Racket-chan
Racket-chan's study of Nichiren and Soka Gakkai Buddhism, a climbing diary at the foot of Mt. Fuji, and an essay about a sailor suit idol
P76, 仏性や境智冥合の説明も,結局,宇宙意識と一体化を説くアニミズム,臨死体験,神秘体験
■マンダラ掛け軸、及び、その下付について
ちなみに次の日蓮の遺文、
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(日女御前御返事、御書P1388)
に対しての創価学会の解釈は、破門前とは異なって、本来、御本尊は妙法を唱える人自身の胸中に存するものであり、大聖人の御心に適かなう信心の一念があれば、たとえ御本尊を直接拝せなくとも、仏界涌現の功徳は厳然と顕れるとなっている(聖教新聞 平成5/9/8、取意)
これは画期的な更新と思われるが、日蓮正宗からの破門を契機に会員を脱会から阻止するため都合よく解釈を変えたという要素がある。そして新たに会憲を制定して、組織としては創価学会が「認定」したものを拝むことになった。以前に下付されていた御本尊や他の御本尊に関しても、真筆のマンダラもどれも功徳があるとされ、これは画期的な解釈変更といえるが、、拝めなくなった大御本尊は、弘安二年の御本尊は信仰の対象から外されている。
そもそも日蓮の意図からは、同じ意味・同じ内容が描かれたマンダラであれば、そして同じ信心なら、同じ功徳が得られると解釈するのが科学的にも筋にあっている。会員は自分の好きな、好みにあったマンダラを調達したり、自ら自由に描いたものを用いても同じことになるので、破門を機会にそうすればよかったと思うが、きちんと日蓮の血脈の意味を把握できていなかったのであろうか、もっと大胆な発想や転換がなかったか、組織の都合等のためか、会員は結局、創価学会が認定した日寛マンダラ(をパッチワークしたもの)を拝むことで統一洗脳されている。下付(一応は借りる名目となっていて、脱会する時には返さなければならない)する際に寄付が事実上必要だが、私の場合(分世帯名目の時と、お守り御本尊下付の時)はそれぞれ同席していた紹介者や末端幹部がひそひそ声で、ご供養として、5000円以上だったらいくらでも良い、上限はない、と指示された。御供養だったら砂の餅でもいいのではないかと疑問に思ったが、これは鉄則だったようだ。私が折伏して入会した人も最初の人には同じ文言で5000円以上を伝えたが、その2人目以降は、「ご供養の精神に立ち返って、砂の餅でも良い、1円でもいい」と伝えた。ネット上では定価3000円というのもある(コメント1)。同様に学会3世である私の息子の入会時も、同額を指示されて寄付した。こんな形式は真心からでるべき本来のご供養ではなく、メルカリなどで売られてもいるので実質的には単なる物品の販売・購入でしかない。
日蓮は、弟子檀那に直筆した曼荼羅を、このような意図で与えたのだろうか。けっしてそうではないことは明白である。
まあ、特定の組織に所属する以上、その組織の作ったルールに従うのはある意味当然ではある。しかし、その組織の目的――万民を幸福に導く、広宣流布という崇高な目的――や、仏法は道理である(科学的・客観的真理である)と日蓮が遺文で残していることと、信仰の本質に立ち還って見れば、自分で描いたり写真に撮ったりコピーしても、後述するが、いわゆる境智冥合する内容が同じなら同じ効果であることが、一片の理性があれば解りそうなことであり、万民救済の目的からすれば、写真に撮ることを禁止したり、仮に著作権使用料などを要求する等はもってのほかと思うのは私だけではあるまい。
下付する(貸す)、御供養などとすることなしに、入会者であろうとなかろうと明確に純粋な販売――一幅5000円也――とすれば、また他宗のように他の業者の作製も自由とすれば欺瞞なくスッキリとするところであろうと私は思う。創価学会専用と称する種々の仏壇やグッズも同様である。こんな本音を暴露されたらイタイと思う幹部や熱心な会員も少なからずいるだろうが、こんなところにも、会員の信仰心を利用して組織の利益を独占する目的が垣間見れ、創価学会の独善的体質が続いていることを示唆している。
ちなみに、日蓮宗や日蓮正宗関係のマンダラ掛け軸はメルカリやオークションサイトなどで古物としてときに出品され、それなりの相場が形成されているが、破門後の創価学会の会員へ下付しているマンダラは現時点で検索したら相場が5千円~2万円ぐらいで取引されているようで、わざわざ入会条件をクリアしてまで創価学会に入会しなくても、カネさえあれば手に入れることができる。
出品者・購入者がどんな人物かは想像に難くないが、割愛しておく。
物体としてのマンダラがなくても信仰ができることぐらいは、そもそも先述の日蓮の遺文に確かなことであろう。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
日蓮の時代には、多くの弟子檀那にもマンダラ無しで信仰していたのである。
日蓮が仏法は道理と述べる、つまり永遠に不変の客観的真実として、成仏にマンダラが必要なら、それも指定された特別なものが必要なら、例えば立宗宣言後の日蓮がマンダラを顕すまで、弟子檀那の即身成仏は無かったことになる。加えて、日蓮自身も、自らマンダラを顕すまで、主師親の三徳を具備する成仏の境涯には到達できなかったことになり、多くの矛盾・欺瞞が発生する。私は、これについて合理的・科学的に矛盾なく返答できる創価学会幹部に、今の今までお会いしたことがない。
■仏性とは
日蓮仏法についての創価学会関係者や御用学者による文献では組織の都合や利益が優先され、利益相反が担保されないし、科学的根拠や思考からかけ離れているのが多々あるのは否めない。
そこで、日蓮仏法についての、ある哲学博士の見解を紹介・検討してみる。
哲学的思考なら、ある程度客観的根拠のもとに論じていると期待してのことである。
ドイツの哲学博士である松戸行雄は、自著「題目パワーでエネルギー変換――日蓮仏法3.0」2019/1/26、インプレスR&Dにおいて、仏性とは何かを問いかけ、「題目を唱える人は全員が、『地涌の菩薩』で、その生命の奥底ではすでに悟りを開いている、仏界に住している」とし、日蓮がすでに悟りを開いた『地涌の菩薩』であり、私たちも、それにつながる仏界の次元から来ており、その本質は仏界すなわち宇宙生命・宇宙意識から湧き出てくる無限の存在・純粋に霊的な存在であると説明。唱題すると『小さなエゴ』の制約からまったく自由な『大我』となるとし、彼はこの次元を『ハイヤーセルフ』と呼ぶ。そして私たちは日々の現実の「背後」に隠されている「根源的な次元」では、日常生活のさまざまな制約から本来は自由な存在であり、人間として経験を積みアイデンティティを確立する霊的存在であるとして、こう言う。
「地涌の菩薩として、私たちは悟りの世界から来ている。
つまり、人間として経験を積む霊的存在なのです。
ここで言う『霊的』(スピリチュアル)という概念は特定の宗教的概念ではなく、日々の現実の背後に隠されている根源的な次元のことを意味しています。」
さらに、
「私は御本尊の前で唱題することの意味を、より深く実感できるようになりました。自分の中の意識状態を高めれば高めるほど、この無限のセルフが強力かつ明快に顕現するので、外部世界でも自然に自分の可能性を開くことができるのだ、と。大聖人自身はこの悟りのハイヤーセルフを完全に開花させていた。ここに、私たちが自己イメージを根底から変えるようなパラダイムシフトがある。
自分の人生を変えるとは、誰か別の人に成ることではなく、
自分のハイヤーセルフを薫発・展開することです。」
と述べている。
これは要旨としては、多くの日蓮信者や創価学会組織内で語られる内容である。
たしかに、生命とはエネルギーのように考えることもできるが、それのみではない。むろん、エントロピーの法則に逆らいながら自己複製し増殖するにはエネルギーが必要であり、人間個人においてはアイデンティティを構築するにも情熱や努力が必要なのは論を待たない。
ただ、「日々の現実の背後に隠されている根源的な次元」を設定する「宇宙意識」「ハイヤーセルフ」は、諸法(現実)の背後や奥に実の相があると言っているのと同じであり、日蓮の言う「諸法実相」(現実が「そのまま」実の相であるとする概念)と対立する概念である。かつてから、ほとんどすべての宗教においては、現実の背後に隠されている根源的な次元として特定の創造主・神や仏などが仮想・設定されている。
何度も先述したが、日蓮でさえ、釈迦仏は迹仏(仮に設定した仏)であり、それを設定したのは元々本仏である凡夫であると言っている。
そういう仮の設定をするから、それを仲介する役目としてマンダラ(御本尊)(日蓮も「明鏡」と称して比喩に用いている)が必要となり、また、法主や師匠・幹部などの特別視された仲介役が必要となってくるが、これはほぼすべての宗教に共通したことであろう。結局のところ、
「御本尊と一体になっているときこそ、
あなたは即身成仏し、仏なのです!」(同書P113)
という表現となって、他宗教一般でおきまりのアニミズムに陥ってしまうのである。
しかしここで私はもっと追究して、未だ仮説の域を出ないニューサイエンスの理論を借りて論及すれば、生命の実体とは純粋なエネルギーではなく、法則情報であり、その発現のあり方は情報を記録したホログラム(業、因果の情報付き)のようなものであると考えている。その独自のホログラムを自動再生するのが宇宙に存在するあらゆるエネルギーや作用である。これを一念三千の十如是でいえば、エネルギーは如是力にあたるし、環境や宇宙のリソースは如是縁にあたる。
いいかえると、個々の生命は、独自の法則(内部や外部情報なども含む)であり、これは縁があって条件さえそろえば自動再生しながら新陳代謝・自己複製し、子孫を残したりする。また自我の存在をもつ生命は個性を形成する、何一つとして同じものはなく、本有で永遠に存続する独自の法則情報である。
自動再生の例としては、自然界のウィルス(遺伝子)が挙げられる。ウィルスは、あくまで単なる特定の細胞(環境・縁など)に寄生し自己複製・拡散するなどという情報が記録された遺伝子という特定の物質(蛋白質)であるが、縁となる条件の揃った細胞に触れると、それに寄生し細胞内の複製機構を利用して勝手に自動複製して増殖していくのである。そして、その寄生細胞(宿主という)が死滅すると、自らも破壊され死滅してしまうのである。
ところで、ちなみに厳重に温度や気圧等の条件を一定に管理された実験室の閉じた空間においてマウスの死の瞬間を観測し、その生前死後における質量やエネルギーの総和を測れば、これは変化しないことが分かっている。
つまり、肉体や精神に、仮に魂とか霊、もしくは神などの絶対者が宿っているとするなら、それらはエネルギーでも質量でもない。それらは死後にどこかへ飛んで行ってしまうとされているからだ。
仮に生命が純粋にエネルギーのみなら、死後分散して消えてしまう事はないだろうし、転生することもないであろう。
では、生前の統一・一貫した生命活動をしていた実体は、死後どうなったのだろう? これは人類発生以来から答えを探し続けている疑問・難問の一つである。
ちなみに宇宙意識は、こう定義できるものがあるとしたら、全ての生命が共有している=法則として備えているものであって、元々自分自身の生命と一体になっているものである。
つまり、これに一体化する修行など全く必要ないわけである。
そもそも一体化するという修行を説く時点で、すでに二元論であり、アニミズムである。
すなわち、この考え方や概念は、森羅万象を、自己と宇宙意識(その実態は、神とか仏とか、どう表現されようとも、自己と比べて揺るぎなく強い絶対的なものに相当する)という対立した概念で捉えている。このように自己と自己以外の他者・モノを対比・対立させ、それらを融合・一体化すると説明する解釈はすべてアニミズム的であり、日蓮の捉えた生命観――一念三千や諸法実相――ではないのである。
ちなみに我々の生命も、転生については、精子・卵子の生成に始まって男女の交配の前から縁として条件づけられたもとで妊娠・出産してこの世に誕生することになる。もちろんであるが、前世の業(善悪も含まれる)という膨大な情報を受け継ぎ、その前提の下で再生・進化している。
では、その転生前の情報は地球も含めた宇宙のどこにあるのか?――それは、後述するが、ニューサイエンスで論議が活発に始まっている中で、用語は統一されていないが、量子真空、ゼロポイントフィールド、アカシックフィールド等という、無量の超時空にあるとされている。
実の相は、宇宙全体に含まれるリソース(資源)やシステムなどの一切を利用して展開する自動再生システムである生命法則――これが、一念三千を演じながら永久に生死生死をくりかえして輪廻転生していく――である。その一瞬一瞬に九識(五感から精神活動・自我・業などの情報、そしてそれを自動再生する全環境(宇宙も含む諸法)としてのリソース・情報やエネルギーおよびそれらをすべて自分自身そのものとして包括的・全体的に見当して感じる感覚=第九識)が混在して存在しているのが実の相であり、決して諸法(自分以外の一切の環境)と実相が分離しているのではない。
ちなみにニューサイエンスの論議は、神秘体験を含むあらゆる生命現象についての統一性理論を追求する要素がある。つまり、このように定義してこう説明すれば、臨死体験や神秘現象、死後の生命や輪廻転生などを含む、多くの不可思議な生命現象が統一して説明できるという、論理的・哲学的な仮説・推論であろう。
たとえば、あらゆる現象が統一して説明できるという論理について考えてみれば、我々が住んでいるビッグバン宇宙の発生モデルにおいても、その始まりが「点」であれば量子論的に都合が悪いため、現実にはあり得ない「虚数」(二乗してマイナスになる数、現実にはあり得ない数)を想定して、始まりは面(のどこかで、確定できないもの)であるというモデルが採用されている。これとても、そのようにすれば論理的に矛盾なく説明できるという一点において支持されているに過ぎない。この始まりを未だ観測できたわけではなく、また他の宇宙の発生の瞬間を未だ捉えたわけではない。
つまりは科学といえども、究極の物理的現象を追究する最先端物理学においても、現実にはあり得ない概念を用いているという点で、現実にはあり得ない絶対者・創造主を設定するというような宗教的な要素を孕んでいるように見える。宗教との違いは、科学においては絶えず批判や更新が自由に行われて進歩しているのに尽きる。詳細は、ニューサイエンスの事項で後述したい。
■元々一つであり全体であった生命の仏性
松戸行雄は、『悟り』とは何か、その体験に必要な修行・実践を語っているが、そこで臨死体験を語ったアニータの例を、仏性を体験した例として挙げている。ここで取り上げられている「仏性」は、正確には日蓮のいう「仏性」ではないが、たまたま偶然に体験するものでもある。
もちろんであるが、アニータは日蓮信者ではなく、特定の信仰も持っていないのであるから、彼女の体験は日蓮仏法固有のものではないことは明らかであるが、その矛盾を棚に上げておきながら彼女について彼はこう述べる。
「私たちの『自己』には、人間的・日常的な面と、本質的にはエネルギーであるハイヤーセルフという二つの側面ないしレベルがある。そして、アニタの体験を通して、この二つの自己の分裂を克服することが、私の人生の目的なのだということを理解したのです」(同書P28)
その目的は上述のように達成されたと彼は言っているが、
「二つの自己の分裂」といっている時点で、この信仰自体がアニミズムであろう。
これは分裂のように見えているだけである。これを一つであると見る・開くことを悟り・成仏・仏と開くといい、分裂もしくは彼のいう「ハイヤーセルフ」が見えない状態を無明とか、迷い・凡夫というのである。
もともと一つであることは、一念三千の論理である。三世間のなかの国土世間が全宇宙(ビッグバン宇宙以外の道の宇宙も含めて)を包含している。それと併存する観点の五蘊世間・衆生世間である。そして十界互具・十如是がそれぞれ備わっている。
仏界は、単独で存在する概念ではなく、仏界即九界なのであり、完成(慈悲・智慧などを発現する生命として)への志向なのだから、この境涯を独自にこうであると説明することはできない。説明したその時点で、その概念は借りてきた概念・理想像として設定した概念、つまりは日蓮の言う「迹仏」になる。 そこで「本仏」とは、日蓮が言うように「凡夫」のこと、すなわち仏界即九界・九界即仏界の凡夫である。諸法実相抄には、「然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」とあるのをよく理解すべきである。つまりは釈迦仏などは凡夫が設定した理想像であって、現実にあるものではない。
たとえば臨死体験による歓喜・エクスタシーは、あくまで既定の生命境涯でいうところは十界論で言えば縁覚界のものである。
そして、瞑想による境地も、人によって様々であるが、最初は人界の平静から始まって、その到達点である境地も基底は縁覚界や菩薩界である、正確にはこれら九界に具足した仏界である。
後述もするが、いわゆる仏法、もちろん日蓮仏法においても同様であるが、仏界と称されるものの境地は、あくまで他の九界に具足する仏界であって、仏界具足の仏界は、そもそもありえない。仏界とは具足することによって九界の衆生を限りなく完成へ向かわしめる一念の傾向性のことであり、仏界のみでは純粋に存在する一念ではなく、先述の日蓮の遺文(諸法実相抄)にあるとおり仮想物(釈迦仏と同じ、迹仏)なのであるから、瞑想によってもどんな修行によっても永久に到達することができないと考えられる。
(※「迹仏」「本仏」については、諸法実相抄を参照)
話を戻そう。
松戸行雄は、このあと、アニータの臨死体験(コメント2)を例に出して、ハイヤーセルフを理解したという。
松戸行雄の記載には
「ガンの最終ステージ病院に運ばれます。すべての臓器が機能停止した段階で、あと36時間の命だと医師から宣告されます。その後、彼女は昏睡状態に陥り、体は死に向かっていました。アニタの死を受けいれていました。ところが、アニタはしばらくして意識を取り戻したのです」
とあり、心停止もあったこともうかがわせる表現になっているが、後述するアニータの著作には、そうではなく、単なる昏睡状態であり、その後末期癌が消滅したとすれば、それは癌の自然退縮といわれるものである。
これは極めて特殊な例であり、世界の研究者に注目されてはいる。
そしてそもそもアニータの体験は、「ハイヤーセルフ」の自覚というのは勝手だが、日蓮仏法によるものではない。
医学の常識では説明できない例に私は多々遭遇するが、このアニータの経験を「臨死体験」として引用して、松戸行雄はこのように述べる。(コメント3)
「癌がわずか4日間で消えてしまった事実は、従来の医学の常識では説明できないのです。
彼女は…そのために、病気の治癒だけでなく、生命に関わるすべての領域で根本的な変化を引き起こす新しいエネルギーとなるのです…
『私たちは自分のエネルギーを変えることで、物理的な現実を転換することができるのです』」
「日常的な自我とは別に、私たちには制約がなくて、ありとあらゆるものと繋がっているハイヤーセルフが現実にあるという点です。…そのすべてが、私が日蓮仏法で慣れ親しんできた理念と原理に相当しているからです。」
「アニタの臨死体験は、これまでの自己イメージそのものを根底から疑問視させます。というのは、私たちの真の自己というのは肉体や日常的自我だけで構成されているのではなく、それとは別に、さらにアニタが『無限』と称するハイヤーセルフの別の次元があるからです。このレベルで、アニタは『別世界の驚くべき美しさと自由』を実感しました。大聖人は、内奥の生命の最も深いレベルを『九識心王真如の都』と呼んでいます。これはいかなるカルマの影響からも自由で、かつ生命機能を司る純粋意識に他なりません。
この次元において、私たちは宇宙全体と一つであり、
日常生活の中で奇跡を創造できるのです。」
「臨死体験中、アニタはすでに体から離脱しているので、自分は単なる肉体以上の存在であることに気付いていました。自分の中にはもう一つ別の何かがある。それは宇宙の純粋意識と冥合していて、『無限で偉大な存在』と体験したものだ。そして、自分の肉体は内的生命状態の反映にすぎないこと、したがって自分の真のセルフと繋がることで、身体の病も治癒されることを理解したのです。この本当の自分は、過去における諸々の経験を通して条件付けられてきた日常的意識とは何の関係もありません。それは純粋な宇宙意識そのものです。」
と、煽情的に述べている。(コメント3)
この説明が真実かどうか、生命が、いかなるカルマの影響からも自由かどうかは甚だ疑問である。
■アニータの臨死体験と、その脳神経学的説明
ところで、彼の引用元であるアニータ・ムアジャーニ著「喜びから人生を生きる!~臨死体験が教えてくれたこと~」には、
「分離の幻想は、外部のものと自分を同一化しすぎることから生じるとわかったのです。」(同書P220)
「私は〝宇宙のエネルギー〟という言葉を使っていますが、それは〝チー〟〝プラーナ〟〝気〟…〝生命のエネルギー〟…です。ひとことで言えば、それは生命の源で、あらゆる生き物の中を流れています。全宇宙を満たしているので、宇宙と切り離せない関係にあります…
〝源〟〝神〟〝クシャナ〟〝仏陀〟のような難しい言葉でこのエネルギーを表せば、名前に気をとられてしまい、理解が難しくなるでしょう。これらの用語は、人によって解釈が異なり、無限の存在に無理やり形を与えているようにも思えます。それぞれのラベルには特定の期待が隠れていて、その多くは、私たちを二元性の中に閉じ込めてしまいます。それゆえ、このエネルギーを自分とは別のものだと見てしまうのです。でも、宇宙エネルギーは、私たちの純粋な意識のように、無限で形のない状態のままでなければいけません。その状態でのみ、宇宙エネルギーは私たちと一つになり、ヒーリングや魔法や奇跡を生み出せるのです。」(同書P221)
「誰もがこの宇宙エネルギーにつながっていて、私たちはそれと一つなのだと、臨死体験中に強く感じました…それは外部に存在するのではなく、あり方の状態で、内なる現象です。それは内側にも、外側にも、そして至るところに存在します。人種や宗教や文化や信念体系などとは関係ありません。私たちは生きているというだけで、それとつながっているのです。事実、私たちはこの宇宙エネルギーの流れそのものなのです。それを利用するために、何もする必要はなく、何者かになることも、何かを証明することもいりません。私たち誰もがすばらしく強力な存在なので、ただそれを利用できるのです。」(同書P222)
「このエネルギーに気づけなくしているものは思考…自分を制限するような思い込みです…私は知性を手放し…私の思考が邪魔するのをやめた時、一気に水門が開いたのです。私は宇宙と闘うのをやめて、〝気〟の流れをそのまま受け入れました。」
「私たちの本質は、無限の自己です。すでに愛であることの大切さについて述べましたが、それが私たちの本当の姿なのです。」(同書P223)
と述べられている。(全文はコメント4)
つまりは、御本尊がなくても、普段においても同様に、私たちは無限の純粋意識のままであって、生きているだけで宇宙のエネルギーと一体であり、自分を制限する思考がこれを邪魔する、人によって解釈が異なる〝神〟〝仏陀〟のような難しい言葉でこのエネルギーを表せば、無限の存在に無理やり形を与え特定の期待を隠し、私たちを二元性の中に閉じ込め、このエネルギーを自分とは別のものだと見てしまうと彼女は述べているのである。
この彼女の主張は、松戸行雄の御本尊についての主張と明らかに対立する。なぜなら、松戸行雄の主張は御本尊を必要としているし、その御本尊との一体化が宇宙エネルギーとの一体化の条件となっているからである。
このアニータの臨死体験では、少し脳神経学的に総合して説明すると、まだ生きていた(神経学的に生命活動をしていた)脳が、自己・自我とそれ以外の環境との境界を判断できなくなったこと、いいかえれば、常時判別してきた自己と他者(広大な宇宙も含む)の境界が判別不能となり、脳が他の部分の記憶(自他の過去の経験や文化的思考など)を総動員して状況を分析した産物として、脳内麻薬が分泌される中で、自分自身の認識が宇宙と同じ感覚に陥るというマゾヒズム的一体感をたまたま感じたことといえる。そもそも宇宙とは弱い自己に比べて揺るぎない強者である。そして、無限の自己とは、真の悟りの一つに相当するが、これも、彼女の場合は同様のシステムで感じている。その根拠は、「つながっている」という表現に特徴的に表れていること、すなわちそれを体験している脳(脳神経)が、自己と宇宙を一つであると言いながらもそれぞれ立て分け、別のものとしての認識を残していることである。
ちなみに、臨死体験は、生きている時の典型的な神秘体験である。死後の生命の探究を目的にして、前世紀からムーディやエリザベス・キュブラー・ロスなどの論文や著書から、今世紀に入って世界的に研究されている。多くは経験を集め分析したものが多く、すべて後ろ向きの研究である。これについてはウィキペディアによくまとめられている。臨死体験の再現実験も行われたし、また全身麻酔下でも臨死体験を報告されているが、それらも含めて一言で言えば、すべて「死」の体験ではない。まだ脳が微々たるにも「生きている」時の現象である。そのような体験をしたと発言できるのは僅かでも脳が神経学的に生きていたからこそであり、この一点の根拠をもって、「生」の体験である。だから(推論は様々にあるが)死後の生命についてをなんら説明する根拠にはならないということを言い添えておく。
■境智冥合
御本尊の首題の両脇に釈迦・多宝が描かれているのは、虚空会の儀式における境智冥合を顕わしている。我々が御本尊に向かって(御本尊がなくても思い浮かべて)唱題しているときに達することが可能な(あくまでも可能な)最高の境地が仏界とされている。仏界の境地では宇宙の無限のエネルギーと智慧や勇気が利用できるとされている。
そして、日興から代々受け継いできた日興門流による今日の日蓮仏法では、このマンダラ御本尊に向かって両手を合わせ、よそ見をしないで一心に見つめながら、首題の南無妙法蓮華経を唱えると、自身の生命境涯に仏界が顕われるとされている。
その根拠となる遺文の例をあげる。
「其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり、此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり」(四条金吾殿御返事P1117)(その他の例と訳は、コメント5)
日蓮はこれらの妙法の法則についてしきりに、これを悟るを仏と言い、知らないのを凡夫と言う(「これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書))と述べている。
厳密に言うと、唱題によって得られるといわれる仏界は、日蓮の本意の九界即仏界の成仏観による仏界ではない。日蓮や後世の多くの境智冥合の修行の説明は、これを悟りとしての仏界・つまりは絶対的な実体としての境涯という仮の概念として論じている。日蓮も、弟子檀那に対しての遺文の中では容易に分かるような方便をつかって、絶対的他者の概念を用いて仏界を説明しているのである。この部分は、現代科学における検討・更新を要する部分である。
曼荼羅に描かれている宝塔の意味の中で、釈迦は個人の主観的な煩悩や智慧、多宝如来は客観的普遍的な現実環境をそれぞれ意味していて、それらが和合し一つであることが仏界であるとする。この和合することが「境智冥合」であり、唱題による即身成仏の原理とされている。
個人の主観的な智慧や煩悩と、客観的な現実世界(宇宙も含む万法の本体)が合一して、流れの滞りない智慧によって煩悩がそのままあらわに実現されていく様相を、煩悩即菩提・生死即涅槃と表現されている。これが即身成仏の姿だということになる。本当にこれは客観的真実なのだろうか?
松戸行雄は、御本尊への唱題における即身成仏の説明として、主観的な智慧と客観的現実との融合、すなわち境智冥合を、日常に即してわかりやすくこう説明している。
すなわち、神経を集中して読書、楽器演奏、スポーツなどに没頭・専念すると、その過程において時間や自分や周囲のことすべてを忘れている瞬間がある。これを忘我、一種のトランス状態いい、この瞬間は喜びや幸福感・エクスタシーを体験することもある。心理学で「フロー」という「心が今の一瞬に浸り集中している状態」では、「日常的エゴは影を潜め、より大きなハイヤーセルフがその作業やプロセスを統括している」という。
そして、この日常体験を宇宙意識のレベルまで拡大すると、
「客観的実在としての宇宙にはどんな境界も限界も存在しませんので、無限です。それで、あなたがこの宇宙生命・宇宙意識と調和し、融合すると、あなたの個別の意識にもなんの障害も限界もなくなります。この時、あなたは悟り・即身成仏の状態にあることになります。純粋意識そのものとなります。したがって、このような生命状態では、あなたの主観的な智慧が『あらゆる存在や現象の本質を照らし出し、展開できる』能力を発揮できる訳です。人生の意味も、これまでの人生経験の意義も理解できる。苦しみや悩みからも解放されている。そしてあなたのすべての能力と可能性を展開することになるのです。
個人的意識が宇宙意識と融合する状態が、
宝塔の二仏並座で象徴的に表現されています。
それが境智冥合と呼ばれる原理です。」
さらに、こう続く。
「今度はさらに、この境智冥合の原理を私たちの御本尊への唱題行に応用します。題目は宇宙意識と接続しているハイヤーセルフの『無限の智慧』を含んでいるので、大聖人が御図顕してくださった曼荼羅本尊に真剣に集中して唱題するとき、この融合が起こります。禅定・瞑想・観心の対境である御本尊と融合して、一体不二になります。御本尊だけを観ている中で、自分の自我意識も身体も、過去も未来も、周囲の様子も、すべて忘れてしまいます。その時、私たちの個人的意識(知)が宇宙意識(境)と接続した状態に入り、私たちの中に境智冥合の世界が現われるのです。
唱題中にこの御本尊と一体となっている瞑想状態を体験しますが、多くの場合、エネルギーと喜びの強烈な流れが体の下から上に向かって上昇するのを感じます。この場合、頭のてっぺんとか眉間に鮮明な感覚も生じます。当然、体全体でもエネルギーが軽快に流れ、活性化され、洗浄されるような体感覚もあります。
御本尊と一体になっているときこそ、
あなたは即身成仏し、仏なのです!」(同書P111-113)
と煽情的に説明している。
この解釈は、池田大作著「法華経の智慧」等にもあるような、一般的な日蓮仏法による即身成仏の説明とほぼ同様である。
■「法華経の智慧」での説明
ちなみに、法華経の智慧第三巻P24-35を見てみよう。池田大作と須田晴夫(仏法学者、創価学会副教学部長で、先述した「日興門流と創価学会」の著者)、斉藤克司(創価学会副会長・教学部長)および遠藤孝紀(創価学会副教学部長)の4人の対話形式で語られているが、要約すると、以下のようになる。
――釈迦・多宝の二仏は『境智の二法』であり、この二仏が並んでいるのはは境智冥合を意味する。多宝が『境』、釈迦が『智』に当たる。戸田城聖は、『境』は客観世界、『智』は主観世界と言いていたが、二元論ではなく主客不二(主体・客体が根底では一体であること)が前提になっている。
日蓮遺文に『境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり』(御書P1055)とあるように、例えば『八百屋であるということは境だ。八百屋らしく商売に励んでいるということが境智冥合である』。つまりその人のなすべき使命があり、道がある。それが『境』に当たる。その境を立派に輝かせていくのが智慧の光です。その場で『なくてはならない人』になるのが境智冥合である。
本来、だれもが『仏』である。これが境で、その仏界を輝かせるのは、智慧の光です。仏であることを自覚する智慧があって初めて仏と輝く。これが境智冥合である。自覚する智慧は『以信代慧(信を以て慧に代う)』だから、『信心』が『智』にあたる。つまり自分に『仏界がある』というのは客観的真理である『境』で、それを事実の上で輝かせるのが『信心』である。――という。
これでは、境智冥合が、現実の生活の姿として起こっていることを言っており、御本尊に唱題していない時・所にも起こっている様である。
また、
――そのために御本尊の相貌で、中央の首題に南無妙法蓮華経の一法が その脇士として釈迦・多宝が配されている。この二仏並坐はまた「諸法実相」を表し、多宝が諸法、釈迦が実相である。また「生死不二」を表し、多宝が死、釈迦が生である。
日蓮はこの宝塔品の儀式をもって御本尊を顕し、日蓮以外には「作り顕すべき人なし」(御書ニニ五八㌻)と言う。(中略、コメント6)
日蓮が「此の御本尊の宝塔の中へ入る」(御書P1244)という意味も、我々が己心の中に宝塔を実現できることであるとして、
「我が身に宝塔を開けば、我が生きる世界も宝塔の世界であり、「宝塔の中に入る」ことになる。これは御本仏の世界の一員として、自在に活躍していけるということで、このちっぽけな自分という身が、七宝で荘厳され、大宇宙へと限りなく境涯が広がるのです。これほど素晴らしいことはない。」
また、戸田城聖の獄中の悟りもこれであり、
「御本尊を強盛な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〃聖地〃である。そこが虚空会であり、霊山であり、宝塔が建つところだからです。」という。
そして、
「「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なれる。我が身に、我が生活に、我が家庭に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。
どこまでも身近です。現実です。虚空会は前後の霊山会(霊鷲山での会座)と違って、「時空を超えた」世界である。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも.どこでも」虚空会につながることができるのです。
虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。その意味で 日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な「生命の旅」といえるのではないだろうか。」
と、これまた煽情的に語っている。
■結局、宇宙生命と一体化を説くアニミズム
これらはどちらも美辞麗句によって壮大・煽情的に語られているが、枝葉末節の詳細は割愛して総合してみればどちらも、御本尊を信じ拝して唱題することによって、「宇宙生命と一体」となり、わが身に究極の仏界の生命が湧現するというのである。
御本尊を信じて唱題しているときに境智冥合して理想的な仏界が顕われるというなら、御本尊を信じて単に南無妙法蓮華経と唱えている姿自体が仏界即仏界の姿となって、日蓮の成仏観である九界即仏界と矛盾する。瞑想中の安らぎの中もしくはそれそのものを仏界というのだろうか?
私も唱題中にいろんな智慧やひらめきを得ることもあるが、これは縁覚界。宇宙意識・虚空会の儀式に匹敵する歓喜も経験したが、これは自身の生命の姿を観じた縁覚界と考えられる。
南無妙法蓮華経を、御本尊を信じていないのなら、単なる瞑想による人界の境涯(平静なまま)。
しかし、信じていなくても、同様なことも起こり、また起こりうるのではないか。
そもそも日蓮は南無妙法蓮華経を、御本尊を信じていない状態から出発して、この状態に至ったのではないか。立宗宣言がその証拠である。
さらに、境智冥合が宇宙意識を感じる条件というならば、御本尊によらなくても、近年におけるスピリチュアルブームの中、宇宙意識を感じた人々の著作や報告もあまた存在するのはなぜなのか。
そして、またしても松戸行雄の境智冥合の説明に際し、宇宙意識(境)と接続に、アニータの臨死体験を根拠にして、こう述べているのである。
「宇宙意識のレベルでは時間が存在しないことを教えてくれたのは、またしてもアニタ・モジャーニでした。彼女は自分の臨死体験を通してそれを体験しているので、そのような意識レベルが本当に存在するのだということを、私は改めて理解しはじめたのです。
この領域では時間さへ(ママ)異なった様子で、すべての瞬間が一斉に起きているように感じたのです。私に関わるすべてのことを一挙に、同時に、私自身が気付いているのです。過去と現在と未来が一緒です。自分が生きた様々な人生が同時に出現するのを感じていたのです。ある前世の人生で、私は一人の弟を持っていたように思えました。
大聖人の曼荼羅はこのような『聖なる時間』における神話的な出来事へのダイレクト・アクセスを提供します。あるのは現在だけ。唱題中に周りのことをすべて忘れる時、何でも可能となるような意識レベルにアクセスできるのです。」
と述べている。非常に呪術的・煽情的にみえる。
ちなみにアニータは原著では、一部はこれに反論するように、こうも述べている。
「臨死体験のあと…中略…もっと地に足をつけて、死後のことよりも、今この瞬間のすばらしさにすべての注意を向けようと思っています。
これは、一つの生涯が終わり、次の生涯が始まるという従来の輪廻転生の概念が、臨死体験で私の経験していたこととは異なっていたという理由によるものです。私たちが身体や思考というフィルターを用いないかぎり、時間は直線的なものではないとはっきりわかりました。もはやこの世の感覚に縛られなくなると、あらゆる時間が同時に存在するのです。輪廻転生の概念は一つの解釈に過ぎず、私たちの知性が、すべては同時に存在していることを理解するための一つの方法なのです」(同書P216 )
「身体から自由になると、私たちは、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚を通してではなく、自分の気づきだけで、すべての時間や空間の中を動けるのです。私たちは、純粋な意識そのものになります。
臨死体験の中で、私はこのことを体験しました…中略…
時間も、空間も、物質も、私たちが通常考えているようには存在しないのだとわかったのです。臨死体験の中で、過去でも未来でも、意識を集中すればどこにでも行ける感じがしました。」(同書P217)
「天国を経験するのに死ぬまで待つ必要はありません。私たちの真のすばらしさは、今ここに存在しているのです。
人がこのテーマに関して怖がっているのは、来世や神のイメージが人間の言葉で創り上げられてしまっているからです。私たちは、これらの概念に物理的特徴や間違った意味をあてがっています。それが、恐れや報い、裁きや罰のようなものを思い起こさせ、不安を感じさせるのです。
さらに、私たちは、自分のすべての強さやパワーを、その創造物に投じています。」(同書P218)
ここには、先述の引用も含めて、純粋意識(松戸の言う仏界)を感じるのに御本尊や信仰など必要なく、むしろそれらが間違いであることが明確に記載されている。
松戸行雄の説明を紳士的に解釈しても、松戸の言う日蓮仏法「独自」の法則による最高境地である「仏界」の説明に、日蓮仏法を信仰していない、仏法とは何ら関係のないアニータの経験を根拠にしている。この一点において、彼の説明する「仏界」は、日蓮仏法独自のものではないことになる。言い換えれば、日蓮仏法における「仏界」は、日蓮仏法以外の方法でも湧現できるということ、極論すればアニータの体験の様にたまたま偶然に涌現することもあるということになる。
これは、現在も含めての末法においては南無妙法蓮華経の広宣流布によってのみ万民の救済が可能であるという、従来から日興門流が一貫して受け継いできた日蓮仏法の独自性・独善性を根底から覆すことになる。
皮肉な見方をすれば、仏界が日蓮仏法以外の方法でも、偶然にでも客観的に誰にでも湧現するということにもなろうか。
■信じる者しか救われない?…信じる者は救われる幻想
日蓮の遺文には、仏界の湧現には、「信」を必須としている。
境智冥合も、九界即仏界や煩悩即菩提の実現も、
「ただし ご信心によるべし」と遺文にあるとおり、仏界があると「信じる」だけのことで、信じなければ、そもそも仏界も無いことになる。
さらに以信代慧、以信得入という用語を使い、信じることが智慧に代わると断じている。
後述の法華経の智慧にも言及されているが、この「以信代慧」は、日蓮仏法の中でもずば抜けて大いなる科学的欺瞞であり、「ウソも方便」の典型であると私は考えている。
そもそも信じることがどのような科学的過程において智慧に代わるのか、論理的説明が一切ない。
信じる者は救われる、信じる者しか救われないと言っているのと同じではないか。
そもそも、仏界が、「信じる」ことでしか得られないシロモノとしたら、客観的に仏界とは何なのだろうか。
多くの美辞麗句を並べて壮大な説明がなされてきた理想的境地である「仏界」であるが、それを信じなければ存在しない「存在」が、客観的に在り得るのであろうか。
極論すれば、信じない生命には、仏界は無い・存在しないことになる。これでは、客観的ではなく、非科学的である。
仏界は、単にそれを信ずる者だけにのみ存在することになる。
単なる想像の産物でしかないシロモノということになるであろう。
これでは、仏界が単なる手前みそ的な思い込み・幻想と同じレベルの、主観的なものになり下がってしまう。
本来、一念三千とは、そのような非科学的生命論ではなかろう。
天台は観念観法によって妙法を観じたという。
日蓮は、南無妙法蓮華経の唱題によって、「これ(生命)を磨く」といっている。
。
しかし、一念三千は厳然としてあるということなら、このうち、仏界の概念を、客観的に更新すべきであろう。
もっと踏み込んでいえば、「成仏」や「功徳」が、科学的・客観的に実証できるのなら「信心」は不要なはずである。なぜならそれは「法」=「法則」なのだから。
信じていようといまいと、法則に基づいて行動した結果は同じなのだから、当たり前と言えば当たり前である。
それなのに、そこに「信心」(信ずる心)が必要というのなら、それは客観的なものではなく、あくまで信ずる心「信心」による「主観」的なものになる。生物学的・神経学的にいえば、その人の『脳』の中で繰り広げられる個人的な「想像」「ドラマ」でしかない。言い換えれば極めて手前勝手なものに転落してしまうのである。
ある事実を功徳と認識するためには、また「成仏」と認識するには、それをそうだと信じる心があってはじめて実現することとなる。つまり信仰における「功徳」とは、まさにそれなのだ。だから、現実を具体的に変えるのは「主観的努力」とそれをそのように認識する「感覚」である。すなわち「功徳」の正体はプラセボ効果の結果、そしてその動機づけによって実行された努力が結果としてあらわれた、当たり前・常識的な現実であって、これにすぎない。けっして「棚から牡丹餅」的及び霊的な・もしくは魔法による成果なのではない上、そのような超自然的効果の存在を時に誘発させるような主観的な過大評価が常に伴っているから、それに誑かされる人も多い。
しかもこれはあくまで主観的な感覚・感想・評価なのだから、その気になればマイナスであってもプラスに評価することが如何様にも可能である。占いがよく当たると言われる根拠にバーナム効果というのがあるが、これによく似ている。
さらに、この修行方法にも、大昔から様々な方法があるのである。
日蓮仏法の唱題も、その一つといえる。
あくまでその一つであって、それ以外にない・これしかないというのは非科学的であり、依人不依法の誤りである。
これらは、古今東西、あらゆる時代・あらゆる文化においての宗教に共通する性質の一つであろう。
それでは、この信ずる心「信心」による主観的な仏界や功徳、神経学的にいえば、その人の脳や心の中で繰り広げられる個人的な想像・ドラマは、一体どのようにして形成されるのであろうか。
■脳と心の関係
生命活動における意識状態については、天台の九識論と、ニューサイエンスにおける意識の解析は、似通っているが、定義に若干の違いがある。また、心と意識についても定義が少し異なっている。(コメント7)
しかしながら、脳と心の関係についてはエビデンス(証拠)の有無の観点から、現在では確実に分かっているアンドリュー・ニューバーグの定義を脳神経学的に採用することにする。
アンドリュー著、「脳はいかにして〈神〉を見るか」には、
「『脳とは、感覚、認知、情動に関するデータを収集して処理する物理的な構造の集合であり、心とは、脳の認知過程から生じてくる思考、記憶、情動などの現象である』と定義しよう。
簡単に言うと、脳が心を生み出すのだ。今日の科学では、われわれの心は脳の神経学的な活動の結果として生じてくるとしか考えようがない」
「ニューロンの機能と実体のどちらが欠けても心は存在しえない。脳から独立して振る舞う心や、自由に漂う意識があったとしたら、それは『魂』とでも呼ぶべきもので、神経学の対象ではないのだ」とある。(コメント8)
つまりは、脳は感覚、認知、情動等に関するデータを収集して処理する「物理的な構造」の集合であり、心は脳の認知過程から生じる思考、記憶、情動などの「現象」である。
脳が心を生み出し、心は脳から生じる。
脳がなければ心は発生せず、脳がある限り心を生み出す。
「心とは脳がそれ自身の機能を経験している状態のことであり、脳とは心の構造である」とも定義している。
心と脳の関係は深く、同じものの二つの側面と考えることが最も合理的である。
言い換えると、物理的な脳の生命活動が、心という意識現象である。臓器としての脳に特徴的なのは、心臓は手術などでその拍動を人為的に止めることはできても、全体としての脳の活動は止めることができない。つまりはゲームのようにリセットはできないということである。
死に迫る危機状態においても、脳が僅かでも活動している限り、様々な臨死体験のような現象を生じ、回復したときに経験として表現される。
また、彼は「我々は変性意識状態に入り神秘体験をする潜在能力があり、それは「生物学的な『脳』と、そこに宿る『心』という霊妙な現象との不可解な統合であり、もう一つは、神秘体験をリアルなものとして解釈する能力である」と指摘する。
そこで経験するリアリティーは、様々な神経学的活動の影響が基礎となって、生物学と宗教とを結びつける根源的な絆になっていて、この理解にはまず、神秘主義的な心(現象)の土台となる情動や神経学的要素を(物理的な)脳が生み出す機構について知らなければならないと述べている。
さらに「神秘体験とは自己よりも大きな何かと純粋にスピリチュアルな一体感を経験し、高揚を感じることであり、それ以上でも、それ以下でもない」とし、古今東西の神秘家たちの言葉やすべての伝統的な宗教の教義に合致し、パターン化している現象であると指摘する。
1997年、神経学者ジェフェリー・セイヴァーの、神秘体験の核心を定義する論文には、合理的思考が直観的な洞察に代わる、圧倒的な歓喜、時間・空間の消失、聖なる存在からの暗示、物事の本質の看破、内なるリアリティーの啓示により究極の自由の獲得…等、多くの神秘体験の内容が表現されている。
この核心には、「物質的な存在を超越し、絶対者と精神的に一つになったことに対する強い確信」(アンドリュー、同書P158)があることであり、これは古今東西、あらゆる時代・あらゆる宗教において、その方法も多岐にわたって共通していることをアンドリューが指摘している。
これは事実その通りであり、驚くべきことに、先述した仏性や境智冥合についての要旨にもほぼ共通し、臨死体験の様々な現象も、一部は類似している。
日蓮も、こうして自身の自覚――法華経において末法に出現した上行菩薩としての自覚――を得たのであろう。
どうやら、日蓮が残した血脈には、このことを万人に伝えることで救済する要素があったに違いない。
日蓮の脳が生物学的に我々と同じものである以上、日蓮が生み出した日蓮仏法の核心も、かなりの主要部分は脳神経学的に説明できること、そして日蓮と同じ神秘経験を、御本尊がなくても万人ができることまでも、私は確信した。これはかなり難しいことではあるが…
次回は、これに迫ってみたい。
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8.
コメント8
アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンズ・ローズ著、茂木健一郎訳「脳はいかにして〈神〉を見るか――宗教体験のブレイン・サイエンス」2003/3/28、PHP研究所、P54には、
「『脳とは、感覚、認知、情動に関するデータを収集して処理する物理的な構造の集合であり、心とは、脳の認知過程から生じてくる思考、記憶、情動などの現象である』と定義しよう。
簡単に言うと、脳が心を生み出すのだ。今日の科学では、われわれの心は脳の神経学的な活動の結果として生じてくるとしか考えようがない」
「ニューロンの機能と実体のどちらが欠けても心は存在しえない。脳から独立して振る舞う心や、自由に漂う意識があったとしたら、それは『魂』とでも呼ぶべきもので、神経学の対象ではないのだ」(同書P54-55)
7.
コメント7
ニューサイエンスには、ペンローズの量子脳理論などもあるが、未だ仮説の段階のものが多く、それらは今後多くの研究者によって科学的解明がなされていくであろう。
6.
コメント6
「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」(御書ニニ五八㌻)と言い「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかた季たる本尊なり」(御書ーニ四三㌻)と断言する。弟子の阿仏房や四条金吾にも「ゆゆしき法門」と言っている。
天台大師が「法華文句」で、この多宝の証明の意義について証前・起後と立て分けたが、証前とは宝塔の中から多宝如来が釈尊の言葉は真実だと証明したこと、「起後」とは釈尊が無数の十方分身の仏(地涌の菩薩)を集めたのが寿量品を説くための起点となつていて、釈尊の仏としての化導が久遠の昔から行われていることを示す。
これは深い意味では、日蓮の法門の起点、つまり宝塔品の説法が、日蓮が末法の御本尊を顕す起点となり、御本尊は「起後」にあたる。だから日蓮は自ら顕した御本尊を宝塔と呼んだ。
御本尊こそ日蓮大聖人の生命そのものであり。無作三身如来の御生命、南無妙法蓮華経の宝塔である。三身でいえば、「境」としての多宝如来は「法身如来」、「智」にあたる釈迦如来は「報身如来」、十方分身の諸仏は境智が「冥合」して慈悲を起こすことから、「応身如来」である。
釈迦・多宝・十方の諸仏という三種類の仏の出現は、日蓮の身に成就する無作三身の生命を表している。ここで大事なことは、末法の万人がこの無作三身を我が身の上に実現できる道を日蓮が開いたこと、それが御本尊の信受である。
日蓮は「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」(御書P537)
5.
コメント5
「其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり、此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり」(四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)P1117)
《その諸法実相というのも釈迦多宝の二仏であると相伝している。諸法を多宝仏に約し、実相を釈迦仏に約す。これはまた境智の二法である。多宝は境であり、釈迦は智である。境と智とは二つであってしかも不二であるというのが仏の内証である。これらは非常に大事な法門である。煩悩即菩提・生死即涅槃というのもこのことである。》
「夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と、抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」(曾谷殿御返事、P1055)
《法華経第一方便品第二に「諸仏の智慧は甚深無量である」とある。天台大師の解釈は「境の淵が無辺であるので甚深といい智慧の水が測り難いので無量という」とある。
そもそもこの経文と解釈の意味は、仏になる道は境智の二法にあるということである。境というのは万法の体をいい。智というのは自体顕照の姿をいうのである。
しかるに境の淵がほとりがなく深い時は、智慧の水がながれるのに滞りがない。この境智が合うならば即身成仏するのである。》
4.
コメント4
ところが、彼の引用元であるアニータ・ムアジャーニ著、奥野節子訳「喜びから人生を生きる!~臨死体験が教えてくれたこと~」(2013/6/15、ナチュラルスピリット)には、
「分離の幻想は、外部のものと自分を同一化しすぎることから生じるとわかったのです。」(同書P220)
「私は〝宇宙のエネルギー〟という言葉を使っていますが、それは〝チー〟〝プラーナ〟〝気〟と同じものです。これらの言葉は、それぞれ中国語、ヒンドゥー語、日本語で、〝生命のエネルギー〟という同じ意味です。これは太極拳や気功でいう〝チー〟であり、レイキの〝気〟です。ひとことで言えば、それは生命の源で、あらゆる生き物の中を流れています。全宇宙を満たしているので、宇宙と切り離せない関係にあります。
〝気〟は、判断せず、分け隔てもしません。それは高貴な指導者にもナマコにも、同じように流れています。
〝源〟〝神〟〝クシャナ〟〝仏陀〟のような難しい言葉でこのエネルギーを表せば、名前に気をとられてしまい、理解が難しくなるでしょう。これらの用語は、人によって解釈が異なり、無限の存在に無理やり形を与えているようにも思えます。それぞれのラベルには特定の期待が隠れていて、その多くは、私たちを二元性の中に閉じ込めてしまいます。それゆえ、このエネルギーを自分とは別のものだと見てしまうのです。でも、宇宙エネルギーは、私たちの純粋な意識のように、無限で形のない状態のままでなければいけません。その状態でのみ、宇宙エネルギーは私たちと一つになり、ヒーリングや魔法や奇跡を生み出せるのです。」(同書P221)
「誰もがこの宇宙エネルギーにつながっていて、私たちはそれと一つなのだと、臨死体験中に強く感じました。このすばらしい神秘的な生命力が、一人ひとりのすべての細胞の中を流れているのです。それは外部に存在するのではなく、あり方の状態で、内なる現象です。それは内側にも、外側にも、そして至るところに存在します。人種や宗教や文化や信念体系などとは関係ありません。私たちは生きているというだけで、それとつながっているのです。事実、私たちはこの宇宙エネルギーの流れそのものなのです。それを利用するために、何もする必要はなく、何者かになることも、何かを証明することもいりません。私たち誰もがすばらしく強力な存在なので、ただそれを利用できるのです。」(同書P222)
「このエネルギーに気づけなくしているものは思考です。特に、自分を制限するような思い込みです。すでにお話ししましたが、臨死体験で経験した大きな開放によって、私は知性を手放し、それとともに、自己規制的な思い込みを取り除いて、宇宙エネルギーにすべてをゆだねることができました。私の思考が邪魔するのをやめた時、一気に水門が開いたのです。私は宇宙と闘うのをやめて、〝気〟の流れをそのまま受け入れました。」
「大切なのは、思考は〝すること〟を重視し、魂は〝存在すること〟を重視するという点です。私たちの本質は、無限の自己です。すでに愛であることの大切さについて述べましたが、それが私たちの本当の姿なのです。」(同書P223)
3.
コメント3
「癌がわずか4日間で消えてしまった事実は、従来の医学の常識では説明できないのです。
彼女は、存在ないし意識の変容状態によってガンが消失していたことに、気付いていました。そのために、病気の治癒だけでなく、生命に関わるすべての領域で根本的な変化を引き起こす新しいエネルギーとなるのです。臨死体験中のある特殊な意識レベルで、アニタは次のことを理解していました。
『私たちは自分のエネルギーを変えることで、物理的な現実を転換することができるのです』」
「日常的な自我とは別に、私たちには制約がなくて、ありとあらゆるものと繋がっているハイヤーセルフが現実にあるという点です。…そのすべてが、私が日蓮仏法で慣れ親しんできた理念と原理に相当しているからです。」
「アニタの臨死体験は、これまでの自己イメージそのものを根底から疑問視させます。というのは、私たちの真の自己というのは肉体や日常的自我だけで構成されているのではなく、それとは別に、さらにアニタが『無限』と称するハイヤーセルフの別の次元があるからです。このレベルで、アニタは『別世界の驚くべき美しさと自由』を実感しました。大聖人は、内奥の生命の最も深いレベルを『九識心王真如の都』と呼んでいます。これはいかなるカルマの影響からも自由で、かつ生命機能を司る純粋意識に他なりません。
この次元において、私たちは宇宙全体と一つであり、
日常生活の中で奇跡を創造できるのです。」
「臨死体験中、アニタはすでに体から離脱しているので、自分は単なる肉体以上の存在であることに気付いていました。自分の中にはもう一つ別の何かがある。それは宇宙の純粋意識と冥合していて、『無限で偉大な存在』と体験したものだ。そして、自分の肉体は内的生命状態の反映にすぎないこと、したがって自分の真のセルフと繋がることで、身体の病も治癒されることを理解したのです。この本当の自分は、過去における諸々の経験を通して条件付けられてきた日常的意識とは何の関係もありません。それは純粋な宇宙意識そのものです。」
2.
コメント2
しかしながら、そもそもアニータの経験は、昏睡状態であっただけで、事実として死んでいないのであり、「死の体験」ではない。正確にいえば、その時点での認識を体験として話していること自体を根拠として、脳が活動していたことを示すものであり、これは「生きていた」証拠である。ただ、これを、またこの種の体験を「臨死体験」と言うことは本人の勝手であるが、同種の勝手な体験を世界中の研究者が神秘体験として研究しているのも事実で、その体験には少々だが共通するものが指摘されている事も興味深い。
ただ、これらは脳神経やこれに関連する知覚神経が働いていたことの証明ともなっているので、これをもって「死の体験」とか「来世がある」とかの証拠とするわけにはいかない。また、神秘体験が得られる瞑想のシステムが脳神経学的に解明されているのと同様、現在では未達成ではあるが、生きている限り生物学的に説明できうるものである。
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コメント1
創価学会のマンダラ掛け軸は、ネット上では定価3000円という情報もある。↓
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/10141131/?all=1&page=2
ここでは「…創価学会の本尊は2種類あって、掛け軸状の御形木(おかたぎ)本尊と、プラスチックでできた携帯用のお守り本尊が存在している。前者の定価は3000円、後者は5000円。創価学会からは購入ではなく「賃借」の形をとるようだ。…」
と述べられている。