Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P73, 創価学会組織の社会的性格(3)、教祖と信者、利用者たちの心理学的分析
■新興宗教における教祖
前ページでは、創価学会に限らず、現代人一般についての心理学的状況を、フロムの「自由からの逃走」を参考にして分析、考察した。
創価学会も、そういった現代人を会員としている宗教組織であるから、フロムの指摘が大いに適合していることを示した。
ここでさらに掘り下げて、創価学会という一つの宗教組織について考察してみる。
また、一旦、宗教組織一般について、小口偉一著「宗教と信仰の心理学」を参考にして、おさらいをしながらみていこう。
一般に、宗教組織の最高指導者は教祖と呼ばれる。
創価学会においては、明確に教祖と呼ばれた人物はいないが、小口偉一は「新興宗教としての創価学会は、七○○年の歴史的伝統を利用し、日蓮正宗は伝統的停滞を新興宗教との結びつきによりうちやぶるという相互依存関係に立っているのである」(「宗教と信仰の心理学」P38上段)と指摘する。
小口偉一は、同著では戸田城聖を教祖として取り上げている。
しかし現在の創価学会は、その創立を牧口常三郎会長時代に定めている。このことは、先述したが、池田大作が1970年、言論出版妨害事件の謝罪後に路線変更した以降より明確に打ち出されたことであり、小口偉一のこの著が出版された1956年は、これより以前での調査でのことである。
この著では、創価学会だけでなく、戦後に興隆した主な新興宗教について、社会的背景も含めた分析が行われている。
このことは、宗教学者小口偉一の調査時点での様相が、現在の創価学会の創立前後の実態、いわばその原点を言い当てていることといえよう。
小口偉一によれば「教祖とは、彼をとりまく教団組織者や信者によってたてまつられた称号である。高い天分を持たなくても、またその体験や告白が、妄想や空想虚言にもとづくものであっても、それが信者の感情につよくうったえるものをもち、高い信仰価値をもっていれば、それは神の声、天の啓示としてうけいれられる…中略…教祖は高度に複雑化した倫理的、宗教的建築の創造者ではなく、信者が自分の理想と神像をある一人の人物の中へ彫りこんだのである。教祖は『雪崩を動かす小石にすぎない。』(ランゲ、アイヒバウム)…中略…
教祖は絶対的、不動のものではない。一人の人が、その前にひれふして神とあがめても、他の人は肩をひそめ、狂人として嘲笑するかもしれない。つまり教祖は崇拝する集団の価値判断をふくんでおり、信者との関係においてのみ存在するものである。すなわち『教祖とは多くの人が聖なる存在とあがめるような価値をもった人である。』
したがって、教祖がどうして生れたかを考えるばあいには、教祖の側からだけではなく、どうしても信者の側からも見なければならない。なぜ彼らが教祖をもとめたか、もとめなければならなかったかということである」(同書P148-149)
である。
この定義によると、先述もしたが、とくに拙論文P66でも述べたが、現在の創価学会の事実上の教祖は、小口偉一のとりあげている戸田城聖であったことは間違いない。
そして、その戸田城聖が戦後立ち上げた創価学会では、その呼称・名称はどうであれ、戸田城聖亡き後に三代会長となった池田大作が、現在でも生き仏として奉られている事からも、その教祖としての事実上の役割を演じたことといえる。
その体たらくは先述もしてきたが、創価学会の社会的性格を理解するためには、とくに拙論文P66で述べたことを再確認しておく必要がある。
■教祖は利用価値がある
小口偉一は、宗教団体において、教祖は、信者にとって利用価値があるとして、こう述べる。
「人が教祖を崇める場合に、教祖は彼らに利用価値があるといえる。この言葉はこのばあい、あるいは、不適当な表現として不愉快に思う人があるかもしれない。熱心な信者に向かって、『教祖はとても利用価値がありますね』といってら、なぐられてしまうであろう。
しかし、教祖が彼の生活の指針となり、生きる力の源泉となるならば、教祖は大きな利用価値があるといえよう。これは現世利益をモットーとする新興宗教をみればよくわかる。教祖に従っていて、利益が得られず、損害を受けたと感じた人は、さっさと教祖のもとを去ってゆく。意識するとしないとにかかわらず教祖の利用価値が問題となっているのである」(同書P149上段)
「中には、はっきり教祖の利用価値を字義通り意識している一群の人さえいる。彼らは教祖をたてまつり、教団の拡大をねがっているが、教祖を心から尊敬しているわけでもない。彼らは宗教活動によって、何らかの現世的な利益をはかっているのである。いわば宗教を利用しているのである。このばあいは教祖はどんな人でもよい。ただ利用価値さえあればよいのである。教団の組織者のなかにはこんな人間がいる。また選挙目当てに信者となる代議士もある。
つまり、教祖に何を求めるかによって、教祖の姿も変わってゆく。したがって、それは時代とともに変化し、民族や社会の状態によりちがってゆく。戦前は微々たる宗教集団が戦後急速に拡大したのも、宗教あるいは教祖が特に変ったとも思えない。変ったのは社会の状態であり、人の心あり、教祖に対する評価がかわったのである。」(同書P149)
これはまさに指摘されたとおり、戸田城聖から池田大作時代の創価学会にそっくりあてはまる。
現世利益を求めて集まってくる各々信者も、戸田城聖・池田大作を利用し、自らの心の糧とし満足を得ていたのである。
また、心の糧はさておき、本音として生活の糧・権力の維持・企業や政治や組織の取引のために集まって利用する輩も多いのは、想像に難くない。創価学会関連企業やその取引関係にある企業も大いに繁栄しており、また、総体革命によって熱心な創価学会の信者が社会の有力な組織や企業に広く入り込んで活躍している状態であり、創価学会は、教義はともあれ、それらを利用し利用される共同体に近い関係を大きく社会に築いてきたといえる。
教義の科学性などではなく「ただ利用価値さえあればよいのである」というのは、至言である。
戦後の新興宗教を求める民衆の心について、小口偉一はこう述べる。
「戦後の日本は苦悩に満ちている。経済的な行きづまり、道徳の混乱、それにともなう家庭内の葛藤や破たん、原爆の不安や再軍備など。そのために自殺や犯罪がふえ、ノイローゼになり、そうでなくてもやりきれない陰鬱な気持ちに陥っている人が多い。多くの大衆はこれを個人の力ではどうにもならないものとあきらめ、自信を失っている。そして別の世界、自分では達せられない完全な世界、現実の生が決して与えてくれない驚嘆と希望に満ちた奇蹟の世界をあこがれる。彼らはその苦悩が政治的圧迫や経済的機構の欠陥にもとづく社会的なものであることにはっきり気づいていないが、現実社会への絶望感と漠然とした末世観をもっている。
そこにあらわれたのが教祖である」
「新興宗教の信者には女性が多い…多くは農民や商家中間層以下の主婦である…一般に近代的教養の少い単純な人たちである…
ところが終戦となって、すべては変ってしまった。経済的変動は容赦なく彼女たちの上にのしかかり、ゆさぶっていった。彼女たちは、それに対応する力をもっていなかった。…彼女たちはぼう然として、なす術を失ってしまった。この手をさしのべたのが新興宗教であった。わずかに持っていた理性的判断も、混乱していた感情の渦のなかに没して、神がかり的・呪術的な救いの手にすがっていった。こうして驚異的な速度で新興宗教は女性の中にひろがっていったのである。」(同著P150-151、コメント1)
これは、敗戦を機にGHQ統治下で、戦前の価値観や縛りから解放され、自由になった日本国民が、無力・孤独にみまわれて、そこから逃走する心理、先述した「自由からの逃走」に述べられているフロムの指摘とも重なる。
■理想像としての教祖
「信者は教祖から何を求めているのであろうか…彼らはすべてをまかし切って安心できる力の持主をのぞんでいる。それは理性的な判断ではなくて、不安におののく情緒に基づくものである。したがって彼らの求めているものは、彼らの共感を呼び、彼らの心にふれて、それをゆさぶるものでなければならない。
教祖はそれを持っていた。…彼らには教祖の姿がもがいて苦しんでいる自己の救われた時の像として映る。それは…身近かな、自分の心にじかにふれるものを持って立っている。彼らは教祖のうちに一種の共感と憧憬を感ずる。教祖は新しい世界への希望をかきたててくれる。彼らは教祖にすがりつくことによって、心の安定を得たいという衝動を感ずる。先達として自分の前を歩いてゆく教祖にすべての希望をなげかける。こうして教祖には彼らが失ってしまったさまざまな理想と神像が彫り込まれ、教祖は彼らの最高の特徴をそなえた偶像となってゆく。つまり教祖は信者の一人一人の持つ理想像であり、象徴である。『神が人間をつくったのではなく、人間が神をつくったのだ。』(フォイエルバッハ)」(同著P151-152、コメント2)
これはまさに、戸田城聖が教祖としての要件を備えていたこと、とくに拙論文P66で指摘した、御本仏池田大作がつくられていったことを、宗教学の先哲小口偉一は言い当てている。
しかも、同著での紹介時点では、戸田城聖は日蓮正宗の教義を借りた創価学会の教祖、池田大作は創価学会の教祖ではなく「組織者」であったことも、先述した。
現在の創価学会は、先述したが、かなり歴史を重ねて後からになって、牧口・戸田・池田の創価三代会長を永遠の師匠と仰いでいる。
つまり、今では永遠化された戸田城聖や池田大作も、その後の信者たちがつくった偶像であろう。
小口偉一は牧口を創価学会の人物とは認識しておらず、戸田を教祖としている。
創価学会の事実上の教祖である戸田城聖は、日蓮の「血脈」を借用した。そして、俗世の牧口常三郎を師匠とし、組織者としての池田大作を、あくまで俗世の弟子の一人として利用したといえる。
竜年光や石田次男なども弟子の一人ではあった。
そして、組織者であった池田大作は、師弟不二を利用して「教祖」として祭り上げられ、また自らもその存在として、戸田城聖の言葉を利用し又は捏造(造反者たちの暴露によれば)しながら振る舞い、創価学会の組織を拡大させた。
創価学会の拡大は、当時の社会的背景や入会者の恵まれない境遇が大いなる要因となっていたことも事実であろう。
池田大作の「師弟不二」の論理は、主に小説「人間革命」「新・人間革命」などで捏造・創作された戸田ー池田の関係を模範とし、池田ー側近幹部の関係、そして幹部の上下関係から末端組織会員までの関係にまで、演繹されていた。何か困ったことがあれば、上級幹部の指導を受け、それをそのまま受け入れることがほぼ決りとして常態化していたのを私は見てきた。
師弟関係は、身近な末端組織内でも、緩やかではあるが、適応されていたのである。
「教祖の姿・行動を、自身の人生の理想像・行動規範としてつくりあげ、自己と教祖を同化・一体化することで喜びと勇気と達成感が得られる。ともすればその地位に安住し他の組織員を利用する。
心の支えとし、癒す糧とし、励まし合い、同化し合いながら、一人ひとりの組織員から積極的につくりあげ続けられた蓄積、その歴史である。」とも小口偉一は指摘する。
これは仏法の依正不二の原理より、信者も教祖・中心者を利用し続け、集まることを示している。
「法難は信者により一層つよい感銘を与える。われわれには十字架上のキリストをはなれたキリストは存在しない。
しかし宗教的行動とは無関係な刑事事件まで法難と称するような新興宗教のやり方は、信者を偽瞞する悪質な宣伝である」(同著P153)
と、同著でははっきりとクギを打っている。
■自立しえない人々を取り込む
また、その社会的事項として
「第二に必要なことは、自信を失った人の望みにかなうようなものを持っていることである。それは真理の探究でなく、現実を捏ねかえたもの、自己欺瞞をひきおこすものであってもよい…
戦後アメリカの占領をうけて…道徳的基準や価値体系が動揺し、いろいろな心的葛藤生じるようになった。こういう時に、その動揺と不安から逃れようとして、かつての社会、文化に立ちかえそうと要求する人たちが生ずる…
また、最近の自然科学の進歩はめざましく…オートメーションも現在の政治経済機構のなかでは、人間の職場を奪おうとしている。
こうした不安は、人々の自信をぐらつかせ、そのような新しい文化を否定し、古に復そうとする気持ちをおこさせる。それは社会の進歩を妨げるものであり、非合理的なものであり、いきおい呪術的にならざるをえないが、戦につかれ、自信を喪った人々には一つの逃避場所となる。それに一役かっているのが新興宗教である」(同著P154、コメント3)
「現代の日本はさまざまな苦悩にみち、か弱い一般大衆はその圧迫にたえかねて、いまにもうちこわされそうな状態にある。そしてそのゆきづまりの根源がどこにあるかを見きわめることもできず、それを打開する方法もしらない。娯楽、スポーツ、冒険、性欲などで、自己を瞞着し、好奇心と流行を追うことによって、わずかになぐさめているけれども、一度困難な立場においこまれると、うごきがとれなくなる。こうして人々はみずからのうちにはない、超越的な力によっての解決を求める」(同著P160-161)
この指摘通り、宗教としては、聖典としての小説「人間革命」「新・人間革命」をはじめ様々な機関紙などの出版物や、幹部指導、執行部の打ち出しの内容などが、「それは真理の探究でなく、現実を捏ねかえたもの、自己欺瞞をひきおこすものであってもよい」のである。
こうした小口偉一の指摘をみると、フロムの指摘する「自由からの逃走」先の一つとして、新興宗教が選ばれたといえる。
様々な苦悩は時代を超越して存在しつづける。
非科学的なことが冷笑される現代のIT・AI時代においても、やはり、自立しえない個人にとっての逃走先の一つとして、非科学的・絶対的な教義を標榜する宗教は存在しつづけているし、今後も止まないで、新たな紛争の連鎖を引き起こしていくであろう。
なぜならその逃走先は、フロムが指摘する「ファシズムの温床」だからである。
「自立しえない人々」について小口偉一はこう指摘する。
「…彼らはながい間生活に苦しんできた。しかも近代的な経済機構のなかでは、いつもひきずりまわされ、あるいはそこからはみだした人たちであり…混乱した社会、不況におそわれた時代には、もっともつよくその影響をうけ、生活条件が悪化し、危険にさらされ、それを強く感じる人たちである。しかも、その不況が社会的、経済的、政治的な問題であることを自覚しないで、個人的な問題としか見ることができない人たちである。一言でいえば、彼らは現代社会で自立しえない人たちである。
彼らは社会不安の中にあって、個人の安定を求める。そして外からの救いをまっている。彼らが宗教に入るばあいには、病気や破産、家庭内の不和などをきっかけにするばあいが多く、ことに病気が多い。しかし、それが真の原因ではなく、その前から準備されている不安が根底にあって、それが病気によりあらわにされたのである(同著P161)
そして、
「新興宗教はその身体的苦悩もいらしてくれるし、商売繁昌、家内安全も約束してくれる。…ゆきづまった彼らは、なんの批判もなく、それにとびついてゆく。深い哲学や道徳を要求しない彼らはその宗教の非合理性や矛盾にも頓着しない。彼らはひきこまれるように信者になってゆく…」(同著P161、コメント4)
また、『救われた』人々については、こう指摘する。
「新興宗教によって救われたという人が随分いる。病気がなおり、商売も繁昌して大喜びでいる人たちのなかにはそれが偶然信仰に入った時と重なっただけと思われるばあいも少くない。また進行したために一家が離散したり、病人が死んだりした例もたくさんある。祈禱性精神病になった人も多い。しかし信仰に入ることによって、精神的な安定をえた人もたしかにある。」
創価学会によって救われた人も、歴史を重ねるたびに随分といたことであろう。
創価学会では、昭和時代には話が盛り付けられたような霊的・奇蹟的な信仰体験が機関誌を賑わせていたが、最近では、ごく常識的な事例がほとんどとなった。それらのすべては、創価学会の信仰によって直面した困難の受け止め方が変わった・向上したという内容に変わっている。
ただ、同著では、信仰の「救い」について、厳しい見方をしている。立正佼成会の信者の例が挙げられているが、創価学会を含む概ねの宗教の信者についてを言い当てている。
「第一にいえることは、信仰によって行動の仕方は変化したが、パーソナリティはほとんど変っていないことである。今までは日常生活で我が強く、他人を攻撃し、人をこまらせていた傾向が、お導きの名により、仏の権威をかさにきて、他の人に信心を強制することに形をかえているに過ぎず、その欲求満足の仕方、はげしさは少しもかわっていない。むしろ合理化されて、はげしくなっている。彼らで変ったのは外面の像だけである。そこでは宗教の要求する道義性、自己反省が信仰の前提になっていない。一応へりくだること、人につかえることは教えられるが、みずからによって自己のうちにひそむ非倫理的、反道徳的な欲求をはげしく追求し、自己のうちの聖なるもの、永遠なるものを求め、それを築きあげようとする努力はほとんどみられないといってよい。道場では感謝しながら便所掃除をし、へりくだって人の草履をそろえる人が、家庭の夫や子どもを放置して家事をかえりみない。人の迷惑を考えずに、信心を強要して人の家庭をかきみだす。そこには狂信的な行動はあっても、心からの謙虚さはみられない。信仰によって人がかわったといわれたといっても、それが真の回心をもたらすであろうか」(同著P165)
創価学会でも、たとえば会館では感謝しながら便所掃除をし、へりくだって草履をそろえたり花を飾ったりする婦人部や女子部(近年は人不足のため女性部に統合された)の幹部たちの中には、家庭をかえりみない人も少なからずいて、ほったらかされた夫や子供からヒンシュクを買っている例もしばしば耳にする。
何を隠そう私もその類であって、ついに成人した二人の子どもたちに、創価学会の信仰を託すことができないでいた。今となっては、子供なりに自立し客観的な生き方ができるように育ったことが何よりの幸いだったと思い返している。
■現世利益だけを求める宗教
「第二に、ここでは現世利益だけが求められている。病気その他が入信の機縁となっても、真に宗教にもとめられるものは、内面的主体的な解決であり、自然科学でみられるような物質的、客体的な解決ではない。ところが多くの新興宗教は家内安全、商売繁昌、病気平癒を看板とし、信仰さえすれば、[それだけで]これらのすべてがみたされると説く。極端なばあいには、伝染病や骨折の時の医療も否定し、農地への施肥も行わせない。そして多くの人はそれにひかれている。これが真の信仰のあり方であろうか。」(同書P165-166)
と、実に手厳しい指摘である。
こうした例は、かつての創価学会の組織内でもあったことであり、最近ではめっきり耳にしなくなったが、たとえば「医者に見放された時が勝負だ」などという指導がまかりとおっていた時代もあった。その勝負の時とは、病気だけでなく、サラリーマンにとっては「クビになった」時、企業経営者では「倒産した」時、受験生にとっては「入試に落ちた」時、夫婦では「別れた」時など、様々な人生の試練の時をいうのであった。
創価学会も、真の日蓮仏法に反して、現世利益追求を真っ先に掲げている。
その、よくいわれている名目は「仏法の正しさを社会に実証する」である。
「仏法は勝負」と掲げ、何よりも実社会での様々な勝負に勝つことを是としている。
創価学会では、常日頃から、日蓮の遺文の四条金吾御返事(世雄御書、御書P1165-1169)のなかの、
「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(御書P1165)
「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書P1169)
を文証として「仏法は勝負」を引き合いに出し、財務や立候補者の当選を勝ち取ることが仏法だと、選挙のたびに票取りに会員にハッパをかけている。
この「仏法は勝負」の意味については、前ページでも取り上げたが、仏法が現実生活における勝ち負けにおいて「勝つこと」を意味しているのではなく、仏法修行における仏法の内容の正邪善悪・高低浅深の尺度において法華経が他の今日よりも勝っていること、そしてそれを取り入れなければならないこと、他の経より優れた法華経を根本とする行動を貫くことにより、成仏という完成が成しうることを示した。
この日蓮の遺文も、全体としてみればこういう意味であり、けっして対抗相手と差し違えてチャンバラをやって勝てという意味ではない。
この遺文では、主君である念仏信者の江間氏から法華経を捨てる旨の誓約書を書けと迫られて窮地に陥った四条金吾に対し、日蓮が事細かく指示・指導された内容が書かれている。
そもそもこの遺文の次の段には、
「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」
《日蓮は若い時から、今生の利益を祈ったことはありません。ただ仏になろうと思い願っていただけです》
と、あるではないか。
この部分は、日蓮仏法において、その目的は成仏という完成であり、はっきりと現世利益を否定している箇所なのである。
当然ながら、現実生活における勝負は、一方が勝てば他方が負ける。では、負けた方に仏法はなく、勝った方にだけ仏法があったということになり、仏法の普遍性がなくなる。すなわち万民救済の仏法ではなくなり、勝負に勝つ方にしか仏法の正しさがないことになってしまう。これでは仏法とは勝者の身勝手な理屈になり下がってしまい、大いなる矛盾・欺瞞の根源になっている。
非活となった学会員の中にも、このように感じている人は多いだろう。
そもそも、真の日蓮仏法を正しく実践しているとはとうていいえないのに、その正しさが実証できるのであろうか。
第二代会長の戸田城聖も、先述した通り、創価学会の唯一の目的は国立戒壇の建立であると言ったが、教団の現世利益のみを追求する他教団を烈しく批判していた。
ところが池田大作の時代になってから、組織の現世利益追求が激しくなり、現状ではすっかり、戸田城聖が当時に非難していたような他教団の姿になっている。
最近いい出した?教義の中に「創価学会仏」なるもの――組織自体を仏、つまり聖なるものとみなす定義――がある。しかし、現世利益本位の今の創価学会の組織的な打ち出しや方向性には、小口偉一が指摘した真の「自己のうちの聖なるもの、永遠なるものを求め、それを築きあげようとする努力はほとんどみられない」ともいえるのではないだろうか。
末端組織においては、こういった執行部の打ち出しは右から左へ流しながら、己の完成へと汗を流す幹部も少なからずいるのも見かける。しかしそういった人たちは、組織の一人ひとりの信仰を世話しながらも、上層組織の打ち出しに対してニセの自我を演じながら忖度しているのである。なんともやるせない姿であるが、彼らは竜年光のように、時を待っているのかもしれない。
こういった組織内での乖離も、社会的性格の一つの要素である。
さらに同著では、
「…個人の自覚、社会的存在としての自覚をよびおこさない、むしろ、その成長をとどめてしまう信仰からは、ヒューマニズムは生れてこない。ヒューマニズムの育たない信仰は果して真の救いであろうか。
『宗教は…あたかも自然とのたたかいにおける未開人の無力が、神や悪魔や奇蹟などの信仰を生み出すように、搾取者とのたたかいにおける被搾取階級の無力は、よりよき来世の生活の信仰を生む。…また他人の労働を搾取して生活している人間に対しては、…きわめて安上がりな『ゆるし』を与え、適当な価格で天国の幸福への切符を売るのである。宗教は資本の奴隷が、おのれの人間像を、いくらでも価値ある人間生活たらしめたいという要求をもつときに、これを溺死させる一種の精神的魔酒である。』
『宗教は抑圧された生物の探索であり、宗教は民衆の阿片である』マルクスのこの見解は新興宗教に対しても大きな意味をもっているのではなかろうか。」(同書P167、コメント5)
と、手厳しい指摘が展開されている。
これまで拙論文で先述してきた通りとすれば、自公政権という権力の座に20年間居すわり続けている現状の公明党(=創価学会)も、結党の精神はどこへやら、残念ながらその範疇にあると言わざるを得ない。
公明党については、政権維持のため自民党などとの駆け引きにおいて、日蓮仏法の精神に反する様々なことが組織内外から指摘されているが、煩雑になるので割愛する。
ちなみに日蓮は、三度の法難の後、権力側である鎌倉幕府の現世利益の懐柔を断固としてはねつけ、身延に入山したのである。
組織としての現創価学会の姿は、日蓮の姿と正反対であろう。
■神秘的な要素
話を戻して、戸田城聖と池田大作は、教祖としての要件を備えていたことは、以下の小口偉一の指摘からもうなづける。
「教祖に必要な第三の点は、なにか特別なもの、異様なもの、神秘的なものという印象である。…自然科学は日進月歩の勢いで進んでいるが、すべてを解決することはできない。しかも科学は明瞭にその限界を示し…ところが人間は不明のものを不明のままにおくことは不安である。…この不安な空白を埋めてくれるものを求める気持ちは皆のなかにある。それは科学的なものではない。したがって非合理的なものであるが、人の心をとらえる。この役割を果すのが宗教である。それは理性的な才能からはみだし、健康人の枠からとびだしたものであってもよい。…内的矛盾も多い…
あらゆる宗教現象は多少とも超自然的、超感覚的な世界と関連し、純粋な理性に立たず、きわめて情緒的な反応と非合理的な実践をともなうものである。そして時には『不合理なるが故にわれ信ず』ということも認められるのである。シャマニズムは一つの典型である。」(同著P154-155、コメント6)
この指摘は、原始仏教から日蓮仏法、そして日寬アニミズムから創価の師弟不二までにおける様々な非科学的指導内容の多くを実に言い当てているといえる。
教祖すなわち宗教団体の中心者・最高指導者は、孤独で無力に陥っている民衆の日常及び将来の悩みや不安を埋めることができる存在でなければならない。たとえそれが道徳的に低レベルである利益目的でも報復目的であっても、そしてその教義内容や方法が非科学的・非合理的なものであっても。
こうして古今東西、人の心を捉えながら、日常、ささいな心理的な癒しから高度に人間的な完成を目指す役割を果してきたのが宗教なのである。
現代のようなIT・AI時代、すなわちAIがその不確実な現状や未来に100%に近い確率で確かな答えを示す時代になっても、そもそも100%絶対的な解答は不可能であり得ないのだから、残りの僅かな不確実性に対する不安が残る。これはあくまで相対的で、個人的な受け止め方の程度に左右されるのだから、時代が変化しても人間の完成度が向上しない限り、その人間が感じる不安の程度は変化しない。
つまりは、非科学的・非合理的な宗教は、今後も栄枯盛衰や絶滅・誕生などでの入れ替わり等で形態が変わることはあっても、人間の完成度が向上しない限り存在しつづけることになる。
こういう意味では、宗教団体における中心的指導者のあり方も変わってきているといえるし、これは、創価学会の現在の幹部についても同様に当てはまるだろう。
宗教、とりわけ新興宗教においては、孤独で無力に陥った人の不安や精神的緊張を一時的にも緩和する効果のある実践が取り入れられている。
人は一人では生きていけない。そこに二人、三人と、心を分かち合い志を同じくする仲間が寄り添うことだけでも、心理的な癒しの効果が期待できる。好きな仲間が一緒にいるだけでも程度の差こそあれ何らかの効果が期待できる。そこにおける心の内容は非科学的なものであっても、寄り添うことによる心理的効果は科学的なものである。
さらに強く心を結び団結することによる、個人的心理学的治療効果は向上する。
非合理的な報復の連鎖が歴史上絶えず行われて来たのも、非合理的ではあるが、それらを行う組織や団体の科学的心理的結束がそれを支えていたと言える。
それには、目指すところの教義や意思統一をはかる集会があり、組織を担う幹部や先輩などの指導がある。これらの容態や名称は団体によって異なる。
現在の創価学会の場合は、月一回の座談会、月数回の活動社会、不定期の幹部会などである。数字の語呂合わせなどによって年に頻回に記念日や発足日、組織の日(たとえば壮年部の日、○○地域の日など)が決められており、それに向けて関係各位が努力する。また、聖教新聞の啓蒙(購読者の勧誘)や友人の勧誘、さらには、毎年なにがしかの国会議員や地方議員選挙が全国のどこかの地域・組織で行われるため、ひっきりなしに活動者会や座談会などで、地域を超えた選挙の票取りなどに尻を叩かれ続ける。
こうした、団結して組織活動をする事によって、個人は様々な悩みから一時的に解放されて満足感を得られる。
もっとも、これによっておろそかにされるものも多く、フロムの指摘するように、これらの活動は権威に自己を隷従させる共棲によるものだから、その代償は将来総合的にみたら高いものであると思われるのであるが。
■創価学会の勤行・唱題
日常の仏道修行の一つに、勤行・唱題がある。
唱題とは、仏壇に安置した御本尊(掛け軸マンダラ)にむかって見つめ、正座して(正座できない人や膝が悪い人は胡坐や椅子などでの座位で)、手を合わせて南無妙法蓮華経(というマントラ)と唱えることで、勤行とは、法華経方便品(の一部、十如是まで)と寿量品を唱えることである。
勤行は、昔の創価学会では、主に破門前までは、朝は5座、夕方は3座と称していた。
それは、朝の勤行は先ず御本尊に向かって題目三唱、そして初座に入る。初座は東天にむかって方便品と寿量品の自我偈、その後御観念文、2座は御本尊に向かって方便品と寿量品すべて(これを長行と称した)、3・4座は初座と同じ方便品と寿量品の自我偈と御観念文、5座は方便品と寿量品の自我偈のあと、心ゆくまでの唱題(個人の目標や日によって、時間的要素もからまって異なる)を唱えてから御観念文、最後に題目三唱で終わる。各座の御観念文は経本に書かれているとおりに心の中で念じる。
夕方・夜の勤行は、朝の3・4座が省略されたものである。
経本と称する、これらを念入りに解説したマニュアルが存在するが詳細は割愛する。
こうしてみると、慣れた会員でも朝は最低20分、夜は15分は正座して御本尊の一点を見つめ唱えていることになる。
私などは、幼少の時からこれを行ってきたため、小学校高学年になるころには経本を見ないで方便品と寿量品長行・御観念文まで暗唱出来ていた。成人して医者になり、入った医局内での実験動物の供養の日には、導師として白衣を着ながら読経し、坊さんさながらの役割を演じていたのである。
破門後の創価学会では、勤行が簡略化された。すなわち、題目三唱、方便品と寿量品の自我偈、唱題、その後御観念文、最後に題目三唱と、短縮された。唱題の時間は各自自由なので、忙しい人は最短3分で終えることができる。
この勤行・唱題の効果はある程度科学的に説明できる。
この行為による功徳の有無はともあれ、なにより、精神的な緊張を一時的に軽減できる。もっとも、一時的なので、費やす時間が長いほど効果があることになる。さらには、それに対する熱意や集中度なども影響するので、個人差が大きい。
日蓮仏法では、勤行・唱題をする事によって、その時に個人の生命に「仏界」の境涯が顕われるとされている。
ただ、同じリズムの繰り返しがあるので、その部分で居眠りをしてしまう場合も多い。この場合は不真面目だから功徳が消滅すると教えられていて、勤行・唱題中には居眠りをしないようにとされている。実際、居眠りをしてしまった場合「成仏した」と皮肉に言われたりする。しかし、この事自体も、精神的緊張から一時的に解放された効果なのである。
組織拡大期の創価学会では、熱心な信者は勤行・唱題だけでも最低30分は費やしていたことになり、それだけでもかなりの心理学的な癒しは期待できていたであろう。
最近の創価学会が凋落傾向なのも、ひょっとするとこの時間が短縮されたことが影響しているかもしれない。
さらには、生活のリズムを整えることでき、これによる効果も期待できる。
しかしながら、この修行による効果も、精神安定効果、一時的な解放が得られることも含めて、心理学的には、フロムが述べるような自由からの逃走による要素が多い。
あとは、各個人が、これをきっかけにして日常生活の中で完成を目指す社会的実践をするかどうかが、その人の完成度の向上に影響することとなる。
創価学会では、功徳の出る説明として、マンダラ本尊の仏力と日蓮仏法の法力と、個人の信力(信ずる力)と行力(自行化他の行ないの力)とが感応して、功徳が出て、願いが成就するとされる。
しかし、私は医者になって様々な患者と接する(その中には一定の割合で創価学会の会員や幹部もいた)なかで、これは大いなる欺瞞である。すなわち、マンダラ本尊の仏力は存在しない、日蓮仏法の法力とは、単に真理と定義し人の道を説く法則の正しさとしての意味をもつのみで、実際の作用は物理化学的・生物学的などを含めて一切存在しない、個人の信力とは、せいぜいプラセボ効果や心理的効果をもたらすのみで、実際に現実を解決する作用は行力、すなわち個人の努力の如何にかかっていることをうすうす感じ始め、臨床経験10年ぐらいで、これを確信した。そうでなければ、様々な臨床経過が説明できないからである。
しかし、私はあえて黙っていた。末端の学会組織の患者やその友人に、この功徳の出る説明が疑問であるなどと聞かれても、せいぜい、仏力+法力=信力+行力で、これらは作用・反作用の関係であろうと説明していた。
現実には、行力を支えるものでしかない他の3力を、他のもので十分代用可能である。信力については、民間療法的なレベルであり、仏力に至っては、非科学的呪術的信仰の賜物である。
法華経なら、それを説く前に釈尊が、
「四十年余り、未だ真実を表さず」
と宣言し、方便品において、
「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」
と説いたことが書かれている。
かくいう私も、釈尊ほどの完成があるのなら、まともに、これを組織内で実践したい思いでいっぱいである。
その上、創価学会の会員で、科学的知見に優れた人物も少なからずいるはずであるし、そういった知見が必要な理系の職業に従事する人も多いから、自分自身で自己の信仰を科学的・客観的に分析・洞察して、拙論文に似たような結論をもっている人もいるだろう。
「正直に呪術的幻想を捨て、ただただ科学的真実のみを用いなさい」
と、宣言したい気持で一杯である。
しかし、それでは、呪術的教義に支えられた組織はやがて崩壊することになろう。そうする前に、教義のアップデートがなんとしても必要であろう。
ただ、日蓮正宗から破門された時にも末端組織内では大いなる混乱があったことから、たとえば学会執行部に近い幹部がこういったことを明らかにしたら学会組織がもたないことは想像に難くない。これでは破和合僧(五逆罪のひとつで、阿鼻地獄に堕ちる因とされている、これもいわば洗脳の部分)につながるとの恐れも私にはあったことは事実である。
創価学会も、他の新興宗教と同じく、呪術的非科学的信念を持った人たちによって支えられているので、これらの幻想を一気に捨てることは、組織の崩壊に直結するであろう。
それでは、もっとも被害を被って可哀そうなのは純真な末端の会員である。
たとえば臨床において、手術は医学的に成功したが、患者は死んでしまった、というようなことになってしまうと、本末転倒である。そのような場合は手術の適応ではないから、現実には手術は行われない。
この事態に対する医学的な処方箋を、私は未だ書くことができないでいる。
わずかな勇気が必要だが、組織からの逃避(脱会)は簡単だ。
臨床では、専門外の患者は、言葉は悪いが他の専門医にすべて丸投げすることも、日常的に行われている。
だがしかし、私は創価学会組織内で育ち、末端の純真な信仰者である多くの人たちに世話になって医師になった立場や人道的観点から、そう簡単に割り切ることが未だできず、悩ましい立場にいるのである。
■組織活動による個人的な心理的効果
創価学会は、その組織拡大期においては、折伏と称する布教活動が主を占めていた。相手を折り伏せるというこの布教は、しばしば暴力的事態を引き起こしていたことが、多くの識者たちから指摘されている。
さらにこれに、地方や国政の選挙活動が加わり、ますます挑戦的なものとなっていく。
この組織活動の実践による、個人の内部における心理的効果は抜群である。
当時の会員は貧・病・争と揶揄される如く、社会的には恵まれない人たちが多くいた。
彼らはフロムの指摘のように、戦後、既成の権威から自由へと一気に解放されたが、自立できないが故に孤独と無力に陥っており、この自由から逃走するため、現世利益を約束する揺るぎない権威に身をゆだね、そこでの教えを純粋に実行する自動人間となったのである。
現実社会に対する不満や鬱憤、虐げられていた闘争性は、この場でいかんなく発揮することができた。これらのことは、小口偉一はこう述べている。
「原因を自己に属さない他の対象に帰することによって、緊張を一応少くすることはできる。…これによって、本当の解決がえられるかどうかは疑わしい…
次に、一つの権威あるものに身をゆだねることも気持を安らかにする。自己の能力をもって、自己の責任において行動することはつらいものである。たとえそれが自己を築きあげ、みがきあげるものであっても、それはなまやさしいものではない。…しかし、教祖によりかかることは容易である。そしてそれによって一応の安らぎがえられる。
また、もとのままでは社会的にみとめられず、充たすことのできない欲求が形をかえて、社会的に承認される行動のなかに充たされることができれば、それは緊張を解消できる。攻撃的な欲求もふつうの社会で発揮されれば、犯罪者となるが、対校競技(ママ)にあらわれれば、その敢闘が賞讃され、殺人も戦場では金鵄勲章が与えられる。性欲ももとのままでは人の非難をうけるが、ダンスは承認されている。
これらの行動は心理学的には、元来のままでは倫理的道徳的に社会にうけ入れられない欲求を昇華させたものといわれ、人間が社会生活に適応するための一つのテクニック、欲求不満におちいらないための一つのメカニズムである。
前に述べたような、はげしい信者の勧誘獲得も抑圧された攻撃性の転化も、その教団では承認され、ほめられている行動であり、見方によっては昇華といえるかもしれない。しかし…創価学会の折伏によって、被害をうけた人も多いのである。つまり承認している社会は、ごく狭い限られた集団であり、それ以外では認められない行為であって、本当の社会的な昇華ではない。しかしこれによって欲求を一応満足させている人がいることはたしかである」(コメント7)
まさに、創価学会の「仏法は勝負」の打ち出しながら選挙の票取りへと、会員の闘争精神を煽りかき立てるのは、あくまで表面上、個人的心理としては「昇華」させているともいえる。
しかし、選挙のあるたびごとにだけ、電話をかけてきたり訪問されたりすることで迷惑に感じている人も多いのである。
また、組織内でも末端や中堅幹部等でも、それを信仰や団結の名目で嫌々ながら半分強制状態におかれている会員も多いだろう。
こういった要素も、創価学会の社会的性格において重要な位置を占めているのである。
■宗教学、現世利益宗教の運命
さて、小口偉一は、東京大学法華経研究会編「日蓮正宗創価学会」について感想を寄せている(同著の最後の3ページ)。
そこで、宗教学の基本的な性格について、こう言及している。
「まず第一に宗教学は宗教現象を客観的に観察することから出発する。言葉をかえていえば、宗教の正邪・善悪あるいは優劣というようなことには触れない。あらゆる宗教を没価値的(価値判断を加えないという意味)に取扱うものである」
「第二には、宗教現象の観察にはじまる操作は、あくまでも現象の理解を基礎とすることである。
宗教学は、宗教の[本質]を説く学問ではなく、宗教の[現象]を究明する学問なのである」
「第三に、宗教学は、特定の宗教のための学問ではない。宗教のための学問としては、キリスト教にはキリスト教[神学]があり、仏教各宗派にはそれぞれの[宗学]がある。教派神道における[教学]も同じ性格である。神学・宗学・教学というような学問形態は、きわめて特殊なものであって、[科学]としての宗教学とは根本的に性格を異にしている。…中略…宗教学は神学的・護教的なものをも研究の[資料として]尊重しているといわねばならない。根本的な相違は、宗教学は宗教のための学問ではないことである。…」
「このような宗教学の立場から見ると、本書もまた、資料としての価値をもつことは明らかであり…」
宗教が、人々の幸不幸を左右する、また人々を救済する目的をもっている以上、宗教学が、宗教の[現象]のみを究明しながらも、善悪・優劣はともあれ、正邪――すなわち科学的な真偽――に立ち入らないのは、科学としての学問としてはいささか「没価値的」で弱腰な感がする。
これも、科学と宗教が袂を分けているためか。宗教の[本質]を説く学問ではないとされているのも同様で、いささか物足りない感である。
ともあれ拙論文は、少なくとも宗教学的な資料としての価値はありそうである。
しかし、宗教が何のためにあるのか、その存在意義が明らかな以上、その本質に対し科学的なメスを入れることが絶対に必要なのではないだろうか。
そのような科学的批判・検討がなされてこそ、神学もルネサンスとして様々に更新したのではあるまいか。
「進まざるは退転」と、創価学会の組織内でよく言われる。
宗学も教学も、アップデートがなく旧態依然としたドグマであり続けるだけでは、時代の進歩に取り残され、廃れていく運命にあるだろう。
事実、宗教学者の島田裕已は自著「宗教消滅」の中で、宗教は資本主義経済発展と密接に関わって発展してきたこと、そしてその発展には終焉がもたらされることを指摘し、「資本主義が終焉を迎えるということは、それと深く連動してきた宗教にも根本的な変化がもたらされることを意味する。それはどうやら、宗教の消滅という方向にむかいつつあるのである」(「宗教消滅」2016/2/15、SB新書、P242-243)と述べている。
資本主義の発展は、現世利益の追求そのものである。
それによって豊かになった社会では、現世利益追求のための宗教の利用価値が減少しつつあるのは確かであろう。
先にあげた小口偉一の指摘「現世利益をモットーとする新興宗教をみればよくわかる。教祖に従っていて、利益が得られず、損害を受けたと感じた人は、さっさと教祖のもとを去ってゆく。意識するとしないとにかかわらず教祖の利用価値が問題となっているのである」も、心理的道理を言い当てている。
師弟不二の実践を基本にして「仏法は勝負」「仏法の実証を示そう」と創価学会組織内では激励される。
この実証とは社会での実証つまり現世利益のことである。
これは、真の日蓮仏法ではないことは、拙論文で先述したとおりである。
つまりは、創価学会など、こうした現世利益追求に主をおく宗教は、彼のいうように、結局のところ、資本主義の終焉と同じ運命をたどることになるであろう。
ここに、宗教本来の存在意義・目的を科学的に更新続ける必要性があるのである。
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7.
コメント7
「原因を自己に属さない他の対象に帰することによって、緊張を一応少くすることはできる。もちろんこれは真の原因を把握したのではないから、これによって、本当の解決がえられるかどうかは疑わしい。しかしこのような解決の仕方が新興宗教に多いことは事実である。
次に、一つの権威あるものに身をゆだねることも気持を安らかにする。自己の能力をもって、自己の責任において行動することはつらいものである。たとえそれが自己を築きあげ、みがきあげるものであっても、それはなまやさしいものではない。自力本願は難行動である。しかしまた自己のすべてを仏にまかせることも、本当の意味ではこれも大変なことであろう。しかし、教祖によりかかることは容易である。そしてそれによって一応の安らぎがえられる。
また、もとのままでは社会的にみとめられず、充たすことのできない欲求が形をかえて、社会的に承認される行動のなかに充たされることができれば、それは緊張を解消できる。攻撃的な欲求もふつうの社会で発揮されれば、犯罪者となるが、対校競技(ママ)にあらわれれば、その敢闘が賞讃され、殺人も戦場では金鵄勲章が与えられる。性欲ももとのままでは人の非難をうけるが、ダンスは承認されている。
これらの行動は心理学的には、元来のままでは倫理的道徳的に社会にうけ入れられない欲求を昇華させたものといわれ、人間が社会生活に適応するための一つのテクニック、欲求不満におちいらないための一つのメカニズムである。
前に述べたような、はげしい信者の勧誘獲得も抑圧された攻撃性の転化も、その教団では承認され、ほめられている行動であり、見方によっては昇華といえるかもしれない。しかし『お導き』で迷惑を蒙っている人は少なくなく、創価学会の折伏によって、被害をうけた人も多いのである。つまり承認している社会は、ごく狭い限られた集団であり、それ以外では認められない行為であって、本当の社会的な昇華ではない。しかしこれによって欲求を一応満足させている人がいることはたしかである」(同著)
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「教祖に必要な第三の点は、なにか特別なもの、異様なもの、神秘的なものという印象である。これこそ新興宗教の大部分に共通している点である。自然科学は日進月歩の勢いで進んでいるが、すべてを解決することはできない。しかも科学は明瞭にその限界を示し、不明の所は不明として、われわれの前に提出する。ところが人間は不明のものを不明のままにおくことは不安である。ことに不安定な現在の生活では、将来はもちろん、明日のことさえわからないことが多い。この不安な空白を埋めてくれるものを求める気持ちは皆のなかにある。それは科学的なものではない。したがって非合理的なものであるが、人の心をとらえる。この役割を果すのが宗教である。それは理性的な才能からはみだし、健康人の枠からとびだしたものであってもよい。いな、むしろ健康で明晰なものよりも、異常なものの方がより大きな影響をあたえる。内的矛盾も多い、原始的、夢幻的思考のために、晦渋で不明瞭な異様さのために、精神病者の言葉がかえって深遠なものに見えるものである。
あらゆる宗教現象は多少とも超自然的、超感覚的な世界と関連し、純粋な理性に立たず、きわめて情緒的な反応と非合理的な実践をともなうものである。そして時には『不合理なるが故にわれ信ず』ということも認められるのである。シャマニズムは一つの典型である。」(同著P154-155)
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コメント5
「このような個人の自覚、社会的存在としての自覚をよびおこさない、むしろ、その成長をとどめてしまう信仰からは、ヒューマニズムは生れてこない。ヒューマニズムの育たない信仰は果して真の救いであろうか。
「宗教は至るところで、他人のための永遠の労働や、貧乏と孤独にうちひしがれた民衆の上にのしかかってくる所の精神的抑圧の一種である。あたかも自然とのたたかいにおける未開人の無力が、神や悪魔や奇蹟などの信仰を生み出すように、搾取者とのたたかいにおける被搾取階級の無力は、よりよき来世の生活の信仰を生む。全生涯を労働と窮乏におくる人間を、宗教は天国における報いの希望でなぐさめて、地上の生活における温順と忍耐とを教える。また他人の労働を搾取して生活している人間に対しては、宗教は地上の生活における慈善をおしえ、彼らのあらゆる搾取的存在にとって、きわめて安上がりな『ゆるし』を与え、適当な価格で天国の幸福への切符を売るのである。宗教は資本の奴隷が、おのれの人間像を、いくらでも価値ある人間生活たらしめたいという要求をもつときに、これを溺死させる一種の精神的魔酒である。』
『宗教は抑圧された生物の探索であり、宗教は民衆の阿片である』マルクスのこの見解は新興宗教に対しても大きな意味をもっているのではなかろうか。
しかも現実では新興宗教はますます興隆をきわめ、信者は増加の一途をたどっている。ここに日本の深刻な問題がある」(同書P167)
4.
コメント4
「新興宗教にひきよせられるのは、中年の教養の低い中産階級あるいはそれより少し下といった人が多い。彼らはながい間生活に苦しんできた。しかも近代的な経済機構のなかでは、いつもひきずりまわされ、あるいはそこからはみだした人たちであり、精神的には深い信仰や思想をもたないあるいはもとうとしない人たちである。彼らは大きな野心もなく、悪事もせず、平穏な世の中では、大した波らんもなく生活してゆく、善良な人たちである。しかし混乱した社会、不況におそわれた時代には、もっともつよくその影響をうけ、生活条件が悪化し、危険にさらされ、それを強く感じる人たちである。しかも、その不況が社会的、経済的、政治的な問題であることを自覚しないで、個人的な問題としか見ることができない人たちである。一言でいえば、彼らは現代社会で自立しえない人たちである。
彼らは社会不安の中にあって、個人の安定を求める。そして外からの救いをまっている。彼らが宗教に入るばあいには、病気や破産、家庭内の不和などをきっかけにするばあいが多く、ことに病気が多い。しかし、それが真の原因ではなく、その前から準備されている不安が根底にあって、それが病気によりあらわにされたのである(同著P161)
そして、
「新興宗教はその身体的苦悩もいらしてくれるし、商売繁昌、家内安全も約束してくれる。現世利益をねがう人には、もってこいの、ありがたい宗教である。ゆきづまった彼らは、なんの批判もなく、それにとびついてゆく。深い哲学や道徳を要求しない彼らはその宗教の非合理性や矛盾にも頓着しない。彼らはひきこまれるように信者になってゆく。それだけいきづまっているのである。」(同著P161)
3.
コメント3
「第二に必要なことは、自信を失った人の望みにかなうようなものを持っていることである。それは真理の探究でなく、現実を捏ねかえたもの、自己欺瞞をひきおこすものであってもよい。それがうまく変えられてさえいればよいのである。その一つが懐古的な復古運動である。
戦後アメリカの占領をうけて、日本の文化も強い影響をうけた。今までの文化の均衡が崩れ、道徳的基準や価値体系が動揺し、いろいろな心的葛藤生じるようになった。こういう時に、その動揺と不安から逃れようとして、かつての社会、文化に立ちかえそうと要求する人たちが生ずる。修身の復活、天皇制問題、紀元節の論議などはそのあらわれである。
また、最近の自然科学の進歩はめざましく、一般の大衆は原爆の不安にさらされ、おののきながら、何の予想も対策もたてられないでいる。オートメーションも現在の政治経済機構のなかでは、人間の職場を奪おうとしている。
こうした不安は、人々の自信をぐらつかせ、そのような新しい文化を否定し、古に復そうとする気持ちをおこさせる。それは社会の進歩を妨げるものであり、非合理的なものであり、いきおい呪術的にならざるをえないが、戦につかれ、自信を喪った人々には一つの逃避場所となる。それに一役かっているのが新興宗教である」(同著P154)
そして、宗教学という学問は、それぞれの宗教の実態を研究する学問であって、宗教そのものの教義の真実性を追求する学問ではないのである。
そんな体たらくでは、真実でないものが人を真の意味で救済できるだろうか。真の宗教とは、人を救済するためのものであろうから、真実性を追求しないことは、真の救済――人々を幸福へ導く――には、何の役にも立たないことになる。
誤った宗教ほど、人を不幸に導くものはない。
2.
コメント2
「理想像としての教祖
では、信者は教祖から何を求めているのであろうか。人がいかに深遠な教理をといても、天才的な科学理論を証明しても、進歩的理想をもって社会の改革を絶叫しても彼らはついてこない。その人を自分たちの救い主とは考えない。彼らはすべてをまかし切って安心できる力の持主をのぞんでいる。それは理性的な判断ではなくて、不安におののく情緒に基づくものである。したがって彼らの求めているものは、彼らの共感を呼び、彼らの心にふれて、それをゆさぶるものでなければならない。
教祖はそれを持っていた。教祖のほとんどすべてが彼らと同じ庶民であった。そして彼らと同じように『八方ふさがり』の苦しみを体験していた。しかも教祖は、彼らがみずからの力ではどうすることもできないとあきらめていた苦境から抜け出して、安心立命の境地に達し、世直しを宣言して、彼らの方に手をさしのべている。彼らには教祖の姿がもがいて苦しんでいる自己の救われた時の像として映る。それは自分から全くかけはなれたものではなく、身近かな、自分の心にじかにふれるものを持って立っている。彼らは教祖のうちに一種の共感と憧憬を感ずる。教祖は新しい世界への希望をかきたててくれる。彼らは教祖にすがりつくことによって、心の安定を得たいという衝動を感ずる。先達として自分の前を歩いてゆく教祖にすべての希望をなげかける。こうして教祖には彼らが失ってしまったさまざまな理想と神像が彫り込まれ、教祖は彼らの最高の特徴をそなえた偶像となってゆく。つまり教祖は信者の一人一人の持つ理想像であり、象徴である。『神が人間をつくったのではなく、人間が神をつくったのだ。』(フォイエルバッハ)」(同著P151-152)
1.
コメント1
「新興宗教の信者には女性が多い。どの教団でもその六割ないし八割は女性である。しかもその大部分は、近頃は若い人も漸次ましてきたといわれるが、四〇代から五〇代の人が多い。また中には知識階級の人もまじっているが、多くは農民や商家中間層以下の主婦である。なぜ彼女たちが新興宗教に走るのであろうか。
その根底には年齢的に見て、現世における希望も薄らいで、来世の幸福を希う菩提心も流れていよう。しかしもっと重要と考えられるのは、彼女たちの社会的地位である。彼女たちの多くは前近代的封建的な家庭に生れ、その慣習のなかで育ち、嫁していった。一般に近代的教養の少い単純な人たちである。彼女たちをとりまく生活は因習に満ち、その中での対人関係は封建的色彩の濃いものであった。彼女たちは夫に従い、姑に使え、全面的全人格的服従を強いられていた。その裏づけとして家族道徳的なきずながあった。彼女たちはその中で忍従し、過重な労働にも耐えてきた。そのような道徳が支配し、それをまた身につけていた彼女たちにとって、平穏な時代には、その善悪は別として、特に問題はなかった。
ところが終戦となって、すべては変ってしまった。経済的変動は容赦なく彼女たちの上にのしかかり、ゆさぶっていった。彼女たちは、それに対応する力をもっていなかった。また従来からの道徳観念は次々と破壊されていった。子どもたちは彼女の手の届かない所に離れてしまった。彼女を保護していた周囲の壁も、内から支えていた人生観もすべて打ちくだかれてしまった。彼女たちはぼう然として、なす術を失ってしまった。この手をさしのべたのが新興宗教であった。わずかに持っていた理性的判断も、混乱していた感情の渦のなかに没して、神がかり的・呪術的な救いの手にすがっていった。こうして驚異的な速度で新興宗教は女性の中にひろがっていったのである。」(同著P150-151)