾向が強いと見られがちだが、『幹部は語るべき言葉を何も持っていない』(元本部職員)というのが実情だ。
『池田先生がつくった公明党が間違えるはずはない』というのが
、組織第一主義を植え付けられた平均的な学会員の政治リテラシーである。
ただ、『反戦平和』を表看板としたのが半世紀も前までさかのぼれるということは、それに染まった原理主義的な学会員も一定数生んだ。そうした意図せぬ覚醒者が組織から少しずつ離反しているのが、ここ数年の動きと言っていい。彼らが牧口を『反戦平和』の象徴と信じ込み肖像を掲げ政権批判を行っているのは、プロパガンダが生んだパラドキシカルな光景だ。
創価学会が戦前から一貫して持つ性質を挙げれば、それは独善かつ不寛容な排他的態度である。学会本部は数年前から批判的な会員をあぶり出すため全国で査問を行っている。
プロバイダ業者への発信者情報開示請求など、お抱え弁護士グループを動員した法的措置も交えながらだ。
工作員を潜り込ませての秘密録音もお手の物である。そのような組織が『反戦平和』とほど遠いものであることは、火を見るより明らかではないだろうか」(宗教問題28、2019/11/30、合同会社宗教問題P74-75)
■原理主義的な学会員と冷めた隠れ会員
ここで、池田の『反戦平和』に染まった原理主義的な学会員が、今も創価のヒエラルキーを支えている。
同書の覆面座談会「池田平和主義を語る」において、創価学会脱会者Bは以下のごとく語る。
「『池田大作先生は素晴らしいお方である』などといった評価は、ほとんど創価学会内部でしか行われていないわけです。多くの一般国民は創価学会にせよ池田さんにせよ、『怪しげで恐ろしい存在だ』くらいにしか思っていませんよ。だから少なくとも外部から、創価学会・公明党の現状に何らかの揺さぶりをかけたいのであれば、そういう多くの一般国民の認識にフィットしたメッセージを送らないと、実際の効果はないと思うんですね…
ただ、創価学会員にして『池田平和主義』を信じている方々というのは、私が何人か会った限りにおいて、本当に純朴なタイプが多かった。池田さんという人について、本当に一途に平和主義を追求してきた偉い人なんだということを信じているし、その上で今の自公政権を支えている創価学会の姿というものを、真剣に憂いている。皆さん、本当に善人ですよ。
しかし彼らが語る池田像というものは、少なくとも私の認識とはまるで異なる。例えば一九九〇年代の日蓮正宗との紛争の時に見せた、あの冷酷で傲慢な池田大作の姿と、〝池田平和主義者〟が語る、優しく穏やかな池田大作の姿はまるで乖離している。そして極端な人になると、池田さんは一九七九年に会長職を退いて以降、ずっと執行部に幽閉されているなんていう、どう考えてもおかしなことまで口にしている。
私は基本的に、人が何を考えて何を信じようとも自由だと思います。ただ、偽りの事実を基にした〝主義〟を信じるというのは、非常に恐ろしいことですよ。そこだけは注意していただきたいなと思う」(宗教問題28、P67-68)
また60代創価学会は語る。
「『依法不依人』(法に依って人に依らざれ)という仏教の言葉があって、これは日蓮も非常に重視した考え方です。つまり仏教者とはあくまで〝仏法〟に基礎を置いた生活を送るべきなのであって、〝人〟、つまり特定の指導者に依存すべきではないのだと。
創価学会はこれまで、池田名誉会長という〝人〟に依存し過ぎていた傾向が確かにあった。しかしながら今、『池田平和主義』を掲げて反執行部的な運動をやっている方々の中には、執行部よりもさらに〝人〟、つまり池田名誉会長によりかかった主張をしている方もおられる。そこはちょっと、立ち止まって考えてみてほしいとは思います。あえて言いますが、カルト化する危険性すらはらんでいるような気がする。
ただ、これは今の創価学会に関わる人のほぼすべてが感じていることだろうとは思うんですが、もう創価学会そのものが、組織としてかなりまずいところに来ているわけですね。具体的に言えば熱心な活動家がどんどん減って、日常の行事などに若い人がほとんど集まらない。例えば創価学会の会館警備などを担当する『牙城会』というグループがあって、若い男性会員で構成されているんですが、人が集まらなくなって今、女性や高齢者の会員が警備に駆り出されていたりする。そういう組織全体に流れる焦りみたいなものが、いろいろな運動を生んでいる面もあるのではないかという気もします」(同書P68-)
彼の指摘は的を得ている。まさしく〝仏法〟も自然科学もすべてとりあわせて『依法不依人』こそ根本原則である。
仏教者に限らず自然界のすべてが〝法〟に則ているのであり、それに基礎を置いた生活を送るべきなのであって、〝人〟、つまり特定の指導者の言葉に依存すべきではないのだ。
その真逆な「依人不依法」のアニミズムに基づいた結果が現在の創価学会の衰退局面となっている。
そして彼の指摘する具体的な状況は、創作・演出され組織拡大の教義として利用された「師弟不二」や、時代に迎合し利用して出された「反戦平和」「平和主義」を、真に受けて信じ行動している人たちの顛末である。
どうして、こうなってしまったのかは自明であろう。
■ 査問・除名という切り捨てズム
先の著作による指摘にもあったが、原田稔会長を筆頭とする創価学会の現執行部は、自分たちの打ち出しに異を唱える会員を、査問し除名処分を行なっている。
犀角独歩はこう述べている。
「最近の創価学会は、運営に反対する会員を呼び出しては査問し、意に沿わなければ除名している。こんな恐怖支配、各人の自由意思を認めない団体は、平和とはほど遠いという感慨がまず浮かぶ。
しかし、池田を『平和主義者』と信奉する会員、および関係者の口上によれば、査問・除名を行なっているのは池田ではなく、右傾化した現執行部の、特に会長・原田稔であるというのである。また、『池田先生を幽閉し、現執行部は悪の限りを尽くしている』などといった物騒なことを言う人さえいる。自衛隊のイラク派遣、安保法制で公明党が自民党と足並みをそろえたのは現執行部が強行したことで、池田の意には反しているとも言う。よって、池田が今も健康で創価学会の指揮を直接とっていれば、公明党・創価学会は〝右傾化〟することなく、むしろ安倍自民党体制に反旗を翻していたはずだ、といった話さえ、そういう〝池田平和主義者〟とも呼べる一郡からは聞こえてくる」(宗教問題28、P23)
元創価学会会員であった篠澤協司は、師匠と仰ぐ池田大作の指導を根拠に現執行部の誤りを指摘して、査問を受け、一方的に除名された。それでも彼は独自に師弟不二の道を貫くとして「フラタニティ」でこう述べている。
「私は、現在の原田会長を中心とする創価学会執行部は、創価三代会長の御指導に反しているから、そして三代会長の精神を破壊しようとしているから、声を上げて参りました。その結果、本年〔二〇一八年〕三月一九日に創価学会から除名処分を受け、その処分の不服申し立てを致しましたが、八月二七日に棄却されて除名が確定し、創価学会会員の資格をはく奪されました。
信仰者にとって『極刑』とも言える除名処分を受けても、私の師匠は池田大作先生です。今後も師匠の御指導と『御書』を根本に生きていくことに、なんら変わりはありません」
その根拠として、明確に武力の拡大を否定する池田のトインビーとの会談「武力による自衛の方向はすでに行き詰まっているといえましょう」、、あくまでも自衛権は自国防衛のためのみにあるという「自衛権は、対外的にはいうまでもなく他国の急迫不正の侵略に対して、国家の自存を守る権利です。それは、体内的にはそして根本的には、国民の生きる権利を守るという考えに根ざしています」を根拠に、自衛隊の海外派兵を支持する公明党を批判。特に公明党副代表の北川一雄氏が武力による抑止力の必要性を訴えることを批判。
また池田の『私たちは公明党を支援するために信仰しているのではない』、『いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギーをもつ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全く、なんの差別もなく、平等に包容されるべきであることを、明確にしておきたいのであります』を訴えている。
「組織からの一方通行の伝達ばかりで議論することなく、上意下達の打ち出しをこなすことが活動家の戦いになっていました。特に、打ち出しを流す幹部たちが勉強不足なのは致命的でした。選挙活動には関心が高いのに、政治や政策にはほとんど関心がありません。これでは『心して政治を監視せよ!』との戸田城聖第二代会長の御指導にも反しているのではないでしょうか?」と指摘する。
そして『元創価学会職員三名』のブログを見つけ、第一回横浜座談会、サイレントアピールにも参加した。
現執行部が創価三代会長に違背することがあれば、当然声をあげるべきです。役職があることで言いたいことが言えないのでは、学会内の言論統制になってしまいます。
池田の『正義感を決して失ってはならない。世間ではよく『清濁併せ呑む』ということが度量のように言われるが、不正・不純を容認し、それに慣れてしまえば自分自身が濁っていく。そうなってしまえば、本末転倒である』の指導を根拠に、
「今まさに、不正・不純を容認し、隠蔽体質の現執行部自身が濁っており、その根本原因が原田会長にあると、師匠に敵対していると確信するにいたりました」と述べる。
『当会執行部に対する批判活動を行なった』『上記執行部批判活動を止めるよう再三指導しても従わなかった』ために除名申請がなされ、通告書が届き、県審査会と監正審査会を通して九通の質問書・陳述書を送付、回答を求めましたが、納得できる回答はなく、地元幹部から再三指導された事実も無く、虚偽に基づく処分の決定であったという。この地元幹部たちとは一切、先生の御指導や『御書』を引用することがない懇談だった。
「私が批判していたのは、あくまでも原田執行部であり地元幹部たちを批判したわけではありません」
という。まさにこの点が大事である。純粋な会員を批判しているのではない。
「弁護士からはこのように言われました。『この審査会は、創価学会会則等のルールに則って開催しており、県審査会の制度からこの場は、あなたや処分申請者に対してこちらが聞いてお応え頂く制度になっている。従って、何から何までお応えするものではなく、こちらから質問をすることになっている』と。要するに、ここは対論の場ではないと、完全に対話拒否の審査会であることを認めたことになりました。村社会にしか通用しない規則や規定で一会員に対し、信仰者にとって『極刑』とも言える『除名』処分を下すその執行人たちは、人間主義に徹する池田先生の『一人を大切にする』精神に明らかに違背しています」
「原田執行部を批判することが除名理由になりうるならば、これも池田先生の御指導と違います。先生は、『もし将来、学会の中に悪い人間が出るようなことがあれば、皆が心を合わせて一体となって戦うのだ。『三代の会長はこう言っていた。あなたのやっていることは、おかしいではないか!』『私は師弟の精神を教わってきた。師匠から長年にわたって指導を受けてきた。あなたの言っていることは、それと違うではないか!』そう言って、立ち上る(ママ)のだ。絶対に、悪人をいい気にさせてはならない。断じて見逃してはならない』と、このように御指導されています。
…
私は、前述の池田先生の教えに従ってこの御指導通りに声を上げているだけなのです。池田門下として何も間違った行動はしていないと、大確信をもっています!」
彼の主張は、全く筋が通ている。
彼の主張を素直に受けいれれば、現執行部が立ち行かなくなることは、普通に考えれば分かる。どちらも依人不依法のアニミズムだからである。
だから原田執行部が対話を拒否し、一方的に査問・除名したことぐらいは想像に難くない。
そもそもこれは、アニミズム自体の性質による必然的帰結である。
だから自分たちへの批判に対して、客観的で説得力のある反論すら持ち合わせていないし、持ちえないからで、さらには一般人の誰が見ても正しいと言える根拠に基づく反論などありえない証拠なのである。
拙論文で指摘したかつての大石寺の、そして池田大作の切り捨てズムが、現在、創価学会の現執行部にでも明確に現れている。
こういう点でやはり皮肉にも、原田稔会長や他の現執行部の幹部達も、池田大作の立派な弟子であったことになる。
除名処分は「信仰者にとって『極刑』とも言える」とするのは、日蓮大聖人の仏法を御書の通りに広めているのは創価学会しかないという組織の指導を素直に信じ思い込んでいるからである。
いわば洗脳である。
しかし日蓮の遺文の真の意味を理解すれば、「信仰者にとって『極刑』とも言える」こと自体、洗脳された状態での解釈である。
日蓮の遺文「生死一大事血脈抄」や「諸法実相抄」をきちんと理解すれば、所属団体に限らず、広宣流布できることなどは明白である。
また、法華経涌出品で出現した地涌の菩薩の中には、眷属がいないたった一人で仏法を修行していたものも多数いたのである。
現在のIT・AI時代では、たった一人でも世界に向けて発信し、日蓮仏法の広宣流布ができるのである。
だから「創価学会しかない」と主張すること自体、御書(日蓮の遺文)に違背していることに、そう主張している彼らは気づいていない。
そればかりではなく、法華経や日蓮仏法をきちんと勉強せず、都合よくパッチワークして組織拡大(組織維持)に利用している証拠である。
今でも、除名処分を恐れて、自由な主張や行動を躊躇している創価学会の会員も少なからずいるだろうし、これからもずっと増えていくだろう。
彼ら彼女らこそ、創価学会の教義で根本と言われている御書(日蓮の遺文)に、正確に立ち返り、勇気をもって自分自身の誤った認識を打ち破っていくべきである。
これこそが、自身を洗脳から解放し、真の日蓮仏法を実践・それぞれにたった広宣流布の実現への道が見えてくる唯一の乗り切り方法である。
池田大作の仇討ちズムも、弟子として受け継いでいるのならば、かつていじめられ総括された仇討ちが、ひょっとしたら池田大作に対して密かに行われているかもしれないことも想像に難くないが、末端会員の私には、それに関する真実を知る由もない。
原理主義的な池田崇拝者から、漏れ聞こえてくることではあるが、真相は不明である。だがすべては因果応報なのだ。
いじめたら仕返しが来ることぐらい、子供でも思いうかべられるであろう。
ちなみに職業柄、私は同じような事例を、医療介護現場でよく見かける。いわゆるかつてイジメた嫁や家族たちから無視され疎んじられ冷遇される、いわゆる老人虐待である。
「池田大作『権力者』の構造」(2005年、講談社)の著者である溝口敦は昨年11月に、
「池田大作の容態がどのようなものか不明だが、10年も会員の前に姿を見せないからには植物人間状態だろう。早晩、池田の生物的な死を発表する日が来る。
創価学会・公明党にとってはハルマゲドンの日である。これにより政界進出を取り止め、公明党解党という事態さえ招きかねない。議員はただちに失職である」(溝口敦「700万票復帰の裏に潜むハルマゲドン」FORUM21通巻310号、2021/11/10、P18)
という物騒な予見をしている。
もはや、創価学会現執行部が発し続けている〝先生はお元気です〟を本当だと信じているのは、悪い意味で家畜化され自ら隷従する純真な創価学会会員のみであろう。(もっとも、一般論として、民衆が自ら進んで支配者に隷従するという「自発的隷従論」や、人類自体が「自己家畜化」して進化したと指摘する著書などもあり、拙論文でも後に検討する予定である)
そうした中、その洗脳のなかにあっても、人間としての自覚を取り戻しつつ勇気ある行動を起こす人たちも出てきている。
例えば2019年、参院選でれいわ新選組から「沖縄創価学会壮年部」の肩書の下、東京選挙区で山口那津男公明党代表の対抗馬として立候補した野原善正もその一人と思われる。彼は選挙演説等で「師弟不二」等の仏法用語を多く取り入れ、「池田先生という方は非常に立派な平和主義者なんだ。池田先生の精神に公明党は立ち返らなければダメなんだ」(宗教問題28、P60-61)と叫んでいた。
結果は20万票を獲得したが落選した。もっとも、彼の主張は本音、即ち過去の池田大作の主張に基づいた宗教政治をやることを意味しているので、公明党――創価学会とは別組織で政教一致ではなく憲法に基づく政治を行なうという――とは建前上のみの違いでしかない。
ただ、そうした人達も、きちんとした日蓮仏法ではなく、創価学会が以前から展開してきた「師弟不二」論に本質的にはとらわれている例も多いだろう。
大城浩は池田がまだ大いに活躍中の2002年、自著「真理なき教団 沖縄創価学会――学会幹部に宿る 組織崩壊の病理」(2002・11・10、閣文社)にて、
「池田先生はこの仏法を世界に広めてきた。極悪人と化した(日蓮正宗最高権威者である)『法主』という僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん・権力を行使して仏道修行者を迫害する者)をも倒し、あらゆる広布万年への布石をされてきた」
と述べ、池田大作の唱えた「師弟不二」に立脚した上で、池田には最後に最も困難な使命が残っているとして、こう述べている。
「それは『学会内部の敵を末端の会員が倒せるようにする』こと、つまり『賢明な会員の輩出』である。それをしなければ池田先生亡き後、創価学会ですら、日顕宗(日蓮正宗と同義)同様に邪宗化していく…そうなれば創価学会という組織は社会悪にしかならない可能性すらある」と述べていた。
彼は日蓮の遺文をもとにして、かつ日蓮の弟子である日興が遺誡置文で戒めたように、
「将来、万が一、会長が己義(自分勝手な教義)を構えたら、ひとたまりもないからだ。従って『限りなく無名に近い会員』が自らの手で権力を悪用する大幹部を追放することが一番理想的な結論との答えが導き出せる…『池田先生の呼吸をわかった上で、今や巨大化した学会の権力を握った、悪しき幹部を無名の会員が打倒する。』これができるようになってはじめて、『末法万年の楔(くさび)』が打たれることになる」
と警告しながら、
「無名の青年であって、教学力があり、言論の力があってなおかつ、一人立つ気概で、巨大な権力と戦う、勇気ある弟子」「悪の本質を見抜く目」を持ち「悪しき権力者から嫉妬攻撃され得るだけの人物」の出現の必要性を述べている。
さらに彼は、正法でも釈迦・天台・伝教、そして日蓮の時代において無名にして力のある弟子が出現しなかったことが、正法が存続しなかった要因、「つまり権威権力を握った悪の枢軸と化した教導的立場の人間に、純粋な信徒があらゆる面で太刀打ちできなかったのである」と指摘し、池田がいかに偉大であってもこういった青年が出現しなければ学会は邪宗化して「形だけが残って、功徳の出ない宗教と化していく可能性が高い」と警告していた。
彼の指摘・予言は見事に今日の創価学会の姿を言い当てているようである。
ただ、残念な点は、池田大作の師弟不二・日寛アニミズムの範疇から抜けていない点であろう。
もっとも、拙論文P56で先述したが、彼の指摘に似たようなことは池田大作も創価学園生に対して述べている。
「真実の姿は、『先生』よりも『後生』の方が一段と成長し、偉くなっていかなければなりません。
そして『先生』というものは――先生(せんしょう)ともいいますけれども――〝後生畏るべし〟で、どうか後輩が自分よりどんどん成長し、偉くなっていってもらいたい」(創価学園生徒会誌 渓流2号(昭和52年3月16日発行)
これは創価学会の基盤を盤石にし、総体革命を成し遂げようと指向するものであった。
そもそも日蓮は、題目を唱える信者に対しての平等を指示していた。
すなわち、南無妙法蓮華経を唱える人を分け隔ててはならないと書き残している。
日蓮の遺文、生死一大事血脈抄での「自他彼此の区別なく」や、諸法実相抄での「男女はきらうべきなり」という平等視点、つまり一切の所属団体(その他一切の諸条件)によらない科学的客観的な「信心の血脈」を後世に託していたのである。この原点に立ち返れば、こういった齟齬や闘争はすべて消滅するはずである。
誤った「師弟不二」や「血脈」をめぐって、日蓮の弟子を名のる者たちの様々な闘争が絶えないのは、この原点を見失い、結果として日蓮の教えに背いているためである。
事実、他者の真実の主張だけでなく人格までも厳格に排除し追放する独善的体質を生みだしているが、その根本となっている極悪理念が創価学会においては「師弟不二」(創価三代会長の永遠化)、大石寺においては悪用された「血脈」(法主本仏論)だったのである。
日蓮の真の仏法に限らず、意見・主張の違いを寛容な心によって分け隔てなく受け入れながら絶えず英知をアップデートすることによって、今の人類(ホモサピエンス)は発生当初から自然淘汰を乗り越えて繫栄し、大いなる文明を築いてきた。
この根底に流れてきた点こそ、後に述べることになるが、約30万年前から厳しい自然淘汰によって人類が最高の捕食者として生き延びてきた性質、人類学者の言うところのいわば「家畜化」という進化の善き側面なのである。
核戦争の危機が再び訪れている昨今ではあるが、かつての冷戦下においてソ連と中国の一触即発の危機を自らの対話によって回避したことなどを売り物にした民間外交を活発に展開してきた池田大作に、今こそ多くの創価学会員からもその手腕の発揮に大いなる期待が集まっている。
にもかかわらず、かつてロシアのモスクワ大学から名誉博士号を授与され、プーチン大統領から盟友といわれた力量を持つ池田大作は、一方で創価学会が万民を救済する日蓮仏法を世界に広宣流布する仏意仏勅を受けた唯一の団体といいながら、他方ではイラク戦争やISのテロ、そしてロシアのウクライナ侵攻という残虐行為が始まってからも、それらの首謀者に対して一言の呼びかけや対話もしないでだんまりを決め込んでいるのである。
拙論文や過去の拙記事で先述してきた流れから、元々非科学的ドグマや名聞名利に捉われていた彼は、自らが永遠の先師とする牧口・戸田に違背しながら、そもそも自身が自らに抱えているこういった矛盾や、人類の進化・発展に見合うだけの日蓮仏法の真の更新についてまで思いを馳せ思索を重ねることが、当初からできなかったとみられる。
国政選挙における公明党得票数の減少傾向からも明らかの如く、もはや今世紀当初迄の演出された英知は時代遅れになり、その栄光は陰りが見え、その情熱も冷めはてたようで、彼に今期待できることは何もなくなってしまったようだ。
これも因果応報である。
間違った思想・誤った論理を根本とし続けることほど、恐ろしいものはない。
日蓮は、当時の学問レベルで立宗宣言した後、自らの師であった道善房の誤りを厳しく破折していることを再度確認しておく。なぜならこれは拙論文の確たる軌道なのだから。
そして日蓮は、自ら闘病の旅の最中、臨終が近づいていながらも集まった弟子たちから隠れることなく、柱に身をもたげながら最後の力を振り絞って、隠れることなく弟子たちに「立正安国論」を講義していたのである。
この姿は、今の創価学会が永遠の師匠としている池田大作の姿とは対極にある。
池田大作の現在の健康状態がいかばかりであるか、再三お見舞を申し上げる。
加えて、創価学会仏の真の成仏を毎日毎日祈っている。