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P68, 池田大作と創価学会組織内でのサディズム・マゾヒズムの検討

■ 池田大作のサディズム

 これまで先述してきた実例をまとめてみる。
 以下は池田大作の社長会での総括の例である。
「田中さんは臆病で、やる事がうまくいかないとちぢんで病気になる」
「中西は私から逃げよう逃げようとして罰を受ける。今度やったら、頭が又はげて、顔がはれあがるよ」
「皆やろうか。わかっていないと思うが、全部わかっているんだよ」(以上、「継命」編集部編「社長会全記録」、1983/6/10、継命新聞社、P83)

 また、
「皆んなは公私混同、公私混同というが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ。」(同書P100)


 この「全部公だよ」「仏法に私はないよ」という言葉の中に、自分こそ主人・師匠であり、宇宙の法則である、絶対的は善であり正義であるとの思い上がりが見てとれる。


「総本山大石寺の境内で池田が独断専行で引き起こした、若手僧侶代表に対する集団リンチ事件である。…『…あなたたちも、本山のしきたりをよく勉強しなさい。例えば、本山の中では乗物は禁止されている。それなのに、あなたたちの会長は豪華な輿に乗って山内を練り歩き、宗教界の王者といって威張っている。これは増上慢というものだ』
 このことを『ご注進』された池田大作は激怒した…
 逆上した池田は、我々に対してこう宣言した。
 『これから、所化頭の的場を徹底的にやっつける…断固として粛清するのだ』(竜年光著「創価学会を解散させよ」1991/8/1、日新報道)
 これが拙論文P26で指摘した御塔川僧侶リンチ事件である。


「仏教の考え方の一つに『無疑日信』(疑いなきを信という)というものがある。仏を絶対的に信ずる心、という意味だ…池田はその意味を勝手に歪曲して、デタラメな三段論法で学会員の信仰心を悪用した。
 つまり、日蓮正宗の信者はご本尊を信じる。ご本尊を信じるということは、創価学会を信じること、そして創価学会を信じることはそのリーダーたる池田大作を信じることという論理を学会全体へ押しつけ、この延長線上に、
『学会員は奴隷のように池田先生に仕えよ』
 と、戸田時代には考えられないような学会精神を植えつけたのである」(藤原行正著「池田大作の素顔」)

 また、
「学会っ子は、名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。
奴隷のように学会に仕えよ、それが御本尊様につかえる事だ」(前掲書「社長会全記録」,P222)
 と、本音を語っていることをP27にて先述した。
 この部分の解説が下記である。
「学会では池田に奴隷のように仕えることが「学会精神」とされた。その学会流理論が『無疑日信』(学会を絶対疑わないことーむろん、これは本来の意味とは異なる」(同書P226)
 更に、こんな言葉もある。
「風俗館の手伝いなんか、急ぐ雇わないで、幹部の女房連中が無料奉仕でいいじゃないか。うちはうちの生き方が一番いい」(同書P222)



 昭和39年8月27日の幹部指導会(萩会館)で、池田大作は、
「学会を離れた場合は信心できない。また、学会を離れて御本尊様を長くたもっている人がありますが、功徳がでない。折伏はできない。…中略…学会を批判すれば法罰、仏罰は厳然たるものです」(「会長講演集」第11巻、1965/1/2、P289-291)
 と、こう語っている。
 純粋な日蓮仏法の信仰者の心を、日蓮の遺文を利用して創価学会組織にのみ誘導し、罰論で脅して束縛する。これもサディズムにあたる。
目的や誘導先が創価学会の組織拡大、さらには創価学会による国立戒壇建立と、後述する天下取りへ結びついているのである。


 池田大作は、こう述べている。
 「その時には不開門(あかずのもん)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、天皇という意味もありますが、再往は時の最高の権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭(39年4月から池田就任)であり、創価学会の会長(池田大作)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
 後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん方が不幸です。学会も不幸です』(「聖教新聞」 昭和40年7月26日、「大白蓮華」昭和40年9月号)
この不開門とは、
「日蓮正宗総本山大石寺に、広宣流布の時がきて勅宣ならびに御教書が下されたとき、勅使が通過するための特別の門がある。すなわち勅使門がこれであり、ふだんは誰も通さないので、『あかずの門』という」(「日蓮正宗教学小辞典」創価学会)

 さらに、こうも述べている。
 「正本堂に御本尊様を安置すれば、御宝蔵、奉安殿より広く拝ませる事になるが、あくまで入信者に限るので内拝である。
 将来一国の総理等が信者で、又、国家権力を押さえた時に国中の人に拝ませる。」
(「社長会全記録」P88-89)

 「正本堂に御本尊様を安置すれば、御宝蔵、奉安殿より広く拝ませる事になるが、あくまで入信者に限るので内拝である。
 将来一国の総理等が信者で、又、国家権力を押さえた時に国中の人に拝ませる。」
(同書P88-89)

 「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義は一番理想の形態だ。」
(同書P285)
「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義は一番理想の形態だ。ただ、個がなくなるからいけないだけだ」(同書P285)
 と、本音をのべている。
 これに註して同著P291にて、
「池田の本音。創価学会の組織は、宗教を利用して池田をカリスマ化した全体主義の体質。したがって、池田批判は絶対許さず、反学会の言論には異常な反応を示す。45年の言論出版妨害事件もこうした体質から必然的に発生した。昨今の山崎、原島らの側近幹部の告発や、内藤国夫、溝口敦らジャーナリストの批判に対しても、悪口雑言の限りをつくしている」


 これなどは、池田大作のサディズムと、側近や会員のマゾヒズムを見事に指摘している。



「第一番目に、日蓮大聖人の御書の通りに実践しておるのが創価学会でございます。いな創価学会しかない…
 尚、第二番目には…私共地涌の菩薩は敢然として、まず大聖人の御遺命である正本堂を建立しました。誰がしましたか途中で。創価学会がしたんです。私がしたんです…その創価学会を馬鹿にしたり、金儲けの手段にしたり、又は権威でおさえようとしたり、又は中傷批判した場合には仏罰があります。全部地獄へいきます」(コメント1)
これも独善的主張であり、成果を誇る増上慢の態度があからさまに出ていて、さらに、罰論で脅迫めいているサディズムである。
 今となっては、この後半の言葉が結果としてそっくりそのまま自身に帰着しているように見える。


「『私を創価学会師と定めるのが正しい』ということは、創価学会仏とあがめよというのに等しいと思いました…池田先生は創価学会仏なのです。どんなに建て前上、私は凡夫であるといっても、本音は、仏と思っている人なのです。…中略
あるとき『大白蓮華』の昭和四〇年ごろのある個所に『池田先生の一切の振る舞いを仏と拝し』とある…中枢の人々でも、先生を御本仏と考えていたのです」(原島崇著「池田大作先生への手紙」、コメント3)

『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』(高瀬広居著「第三文明の宗教」)


「池田がここでいいたいことは、牧口と戸田、戸田と池田、それぞれの出会い時の年齢の一致と、それによる呪術的ともいうべき池田自身への正統性、神性の付託である。この原始的な思惟に基づく発想は、池田の会長就任時に早くも表れている」溝口敦(溝口敦著「池田大作『権力者の構造』P69)
「池田の入信神話は、デマゴギーの発生と肥大に関する調査、研究に、貴重なデータを提供できるほどのもの」(同 P73)



「『私は○○さんの命をご祈念して延ばしてあげた』
『私が数珠でからだをさすってあげたら△△さんの病気が治った』
 池田はこんな言葉で自分の『神通力』を大宣伝してきた。そのエライお方が跡取りと決めた一番大事な息子が死ぬのに何もできなかった…
その少しあと、何人かの学会員から私が聞かされた打ち明け話しは強烈であった。彼らはかつて子供を亡くした人たちだったが、その時に池田から散々な嫌味をぶつけられていたのだ…
 池田先生の息子が死んで助かった、やっと気が楽になった。これまでずっと我慢してきたけど本当につらかった。おまえの子が死んだのは信心を怠けた証拠だと顔を見るたびに池田先生から説教されたり、皮肉られたり、怒られたりした。それが息子の死で嫌味をいわれなくなったというのである。私自身、その現場に居合わせたこともあるが、子を死なせ、病気で苦しむ学会員の不幸を池田は笑いさえした。
『病気をする人間は信心が足りないからだ』
『子が死んだのは仏罰だ、一から信心をやり直せ』
 池田が遠慮なく学会員へぶつけてきた言葉である…
池田は自分の息子が病気になったのを隠さざるを得なかった…病気を隠し、偽名で入院させ、ついに手遅れのまま死なせてしまった」(藤原行正著「池田大作の素顔」、コメント4)


「聖教新聞の横松昭出版局長が熱海研修所に泊まった際、池田大作会長お気に入りの女子職員に布団を敷かせたことを聞いた池田大作は、横松昭を呼びつけ、
『貴様、何様だと思ってるのだ!』
 と怒鳴りつけた。」
「『他の幹部は皆、自尊心をへし折ってから使ったが、君の場合はそうしていないからな。もっとも、君の場合は、他の連中と同じようにしたら、能力を発揮できなくなるだろう……』と言った。
 池田大作は、いっしょに温泉に入るようなとき、他の首脳には背中を流させたりするが、彼にはそういうことをさせなかった。
 幹部たちとの会食のとき、池田大作の食卓だけは、特別豪華な皿が並ぶが、池田大作は一箸、二箸を付けると、それをお下げ渡し、居並ぶ幹部に回し食いをさせるのである。山崎正友は、こうしたとき、食べるふりをして、フカヒレやメロンには手を付けず皿を次へ回す。これを目ざとく見つけても、池田大作は怒らなかった。もっとも、
『どうだ、友さん、うまいか』
 と、声をかけて、”ちゃんと見ているぞ”という牽制球を投げたが…」(山崎正友著「月刊ペン事件 埋もれていた真実」、コメント5)


 「ただ、一月十九日、原田稔青年部長(現副会長)(註、現創価学会会長)、野崎男子部長(現総合青年部長)(註、後の野崎勲副会長)の二人が、菅野憲通師をつるし上げた…
〝学会に、池田先生に感謝しろ!〟〝土下座して謝れ!〟--えんえん五時間におよぶ、いわば恫喝、恐喝に等しいものでした。その前日、池田先生が、あの白浜の温泉(当時は、非常にデラックスなものでした)のなかで指示したことを、原田氏がメモし、二人はその通りやったのです…
池田先生への批判、創価学会への批判をした僧侶は容赦なく〝総括〟されていったのです…
 仏法上の誤りはもちろんのこと、この苛烈なまでの裏工作は、あのナチスドイツの〝ゲシュタポ〟を思わせます」(原島崇著「池田先生への手紙」コメント6、コメント29)

 これは、池田大作の指示のもと、池田大作の弟子たちが起こしたサディズムの一つである。




 山崎正友は、言論出版妨害事件の謝罪演説の根拠、正本堂の意義を変えた背景とともに、当時の幹部の政教一致ぶりと矢野公明党書記長との違いを、自著で述べている。
「このとき矢野書記長が、いささか傍若無人な発言をして、橋本氏が気分を悪くされた場面があり、そのことが紹介者を通して池田大作の耳に入った。池田大作氏は、『かかるときに、不真面目である』と激怒し、早速箱根に矢野書記長を呼びつけて叱責し、『お前は頭が狂っておる。治してやろう』と、皆の居並ぶ前で数珠によるオマジナイをほどこした。
 それは、マジナイというよりは数珠による殴打ともいうべき乱暴な行為だった。十数人の最高首脳がいる前で、矢野氏をみんなに向かせて正座・合掌させ、池田氏がうしろから題目を唱えながら、数珠でビシッ、ビシッとひっぱたくのである」
(山崎正友著「盗聴教団――元創価学会顧問弁護士の証言」、コメント7)


「『いいか! 私の言うことを聞け! 聞かないと地獄に落ちるよ』…
 先生は…『弟子分帳』なるものをつくられました。…『私が、赤く〝背きおわんぬ〟(背いてしまった)と一度、朱線を入れてそう書けば、もうその人間は生々世々地獄なのである。もう二度と人間に生まれてこない、ということだ』という趣旨のお話を何回かされておりました…『私が一度朱線を入れて書けば、もう二度と人間に生まれてこない』などというのは…死刑の宣告以上の鋭さをもっています。死刑なら今生だけです。しかし、永遠に人間として生まれてこられないというのは、それ以上の精神的刑罰の宣告なのです」(原島崇著「池田先生への手紙」、コメント11)


「52年元旦のあいさつ、1・15教学部大会の講演で理論的展開をするとともに、会長指揮のもと、妙観会の若手僧侶のうち、アンチ学会的な者をねらって、脅迫的なつるし上げを行なった。
 これは野崎青年部長、原田副会長が中心となって当ったが、大衆の前で僧侶をくちぎたなくののしり、たとえば、僧侶の女性関係を追及するのに、〝ウソをつけ、スッポンスッポンやったんだろう〟などと、とても宗教者とは思えない、ヤクザまがいの言動であった。
 また、寺院の前に幹部が立って、寺院から会員をしめ出すなど、はげしい攻撃を行なった。(奥野史郎著「謀略僧団 悪僧の巣――山崎正友と「正信会」」、コメント15


「池田氏の発作的なサディズムは、北條浩氏、和泉覚氏、秋谷栄之助といった最高幹部ですら、その対象となることを免れられない。
 ある会食のとき、突然カレーライスに、こしょうをいっぱいふりかけ、北条氏に『食べろ』と命令した。
 北條氏は、〝ハイ〟と答えてひたいから脂汗を流しながら、全部たべた。
…小川元代議士、藤原都議(註、藤原行正)らになると総括は、こんなものではすまない。ことあるごとにいやみをいわれ、どなりつけられ、そしてワビ状や誓約書をとられる。
 かくいう私も、わけのわからぬことで、何度もワビ状を書かされた。
 要するに、部下を、いつも生殺与奪の権をにぎった状態におき、そして、それをいつも誇示していなければ気のすまぬ性分であったから、周囲はピリピリしている」(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」、コメント17)


「このような、極端なサドマゾ的な人間関係は、私には、正直いって、いくら年月がたってもなじまなかった…
 今、北条氏はともかく、秋谷、竹入、矢野、和泉氏といった人達が、本心からマゾになっているとはとうてい思えないのであるが、座っているポストや役得が、その不快感を上回る価値があるものなのであろうか」(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」コメント18)


その他、コメント欄にその例を追加しておく。



■ヒトラーと池田大作の決定的な違い

 言論出版妨害事件の発端となった藤原弘達の「創価学会を斬る」では、ナチズムをほのめかす指摘もあった。
 また、田中角栄が、池田大作のことを「法華経のヒトラー」といったそうだ。(コメント27)

 だが、その悪名高きヒトラーは、「わが闘争」(【英語版原文】Kindle版)にて、
”The smallar they are the greater they must always try to appear."
「彼らは取るに足らないものであればあるほど、常に自分たちを偉大に見せようとしなければならない」
 と述べている。ちなみに、この文脈で彼らとは、警察のことである。
 また、同論文で彼は、当時の支配的階層であったマルクス主義者になびいて大きな態度をする者たちのことを、竜に住み着いた小さな「回虫」と表現しているのである。


 ヒトラーの行為は全体としては決して賞賛されるものではないが、ブレイクする彼の人生で共通するものとして、民衆の中にあって、集会において多数を占める反対者たちに対して、〝自ら先頭に立って〟演説し、あくまで言論で反対者らを打ち砕いていった勇気ある行動である。
 彼も彼の支持者も、自らひとりでレストランのテーブルの上に立って、名も知れぬ人たちに訴えていたという。
 ヒトラーは、たとえば反対者から発砲され講演が妨害されたこともあったが、7-8百人の反対者を僅か50人ほどの仲間たちが血みどろになって集会の講堂から追い出すのを、壇上で歓喜しながら見つめながら、騒ぎが治まってから集会の解散を命じてきた警察について、上記のように述べているのである。

 これにくらべて、本心が臆病な池田大作の演説は、ヒトラーのそれとは性質が異なる。
 池田大作は、会長になってから一度も、大勢の反対者の中での演説をしたことがない。
 池田の演説を聞いているのは、いくら人数が多くても、多くの側近や熱心な信者たち、すなわち味方である。しかも、彼らはあらかじめ洗脳され、池田大作を賞賛している。
 そして彼らに守られ賛同を得ながら、原稿はほとんど側近が用意していたというし、建て前や美辞麗句にちりばめられている。
 言論出版妨害事件の謝罪演説でさえ、前述した通りである。
 そして、数人の側近(面従腹背も含む)の間でのみ、自分勝手な本音を「仏法」と言いながらつぶやいたり怒鳴ったりするという。
 矢野絢也は「内弁慶」、山崎正友は「本心は臆病」などと自著で語っている。


 社長会全記録や、様々な側近の告発書が、現在においては貴重な歴史的資料となっているのも、うなづける。
 ちなみに池田大作は折伏が大の苦手だったことが、自ら聖教新聞で述べていることは前に拙記事で入信神話として取り上げておいた。


 臆病な側面を持つ池田大作を、側近などの創価学会員が寄ってタカって本仏にまで祭り上げたのは注目に値する。
 さらには、山崎正友は池田の職業を「会長業」と指摘しているのである(「闇の帝王 池田大作をあばく」)。
 言論出版妨害事件の発端となった藤原弘達の「創価学会を斬る」の指摘が、いかに的を得ていたかも、歴史が証明するところとなっている。
 この歴史は、科学的にみればとても不思議に、そして、池田大作の教えに没頭したのが私の人生のほぼ三分の二を占めた期間にも及び、人生の基盤となっていることも、とても因果に思えるが、ナポレオンやヒトラーの場合に較べたらはるかに小さく、さらに、このビッグバン宇宙の発生に較べたら、さらに限りなくゼロに近い確率である。

 永遠の歴史、永遠の生命観に立てば一瞬にも満たない期間ではあるが、しかしながら人類という文化的知能生物の発生と科学の発達、その中で成仏という究極の目的を説いた仏教との相互発展の歴史と将来の望まれる姿を、これからも検討していきたい。





■ 池田大作のマゾヒズム


 ヒトラーのマゾヒズムの対象はフロムによれば、自然、運命などであったが、池田大作のそれは、大宇宙のリズム、御本尊とか戸田城聖であった。
 たとえば、P20 にて先述したが、池田大作は、日蓮仏法の教えを、御本尊や仏を、「大宇宙の生命」「大宇宙のリズム」などという仮想物に実体化し、外道の教えに下げてしまった。
 その文献は、多く挙げることが出来るが、たとえば法華経の智慧第3巻 P32-34を以下にあげておく。
 「御本尊を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である。そこが虚空会であり、霊山であり、宝塔が建つところだからです…」
 「虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、『いま』永遠なる宇宙生命と一体になり、『ここで』全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。」

 これは、信仰という形式をとっているが、御本尊(板マンダラ)に対するマゾヒズムとも言える。
「御本尊を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である」というのも…ここでの「御本尊」が、物体としての「曼荼羅掛け軸」を指しているから、アニミズム宗教となることを先述した。


 また、聖教新聞(2020/11/25)にも同様の例がある。
 「御本仏が、全人類のために顕してくださった御本尊である。大宇宙の生命力が、最も強く深く結集している。その無量の仏力・法力を、全世界で引き出していくのが創価の宝友の信力・行力だ。」



 以下、マゾヒズムを示す文献を挙げておく。

 池田大作が、35年5月3日会長就任し、訪米帰国後全国を回った。
昭和35年12月7日、中国本部落成式において、以下の如く講演を行った。
これは「清浄無比の学会財務」と題して、池田大作著「会長講演集第一巻」1961/8/24,創価学会,P334-337「清浄無比の学会財務」P335-337に掲載されている。

「私どもは、大御本尊様に、また本山に、御僧侶にお仕え申し上げようではありませんか。」

「学会の誇りは、誰よりも大御本尊様に尽くし、総本山、宗門に尽くし抜いてきたことであります(「新・人間革命」第二巻P320)


「〈宇宙即我・我即宇宙〉説に騙されてはいけない。人間を説明するのに宇宙を持ち出す事は壮大なる人騙しに過ぎない…
 人類の出現は僅か二百万年前だが・妙法が宇宙の根源法ならば二百億年前から存在していた〈事法〉でなければならない。これならば客観法則な筈であり心外の法な筈である。〈宇宙のリズム〉に就いても同様。仏界のリズムは〈仏様とは無関係〉な〈存在〉である筈だ」(石田次男著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの)


 そして、池田大作は第2代会長戸田城聖時代において、戸田に公私ともに、奴隷のように仕え続けたことであり、自らも他のジャーナリスト達もさまざまな文献で、そう語っている。多くは戸田への絶対的隷従の言葉、日蓮正宗法主への言葉を挙げることができる。

『それから一年は普通にやってました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしょうか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました』(「宗教と信仰の心理学」)


「池田会長は…十九歳のとき、当時、創価学会の再建に着手していた戸田城聖会長に会い…一生涯、戸田会長に師事しとおす信念で、戸田会長が逝去されるまで十余年間、その厳しい薫陶をうけつつ、世人の想像を絶する大きな活躍をつづけていました。入信後まもなく、戸田会長の会社に入社し…」(小平芳平著「創価学会」鳳書院)


「池田は、前後も考えず、その場で戸田に弟子入りを申し出た。戸田の信ずるものを自分も信ずることを誓った…たとえ短い生命でもそれが尽きるまで戸田といっしょに働こうと――彼は生まれてはじめて自分の生きていく意義をハッキリつかんだ気持だった。」(五島勉著「現代の英雄」P37-39)


「敗戦後の日本経済は、難破船のごとくインフレ波濤のなかで喘いでいた。中小企業の一つである恩師の事業も…連日のように悪戦苦闘がつづいたのである。
 多くの社員は一人去り、二人去り、いつか債権者と渡り合うのは、私ひとりになってしまった。私の健康も生活の不如意も危殆に瀕していたが、先生のもとを去ることはなかった。むしろ、地獄の底までも、お供しようという決心が、いつかついていたのである。恩師を信じ、大聖人の仏法の正しさを信じ、ギリギリの限界で孤軍奮闘をつづけたものであった。…私もまた、先生の厳しき薫陶に、懸命になって堪えた。そして一切をわが身にうけたつもりである。逝去寸前まで叱られどおしの不肖の弟子ではあったが――」(昭和四十四年一月『人生の恩師』所収)」(池田大作全集第18巻P92-95)


 池田大作が都合よくつくり上げたこの「師弟の道」こそ、戸田城聖へのマゾヒズム、そして熱心な創価学会会員に対するサディズムの理論的教義となっているのである。
 仏法では本来、師弟関係、師弟不二とは、現世を超えた三世にわたる仏と修行者(凡夫)との、法則も含めた関係である。
それは、以下の日蓮の遺文によっても明らかである。
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄につといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(華果成就御書、応安元年、御書P900)
 この遺文で示している師弟において、師とは久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経、弟子とは地涌の菩薩(=我ら衆生)であることは、文脈からも明らかなのである。もっともこの時期での日蓮の遺文なら、その前の著作である生死一大事血脈抄で日蓮自身が、
「久遠実成の釈尊と 皆成仏道の法華経と 我等 衆生との三つ 全く差別無しと解りて 妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
此の事 但 日蓮が弟子旦那等の肝要なり 法華経を持つとは是なり」(文永9年、御書P1337)
 と述べていることからも明らかである。

 それなのに、当初から「御書根本」と謳いながら、御書の文脈を無視してこれらの文言のみを切り出して曲解利用し、「師弟の道」・「師弟不二」を、事実上これまで述べてきた如く、都合よく俗世の師弟理論としながら、サド・マゾヒズム的共棲関係の構築によって組織維持拡大を図ってきたのが、創価学会、池田大作とその熱心な弟子たちなのである。
 「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」ととく仏法においては当然ながら、こういった邪見に基づく組織は、仏法から大きく外れているのであって、一般の組織でいう「栄枯盛衰」を免れない。
現在の創価学会の姿がそれを雄弁に示しているといえよう。



■創価学会員のサディズムとマゾヒズム

 組織内では、池田大作を模した幹部への忠誠などは表向きは表面化しないまでもしばしばみられたことである。

 しかし最大のサディズムが発揮されるのは「折伏」というその布教活動においてであった。
 折伏については拙論文P21でふれたが、佐木秋夫・小口偉一「創価学会」(1957/8/20 青木書店)P203には、以下の指摘があり、こう言った事実を裏付けている。
 「強要、強制、脅迫、暴力、破壊……
『迷惑かまわず押し掛け法論。半ばおどしの布教ぶり。責められて発狂した主婦も』――こんな見出しで、『毎日新聞』の『暴力新地図』という特集の一つに、創価学会が扱われている(五六・八・一三)。そこにあげられている実例の一つに、こういうのがある…精神的なおどしだけでなく、実力的なものもある…』」
として、様々な例を挙げている。
 

 溝口敦は、自著「池田大作『権力者』の構造」にて指摘する。
 「いうまでもなく折伏とは会員の獲得、非信者の創価学会員化にほかならず、それは怠れば無間地獄に落ちるとの威迫によって、ネズミ講と同じ仕組みである。会員は次々と被害者――折伏の責任を負わされるという被害者を作らねばならず、被害者さえ作れば、本人は被害者でなくなる以上に『生命力も強められ、幸福境涯を建設すること』ができる。だが、ネズミ講では被害者二人を作れば事たりるが、創価学会はそれだけでは満足しない。
 このような折伏をもってすれば、創価学会の急伸も理の当然であり、それは会長の能力、資質、構想のいかんに左右されない原構造であった。
 さらに会員増を支えたものに、創価学会員になることの容易さがある。本尊を幸福製造機とあからさまにいうことに象徴される現世利益の賛美、奨励は、現在の主流の生活信条ともいうべき拝金主義、快楽主義の促進であり、会員はなんら自己変革を要求されることがないばかりか、それまでのためらいながらの欲望、利己心を野放図に開放することができた。
 そこにあるのは出世主義や体制内での遊泳述、二十日鼠の勤勉主義、個人の損か得か、他人の蹴落としだけであり、社会という視点は全く欠落する。」
と、分析する。

 そして、
『資本家というのは、働けば働くほど自分の利益になります。労働者は、やはり時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、…中略…しかし、私どもは、いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になると決心するのです。また、事実そうなるのです。…中略…例として資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものがぜんぶ自分のためになるのだという信心でなくては損なのです』(池田『池田会長講演集十一)
 をあげ、
「これは、労働の論理ではなく、仕える論理であり、現代では失望と落胆、うまくいって抜けがけとスト破りしか結果しないが、個人の利益に密着しているなりに理解しやすく、革新陣営の運動員になることに較べ、創価学会員になることを優しくしていた。
 会員の増加は池田の功績となり、池田体制の安泰を保ち、年とともにその権力をより強固にした。そしてさらに創価学会流の教義解釈が、その池田の地位を絶対性の高みにまで押し上げていた」
 と、指摘している。

 まさしくこれは、「仕える論理」すなわちマゾヒズムである。



■側近のマゾヒズム


「池田はしつこく何度も同じウソをさまざまな場所で繰り返した。
『ウソも百遍繰り返せば真実になる』
 池田大作はこの人生哲学を大真面目に実践し、やがて出所不明の『池田本仏論』なるものが学会全体に口コミで流された。
『池田先生こそ現代に生きる仏さまである』…
 一年、二年、三年……。学会員たちは繰り返し、繰り返しあらゆる会合で『池田本仏論』を叩きこまれていった…
『おまえは信心が足らないから、池田先生を信じられないのだ!』
…学会員は信仰に生きる人間集団である。そういう人が満座の中で、信心が足りない、罰が当たるゾ、とやられる。この叱責は学会員にとっては『人間失格』という意味に等しいから、その批判をおそれて、だれも池田本仏論に疑問の声を上げなくなった。…最初は首をひねっていた学会員が『池田先生を疑う自分のほうがおかしいんだ』と反省し、さらに熱心に題目を唱えるという形になった。純真な信者であればあるほどその傾向が強かった。『無疑日信』はこうしてその意味が変えられてしまい、昭和五十二年頃になると、池田本仏論が学会内部に行き渡った。『池田先生は宗祖さまの生まれ代わりだから特別なお方だ』という考えが学会員の間では常識になっていった」(藤原行正著「池田大作の素顔」P678-170、詳細はコメント21、22)



「私は、すでに一月初めから、池田大作直々の命令によって、言論問題対策の首脳会議に出席し、本部中枢に入り、司令塔役の北条浩氏の側にいつもいて、すべてのことをチェックする立場についていた。
 私にとって天を覆うような巨人であり、終始、自信満々に振る舞っていた池田大作は、帝釈天に責められ身を縮めて蓮の花に隠れた修羅のように、この頃、等身大以下の人間に縮んでいた。
 首脳を集め、その前で、頭に氷のうを二つのせ、テーブルの上のハサミを神経質に動かし、赤く充血した目を落ち着きなく動かして弱音を吐く池田大作を見て、私は、〝見てはならないものをみてしまった〟とうろたえた。(山崎正友著「再び、盗聴教団の解明」日新報道 P93-97、他、コメント19参照)



 池田大作の一番弟子となった原島崇も、自著にて、こう明かしている。
「昭和三十五年五月三日に池田大作が第三代会長に就任しましたが、それを実質的に推進した人物は私の父でした…中略…いまから思えば、池田大作は草創期の大功労者であった父・原島宏治に取り入り、利用したに過ぎない…中略…
 私の父は理事長に就任し、池田大作は会長就任の翌日…『会長の名刺を初めて君にあげる。私の弟子の第一号だ。私の側近No.1として活躍してもらいたい。弟子というものは、たとえ師匠が地獄の相で死んだとしても、疑わずについてくるのがまことの弟子だ。君にその決意があるか』と言いました。
 私は大感激で、元気よく『ハイ!』と答えました…
 私は、『この師匠に生涯をかけて尽くして行こう』との固い決意がみなぎっていました」
(原島崇著「絶望の淵より甦る」2007/4/2,日新報道、P121-122、適宜改行)



「北條浩氏をはじめ大先輩達の語り教える会長像のすばらしさに、いよいよ尊敬と信頼の念は深まるばかりでした。あらゆる先輩幹部が指導することは、常に弟子の道のあり方でした。この偉大なる師に対して、弟子はいかにあるべきかを最大の課として取り組む日々でありました。
この頃本部職員の文集に私はこう綴りました。
『先生なき人生は暗黒である。先生なきわが人生は考えられない……」(福島源次郎著「蘇生への選択」1990/2/11、鷹書房、P25-27、コメント23)


「神崎(註、法務省刑事局付検事・神崎武法)は『〝いざ鎌倉〟の精神で』と題し、同部副部長として、創価学会の本部職員の気持ちで仕事(公務)につくことを奨励する。
『『本部から派遣になっている気持ちで戦っていきなさい。刀折れ、矢つきたら、いつでも私の所へきなさい』との池田先生の激励を思いうかべて戦うのである。(略)
 池田先生は『どの世界でも同じだが、とくに仏法の世界においては〝いざ鎌倉〟というときに、はせ参じられる人が、真の人材であり、信者のなかの大信者なのである……〝いざ鎌倉〟というときには、自分が率先して学会を守り、学会を推進していくのだという幹部にならなければいけない。この心構えさえあれば、ふだんの行動に、自然とにじみ出てくるものである』と指導されている。
 われわれは〝いざ鎌倉〟の精神で戦うことを決意しようではないか』
」(溝口敦著「池田大作『創価王国』の野望」紀尾井書房、P22-44、コメント24、25)



■会員のマゾヒズム


 「『第三文明の宗教』で高瀬広居は、池田会長にたいする会員の絶対的なあこがれと信頼のさまを描くくだりで、次のようにいう。
『池田先生ですか? なんというか、親のような、先生のような、ときには親しみやすい兄のような、すごい男性的魅力をもった方のような、ああ、なんといっていいかわかんないわ!』と歎息する女子部員のコトバは、会員の会長に対する、畏敬とも尊敬ともつかぬ絶対的感情をよく物語っている。
『池田先生は、現代社会での最高の方です』と老いたサラリーマンはいう。
『池田先生からお声をかけて頂くと、体がふるえてくるんです。どうしてだか、わかりません』と青年部の部隊長がいう。
体育大会などで、池田会長が手をふってグランドを一周するときの歓声と拍手はすさまじい。
女子部員などは眼に涙をうかべている。
 その光景は、終戦直後の天皇の地方巡幸にみられた民衆の姿と似ている。もちろん、ほとんどの会員は、会長に一度や二度しか接したことがない。しかし、
「…あんた、自分の親と天皇とどっちが大事だい。池田先生は、全世界の民衆を救う大指導者だよ。天皇なんか問題になるかよ。なあ、みんな』
 そうだ、そうだと声があがった。東京の下町、江東区での座談会の席上のことである。
なんとおそるべき発言ではないか。このような発言は、数多い会員のなかにはたまには狂ったものがあるというものでは決してなく、この団体に流れている亡国的血脈の露頭であると断言しうるのである」(新田倫三著「創価学会 公明党の真相」1965/6/10、真世界社)


 高瀬広居は、先述してきた藤原行正(後に造反)ら側近幹部たちと、池田大作のやりとりの一場面を、自著にて紹介している。
「『会長は、実につらい立場にいるんですね。大幹部だって最後は会長にまかせてしまえばいいという甘えがあります。それはいけないんですが、あまりにも会長がその広やかな心と偉大さをもっているからです。いつでしたか、会長と旅先で入浴したときです。そう会長が、三百万遍題目を決意したあとでしたね。私がじいっと湯槽の脇からみていると、会長は小さな声で題目をとなえていました。私たちは安心し、きっとのんびりしていたでしょう。それだけにハッとしました。会長にとってはそうした一刻一刻の間にも会員の幸せを祈っておられたのです』
 藤原行正理事は眼をうるませてそう語っていた。
 どうして、北条とか、秋谷とか、藤原といった大幹部が、会長の前で、心の緊張を抑えきれず率直に面にあらわすのか、その不可解さが解ける。
 『ちょっと御書を』そう会長がいえば、電撃にあったように御書をとってくる巨漢藤原理事。
 会長が頁をめくっていれば『私が探します』と手をさし出す彼。
 かつては同志的立場であったはずの二人が、会長と理事とにその学会人生をふみわけたとき、二人は師匠と弟子になる。
 心情的には理解できるが、合理的ではない。
が、それを偽らず自然になしうるものはなにか。
 宗教的権威者への従属とはいえない。
『師に仕える』という気持ちが自然にわいてくる、そうとしか考えられないものが、身内に 激情をこめて突きあげてくるのであろう…中略…
『池田先生が死ねといわれるなら、死にます。右翼が襲ってきたら、生命を賭して守ります。もちろん素手で』東大生はいう。
『池田先生は絶対間違ったことをなさらない』彼らは確信している。
『わたしの言葉が憲法になる』池田会長の声がよみがえる」
(高瀬広居著『第三文明の宗教』1962/12/20、弘文堂、P128-130、適宜改行した)

「二階の教室に会長が『やあお邪魔してごめんなさい』と入ったときだ。前から三番目にいた女子学生が、いまにも泣き出しそうな顔で『会長先生!』とつぶやいた。声も出ないらしい。会長が去ったあと、その多感な乙女は、大きく胸をふくらませ、両手でなでおろしながら、『うれしいなあ、うれしいなあ』と歌うように天井をみつめていた。
 若い人たちは、会長の柔軟な人格に傾倒しきっている。
『池田先生に身を守られていると思うと、いつも安心していられるんです』箱根の上空でステュワーデスがいった。」(高瀬広居著『第三文明の宗教』1962/12/20、弘文堂、P130-131)


 池田大作への会員の感情は、
「『師に仕える』という気持ちが自然にわいてくる、そうとしか考えられないもの」
という。

「『科学的理性』や『民主主義精神』は、学会の行動や哲理、文証、理証、現証について容認できず否定的である。
 たしかに現代の科学観にたつ限り、死相の問題や病気の奇蹟的恢復は信じ難いし、戦争体験の深い根は、軍隊的呼称をいささかも許さないであろう。だが、今日の学会の問題は、そうした領域に止まって批判されても、なんの意味もないところにきている。
 現証を非科学的といおうが、三百万世帯、六百万人が知識人もふくめて、そうしたことを容認している事実。軍隊的であろうと、組織が巨大なエネルギーと化している現実は、一体どう考えたらいいのか。
 大石寺には『お肉牙』とよぶ日蓮聖人の歯が、肉のついたまま保存されている。それを『拝見した幹部』の話では、『広宣流布が進み、学会員がふえるごとに、歯は水晶のごとく輝きをまし、肉はもりあがってくる』といっている。これなどは、『非科学的』なるものの最高かもしれない。
 けれども、そうした、さまざまの『不思議』が多数の人間になぜ信じられているのか。
 人間が科学を信用するのは、それが真理だからではなく、おのれの生活に、直接、現証としてあらわれるからに他ならないからである。学会とは、そうした科学観をもち、その根源を日蓮仏法に求める人々の集団なのである」(高瀬広居著『第三文明の宗教』1962/12/20、弘文堂、P237)

 この指摘は的確で重要である。
 創価学会会員にとって、日蓮仏法の「理証」「現証」とは、客観的な真理やそれに基づく結果ではない。
 個別に思えたすべての体験は、それが功徳であれ罰であれ、六百万人もの人がそれぞれあくまで個人的に「不思議な現証」に対して「科学的」と思いこんでいるに過ぎない、不合理なことなのである。
「人間が科学を信用するのは、それが真理だからではなく」、不合理な感情によるものであり、それが時代背景とともに、巨大になっただけである。
 その不合理な感情は、日蓮の遺文が切り文として利用され、「師弟不二」という絶対的盲目的主従関係を肯定する理念によって正当化され、それが信念と化し、集団心理となったものである。

 こうした例は、なにも創価学会だけではない。
 歴史上でもっと大きくて、不合理な感情的思想集団のもたらした悲劇的な例は、ヒットラーの率いるナチス党をあげることができるだろう。



 池田大作は、「私の履歴書」で言論出版妨害事件について、以下のように述べている。
「私が一歩引いたときに極めて予想外のところから事件が起きていた。それが言論問題である。私は、事の真相が初めわからなかった…四十五年の四月ぐらいまで、全く熱が下がることはなかった…私は五月三日の第三十三回本部総会の席上、創価学会と公明党の政教分離の徹底、量より質への転換を示す数々の指針を示した。これが契機となって、創価学会は、強固な創価学会より強靭な創価学会へ転換していったことは、まぎれもない事実である。
 四十七年十月、八百万余の人々の熱誠によって富士の麓に正本堂が生まれた」(コメント28)
 これに対し藤原行正は、
「実に立派な作文である。一般会員はこの内容を頭から信じた。池田大作という男がいかに一般学会員を小バカにしているか。また、この書物が日本経済社から刊行されたものであることを考えれば、世間に対しても平気でウソをつける男であることがわかる。」(前掲書P140)
 と指摘し、
「池田大作が口にするこの手のウソは場当たり的なもので、すぐにほころびはじめる。たとえば政教分離を明確にした四十五年当時、池田が内輪の会合で逆に政教一致のホンネを吐いた発言記録がある」(前掲書P140)として、さらに以下をあげる。

「今度の事件で、とにかく日本中に浸透した。有名になった。本当は政教分離どころか、政教一致で私が指揮をとりたいよ。ほっておけない。竹入、矢野はよく頑張っている…中略…たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ。…中略…新聞記者はどんな時でも味方につけなければならない。」(「社長会全記録」P144)

「この発言日時は四十五年二月二十七日。先の逃避行のさなか、箱根研修所で開かれた『社長会』でのもので、この会合は学会幹部を兼ねる関連企業の経営者との会食会であった。
『私の履歴書によると事件の渦中、『四十度を越える熱を出し、従来の結核と肺炎が結びついたかたちで、体力を減衰させてしまっていた』はずの人間が実は学会幹部たちとごちそうを食べ、これだけの快気炎を吐いていたわけだ。
 さらに四十五年五月五日、この日は池田が大勢の学会員を前に『私が辞めていいですか』と思わせぶりな演技をやり、世間に向けては政教分離を発表した二日後である。ところが、この日の社長会ではこうウソぶいていた」(藤原行正、前掲書)
「竹入に今迄以上に王仏冥合、政教一致でゆけ、と云おうか」(「社長会全記録」P153)

「わずか二日前に世間に非を認め、わざわざボルテールの有名な言葉まで引用して言論の自由を約束し、創価学会は政教分離すると宣言。社会に謝罪した池田大作のこれが偽らざるホンネであった。その謝罪は外部への見せかけのポーズにすぎなかった。」(藤原行正、前掲書P141)


 後に、池田の女性スキャンダル記事を隈部大蔵が月刊ペンで掲載した。
 それは、池田が手を付けたというよりも、
「私の証言を含めて考えていただければ、クロであることは当然のことです。しかし、私のように創価学会の女性幹部は自ら傷ついても事実を明らかにしようとしません。なぜなら、彼女たちは、池田会長に何かをされた、という感じよりも、池田会長に〝奉仕〟したという感じが強いからです」(「私は池田大作に二度奉仕した」寺田富子、週刊新潮 1984/7/12 新潮社 P41)
 のように、学会組織では、陶酔した婦人部や女子部員たちが、池田に、手駒となって、奴隷となって、自ら競い合って奉仕する雰囲気だったから、「イヤらしい」という声さえ聞くことはなかったという。


「池田の師弟論の根幹は、まず自らを絶対無謬の師匠という立場に置き、弟子である幹部や会員を無知暗愚の存在と規定することから始まる。
 池田は常に中心であり、本体であり、有知の人である。それに対して会員は〝末端〟などと呼ばれているように、枝葉であり、周辺であり、無知の人々である。つまり、上下の徹底した完全な差別の上に池田の師弟論は成り立っている。これは会員が、『われわれは『無知の者は此経を説く者に使われて功徳をうべし』のごとく、先生のもとで戦わせていただくこと自体に誇りと喜びをもって戦っていきたい」(前進S41・10)と、奴卑となって池田に仕えるという信条を吐露していることからもうかがえる」(継命新聞編「崩壊する池田創価学会」1990/2/3 日新報道 P72)





 以上、池田大作と熱心な会員との共棲関係の例の一部を挙げた。
 前ページのフロムの指摘の如く、サディズム・マゾヒズムの共棲は、どちらか一方がなくなると存在し得ない。
 マゾあってのサドであり、サドあってのマゾである。
 熱心な会員あっての池田大作であり、池田大作あっての熱心な会員である。
 その池田大作が久しく公から姿を消したままのため、会員一人一人のこの心理的な共棲関係そのものが減弱~消滅し、それと共に、創価学会組織全体も、凋落の一途をたどっている。
 創価学会は、その教義そのものが御書の切り貼り文で構成され、つまりは日蓮正宗からの借り物である上、主たる独自教義ともいえる「師弟不二」が、日蓮仏法から逸脱しているためか、永遠に持続可能な確たる教義そのものがない。組織発展や存続のすべては、池田大作と彼を祀り上げる演出の「カリスマ性」が支えていたようなものだった。
 今世紀に入り、執行部が教義上の池田大作の永遠化や、機関誌へ過去のアイドル的写真や演出の反復掲載によっても、この凋落の流れを変えられないのは、おそらく「師弟不二」という教義・理論に一般性・客観性がないからであろう。

 私は、「師弟不二」を、以下のような客観的理論へと昇華すべきと考える。
「師」とは「真実の法則」であり、常に発見され追求され続ける存在である。

「弟子」とは、その「真実の法則」を見出し実践しゆく存在である。
 だからどちらも常に未完成であり、常にアップデートし続けるのである。

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