Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P72, 創価学会組織の社会的性格(2),心理的分析,『独創性』の欠如,ミヒャエル・エンデの描写
■創価学会の熱心な会員や幹部の心理的分析
創価学会の社会的性格を創り出す熱心な会員や幹部の心理的分析を、フロムの指摘に基づいて、もう少し詳細に検討をしてみよう。
「直接に抑圧されるのは、たんに敵意だけではなく、またにせの感情をつみかさねる結果、抹殺されるのは、たんに親しさだけではない。自発的な感情がひろく抑圧され、にせの感情に置きかえられる」ことは、前ページで紹介したが、さらに、
創価学会の末端組織においては、会合や家庭訪問などの組織活動において、幹部や機関誌を通じての洗脳情報や、他人の信仰体験などをすごいとか素晴らしいとか言いあう中で、そのような感情や思想が、正しい・素晴らしい・自分やみんなが目指すものとして頭の中に刷り込まれ、それ以外のもの、すなわち独自な考えや独創的なもの、とりわけこれらの組織の雰囲気に反するものや対立するものは受けいれらずにやり過ごされる。これはまさに、フロムの指摘、すなわち、
「教育の結果、上からあたえられた感情や思想や願望のために自発性が排除され、自然の精神的活動が打ちすてられることが、じつにしばしば起こっている」(同書P267)のである。
フロムによれば、
「(独創的とは、くりかえしていえば、ある考えが以前にだれか他人によって考えられなかったということではなく、それが個人のなかではじまっているということ、すなわちその考えが自分自身の活動の結果であり、その意味で[かれの]思想であるということを意味する)」(同書P267)
である。
その独創的とも言える自身の感情の一つに、自分の進展を妨げる周囲との摩擦によって敵意と反抗がある。それが子どもの場合、通常は弱い敵対者として周囲に屈服するが、この敵対的な感情を取り除くことが、教育過程の本質的な目標の一つである。威嚇や罰、お世辞や説得という微妙な方法等、あらゆる手段が使われる。
すると子供は感情表現を断念し、ついには感情そのものまで放棄してしまう。同時に彼は周囲に敵意や不誠実を意識することまでも抑圧するように仕込まれる。
子供は他者の否定的な性質を直観的に見抜くものだから、これは容易な過程ではないが、普通の大人は成熟する過程でそれが失われているから容易にそのように仕込まれてしまう。
また、子供は教育過程で、大人の場合は社会的圧力によって、無批判に他人を好むこと、親しそうにすること、ほほえむこと、同調することなど、まったく『自分のもの』でない感情をもつように仕込まれる。
他人に好まれるためには表面上だけは微笑んでいなければならない。
成人してどんな職業に就いても、自分を売るためには、感じのよいパースナリティをもつ必要がある。ただ、ヒエラルキーの頂点にいる人間と底辺にいる人間(肉体的労働しか売るもののない人間)だけは、この限りでないが。
こうして、現代人は好ましい感情表現が望まれるすべての場面で、感情においても容態においてもほぼステレオタイプ化され、機械的な反応となっている。(コメント1,2)
こうした現代人の心理は、創価学会に勧誘されて入会に至ってなお活動し続ける会員の、典型的な心理学的経過でも例外ではない。
とくに、学会組織内での触れ合いのなか、座談会でのなかで、しばしばみられることである。
言いかえると、一般的な子供の教育の過程でなされるのと同じことが、組織内で行われていることになる。
その中で、池田大作を讃嘆し、組織内での成功者を盛り上げ、成果(F票、機関誌啓蒙のポイントなど)をあげ、組織にとって感じのよいパーソナリティをもつことのできた人、自分を売り込む人は、より上級の幹部へと抜擢されていく。
反対に、それになじめない人や成果を上げられない人、また、くだらなくて取るに足らないことを建前上もち上げたり、間違った事を指摘することに躊躇する人は、うわべだけ取り繕ってやり過ごす以外になく、やがて子供が不登校になることと似るように、だんだんと会合には不参加となっていく。
「同じような歪みは感情や感動と同じく、独創的な[思考]にもおこる。教育そのものの発端から、独創的な思考は阻害され、既製品の思想がひとびとの頭にもたらされる」と、フロムは幼児の場合を取りあげて言う。
「かれらは外界について好奇心でいっぱいになり、知的にも肉体的にもそれを把握しようと欲する。かれらは真理を知ろうと欲する。というのは真理は未知の強力な世界のなかで、自分に方向をあたえるもっとも安全な道であるから。ところがかれらは真剣にとり扱われない。その態度があからさまな軽視となろうと、(子どもや老人や病人のような)力のないすべてのものにたいしてよくとられるような、巧妙な丁重さとなろうと、それは問題ではない。
この取りあつかいはそれだけで独立的な思考を強く妨害するが、さらにいっそう悪いハンディキャップが存在する。すなわち一般の大人の子どもにたいする態度に典型的にみられる不誠実――その多くは意図的なものではないとしても――である。その不誠実は、世界について架空なことが子どもにあたえられるばあいにもみられる(中略)この一般的な、あやまった世界の表象のほかに、個人的ないろいろの理由で、子どもに知らせたくない事実をかくそうとする、特殊な嘘もたくさんある。子どもの行動が不満だといって合理化される不機嫌さから、両親の性的行為や喧嘩をかくすことにいたるまで、子どもは『知ることを予想されない』ものとされ、質問すると、叱られるか、あるいはやさしく問題をそらされてしまう。」(同書P268-270)
この指摘の一部は、私が、創価学会末端組織において、時事問題(たとえば戦争法案やルノアール絵画疑惑など)をきっかけとして創価学会組織の矛盾や疑問を指摘したときにみられる上級幹部の典型的な姿を言い当てている。
学会組織にとって、そういった都合の悪い事実は、拡散されてはいけないのだ。だから、巧妙・丁重にはぐらかされ、うやむやにされた。組織のため、池田先生の正義のため、今後はこういったことを会員の前では話さないでほしいなどと、極めて不誠実な対応に、私はしばしば直面した。
会合などでは、組織目標達成のため、池田大作の正義の拡散・その貢献者への讃嘆を常にしなければならない必要性――大人の事情ともいってごまかされることも多い――のため、その批判や過ちの指摘などは、忖度の名においても抑制・妨害される。
こうして、組織内では、もっぱらすべての子どもに平均的な学力を取得させて卒業させることをノルマとした義務教育機関でなされることと同じように、組織に都合が悪い感情や独創性は幅広く抑制・阻害されている。
「子どもはこのように準備されて、学校や、たぶん大学にまではいっていく。私はこんにち用いられている教育方法でじっさいには独創的な思考を妨害しているいくつかのものを、簡単にあげてみよう。その一つは、事実についての知識の強調、あるいはむしろ情報の強調というべきものである。より多くの事実を知れば知るほど、真実の知識に到達するという悲しむべき迷信がひろまっている。何百というバラバラの無関係な事実が学生の頭につめこまれる。かれらの時間とエネルギーは事実をより多く学ぶためについやされ、ほとんど考える暇はない。たしかに、事実についての知識のない思考は、空虚で架空である。しかし『情報』だけでは、情報のないのと同じように、思考にとっては障害となる。」
すなわち、毎日の機関誌を通じてや会合などで、池田大作や創価学会・公明党に都合が良い事に関する「より多くの事実を知れば知るほど、真実の知識に到達するという悲しむべき迷信がひろまっている」といえる。
まさに「事実についての知識のない思考は、空虚で架空である。しかし『情報』だけでは、情報のないのと同じように、思考にとっては障害となる」
「科学的な探求は主観的要素から離れなければならず、感情や関心をぬきにして世界をながめることが科学の目標である。科学者はあたかも医者が患者を取りあつかうように、消毒した手で事実を取りあつかわなければならない。経験主義、実証主義という名のもとにしばしばあらわれ、あるいは言葉の正確な使用をめざすのだといって自慢しているこの相対主義の結果は、思考がその本質的な刺激――すなわち考える人間の願望と関心――を失うことである。そのかわりに、それは『事実』を登録する機械となる。じっさいに、思考一般は物質的生活の支配を求める要求から発達してきたように、真理の探求も個人や社会集団の関心や要求に根ざしている。」(同書P274)
つまり、人間革命、師弟不二という名のもとにしばしばあらわれ、あるいは個人指導・幹部指導といって自慢しているこの「相対主義の結果は、思考がその本質的な刺激――すなわち考える人間の願望と関心――を失うことである。そのかわりに、それは『事実』を登録する機械とな」り、会員のあいだにおける真理の探求も、熱心な会員や創価学会組織の関心や要求に根ざしているもののみとなってしまっている。
「このような関心がなければ、真理を求める刺激はなくなるであろう。真理によっていっそう利益をうる集団が常に存在するが、その代表者が人類の思想の開拓者である。また真理を隠蔽することによって利益をうる他の集団があるが、このばあいにのみ、関心をもつことが真理をつかむことに有害となる。したがって問題は、危険な関心が[一つ]あるということではなく、[どのような種類の]関心が危険であるかということである。すべての人間存在のうちに真理を求めるある願望があるのは、それはすべての人間存在が、真理にたいしある要求をもっているからであると私はいいたいのである。」(同書P274)
むろん、これについては創価に限らず、宗教団体一般についても当てはまるであろう。
すべての人間は、無意識的に真理を追究している。それは自分自身の信念や生きる支えに直結するからである。
しかし、幼児期からの教育や社会的要因によって、多くの人のそれは阻害され続けている。
そして、このことは創価学会員である個人の内面や組織内での活動においても当然に当てはまることである。
組織内では、組織に都合が悪い科学的真理をしばしば隠蔽している。まぜなら様々な利益や建前によって隠蔽せざるを得ないから、また創価の組織内で真理・真実に関心を持つことが有害になる場合もしばしばあるからである。先述してきた創価学会の歴史をかえりみれば明らかなことであるが、このような場合に会員個々の真実・真理を求めるある願望が、組織維持のために抑圧・疎外されてきた。
「子どものとき、ひとはだれしも無力の状態を経過する。そして真理は力のないものの最強の武器の一つである。しかし真理が個人の関心のうちにあるのは、たんに外界におけるかれの態度決定についてだけではない。かれ自身の強さは、自分についてどれだけの真理を知っているかによって、大きく左右されるのである。自分についての幻想は、ひとりで歩けない人間にとって有益な杖となるかもわからない。しかしそれは人間の弱さを増大させる。個人の最大の強さは、かれのパースナリティの一貫性の最大量にもとづくものであるが、それは自分自身にたいする理解の最大量にもとづいているということである。『汝みずからを知れ』という言葉は、人間の強さと幸福をめざす根本的な命令の一つである。」(同書P275)
すなわち、折伏されて、創価学会に入会したとき、または、子供の時から創価学会組織で育った学会二世・三世などは、だれしも学会組織にたいして無力の状態を経過する。このとき科学的真理は力のない彼らにとって最強の武器の一つであるが、彼らはそれを十分に知らない。彼ら自身の強さは、自分や組織についてどれだけの真理を知っているかによって、大きく影響されるところであるが。
自分や組織への幻想、つまりは呪術的信仰による霊的な功徳への期待や取引は、一時的には自立できない人間にとって有益な支えとなるだろう。しかしそれは結局のところ人間を弱体化させることになる。
個人の最大の強さは、彼の人格、信念・智慧や行動力などの最大量に基づくのであるが、それは言うまでもないが自分自身に対する理解の最大量に基づく。まさしく「汝みずからを知」ることが大切である。
そして、その上で、自分や組織への幻想、呪術的信仰による霊的な功徳への期待や取引は捨てなければならない。
それらを捨てて、自分自身の力で、未完成な自身を少しでも向上させ、人間としての自己完成へと、独自性・創造性を発揮しながら、様々な困難を直視し、克服していく――これこそ、日蓮仏法における仏の境涯なのである。
■根本的な問題をぼかす効果――科学的な根拠に基づく思考能力の麻痺――「幻」となった自己
フロムは、個人生活や社会生活の根本的な問題をぼかすことが、一般人の独創的な思考能力を混乱させていると指摘する。(コメント3)
これも、現代文化に特徴的なことであろう。
個人的・社会的な問題、また心理的、経済的、政治的、道徳的な問題について、創価に限らず我々の文化は、問題を曖昧にしたり世論などの流れに任せたり先送りしようとすることで、独創的な思考能力を、積極的に混乱させようとする。
その問題が専門的とされ、一般人は把握できないという主張や風潮があるが、フロムの指摘通り、事実はその逆で、たいていの問題は単純であり、だれでも理解できうることなのである。
しかしながら実際はしばしば意図的な世論操作によって、それらが非常に複雑かつ上位の『幹部』や『専門家』だけが、しかもかれの限られた領域においてだけ理解できるというようにみせかけられる。
これによって個人はしばしば自分の思考能力を麻痺させてしまい、その自身さえ失う。
個人は間違った又はほんの少しの事例しか説明していない夥しい情報の荒れた大海の中で翻弄され、GPSナビゲーションの指し示す方向にすら、向かう術(すべ)を持ち合わせていない。
独自の思考や決断の勇気を失い、ひたすら耐え忍ぶ以外にない個人は、懐疑主義やシニシズム、又は様々な権威や世論との共棲に陥ってしまう。
価値観の多様化等とか言われているが、つまるところ変わりゆく世論や流行、権威・権力者たちの打ち出しに翻弄されているに過ぎない。
しかし、個人にその自覚は毛頭なく、迷った末に選択した事実でさえ、自己の自らの選択であると思いこまされている。
創価学会組織においてもこのことは同様に当てはまる。
熱心な会員は、学会本部から打ち出される情報や指示のみを子どものように疑うことなく受け入れ、それ以外の世間に流れている情報に対しては懐疑主義、シニシズムに陥っている。
とりわけ組織や個人の耳に逆らう情報に対して、この傾向が強い。
権威をもって打ち出される組織の情報を子どものように疑うことなく受け入れるのは、多くの世間の人にも共通した傾向である。
そして、組織活動に熱心ではない会員や、二世・三世の会員は、こういった組織の打ち出しにはしばしば距離をおいてはいるものの、同様にSNSをはじめとした多くの情報の大海の中で、自分自身の頭で考えて決断する勇気を失い、真の自分自身でなく、ニセの自身を真の自分と思いこみながら、周囲の風潮に流されながら生きている。
また、自分や周囲の地域の出来事や世界的に重要な事実でさえ、全体の一部分としての重要性を失い、単なるメモ書きの蓄積にすぎなくなっている。「ミソもクソもいっしょ」と日常よく言われるが(言葉は適切でないかもしれないが)自分にとって、ひいては人類にとって、重要なことも取るに足らないこともすべてが「平等」「公平」に、単に情報数が多いか少ないかだけの抽象的な意味になり下がっている。
こうして多くの現代人は、真に科学的な根拠に基づいて批判を行なう思考能力が麻痺している。(コメント4)
その例としてフロムは、
「ラジオ、映画、新聞がこのことにたいして有害な結果をもたらしている。都市の爆撃や何千というひとびとの死を報ずるニュースに、なんの恥ずかしげもなく石鹸や酒の広告がつづき、ニュースを中断している。暗示的印象的な権威ある声で、政治情勢の重大さを放送したばかりのその同じ放送員が、今度はニュース放送に金を払ったある石鹸の品質のよさを聴衆に吹聴している。ニュース映画では、水雷霆の画面に続いてファッション・ショーの画面がでてくる。新聞は陳腐な考えやニューフェイスの朝食の仕方を、科学的あるいは芸術的な重要事件を報ずるのと同じスペースと真面目さで、われわれに報道している。」
を挙げて、
「われわれは自分の聞いていることに純粋に関係することができなくなる。われわれは興奮することがなくなり、われわれの感情や批判的な判断は妨害され、ついには世界におこっていることがらにたいするわれわれの態度は、平板な無関心な性質のものとなる。『自由』の名のもとに生活はあらゆる構成を失うのである。それは多くの小さな断片から作られ、それぞれたがいに分離し、全体としての感覚はみじんもみられない。個人はちょうど積木をもった子どものように、これらの断片をもってひとりぼっちにされている。しかしちがっているのは、子どもは家とはどんなものであるか知っており、したがってかれが遊んでいる小さな断片にも家の諸部分をみつけだすことができるのに反し、大人はその『断片』を手にしながら、『全体』の意味がわからないのである。かれは途方にくれ、不安になり、その小さな無意味な断片をみつめつづけているだけである。」(同書P276-277)
と指摘する。
日常を見れば、都市の爆撃や残虐な事件、何万という人々の死を報ずるニュースに、なんの恥ずかしげもなくエコカーや酒のCMがつづく。権威ある人が暗示的印象的に政治情勢の重大さを放送した続きとして、その放送に金を払ったある化粧品やサプリの品質のよさを聴衆に吹聴している。
サブリミナル効果を狙ったCMもかつては存在して問題視されたこともあっただろう。
こう言っては叱られるかもしれないが、現代の資本主義経済中心社会では、あらゆる個人や集団が利益追求のために、しばしば取るに足らないことや関係が全くない事を、重大なこと・興味深いこと等に威を借りて宣揚するのが横行しているのである。
フロムは、この危険性や結果を指摘しているのである。
創価学会の機関誌である聖教新聞は創価学会の関連する動きの賞讃、陳腐な教義や考え、これに会員の呪術的信仰によって得た喜びの声などが断片的な世間のニュース等より先駆けて報じられているが、一般紙もこれに劣らず、趣味や園芸・占いなどや流行の朝食の仕方を、科学的あるいは芸術的な重要事件を報ずるのと同じスペースと真面目さで、我々に報道している。
残虐な戦争のシーンでさえ、お茶の間で映画を楽しむような感覚でメディアやSNSで流されている。
以上のような日常茶飯事すべてのことによって、我々は自分の聞いていることに純粋に関係したり興奮することがなくなり、我々の感情や批判的な判断は妨害され、ついには世界的な事件に対する態度は、フラットで無関心な性質のものとなる。
こうして我々の生活は『自由』の名のもとに多くの小さな断片に分断されて作られ、全体としての感覚が微塵も感じなくなる。 個人はちょうど積木をもった子どものように、これらの断片をもってひとりぼっちになっているが、その自覚さえ、世間の風潮と共棲関係にあるために消滅し、あらゆる自我の構成を失っている。
言いかえると、我々が『自由』と感じている生活はあらゆる組成が本来の自発性みなぎる自己のものとはかけ離れた「幻」となっている。それらは多くの小さな断片が単に無整理にかけ集められたものでしかなく、それぞれがたがいに分離し、全体としての感覚は微塵もない。個人は積木をもった一人ぼっちの子どものように、これらの断片をもって孤独・無力になっている。
ただ、子供は子供なりに自分の全体の世界――自分の縄張り――住む家を知っていて、自分が遊ぶ小さな断片にもその意味をみつけているのに対し、大人はその小さな『断片』を手にしながら、無意味に眺め続るだけで、『全体』の意味すら把握できずに日常をやり過ごしているのである。
■『独創性』の欠如
感情と思考における『独創性』の欠如については、[意志]的行為についてもあてはまる。(コメント5)
現代人は、多くの欲望をもっているが、その獲得は困難である。欲望の実現に全精力を使うが、多くの場合この前提、すなわち自分自身が本当の欲望を知っているかと、この前提を問い直すことができない。自分の追求している目標が「本当に」自身で欲しているものなのかどうかを考えない。
学校ではよい成績を、成人したら多くの成功、多くの金、多くの特権、より豪華な住み家や自動車を求め、旅行し……などしようとしている。
このひたすら狂おしい行為の中でこんな疑問が浮かんでこないだろうか。
「もし成績がアップしたならば、この成功を収めたならば、この収入・資格・特権・豪華な家や車をえたならば、もしこの旅行ができたならば――それは自分や社会にとっていったいどんな意義があるのか。それらすべてを求めているのは、本当に自分自身なのか。自分は他者によって自分を幸福にしてくれると思いこまされ、しかもそれに到達した瞬間に消え去っていく幻を追っているのにすぎないのではないだろうか」
これは、仏法において、十界論でいう「天界」の境涯――一時的な満足で、次の瞬間にそれを上回る欲望が起き、再び不満足の状態――地獄・餓鬼・畜生・修羅という苦しみの境涯(四悪趣)に引き戻される――すなわち六道輪廻をさまよう生命状態なのである。
そして、先述の疑問は、ふとした瞬間、自分自身の生命を問う境涯――声聞界に瞬間移動するときに感じるものである。
「これらの疑問は、一旦起きると驚くべきものとなる。といいうのはそれらは人間の全活動をささえる土台そのもの、すなわち、かれの欲するものについての知識を問うているからである」(コメント6)
フロムがこう指摘するこの疑問は「自我」、自身の全生命活動の基盤そのもの、即ち欲望を含む自分自身への生命境涯を問うものであるから、そもそも回答が困難なものである。
だからこれに向き合うと抑圧と疲労を覚え煩わしいので向き合うことを早く逃れようとする。
こうして人は自分自身のものと思いこんでいる幻の目標を追い続けていく。
この真実――人は自分の欲望を知っているという幻のもとに生きていて、つまり実際は自分の本来の欲望として「思い浮かぶ」ものを追求しているにすぎないという真実――を仏法では六道輪廻として説いている。
この困難な答え――人が本当に欲するものは何か――を知るのは、だれしも解決しなければならないもっとも困難な問題である。
これは、人に吹き込まされた目標を、あたかも自分の目標と思い込むことによって、遮二無二避けようとしていることでもある。
人は『自分のもの』と吹き込まされた目標を達成しようとするとき、大きな危険をも躊躇しない。しかしながら、その危険と責任は、自身に対して深く恐れてとろうとしない。
過激な活動はそれを自分で決定した証拠であるとしばしば誤解している。もちろん人は、それが俳優や催眠術にかかった人間の行動と同じように、自発的なものではないことは分っている。劇の筋書きをもらうと、各俳優はわりあてられた役割を力強く演ずることができ、アドリブまで自分で作りあげる。ただし、命じられた一つの役割を演じているにすぎない。
フロムが言うとおり(コメント7)、我々が、自身の願望、思想や感情、そして自分らしさ、自己独自ののアイデンティティと感じているものが、どこまで自分自身のものではなくて、自分以外の外部から刷り込まれたものであるかを知ることは極めて困難である。それは、自己の内外にわたる「権威」と「自由」という問題が深く関与しているからである。
権威は近代に入って教会から国家に、更に国家から個人の良心へ、そして最近は世論や流行など、様々なものにとって代わっていった。
我が国では戦後とって代った良心の権威は、「寄らば大樹の陰」よろしく、同調・流行の建前としての、常識や世論という多様な匿名の権威に交代した。
我々は古臭い時代遅れで脅迫的な権威から自身を解放した反面、今の新しい、多様化・分散化された権威の餌食となっていることに気がついていない。それどころか、進んで喜んでそれに従っている。
つまりは我々は自ら自由に願望し行動する個人であるという「幻想」のもとに生きる「操り人形」となっている。
この幻想は、自身を含めた人類社会が自ら作りだしたものであり、自身の不安を自動的に回避させる最大の援助になっているが、あくまで幻想は幻想でしかない。
現実の根源では自身の自我は弱体化して、漠然とした無力感と霧に包まれた時に感じるような不安とを常に抱きながら生きている。(コメント8)
■ミヒャエル・エンデの描写
たとえばそのことをミヒャエル・エンデは自著「モモ」(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳「モモ(時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語)」1976/9/24、岩波書店)という児童小説の中で、自ら作りだしたところの、社会の隅々まで行き渡っている「灰色の男たち」としてあぶりだしている。
現代人が「灰色の男たち」の支配下で生きているという、彼が示唆した実態とはこのことでもある。
すなわち同書での描写では、既成の権威から解放された人間が――「たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは――それは時間です…中略…時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。このことをだれよりよく知っていたのは、灰色の男たちでした。彼らほど一時間のねうち、一分のねうち、いやたった一秒のねうちさえ、よく知っているものはいませんでした。ただ彼らは、ちょうど吸血鬼が血の価値を知っているのとおなじに…」(同書P75、第六章 インチキで人をまるめこむ計算)――「時間は貴重だ――ムダにするな!時は金なり――節約せよ!」(同書P94)と、生活の全てにおいて時間を倹約し貯蓄するようになっていく。
大都会の多くの人は、灰色の男たちにそそのかされて生活の時間を倹約し時間貯蓄銀行に預けてしまい、時間に追われながらも富を築きあげていく。
モモは、円形劇場の周囲に住む、一般社会から取り残されたような、友だちしかいない孤児であるが、灰色の男たちはモモを同様に勧誘しようとする。
灰色の男が、モモが素敵と思うものを全部与えようと言ってモモをそそのかすが、モモは友達が好きだと言って相手にしない。 そこで灰色の男はモモにいう。「人生でだいじなことはひとつしかない…それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金持ちになった人間には、そのほかのもの――友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでに集まってくるものだ。きみはさっき、友だちが好きだと言ったね。ひとつそのことを、冷静に考えてみようじゃないか」
こうして大都会の多くの人は、灰色の男たちにそそのかされて生活の時間の倹約という名――今風にいえば効率とか、生産性という名目――で、フロムの言う「自動人形」のように働いている。
道路掃除の仕事をもつベッポについて、彼は、
「せかせかと、仕事への愛情など持たずに、ただただ時間を節約するためだけに働いたのです。彼には、くるしいほどはっきりとわかっていました。こういう働き方をすることで、彼はじぶんの心のそこからの信念を、いやこれまでの生き方ぜんぶを、否定し、裏切ったのです。それを考えると彼はじぶんのしていることがたまらなくいやで、吐き気がしそうでした。もしこれがじぶんだけのことだったら、じぶんじしんを裏切るくらいなら、むしろ餓死するほうをえらんだでしょう。でもこれはモモのためなのです。モモの身の代金をはらわなくてはならないのです。そのためには、こうやって時間を節約することしか、彼にはできないのです。…中略…やがて春が来てまた夏になりました。ベッポはそれにもほとんど気がつかないまま、十万時間の身の代金を貯めるために、ただひたすら道をはきつづけました」(同書P243-244)
また、現代における託児所についてもこう表現している。灰色の男たちに影響された大人たちによって、
「市当局はおおぜいの放置された子どものためになにかする必要を、認めるにいたりました。そこで各地区ごとに、〈子どもの家〉と呼ばれる施設が建てられました。大きな建物で、だれも面倒をみてくれ手のない子どもはぜんぶ、ここに収容されなくてはいけないことになり、親が手のあいたときに家につれて帰ります。子どもが道路や、緑地その他のところで遊ぶことは厳禁になりました…中略…こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びをきめるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです」(同書P247)
「こうして子どもたちは、ほかの[あること]を忘れてゆきました。ほかの[あること]、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。
しだいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくもなさそうに、ふくらっつらでやります。そしてじぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです…中略…灰色の男たちのもくろみは、みごとに成功したのです」(同書P248)
こうして実現しているのが現代高度文明における「第十六章 豊かさの中の苦しみ」である。
現代の有様が様々に描かれているが割愛する。
時間貯蓄銀行に倹約した時間を預け続けた大人たちは皆、灰色の男たちのようになっていく。
「あの人たち、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?」と、マイスター・ホラに聞くモモ。彼女は大人たちが喪失してしまったところの純真な自我を持っている。
マイスター・ホラは答える。
「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう。彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主から切りはなされると、文字どおり死んでしまうのだ。人間というものは、ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」
さらにモモとホラの会話はこう続く。
「『人間がそういうもの(註、灰色の男)の発生をゆるす条件をつくり出しているからだ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまで与えている。それだけで、彼らはうまうまと支配権をにぎるようになれるのだ』
『もし時間をぬすむことができなくなったら、どうなるの』
『そうしたら、もとの無に帰って、消滅してしまう』」(同書P201-202)
このモモとホラの会話は達見である。
エンデは、人間の生命の本質を、生活の時間という概念をうまく用いながら、灰色の男たちの時間貯蓄銀行という権威へ、自己実現のために自由に使うべき時間を預けてしまい、結果として自我を喪失しアイデンティティが揺らぐ現代人の姿をものの見事に描いている。
「孤独というものには、いろいろあります。でもモモのあじわっている孤独は…中略…モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまった穴にとじこめられているような気がしました。しかもその財宝はどんどんふえつづけ、いまにも彼女は息ができなくなりそうなのです…中略…もしこの記憶を消しさってそまおうと言われたとしたら、彼女はどんな代償をもらおうと、やはりいやだとこたえたことでしょう。たとえその記憶の重みにおしひしがれて、死ななければならないとしてもです。なぜなら、いま彼女が身をもって知ったこと――それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それを持っているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。」(同書P284)
モモは勇気を出して灰色の男たちに戦いを挑む。
そして灰色の男たちは絶滅した。その結果、すなわち、
「大都会では、長いこと見られなかった光景がくりひろげられていました。子どもたちは道路のまんなかで遊び、自動車でゆく人は車をとめて、それをニコニコとながめ、ときには車をおりていっしょに遊びました。あっちでもこっちでも人びとは足をとめてしたしげにことばをかわし、たがいのくらしをくわしくたずねあいました。仕事に出かける人も、いまでは窓辺のうつくしい花に目をとめたり、小鳥にパンくずを投げてやったりするゆとりがあります。お医者さんも、患者ひとりひとりにゆっくり時間をさいています。労働者も、できるだけ短時間にできるだけたくさん仕事をする必要などもうなくなったので、ゆったりと愛情をこめて働きます。みんなはなにをするにも、必要なだけ、そして好きなだけの時間をつかえます。いまではふたたび時間はたっぷりとあるようになったからです」(同書P350-351)
ちなみに、エンデのあとがきには、上記の話は旅中での車中の人から聞いたとし、その人が
「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません」と言ったとある。
つまり、これは、真理・法則に基づいているということである。
エンデの描いたこの童話における理想世界は果しておとずれるのだろうか。
フロムのいうところの、当たり前の自由をもてあました個人が、必然的に陥る孤独と無力の故に、自らが作りあげた富や権威という幻想に身を委ね、進んで隷従して自己を喪失し、しかもそれに喜びを感じるというサド・マゾヒズム的心理構造が、よく描かれているといえる。
「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ…」が示すのは、フロムによるとネクロフィリアである。すなわち、その人が「死や破壊や無生物に情熱的な関心を抱いている」(エーリッヒ・フロム著「聞くということ」P31)、そして「死んだ物象化された世界を好む人間は、見かけ、うわべにとらわれ、それを操作し、所有することで全能感を得るが、実際には自分自身も操作され、コントロールされ、所有される対象となる」(同書P340、翻訳者の解説)――つまり、自我を失いひたすら目先の利益や権威に身を預けて自動人間となり、そして自身もその手段としての対象となっている現代人の多くの様相である。
特に、非科学的な宗教――教義において絶対者をもち、絶対者を仮想し、それに身をゆだねることが含まれるもの――の組織では、信者は常に自我が抑制され、その組織の維持発展のための自動人形となっている。すなわち、創価学会組織においてもこれが当てはまっている。
これに続いてフロム著の翻訳者はフロムの言う『二者択一的決定論』に言及して、こう解説している。
「フロムが人間的か空疎か、真正かうわべだけかを見極めることを要請するときには、この二分法が背景にあるだろう。
それは、フロムの言う『二者択一的決定論』に接続する。つまり、我々は常に、生を選ぶか死を選ぶか、物象化された世界からの調和ある自立かそれへの固着や服従か、を問われている。そして、自分では自由だと思っていても、自らの性格や方向性によって選択は決定されており、死んだ物象化された世界を好む人間は、それを常に選択し、その結果、ますます死んだ世界の道具的連関にからめ捕られてゆくのである。
この視点からすれば、真に自由になるためにするべきことは、おのずから決まってくる。フロムは、こうした人間の自由に関わる状況を逆説的に決定論と呼ぶ。『二者択一的決定論』は、二者択一の蓄積が自由の幅を狭くし、結果を決定するということと、それ以上に、我々は真に自由であるために物事を切り分け、選択することを常に問われているということを意味するのである。」(同書P341)
現代において、我々が他に支配されずに真に「自由に」生きるための方途が示されているといえる。
■他の手段と成り下がった自動人間
何度も言及するが、こうして我々は、自身の住み続けている世界との純粋無垢な関係が希薄化している。
その世界では人であれ、物であれ、社会資源であれ、すべてが自分が寄りかかり同一化している権威のための手段と化してしまっている。
そこでは自分は自身で作った機械の単なる歯車となってしまっているのである。
IT・AI時代に入り、chat-GPTの利用が始まっている現代は、まさにその傾向をより一層強化・加速化しつつある。
人は、自分自身の幸せを追求するために生まれてきたのだ。
だから人間は、それ自体、すなわち人間自体が目的であって、けっして人間が手段になったり手段にされたり、人間を手段としてはならない。
しかし残念ながらこれとは裏腹に、我々の多くは、自分自身は他人・社会・世論などの外部環境から概ねこのように考え、感じ、行動すると想定される範囲内でのことを、考え、感じ、行動している。
言い換えると、世界で一人しかいない独自の自発性・独創性による振る舞いではなくて、他人や外部環境から想定される範囲内でのことしか考え、感じ、行動していないのである。
こうして自身はこのプロセスにおいて、自由自在な個人の、純粋な安定の基盤である自我を喪失している。
さらにそれは自己のアイデンティティがゆらぐことでもあるから、必然的に他者や他の権威に順応することになる。
もし自分が他者から予想されていると思うものでしかないならば、『自分』とはなんだろうか――と、フロムは問いかける。
個人が固定した秩序の中でゆるぎない地位をもっていた中世的秩序の崩壊とともに、このように自分自身についての懐疑が始まった。
アイデンティティはデカルト以来近代哲学の主要な問題であった。
現代では、我々は当然に、自分は自分であると考えている。だが同時に「自分とは何でるか」「自分らしさとは何か」についての明確な答えをもっている人は少ない。
「ピランデルロはその戯曲において、近代人のこの感情を表現した。かれは次の問いから始める。私はだれであろうかと。私の肉体的自我の持続のほかに、私自身の同一性を保証するものがあるであろうか。
かれの答えはデカルトの解答――個人的自我の確証――とはことなり、その否定である。すなわち、私はなんの同一性ももたない。他人が私にそうあるように期待していることの、反射にすぎないような自我以外に、自我などは存在しない。私は『あなたが私に望むままのもの』である。
この同一性の喪失の結果、いっそう順応することが強制されるようになる。それは、人間は他人の期待にしたがって行動するときにのみ、自我を確信することができるということを意味する。もしわれわれがこのような事情にしたがって行動しないならば、われわれはたんに非難と増大する孤独の危険をおかすだけでなく、われわれのパースナリティの同一性を喪失する危険をも犯すことになる。そしてそれは狂気におちいることを意味するのである。」(同書P280)
とフロムは言う。
尖った主張をせず、周囲に同調にすることによって、自己のアイデンティティのゆらぎはおさまり、一種の安定感がえられる。
「しかしその払う代価は高価である」(同書P281)
自己の自発性と個性を放棄し周囲に同調することで、自己本来の生命力は弱くなる。
周囲のあやつり人形であることは、たとえ生物学的には生きていても、精神的には人間として生きているとはいえない。
たとえ文化的な生活を送っているとしても、人間的には廃人同様である。これはエンデの描いた「灰色の男」と同様である。
ちなみにこの流れと同時進行していることについての一つは、世間や外部環境と共棲することによってもたらされる様々な生活習慣病である。
肉体的だけに限って言えば酒やたばこの依存症、食物依存症(糖尿病や脂質異常症、高血圧など)、快楽依存などによる運動不足がある。これらは確実に数年から十数年にかけて年齢を重ねるごとに肉体をむしばみ、様々な合併症(脳梗塞・心筋梗塞・サルコペニア・フレイル・慢性腎不全による透析必須状態など)を引き起こしながらQOL(Quority of Life、生活の質)を損なっていく。
我が国では平均寿命は延びたが健康寿命はそれより10年ぐらい短い。
またメンタルな点でいえば、うつ病、適応障害、認知症などをあげることができる。
この状態を予言するかのように、フロムはこう指摘する。
「近代人は生にうえている。しかしかれは自動人形となっているので、自発的に人生を経験できない。そこでかれは代用品としてどんな種類の興奮やスリルでもとってくる。すなわち、飲酒、スポーツ、また映画にでてくる架空の人物の興奮をその身になって楽しむことなどである。
ではいったい、近代人にたいする自由の意味はなんであろうか。
近代人はかれがよしと考えるままに、行為し、考えることをさまたげる外的な束縛から自由になった。かれは、もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることができたならば、自分の意志にしたがって自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。かれは匿名の権威に協調し、自分のものでない自己をとりいれる。このようなことをすればするほど、かれは無力を感じ、ますます同調するように強いられる。楽天主義と創意のみせかけにもかかわらず、近代人は深い無力感に打ちひしがれている。そしてそのために、かれはあたかも麻痺したように、近づいてくる破局をみつめている。
表面的にみれは、ひとびとは経済生活においても社会生活においても順調にやっているようにみえる。しかもなお、その楽しいみせかけの背後にひそむ根深い不幸をみのがすのは危険であろう。もし生がみたされないためにその意味を失うならば、ひとは絶望するほかない。人は肉体的な飢えで死ぬとき、静かに死ぬことはない。同じように精神的な飢えで死ぬときにも、静かには死なない。もしわれわれがいわゆる『正常な』人間の経済的要求だけをみるならば、またもし一般に自動人形化した人間の無意識的な苦悩をみおとすならば、われわれはわれわれの文化をその人間的基盤からおびやかしている危険をみぬくことに失敗するであろう。すなわち、もし興奮を約束し、個人の生活に意味と秩序とを確実にあたえると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受けいれようとする危険である。人間機械の絶望が、ファッシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌なのである。」(同書P281-282)
フロムの指摘する現代人の苦悩は、ますます深刻化しつつあることは疑いない。
創価学会組織内においてもこのことがあてはまる。すなわち、創価三代の賞讃・宣揚、たび重なる選挙においての集票活動を通じて、仏法に名を借りた幻の歓喜を説き、毎日毎日機関誌において宣揚している。
組織内で語られる「師弟不二」や「血脈」は、その教義・基盤となっていて、ひたすら現世利益追求・組織防衛に奔走している。
その会員は純真であればあるほど、その偽りの「師弟不二」や「血脈」の名に縛られて、池田大作の宣揚や選挙のたびに公明党(や、バーター取引としての自民党推薦候補)の票取りに奔走させられ、また無意識的に自らの意志で奔走するという自動人形となっている。
ときに「師弟の絆」とも称されるが、「絆」とは「縛り」「束縛」という意味でもある。
創価学会の会員にしても、戦後の古臭い時代遅れで脅迫的な国家権威から自身が解放されたが、その後の無力と孤独に陥ることによって、新しい、多様化・分散化された権威の一つである創価学会組織の餌食となっていることに気がついていない。それどころか、進んで喜んでそれに従っている。
つまりは会員は自ら自由に入信し組織活動する個人であるという「幻想」のもとに生きる「操り人形」となっている。
この幻想は、創価三代と自身を含めた創価学会組織が自ら作りだしたものであり、自身の現実の不安を自動的に回避させる最大の援助になっているが、あくまで幻想は幻想でしかない。
個々の会員にとって程度の差はあるが、現実の根源では自身の自我は弱体化して、漠然とした無力感と霧に包まれた時に感じるような不安とを常に抱きながら、組織内で団結という美名の下、組織の打ち出しを無批判に受け入れ従うことでこれを紛らわし、大なり小なり共棲しながら生きている。
そして、その団結の成果――かつては常勝神話と言われた、師弟不二を教科書として描かれた成果――その神話は、時代の変化と共に崩れつつあるが、内部の会員には都合が悪いため客観的事実・真実の数字は示されないまま、長きにわたっている。
ここにおいてフロムの言う「いわゆる『正常な』人間の経済的要求だけをみるならば」、また組織に対して自動人形化した人間の無意識的で根本的な苦悩を見落とすならば、個々の会員は共棲状態のまま人間的基盤が脅かされながら、凋落傾向の組織と運命を共にすることになるであろう。
私は日蓮の志を同じくするものとして、そんなことが絶対にあってはならないと考える。
ちなみに、日蓮仏法で説く「仏界」の境涯とは、他の九界を独自性・独創性を発揮しながら自由自在に生きる境地である。
九界即仏界、仏界即九界ともいう。
言いかえれば、そこには何の縛りも共棲もない。自分以外のどのような権威・権力・組織にも隷属することのない、瞬間瞬間におけるダイナミックな自由の発動の境地なのである。
創価学会の組織内の会員が、このような「成仏」の境涯が得られるように変っていくには、教義において、また組織の在り方などにおいて、どのようなアップデートが必要なのであろうか。
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「近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感ずる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している」(同書P279-280)
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「われわれの願望――そして同じくわれわれの思想や感情――が、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。」(同書)
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「これらの疑問は、一旦起きると驚くべきものとなる。といいうのはそれらは人間の全活動をささえる土台そのもの、すなわち、かれの欲するものについての知識を問うているからである。したがってひとびとはできるだけ早く、これらのわずらわしい考えから逃れようとする。かれらはこれらの問題に疲労と抑圧を覚えるので、それをわずらわしく感ずる。そしてかれらは自分自身のものと思いこんでいる目標を追っていく。
しかもこれらすべてのことによって、真実――すなわち近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると[予想される]ものを欲しているにすぎないという真実――を漠然ながら理解できる。このことを認めるためには、ひとが本当になにを欲しているかを知るのは多くのひとの考えるほど容易なことではないこと、それは人間がだれしも解決しなければならないもっとも困難な問題の一つであることを理解することが必要である。しかしそれは、われわれがレディ・メイドの目標を、あたかも自分の目標と考えることによって、遮二無二避けようとしていることがらである。近代人は『自分のもの』と予想されている目標を達成しようとするとき、大きな危険をもさけようとはしない。しかしかれは、自分自身にたいして自らの目標をあたえる危険と責任は、深く恐れてとろうとしない。はげしい活動はしばしばその活動を自分で決定した証拠であると誤解されている。もちろんわれわれは、それが俳優や催眠術にかかった人間の行動と同じように、自発的なものではないことを知っている。劇の一般的な筋がわたされると、各俳優はかれにわりあてられた役割を力強く演ずることができ、自分の縄張や演技の細かな部分は、自分で作りあげることさえできる。しかもなおかれは、かれにわたされた一つの役割を演じているのにすぎない。」(同書P288-279)
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「感情と思考における『独創性』の欠如についてのべたことは、[意志]的行為についてもいうことができる。このことを知るのはとくに困難である。近代人は、どちらかといえば、あまりにも多くの欲望をもっているように思われ、かれの唯一の問題は、自分がなにを欲しているかは知っているが、それを獲得することはできないということであるように思われる。われわれの全精力はわれわれの欲するものを獲得するために使われる。しかも大部分のひとは、この行為の前提、すなわちかれらが自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。かれらは自分の追求している目標がかれら自身欲しているものであるかどうかということを考えない。かれらは学校ではよい成績をとろうとし、大人になってからは、より多くの成功、より多くの金、より多くの特権、よりよき自動車を求め、あちらこちらに旅行し……などしようとしている。しかもこのまったく狂おしい行為のただなかで立ちどまって考えるならば、つぎのような疑問が心に浮かんで来る。『もしこの新しい職をえたならばもしこのよりよき自動車をえたならば、もしこの旅行をすることができたならば――それはいったいなにごとであろうか。それはどんな役に立つのだろうか。それらすべてのことをのぞんでいるのは、本当に私であろうか。私は自分を幸福にしてくれると予想され、しかもそれに到達した瞬間巧みに私をはぐらかすような目的を追っているのではなかろうか』。」(同書P277-278)
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「批判的な思考能力を麻痺させるもう一つの方法は、世界について構成された像をすべて破壊することである。さまざまの事実は、それらがくみいれられた全体の部分としてのみもつことのできる特殊な性質を失い、たんに抽象的な量的な意味しかもたないようになっている。それぞれの事実は[他]の事実とまったく同じものであって、問題はわれわれの知っていることが多いか少いかということだけである。」(同書)
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「いまとりあげた要素のほかに、一般の成人に残されている独創的な思考能力を、すべて積極的に混乱させようとする他の要素がある。個人生活や社会生活のすべての根本的な問題について、また心理的、経済的、政治的、道徳的な問題について、巨大なわれわれの文化は一つの特徴をもっている――すなわち問題をぼかすことである。その黒幕の一つに、問題があまりに複雑で普通の個人には把握できないという主張がある。事実はその反対に個人生活、社会生活の根本問題は、たいてい非常に単純であり、だれもがそれを理解することを期待できるように思われる。それらが非常に複雑で、『専門家』だけが、しかもかれの限られた領域においてだけ理解できるというようにみせかけることは、じっさいは――しばしばある意図をもって――本当に問題となっていることがらにたいする、自分の思考能力の自信を失わせることになる。個人は混沌とした多くのデーターにとりかこまれながら、無力をかこち、専門家がなにをなすべきか、どこへいくべきかをみつけだすまで、憐れな忍耐力でまちつづけている。」
「このような影響は二重の結果をもっている。すなわち、一つは聞くこと読むことすべてにたいする懐疑主義とシニシズムであり、他は権威をもって話されることはなんでも子どものように信じてしまうことである。このシニシズムと単純さの結合は近代の個人にきわめて典型的なものである。その本質的な結果は、かれが自分自身の思考や決断をおこなう勇気を失わせることである。」
(同書P275-276)
2.
コメント2
「他方、子どもは教育の早い時期に、まったく『自分のもの』でない感情をもつように教えられる。とくに他人を好むこと、無批判に親しそうにすること、またほほえむことを教えられる。教育がときに果されなかったことは、普通あとになって社会的圧力によっておこなわれる。もしあなたが微笑していないならば、『感じのよいパースナリティ』をもっていないと判断される――しかも女給であれ、外交員であれ、医者であれ、自分のつとめを売ろうと望むならば、感じのよいパースナリティをもつ必要がある。ただ社会的ピラミッドの底辺にあって、自分の肉体的労働しか売るもののない人間と、ピラミッドの頂点にいる人間だけが、とくに感じをよくする必要がない。親しさ、朗らかさ、ほほえましさが表現されてほしいと思われるすべてのことがらは、ちょうど電気のスウィッチのように、つけたり消したりできる機械的な反応となっている。
たしかに、ひとはたんにジェスチャーをやっているにすぎないと気がついていることもある。しかしたいていのばあい、かれはその意識を失っており、ひいてはにせの感情と自発的な親しさとを区別する能力を失っている。」(「自由からの逃走」P268-270)
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コメント1
「もっとも初期に抑圧される[感情]の一つは敵意と嫌悪に関係したものである。まず第一に、大部分の子どもは、自分の進展を妨げようとする周囲の世界と摩擦をおこし、ある程度の敵意と反抗とをもつようになる。そしてかれらは弱い敵対者として、その世界に屈服するのが通例である。この敵対的な反作用をとりのぞくことが、教育過程の本質的な目標の一つである。その方法はさまざまで、子どもをおびやかす威嚇や罰から、子どもを当惑させて敵意をすてさせるようなお世辞や『説得』という、いっそう微妙な方法に至るまで、いろいろと変化する。
子どもはまずかれの感情を表現することを断念し、ついには感情そのものまで放棄してしまう。それとともに、かれは他人のうちに敵意や不誠実を意識することを抑圧するように教えられる。ときにはこれはなかなか容易なことではない。というのは子どもは大人のように言葉によってはたやすくだまされることなく、他者のそのような否定的な性質を見抜く力をもっているから。子どもはなお『もっともらしい理由なしに』ある人間を嫌うことがある――かれらがその人間から放射される敵意や不誠実を感ずるという、まさに正当な理由は別として、この反作用はまもなく弱められる。すなわち子どもは普通のおとなの『成熟』に達するのに長くはかからない。そのときかれはなにかはっきりした悪事をしないかぎり、正しい人間と悪い人間とを区別する力を失っているのである」(「自由からの逃走」P268-270)