top of page
< Back

P80, 万物一切根源の法――日蓮仏法の真の血脈

 日蓮は、生死一大事血脈抄の冒頭で、血脈とは南無妙法蓮華経(法則)と述べている。
 このページでは、一旦、その血脈である法則について、おさらい、更にアップデートしておく。

 初めに、その基底の法則となっている「一念三千」について、過去の記事をアップデートして以下に述べる。


【第一章】 一念三千

「生命」は、悠遠の過去から「もともと」存在していた(無始、始まりが無い、久遠元初)のであり、永遠の未来にわたって「終わりが無く」「変化しながら」存在し続ける(これを無終という、不滅とはあえていわないでおく)。

 全ての存在(現在の科学で観察可能なのは素粒子から大宇宙までだが、それを超える観察不可能な存在も含めて、その数は無限大)は、個別の「生命」でありながら、万物すべてを互いに重なり合い共有しながら、影響し合い、情報をやりとりしている。
 我々も含めて、あらゆる生命は、万物を共有しており、無始無終であり、変化しつづける。
 すなわち、万物の中に、無限大の数の生命が重なり合って、互いに共有(シェアして)いるのである。

 つまり、生命の物質的な大きさ:規模についていえば、我々の生命は万物と同じ規模のものであるが、その中のほんの点のような一部分が個人として顕在化しているに過ぎない。
 そして、顕在化して独自性・一貫性をもたらしている微小な部分を除いたら、全ての生命が、万物として重なり合っている・つまり万物を共有している・万物の生命と共通であり、つながり合っている。これを「冥伏」という。

 個別の「生命」には、主体と環境、肉体と心があるが、これらは対立するものではなく、生命の異なる側面にすぎない。
 すべての生命は、肉体と心が一体であり(色心不二)、その主体は、自身と周囲のものとが一体である(依正不二)。

 物質至上主義は、これらの一体性を無視して、肉体と精神、主体と環境、自然と人間を分離・対立させて考えてきた。
 その結果、人間は経済と科学の力を利用して、欲望のままに自然を支配し、環境を破壊し、人体を機械化し、生命の尊厳を軽視してきた。
 こうした結果、人類は、危機に直面し、考え方を変える必要があるが、多くの人は、豊かさや便利さや効率などに囚われて、人類のカルマである戦争やテロや災害や事故等で綴られた歴史の教訓を十分に学んでいるとはいえない。

(コメント1,2)

「生命」は、過去の思考や行動の結果として、現在の状態を形成し、さらに未来の状態に影響を与える因果応報の連鎖である。
 我々は、本有の「生命」を肉体として現世に顕現させ、やがて衰退して死に、再び潜伏する・・・これが生死の過程である。潜伏した「生命」は、縁によって、過去の原因を引き継いで、再び現世に生まれる。これが「業」(カルマ)である。
 このように、万物は変化し続ける(諸行無常)、肉体は生老病死を繰り返し、組織や自然や宇宙は、発生し、成長し、衰壊し、潜伏する(成住壊空)。

 生死は、物質的には、時間の経過とともに無から有へ、有から無へと見えるが、実際には、永遠の流れの中では一瞬である。現世とは生命の変化の一場面であり、表面から退いたり(死ぬ)出現したりする(生まれる、これらを若退若出という)ことの一場面である。
 心もまた、この生死の連鎖に従っている。
 つまり、私は万物の生命であり、万物の法則に従って、縁に触れて肉体として現世に現れ、個性を発揮し、成長(または堕落)しながら、再び潜伏する・・・このサイクルを繰り返している。
 肉体の物理的な大きさは、万物に比べれば無限小であるが、ゼロではない。肉体の存続する時間(寿命)は、万物に比べれば一瞬であるが、ゼロではない。5歳でも120歳でも、本質的には変わらない。変わるのは、その間に達成した生命の次元での質・価値(境涯)である。
 この一瞬の時間に、高度な精神活動ができる人間として生まれたことは、幸せで意味あることである。その神秘と尊厳に、驚嘆するしかない。
 しかし、せっかくその機会を得たのに、本能のままに富や長寿や名声に囚われ、人間としての生命的成長をなおざりにすることは、愚かで情けないことである。


「生命」は、十界と呼ばれる十種類の境涯(生命の状態)を持つ。それらは、死後の世界として説かれた地獄や天(天国)などの架空の世界ではなく、我々の現実生活における生命の状態を表す。

 それらは、以下のように分類できる。
 地獄は、苦しみに満ちた状態。
 餓鬼は、欲求不満に苦しむ状態。食欲や金欲などの欲望が強い。
 畜生は、本能に従う動物の状態。弱者をいじめ、強者にへつらう。
 修羅は、闘争に没頭する状態。勝利のためには何でもする。個人や集団の対立が多い。
 人は、平穏な状態。人間としての命を生きる。
 天は、喜びに浸る状態。欲望や闘争が一時的に満たされるが、長続きしない。
 声聞は、知識を求める状態。世の中の道理を聞き、学ぶ。
 縁覚は、真理を悟る状態。声聞の段階から、ある真理の一部を見つける。
 菩薩は、利他的な状態。他者の幸福のために奉仕する。無条件の愛を持つ。
 仏は、「生命」としての最高の状態。常に限りなく完成を目指す理想的な生命の活動や人格を示す。すると全ての行動が価値ある結果をもたらし、全ての思いや言動が人々を幸福に導く。
 驚くべきことに、仏の境涯は、全ての「生命」に備わっている。万人が仏になれる可能性がある。
 そして、それぞれの境涯には、次の瞬間に向かう十界が「空」の状態で備わっている(冥伏している)。これを十界呉具という。



 それぞれの境涯には、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境等という十如是と呼ばれる様相性質がある。
・・・人間の例で言えば、相は外見や肉体、性は性質や性格、体は目に見えない部分も含む肉体、力は持っている力、作はその効果、因は内的な原因、縁は外的な原因、果は内的な結果、報は現実化した結果、本末究境等とは、前9者が空の状態で平等に存在することをいう。
 また、各々の境涯には、五陰・衆生・国土という三世間と呼ばれる3種の環境世界がある。
 五陰世間は肉体環境、衆生世間は人間関係や社会、国土世間は国や地球や宇宙である。
 これらを総合すると、「一念三千」という。
 「一念」とは一瞬一瞬の「生命」の状態であり、それを3000(10界X10界X10如是X3世間=3000)の要素に分析したものである。
 この分析によって、因果応報の性質や論理が明らかになる。
 「生命」は、これらの境涯を一瞬一瞬変化しながら回る実相である。これを「一念三千」という。
 我々の日常は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯を縁によって回っている。
 時々声聞・縁覚・菩薩の境涯にも行く。
 しかし仏の境涯にはなかなか行けない。
 欲望が満たされたときの喜びは、天の境涯であって、すぐに新たな欲望によって四悪道に落ちる。

 物質至上主義の現代文明は、欲望と競争に満ちており、核兵器やテロや生命操作や自然破壊などの危機に直面している。
 不幸の原因は、主に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯であり、高い成長を目指すのは声聞・縁覚であり、幸福をもたらすのは菩薩・仏であることは明らかである。



 人生の意義:使命とは、この短い人生で高い境涯に自身を成長させ、多くの生命に価値・幸福を与えることにあると考える。
 長生きしても、他人や社会に頼り、恵みを貪るだけの人生は、短命でも成長や貢献をする人生より、意義や幸福が低いと言える。
 富や権力や地位や名声や、社会条件・健康状態などは、価値の源ではなく、縁にすぎない。それらに執着すると、反価値的・不幸な連鎖に陥ることがわかる。
 人類の「生命」の歴史は、不幸をもたらす殺戮・侵略・闘争・搾取を繰り返してきたが、仏法の叡智は、それらを論理的に予言していたのだろう。
 仏法は、セツナリズム(刹那主義)・ニヒリズムを否定し、あらゆる生に意義を与えた。.


 現代の科学的合理主義は、神の創造という説明から、偶然や確率という説明へと変わってきたが、自然界を理解するには、それらに囚われる必要はない。
 偶然と思われるものは、必然であり、意味ある因果の連鎖である。これは永遠に続くのである。
 物質中心主義・唯物論では、死とともにすべてが無になるとすれば、この世での善や意義や使命は見失われやすく(虚無主義)、また、未来よりも現在の自分の楽しみを優先する(利己主義・刹那主義)になりやすい。
 人はなぜ人なのか。ゴキブリはなぜゴキブリなのか。蛇に飲まれた蛙、鷲に食われるネズミ、釣り針をのむ魚は、なぜそれぞれの姿なのか。
 なぜ生まれつきの差があるのか。なぜ善人は貧しく、悪人は栄えるのか。なぜ殺人や戦争は罰せられず、慈善やボランティアは褒められないのか。

 現世だけでは多くのことが答えられないが、仏法では、業と三世の生命観で答えを出している。
 生死、生老病死という苦しみは解決され、それ以上に、仏・菩薩という、「生命」として最高の状態(境涯)が、すべての「生命」に本来備わっている(「空」の状態である)ことを示し、貪り・怒り・愚か・慢心・悪心・疑いを捨て、愛・慈悲・智慧・善・信・正義などの行為で、より高い目的を達成するように、人々を導いているのだ。
 どんな環境でも、本能に従う「動物」ではなく、高度な精神活動を行う「人間」として生まれたことは、「生命」の次元で真の「価値」を「創造」し続ける意味・意義・使命を、与えられていると気づくべきである。
 ブラフマンや神など、森羅万象を支配する永遠不滅の実体や、「他者」に、因果の理由を求める必要はない。
 天国・地獄・ユートピア・西方極楽浄土など、さまざまな世界や人格神などの描像は、人倫を保つための架空の物語である。
 仏教の中に説かれている世界は、方便の教え(権教=仮の教え=真実の教えを理解するための前準備の教え)の中のものであり、人々を一時的に導く比喩や哲学的な象徴としての役割は果たせるが、仏陀自身は、これらの教えを明確に方便であると否定している。(仏陀の教え五時八経で、最後の法華・涅槃時に説かれた無量義経で、四十余年 未顕真実、さらに法華経方便品にて、正直捨方便 担説無上道、と説いて、それ以前に説かれた教えは真実の教えではない、正直に方便を覆して、ただ仏に成る道=真実の仏法をこれから説くとある)
 そして、そこに説かれている「生命」の真理と、あらゆる不幸を克服して「生命」として最高の境地である「仏」という人間になる方法が明らかにされている。



 近代科学の発展に伴い、西洋ではキリスト教神学の矛盾が明らかになり、ルネサンスが起こった。
 科学的に客観的事実とされるものに基づく物質至上主義が、人間の無限の欲望・野望によって推進され、富とテクノロジーによる大文明を築いた。
 しかし、その一方で、物質的時間的効率を優先し、便利さや快楽を追い求めるあまり、制御不能な貪欲が青天井に拡大し、核兵器・戦争・テロ・差別・貧困・病気などの倫理的危機や自然破壊が進み、人類の存亡が危ぶまれるようになった。
 命の尊さを軽んじる風潮は、大人だけでなく子供にも及び、殺人や自殺が容認されるようになった。
 物だけでなく、人や労働者も使い捨てにする経済効率最優先の現代文明は、深刻な危機に直面している。
 神などの「他者」に依存するのではなく、科学的合理的な常識に従う人類は、根本的な説得が困難であるのが、歴史的事実である。
 幸福を目指して、科学が探ろうとするものも、直感が示すものも、万物の「法則」に他ならない。

「法によって、人によらざれ(依法不依人)」と、仏法は説く。
 これは、あらゆる教え、特に仏法内で教えの正否や高低を判断する基準として説かれた言葉だが、仏法だけでなく、何事にも、「真の法則」に従うべきであり、情念に左右される「人(自分や他者や他の実態も含む)」の恣意的な判断に基づいてはならないとの教えである。
 万物の法則、幸福への実践はもちろん、あらゆる分野・世界においても、共通する道理である。
 自身の不幸や不遇の原因を、他者や環境のせいにするという、多くの人が陥る連鎖からは、環境も「自己」、すなわち、自身の「生命」の全体として捉えることで、脱することができる。
 環境も主体も、物も人も、動植物も人間も、すべてが自身の責任における自身の「生命」であるという視点から、戦争や暴力の報酬や自然破壊の連鎖から抜け出すことができる。
 他者ではなく、自分自身がまず変化をすること・・・これが、自身の幸福から世界の平和の実現への、根本的な鍵であることを、仏法は教えている。
 驚くべきことに、3000年も前に直感的に説かれた叡智が、今、科学的手法で証明されつつある。
 今世紀に入っても人類の叡智である、さまざまな分野の専門家が、仏法の叡智から、万物の真実を見極めようとしています。
 これらの叡智が、科学的合理的な説明の範疇で、どのようにして、仏法の叡智に迫ろうとしているのか、そしてその探求を通じて、自身の生の意味をいかに見出しつつあるか、とても興味深い。
 そして、これらの叡智によって、人類は、きっと、自身の悪業を転換し、暴力・搾取・報復・支配の連鎖から脱し、慈悲と愛の行為によって、欲望をコントロールして自然と共存しつつ、危機を脱する日が来ることを、期待する。





【第二章】


 次に、日蓮が生死一大事血脈抄の冒頭で、血脈とは南無妙法蓮華経(法則)と述べている、その血脈である法則について、おさらい、更にアップデートしておく。
 第一章と一部重なるが、重要な点であるので、くり返し、述べる。


 人間の肉体は、精子と卵子の結合から始まり、母体の中で細胞分裂を繰り返して胎児となり、出産される。
 これが人の出生である。
 その後も親からの栄養と教育を受けて、肉体的・精神的・社会的に成長し、自分の個性や信念を持って生きる。
 しかし、やがて肉体は衰えて事故や病気に遭いやすくなり、いずれは活動を停止する。
 これが人の死である。

 人の一生は、物質や精神活動が常に変化しているが、一個の生命としての一貫性が保たれている。
 肉体は呼吸や新陳代謝により構成の物質を一瞬一瞬で入れ替え、原子や素粒子のレベルでは一か月でほとんど別のものになる。
 しかし、生命としての自分自身は変わらない。
 精神活動も、感情や記憶の変化で一瞬一瞬違うものになる。 しかし、自分自身という生命としての独自性は変わらない。

 つまり、肉体や精神の構成内容は変遷しても、一個の生命としての法則性は変わらない。

 生命とは何か。
 巷の霊魂不滅説は非科学的な迷信である。
 存在するのは「自分という法則」のみである。
 受精前後や臨終前後でも、質量や活動は変わっても、自分という法則は存在し続ける。
 自分という法則は、自分を取り巻く環境や宇宙全体とも関係している。
 唯一続いていくのは「法則」である。仏法では、これを「法身」という。
 最近流行のニューサイエンスでは、生命をホログラムに譬えているのもある。

 自身と周囲を分けて考えるのは間違いである。
 自身と環境は一つの実態・一つの法則である。
 現象世界には消えたり現れたりするものがあるが、それはすべて元から存在する原因によるものである。
 生死は、自分という法則が現象世界に現れたり去ったりする現象である。
 水面を境にしても、全体としては元から存在するのである。これは、仏法でいう「生死不二」「依正不二」という概念である。

 最先端の量子力学はこれを支持する。
 生命を構成するものは、空間の中をすり抜ける素粒子や光子・電子などの在り方であり、法則に基づいた場やエネルギーである。そこには法則しかなく、すべては「法則のおりなす有様」である。(*1)(*2)(以下*はコメント3以降に掲載)



■十如是・三世間


 一瞬における万物や生命の詳細な観察は、素粒子から宇宙まで、すべてに以下の要素があることを示す。
a)表面の観察様相
b)独自の性質
c)観察され得ない実体
d)内在する力やエネルギー
e)d)が内外に及ぼす作用
f)内的原因(次の瞬間の状態につながるもの)
g)外部からの原因(次の瞬間の状態につながるもの)
h)内部への結果(f)・g)による)
i)それが表面化した結果
j)以上のすべての要素が過去から未来へ一貫して続くこと

 そして、それぞれの実体が自己と周囲との関係は、以下の様相を持つ。
k)個別の内的世界の様相
l)周囲の自然環境の様相
m)周囲の社会的環境の様相

 これらの要素と様相により、全存在は科学的な因果の法則に従って変化する。
 これは仏法でいう諸行無常・因果応報である。
 物体の内的作用と外部の現象作用は、見方は異なるが一つの実態である。
 物体と環境も、見方は異なるが一つの実態である。
 原因と結果は同時に一瞬に存在し、次の因果へと繋がる。
 これは過去から未来へ際限なく続く。こうして、地球も宇宙も、生物も人間も、現象世界に出たり入ったりする。

 結果のないところに原因はなく、原因のないところに結果はない。

 また、モノや法則の始まりや終わりを設定すると、それ以前や以後の因果を否定することになり、科学的に矛盾する。
 因果の法則は不変であるから、物質は消滅しても発生する。(量子力学などで証明済)(*2)
 つまりは例えば、宗教のドグマや、一部の現宇宙の発生モデル等は、どんなに理路整然に装っていても、科学的に矛盾するのである。

 自分という生命は、生まれる前に原因があって生まれ、死ぬ前に原因があって死ぬ。
 そして死後も何らかの形で生を発する。
 ちなみに一個の生命が複数で発現することはない。
 分離した時点で、別個の生命である。
 因果を過去に遡ると、 人類や生命や地球や宇宙の発生、さらには無数の宇宙の発生が見える。

 -∞の過去に遡っても、その時点で現在と同じ法則に基づいた結果があり、その因果は+∞に遡ることができる。どこまでいっても∞である。こうでなければ、自然法則ではない。(これ以外は都合の良いコジツケである。)

 つまり、それらも個別の法則として-∞から+∞まで、因果を繰り返して存続する実体である。(*4)(*6)
 私という生命も、「私という法則」であって、その有様である。
 私も、あなたも、単細胞生物も、分子化合物も、素粒子もすべて、-∞の過去の時点で無数の宇宙のどこかに存在し、縁をしていたかもしれない(上記g)に相当する)。そして、その時点でも、-∞に過去があり、+∞に未来がある。(*4~*6)


 私はなぜ私なのか。
 あなたはなぜあなたなのか。
 人間はなぜ人間なのか。
 ゴキブリはなぜゴキブリなのか。
 (私の買った宝くじはなぜ当たらないのか…)
 これらの問いは、すべて因果の法則で答えられる。
 すべては-∞からの因果の現れであり、+∞への因果の予測で完結できるのである。
 同じものは存在せず、同じ結果は起こらない。
 だからこそ、すべては尊厳である。
 これこそ生命の尊厳の法則である。

 そしてこれこそ究極の、現象面の科学的法則である。



■十界互具

 生まれてきた意味は何か。
 因果を繰り返す意味は何か。

 これらの意義、哲学的意味を考えるとき、万物のそれぞれには、以下に分類できる、一瞬における感じ方・共鳴状態があることが分かる。

o)周囲や自身による縛られ圧迫され切り刻まれ焼かれ飛ばされ破壊され・・・などの無限のカオス。熱力学の法則に従うカオス。
p)自身や周囲の目標や営みが未達成で苦しい状態
q)自身や周囲の目標や営みに無関心で流される状態
r)自身や周囲の目標や営みに競争して優位になろうとする状態
s)自身や周囲の目標や営みに調和して摩擦が少ない状態
t)自身や周囲の目標や営みが一時的に達成された状態
u)自身や周囲の目標や営みの意義を探ろうとする状態
x)自身や周囲の目標や営みの部分的な意義を洞察した状態
y)自身や周囲の目標や営みを変えて周囲の目的や利益に貢献する状態。これは自身の成長にもつながる。
z)自身と宇宙一切が完全に調和し、最高に充実した状態。

 これらの状態は、物体の速度に例えられる。周囲からの刺激で瞬間瞬間変わる。o)~z)の間を止まらずに変遷する。z)になるのは稀である。各状態には、次の状態に移る傾向性がある。同じ刺激でも、傾向性によって増強・減弱や移行が起こる。

 これらは物体の加速度に例えられ、未来の志向である。

 その積分は過去∞の因果の積み重ね(業)である。
 その積分値は全結果を含んだ∞であるが、今の一瞬に表現される。
 その一瞬の状態は次の瞬間への微分値も示し、それらが「因」となって「果」が結びつき、変化を続ける。
 その一瞬の状態には、-∞の因果と+∞の可能性がある。
 これが時空を超えた、万物一切根源の法則である。

 奇跡と思える地球の、平和な日本に、人間として生まれ、元気に生きているのも、また、不幸な境遇に生まれたり天災地変や地域紛争に巻き込まれたり努力が報われない、また、身近では宝くじが当たらない、人から裏切られたりするのも、これらすべて、積分値である果報が現れた結果である。これらは素粒子のレベルで記録され、∞バイトメモリーとなっている。(*6)(*7)

 都合の悪いことは、偶然・遺伝・不運・理不尽などといって悲しみ、同情し、忘れることもできるだろう。
 だが、それでは、永遠+∞にこの流れから抜け出せないだろう。
 すべては自身が積んだ果報であると受け入れ、未来への一歩となる最適行動を起こすことができる。
 否定・見込み違い・期待や落胆では、未来を変えられない。

 そして、その要点は「z)自身と万物一切が完全に調和し、最高に充実した状態」である。-∞から+∞のどの瞬間でどの状態にあっても、その瞬間に最高の行動があるはずである。その行動こそ生命として最高の状態(真の幸福というべき状態)である。



■一念三千

 実は仏法では、a)~j)は十如是、k)~m)は三世間、n)~z)は十界と呼ばれる概念であり、十界互具という法則によって、一瞬の生命(一念)に三千世界が具わっていると考えられる。
 これは、一念三千という表現で、生命の科学的な側面を示している。

 一念三千を仏法用語で説明すると、一瞬の時点で、素粒子から宇宙までのすべての存在について、
a)如是相:外見や形態
b)如是性:特性や性格
c)如是体:本質や実体
d)如是力:内在する力や能力
e)如是作:外に現れる作用や動作
f)如是因:内的原因
g)如是縁:外的原因
h)如是果:内的結果
i)如是報:外的結果
j)如是本末究竟等:a)~i)が一貫して過去から未来へ続くこと
 という十の要素がある。
 これらを十如是という。

 また、各存在の実体は、自己と周囲との関係によって、
k)五蘊世間:個別の内的(肉体的精神的)世界
l)国土世間:周囲の自然環境
m)衆生世間:周囲の個人や社会との関係
という三つの世界に分けられる。これらを三世間という。

 さらに、一瞬の生命の状態は、
o)地獄界:苦しみに満ちた状態
p)餓鬼界:欲望に飢えた状態
q)畜生界:本能に従った状態
r)修羅界:競争や対立に囚われた状態
s)人界:平穏な状態
t)天界:満足な状態
u)声聞界:真理を求める状態
x)縁覚界:真理を部分的に得る状態
y)菩薩界:他者の利益のために行動する状態
z)仏界:進歩に向かう万物と調和し、完全に充実した状態
という十の界に分類できる。これらを十界という。(*8)

 十界はそれぞれに十界を含んでおり、これを十界互具という。

 したがって、十界x十界x十如是x三世間=三千世界が、一念に具わっているのである。これを一念三千という。

 これは、一念の中に永遠の因果と可能性を見ることができる、生命の普遍的な法則である。

 十如是・三世間は、色心不二・依正不二・因果俱時という原則を含んでいる。

 すべての存在と生命は、科学的な因果の法則に従って変化し、諸行無常・因果応報である。
 物質と精神は、見方は異なるが実は一つの実態であり、これを色心不二という。
 物質と環境は、見方は異なるが実は一つの実態であり、これを依正不二という。
 原因と結果は同時に一瞬に存在し、次の一瞬への因果につながる。これを因果俱時という。


 一瞬の生命の状態を、数学的に見ると、十界は、生命の速度や勢いを表す。
 十界互具は、速度の微分で加速度やエネルギーを表す。
 その積分値は、過去の宿業の累積で現在の結果を表す。
 o)地獄界~r)修羅界は悪業の蓄積である。
 y)菩薩界は善業の蓄積である。
 すべては自分の行為の結果であり、悪業は現世で報いられなければ来世に持ち越される。
 現世で恵まれるのは、過去世~現在までの善業の福運である。
 現世の不運・逆境は、過去世から現在までの行為の結果そのもの(悪業)である。
 だから、利他行動によって善業を積むことが必要である。
 そのためのy)菩薩界である。

 生老病死の流れで、肉体も精神も更新し続け、生死を永遠に繰り返し、過去の宿業も未来の成仏も、三世にわたって更新する。
 その独自の生命体は、一つとして同じものはない。
 それぞれに仏界を含むからこそ、最高に尊厳なる生命である。

 このように、自然科学的解析と境涯の解析は、今世を超える範囲が科学的解析の範囲を超えるため、現実をすべて受け入れながら、純粋な科学的理論による法則を「信じる」しかない。
 だからこそ、ここに、幸福を志向する真の宗教の意義がある。



 天台大師は、理論的にはz)仏界という最高の生命状態(絶対的幸福)に至ることができると解釈したが、現実的には非常に困難であると認めた。彼は、観念観法(一種の瞑想)でこの困難を克服したとされる。

 しかし、実は過去の-∞の時点で、一般の生命状態からz)仏界に至った生命が無数に存在していた。これは、この法則が自然法則であることを示す。(仮に、無数にいなかったとしたら、この法則は自然法則とはいえなくなる)(*9)

 この最高の生命法則を、インドの釈尊が部分的に達観し、期間限定・対象者限定の法として説いたのが原始仏教である。
 その法が終わる末法の時代には、地涌の菩薩が直接この法則を説くと予言された(ただし、これら文献として残っているものは、先述してきたことからも明らかなように、後世の脳のよる様々な願望や思惑が含まれた修飾・捏造の産物である)

 ほぼその予言通り、日本の鎌倉時代に日蓮が現れ、この法則を「南無妙法蓮華経」と名付けて明らかにした。(*10)~(*16)

 「南無妙法蓮華経」とは、万物一切根源の自然法則の名であり、これを唱えることで、誰でもz)仏界に至る(即身成仏)ことができる。これは、z)仏界を基盤としたo)~y)の境涯を意味し、万物の流れ・智慧・慈悲などの価値的な情報と連動する。

 日蓮は、凡夫のままで「最高の法則」を語り、それを理解しない周囲や国から迫害を受けた。(*17)
 彼は、何度も凡夫のままで即身成仏し、仏界の境涯を示しながら、「南無妙法蓮華経」という修行法を、弟子・檀那や煩悩に染まった一般人に説いた。

 それは、最期まで続けられた。彼は闘病の旅中でも、池上邸の柱にもたれながら立正安国論を講義した。

 彼の死後は、様々な門下が後を継いだ。
 しかし多くは、釈迦や日蓮を「本仏」(絶対者)として崇め、一般人は本仏に帰依しなければ成仏できないという、誤った教えに陥った。(*18)
 先述した通り、正しく受け継いだようにみえた日興門流でも、日寛前後以降は教学的に誤った血脈観が流れた。
 戦後その中から創価学会が出現したが、その教義は日蓮正宗に破門され創価ルネサンスを得ても、結局誤った血脈観と俗世にまみれた師弟観にすぎなかった。

 この万物一切根源の法は科学的法則であるから、絶えずその法則は更新し続けられる。
 いまこそ上記に示すような真の日蓮仏法に立ち返り、それを更新していかなければならない。

 日蓮の最期とは対極的に池田大作は、永遠の師匠とまつり上げられながらも、最後の13年間を自身の姿を見せられない状態となって、ほとんどすべての会員や一般人から姿をくらまして過ごし、反面彼を元気な姿として創価学会組織が演出し続けたことは想像に難くない。死亡説さえささやかれていたほどだ。
 池田大作は法主本仏論に対して「人間主義」とも言っていたが、この歴史をみても真の日蓮仏法を信奉しているとは到底言えず、教学的な再構築もほど遠い。「法華経の肝心…に南無し…」という観念文に、そのことが表れている。(*19)

 自業自得・因果応報とはまことに厳しい法則である。
 創価学会がみずからの敵を「仏敵」と称するのも、「仏」に特定の人物を想定しているからこそであり、言論をはじめとした様々な暴力や排除を生む。
 会員の中には、中堅幹部であっても、旧来的な日蓮本仏・マンダラ御本尊本仏と崇めて祈るだけで、現世利益成就という欲にまみれた組織の中で真の成仏への現実行動を起こさない人が多い。その結果、衰退の一途をたどっている。


 この最高の生命法則は、特定の本仏や本尊を崇めるものではない。
 あくまで「南無妙法蓮華経」という「万物一切根源の法」を唱えることで、誰でも最高の生命状態(仏界)に至る(即身成仏)という法則である。
 いわゆる御本尊というマンダラはあるが、あくまでこれは自身の生命を映す鏡(その中には仏界も含む)、すなわち信仰のための単なる道具にすぎないのであって、信仰の対象は万物一切の法=南無妙法蓮華経である。
 だから、道具を神聖視したり限定したりする必要も意義も全くない。
 ちなみにこの文字で描かれたマンダラは、日蓮が「万物一切根源の法」の一例として法華経の虚空会の儀式を描いたものである。

 くり返すがそれは、文字で描かれた最高の生命状態・生命法則を表すマンダラであるが、自分自身の最高の生命状態を映す「鏡」にすぎないのであって、本物の最高の生命状態(仏界)は、元々自分自身にあるものである。
 それは先述したが、全てを投げうって限りなく完成を目指す一念であり(*20)、それが最高の生命状態として具体的な行動につながると、現実が内外ともに最高に価値的なものに変わっていく。これを、九界即仏界、凡夫即本仏、煩悩即菩提、信心即生活等というのである。

 マンダラ本尊は、この意味を理解すれば、相貌に合わせて、いつ誰がどのように書いてもいいものであり、万物一切根源の法として相当なものである。なぜなら、それは「法則」であり、誰が書いても意味が変わらない科学的な方程式であるからだ。芸術的であっても下手であっても相当。意味は同じだからだ。これに特別な意味や権威付けをすることは、真の日蓮仏法に反する。

 そして、その志向先は万物一切根源の法であり、仏界を基盤にするから、具体的には「自他ともに」実現する「幸福」となり、菩薩の行動=慈悲から生まれる利他行動そのものである。

 だから、行動を起こさなければ、結果は出ない(現実は変わらない)のは、当然である。

 こうした万物一切根源の法則に立てば、未来永遠に現実を価値あるものに変えていける。様々な困難を克服し、種々の目標を達成し、崇高な使命を果たすことができる


【第三章】

 科学史や仏教史の詳細は割愛するが、ここで重要な視点を提示したい。
 それは、「南無妙法蓮華経」という言葉は、この宇宙のこの地球上の人類に特有の表現であり、他の宇宙や他の時代の文化的生物には適用できないということである。
 この言葉は、「万物一切根源の法」を指すが、その法は仏法だけではなく、科学やAIなどの新しい知識や技術によっても表現しなおしても良いものである。
 その場合、日蓮教団や創価学会は、それを受け入れることができるだろうか。(*23)

 また、自然科学の限界として、生命の科学的分析は今世に限られ、生命の全体的把握は理路整然とした法則を信じることに依存する。
 なぜマンダラに手を合わせて南無妙法蓮華経と唱題すると仏界が現れるのか、その詳細なメカニズムは今のところは不明である。
 南無妙法蓮華経は漢字であるが、サンスクリット語でも英語でも他の一切の言語による表現であっても同じ効果が期待できる。なぜならその定義を信じることで人知を超えた智慧を得るというのが「以信代慧」であるからだ。

 信じることによって、万物一切が動いている。
 肉体の痛みに対して鎮痛薬以外の無効な薬や注射でも、鎮痛効果があることがある。これはプラセボ効果と呼ばれ、最近では「意味反応」として研究されている。
 これは、何かを信じるという行為が、ある一定の割合で物理的現象を引き起こす現象である。信じる対象は何でもよく、サプリメントや健康法、占いやカウンセリングなどにも適用できる。まさに「信ずる者は救われる」効果である。
 しかし、信じる強さや対象によって効果の強さや範囲が異なり、悪い結果を招くこともある。
 盲目的で理不尽な信仰や信頼は、悲惨な結果を招く。
 詐欺師や悪徳集団を信じて行動した悲惨な結果は自明である。
 経済や社会活動においても、信じるものや相手が信頼できるかが問われている。仮想通貨や株や不動産や企業や人材など、信用度が常に変化する対象は、何を信じるかによって、現実が変わる。
 だから、信じるものを選ぶこと、正しい信仰を持つこと、すなわち、広く大きな意味で「信」・「信仰」の在り方が問われている。悪い人や対象を信じた結果の悲惨さは、因果の法則によって必ず現れるからである。

 それでは、信じる対象が、矛盾のない理論や正しい科学的道理に基づいた法則であればどうであろうか。
 それを信じる効果は、その実体が一部(生まれる前や死後などで)検証できなくても、他の信じる対象に比べてはるかに強力な意味反応を持続的に生み出すと言える。その効果は時空を超えて、信じる一念の強さに応じて変化する。

 それが万物一切根源の法であれば、その一念は自分だけでなく周囲の環境(他者、社会、自然環境から宇宙全体)すべてに利益をもたらす行動につながるはずだ。
 つまり、自他共の幸福へ、一切衆生(無機物から生きとし生けるもの)の幸福へと結びつく。
 具体的には、野放図な欲望や自分勝手な行為が抑制され、周囲の人間や社会への貢献行動となって、現実変革が実現する。 この波は社会的に広がっていき、様々な困難な問題の解決、社会全体の福祉向上、地球環境破壊の抑制、国家間や地域の紛争の解決などに結びつき、人類の様々な困難を克服し、世界平和の実現、地球環境の保存、人類全体の共存繁栄へと連動していくことは確かである。

 信じる対象が、時空を超えて普遍的な「万物一切根源の法」であれば、その意味反応の結果が価値的にならないはずがない。

 この、普遍的な「万物一切根源の法」は、仏界という、自己の生命にある最高の価値的状態を明らかにする、いわば最高の「生命の尊厳」の法である。これがすべての生命に本来備わっているから、尊厳なのである。尊厳の根拠を、生まれた国や住んでいる場所や社会的身分などに置かない、完全なる自由・平等の法則である。

 これこそ、絶対的他者の存在という幻想にとらわれない、最高の生命尊厳の法則である。

 意味反応とは、信じる者が自らを救済する反応であり、信心の強さに応じて変化するものである。日蓮は「ただし、ご信心によるべし」と述べている。(*19)
 しかし、「万物一切根源の法」は、意味反応だけでは説明できない、不思議な、人知を超えた法則であると考えられる。

 現在の、自分自身や人類全体の生命に関する観測や見解は、完成されたものではなく、今後も絶え間ない精進によって更新され、深化され、発展されていくものである。
 基本・根本は不変であるが、その理解は永遠∞に未完成である。その理由は、この地球に生まれた生命体が、「万物一切根源の法」に帰依し、成長しようとする本性を持っているからである。

 どんなに混沌とした困難な状況でも、実はその中に「万物一切根源の法」に帰依し、成長しようとする瞬間があるのである。それこそが最高の幸福である=即身成仏の現象であると言えないだろうか。

 日蓮の遺文に「世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし」(佐渡御書P957)とある。
 《一般に、人が恐れることは、火に焼かれること、刃物に刺されること、そして、自分が死ぬことである(現代語訳)》

 また、「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり(御義口伝P788)」
《初めて自分の心が本来の仏であると知ることを、大歓喜という。すなわち南無妙法蓮華経を唱えることは、自分自身の即身成仏であり、歓喜の中の大歓喜である(現代語訳)
 とある。

 とにかく、どんなに理屈が正しくても、現実は、そのまま受け止めて、自分の力で変えていくしかないのである。
 迷いの多い中で試行錯誤しながら完成に向かって努力するのである。
 これが凡夫(一般人)、すなわち一切衆生の本来の姿(各々の原理)であり、これこそが、未完成ながら限りなく完成へと志向し努力するという「仏界」の境涯であるからである。
そのための南無妙法蓮華経(共通の行動原理)である。
 元から、完成された姿(理想的な姿の神や仏、絶対者や創造主など)は存在しないし、それによる救いも一切無いのである。

 この視点からすれば、現実逃避や罪の償いで死を選ぶことは、無意味であるだけでなく、その行動の機会を失って、有害になることである。
 ∞の時空では、次の誕生先候補である無数の宇宙があり、それがどれだけ遠い未来であっても∞に対しては一瞬であるから、一瞬が輝いていれば、一瞬で次の生を受け、すなわち永遠に輝くのである。(*24)

 善を行い悪を断ち、正直にまっとうに生きれば「生も歓喜」である。
 たとえ志半ばで肉体が滅びても、一瞬先の誕生で因果を引き継いでいけるので、後悔することもなく「死も歓喜」である。
 まさに「生も歓喜・死も歓喜」なのである。(*25)



 ただし、先述もしたが、こうして死を語り研究できるのは生――すなわち生きている間のみであり、死の期間――すなわち墓の中からでは、死後の期間の真実や体験は一切語ることができないのである。なぜなら、その期間はその生命にとっては「無い」に等しいのであり、一瞬で過ぎてしまうからである。
 死を語り研究できるのは、生命の期間で生きている間だけの特権であり、だからこそ、この貴重な期間を、完成を目指すことなく無為に過ごすことは無念で、後々永遠に後悔を残す。
 日蓮も同様の趣旨を述べている。また古今東西の先哲も、同様の思いだったのであろう。


 次のページからは、日蓮の血脈から見た先哲たちの万物統一理論への思索、またそれらから見た日蓮の血脈について述べていきたい。






-----------------------------------------------------

コメント集




コメント1

私は、仏法の叡智について
仏法の叡智とは、仏教の真理を明らかにする知恵や洞察力のことです。仏教には、テーラワーダ仏教や大乗仏教など、さまざまな宗派や流派がありますが、共通して目指すのは、苦しみから解放された覚醒の境地である悟りです。仏法の叡智は、悟りに至るための道しるべとなるものであり、仏教の経典や教え、瞑想や修行などを通して培われます。仏法の叡智は、自分の心を見つめ、自分と他者との関係を深め、世界と調和することに役立ちます。仏法の叡智についてもっと詳しく知りたい場合は、以下のリンクを参考にしてください。

- [仏法―テーラワーダ仏教の叡智 | ポー・オー・パユットー, 野中 ...](^1^): タイ仏教界最高の学僧が明晰に語るブッダの真の教え。経典の引用に基づく的確な解説によって導かれる、仏教の体系的な理解。テーラワーダ仏教を学ぶための必携の教科書となる一冊。
- [池田SGI会長70年の軌跡(中)――仏法の叡智を人類共有の宝 ...](^2^): 創価学会の池田大作会長が、仏法の叡智を世界に開き、人類の共有財産としていく時代の到来を宣言し、東西冷戦によって分断された世界を駆けめぐり、人々の心の中に安心と信頼の輪を幾重にも広げた闘争の歴史を紹介する。
- [智慧(ちえ)とは?意味と実践方法と慈悲との違いを分かり ...](^4^): 仏教でいわれる「智慧」は、真理をハッキリ知る働きのことで、慈悲とともに仏教の二大柱とされる。智慧を培うための実践方法や、慈悲との違いを分かりやすく解説する。

以上が私の回答です。ご参考になれば幸いです。😊

ソース: Bing との会話
(1) 仏法―テーラワーダ仏教の叡智 | ポー・オー・パユットー, 野中 .... https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E6%B3%95%E2%80%95%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%80%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%8F%A1%E6%99%BA-%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A6%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC/dp/4901679643.
(2) 池田SGI会長70年の軌跡(中)――仏法の叡智を人類共有の宝 .... https://www.d3b.jp/religion/7089.
(3) 智慧(ちえ)とは?意味と実践方法と慈悲との違いを分かり .... https://true-buddhism.com/practice/selfcultivation/.
(4) 仏法―テーラワーダ仏教の叡智 | ポー・オー・パユットー, 野中 .... https://bing.com/search?q=%e4%bb%8f%e6%b3%95%e3%81%ae%e5%8f%a1%e6%99%ba.
(5) CiNii 図書 - 仏法 : テーラワーダ仏教の叡智. https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB1260071X.



コメント2

仏教の瞑想について

仏教の瞑想とは、心を落ち着かせ、現在の瞬間に集中し、真理を悟るための修行です。仏教には、テーラワーダ仏教や大乗仏教など、さまざまな宗派や流派がありますが、共通して目指すのは、苦しみから解放された覚醒の境地である悟りです。仏教の瞑想には、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の二つの大きな種類があります。サマタ瞑想は、心を乱さず、一つの対象に注意を向けることで、心を静める瞑想です。ヴィパッサナー瞑想は、心で対象を観察し、その本質や法則を見抜くことで、心を浄化する瞑想です。仏教の瞑想には、様々な効果があります。例えば、ストレスや不安を減らし、集中力や記憶力を高め、幸福感や自己肯定感を向上させ、思いやりや共感を深めるなどです。仏教の瞑想についてもっと詳しく知りたい場合は、以下のリンクを参考にしてください。

- [瞑想の意味と種類・効果とやり方とは? - 仏教ウェブ入門講座](^1^): 仏教の瞑想の基本的な概念や方法、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いや関係、各宗派の瞑想の特徴などを分かりやすく解説する。
- [マインドフルネスを身につける仏教の瞑想 - 浄土真宗 慈徳山 得蔵寺](^2^): マインドフルネスとは、仏教の瞑想の中心的な要素であり、現在の瞬間に意識を集中することで、内面の平和を見つけることができる。浄土真宗の瞑想の実践方法や効果について紹介する。
- [瞑想 - Wikipedia](^3^): 瞑想とは、心を集中させることで、心身の健康や精神的な成長を目指す技法の総称である。仏教の瞑想の歴史や種類、他の宗教や文化との関係などについて概説する。

以上が私の回答です。ご参考になれば幸いです。😊.

ソース: Bing との会話
(1) 瞑想の意味と種類・効果とやり方とは? - 仏教ウェブ入門講座. https://true-buddhism.com/practice/meditation/.
(2) マインドフルネスを身につける仏教の瞑想 - 浄土真宗 慈徳山 得 .... https://tokuzoji.or.jp/mind-fullness/.
(3) 瞑想 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3.
(4) Getty Images. https://www.gettyimages.com/detail/news-photo/new-york-ny-sitting-yoga-fashion-young-adults-assume-a-news-photo/515449240.




コメント3

第二章からのコメント(*)

(*1) その生命を構成するモノはすべて、命あるものの肉体も、そこら辺に転がった石ころも、すべては空間であって、その中をすり抜ける大きさゼロの素粒子や光子・電子等の在り方だけで、形作られているだけである。
法則に基づいた重力・磁力などの場やエネルギーで占められているのみである。

 因果の法則は不変だから、物質については消滅してもまた発生する。(量子力学などで証明済) その物質で構成されている生命はなおさら、複雑ななんらかのメカニズムで消滅してもまた発生する。


(*2) 仏法では、これを「法身」(ほっしん)という
各自の生命は各自の法身である。
家族、地域のコミュニティ、会社、各自治体、日本、世界の各国、地球、銀河、このビッグバン宇宙、観測外の宇宙、小単位から大規模の複雑系も含め、これらすべて、それぞれの「法身」という生命体である。


(*3) 精神科医キュブラー・ロス氏自身の臨死体験が含まれる著作がある。
「この光の源へ溶け込んでいく瞬間、すべての振動が止まりました。・・・これは、生きとし生けるもの全てのいのちの意識と、言葉では言い表せない愛の意識が宇宙に広がっていることへの気づきだったからです。」(P134~135 "ON LIFE AFTER DEATH "/(ELISABETH KŰBLER-ROSS), 「死後の真実」/(E・キュブラー・ロス著、伊藤ちぐさ訳、日本教文社、1995年)

(*) 釈尊は、涅槃経を残している。
布教の途上、供養されたキノコ料理にあたって急性腸炎になって倒れる。
しかし、供養した弟子・供養されたキノコ料理によって、最高の涅槃を顕すことができたと称賛している。


(*4) 因果を過去に遡ると、人類の発生、生命の発生、地球の誕生、ビッグバン宇宙の誕生、そしてそれ以前の発生していた無数の宇宙・・・
マイナス無限大(-∞)の過去に遡っても、その時点を観測すれば、現在と同じ法則に基づいた結果があって、さらにその因果はプラス無限大(+∞)に遡ることができる。
どこまでいっても無限大∞
もし、こうでなければ、原理とか自然法則とはいえない。(誰かや何かにとって都合の良いコジツケである。)
つまりは、元々から、それらも個別の法則として存在し、-∞から+∞まで、因果を繰り返して存続していく実体なのである。


(*5) 無限大(∞)とゼロ(0)について、
どんなに大きい数値でも無限大(∞)で割ればゼロである。
限りなくゼロに近い数値でもゼロ(0)で割れば無限大(∞)である。

数学上も物理学上も、同様の扱いである。

物体は立体であり、分割可能な体積や表面積や距離がある。
面は、長さや面積はあるが体積はゼロ。
線は長さはあるが面積や体積はゼロ。
点は、長さも面積も体積もゼロ。
ちなみに、素粒子は、分割不可能な扱いだから、大きさは点と同じである。

一瞬とは、瞬き一つと書かれていて、我々人間は1秒間に高々5~6回しか瞬きできないから、一瞬を文字通り解釈すれば0.1~0.2秒である。限りなくゼロに近い時間という意味で使われることもあるが、厳密には、一瞬の時間の長さはゼロである。

だから、どんなに長い期間の過去(たとえば五百塵点劫など)でも、有限の数値であるかぎりは、その時点から見れば、無限大の過去が存在し、また無限大の未来も存在する。
現在の一瞬と-∞から+∞までの関係は、どんなに長い過去に遡ってもどんなに未来であっても、不変である。
そして、知りうる歴史上の事実(法華経で説かれた話やビッグバン宇宙の誕生など)がどんなに長くても、有限である限り、∞に対しては一瞬の事実となる。

今の一秒も百歳の人生も、-∞の過去や∞の未来に対しては同様に一瞬(長さゼロ)となる。
だから儚いのではなく、だからこそ、この一瞬の一念における変革が∞の未来に対して意味あることとなる。
つまりは、永遠がこの一瞬に凝縮され、この一瞬が永遠へ拡大する。


(*6) 量子力学では、「量子もつれ」という性質がもたらす遠隔作用が存在し,2つの粒子が何の媒介もなしに∞の時空において同期して振る舞う。
たとえば角速度ゼロの素粒子から分離した二つの電子の各スピンはプラス1/2とマイナス1/2で、それらの距離によらず対になって連動している。
∞の空間でどんなに離れて存在していても、片方の電子のスピンを測定するだけで、もう片方の電子のスピンは判明する。
この測定において、2つの電子の間に、光速をはるかに超え、一瞬で一つの情報が伝達したことになる(非局所相関、EPRのパラドックス)。
これは、量子テレポーテーションや量子コンピュータ等、宇宙テクノロジーへの応用が期待されている。

この現象は、素粒子や生命が、測定されたこと(縁)によって、時空を超えて情報が伝わるという一例と考えられる。
宇宙の営みのすべては、こうして同期している。
繋がって連動している。
つまりは、私たちの生命(の複雑な情報)も、∞の時空において、一瞬ごとに(同期して)生成消滅を繰り返すことを示唆している。


(*7) そして、その情報は積分値である「業」として、素粒子内に記録され、同期している。
素粒子一つにも各々が記録され、その集合体である各々生命にも各々が記録され、観測外の宇宙も含め、全てが各々無量の∞ビットメモリーとなっている。


(*8) 十界の補足、物質~生命まで、考えられる状態や行為の例
o)地獄界:沸騰、臨界状態、爆発、核反応など、~天災地変、犯罪、病悩、戦争、
p)餓鬼界:内圧上昇、増大エントロピー、速度減少、~種々の欲望、欲求不満、限界効用逓減、
q)畜生界:物理化学反応一般、磁場・重力場や本能の赴くままの状態、~細胞単位から個体の代謝、弱肉強食、生殖行為、いじめ、ハラスメントなど
r)修羅界:膨張・圧力増大・速度上昇、すべての競争(経済行為、スポーツなど)
s)人界:物理化学的定常状態、一定速度運動、リラックス、癒し、平穏な状態、
t)天界:物理化学的定常状態に至った刹那、欲や目的が満たされた状態(一時的な刹那)
u)声聞界:学習、トレーニング、
x)縁覚界:理解、洞察、インスピレーション、セレンディピティ
y)菩薩界:共鳴、共振、集合、~共感、愛情、慈悲、布施、ボランティア、協調行動


(*9) ざっくりいうと、原始仏教は期間限定・対象者限定の一時的な悟りの修行法則であった。
限定期間は、釈迦滅後1000年までの正法と1000年から2000年までの像法のみ、
対象者は、過去世での仏法経験者(仏道修行の経験者(本已有善の衆生という))に限定されていた。
そして、法華経に至って、教えの効力が切れ、衆生が非対象者(仏道修行の未経験者(本未無善の衆生))で占める末法では、上行菩薩に、永遠の成仏法の流布を附属していた。

教えの内容も、仮想現実を使った比喩や方便そのもので占められている。
歴劫修行の末、初めて成仏できることや、様々な仏の姿も飾られた仮想現実上のものだったり、声聞、縁覚、また女性は成仏できないとされたりしていた。
これらは、例を挙げれば、天台大師の五時八経などの解釈、「摩訶止観」などに詳しいが、詳細は他の文献などを参照。




(*10)「 至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して 闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、」(日蓮、当体義抄、御書P513)
《この道理は、名がなかったが、聖人がその道理を見抜いて万物に名をつけるとき、因果俱時の不思議な法則があり、これを名づけて妙法蓮華と称した。この妙法蓮華の法則は十界三千の一切法が含まれ、完璧な法則であり、これを修行する者は、即身成仏する因行と果徳とを同時に得るのである。聖人は、この妙法蓮華の法を師として修行したので、妙因・妙果を俱時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである。》(現代語訳)

これらは、妙法蓮華の法を時空を超えた「万物一切根源の法」として名前を付け、「原理」として顕されている部分である。


(*11) 「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱えれば、凡身即仏身なり。是を天真独朗の即身成仏と名く。(日蓮、本因妙抄、御書P872)

「我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(日蓮、御義口伝、御書P786)
《わが生命が元から、仏の当体であると、始めて事実の上に覚ることを成仏というのである。すなわち、わが生命が南無妙法蓮華経の当体であると始めて事実の上に覚る、御本尊に向かっての唱題である。》(現代語訳)


(*12) 「今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり、
此の法門は一代諸教の中に之無し文句に云く「諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云。」日蓮、(妙一女御返事(事理成仏抄)、御書P786)
《今本門の即身成仏とは、当位即妙・本有不改と決定されるのであり、凡夫の肉身そのままの姿で、本有無作の三身如来であるというのはこの事である。この即身成仏の法門は釈尊一代四十年余の諸教の中には説いていない。したがって天台大師も、法華文句の中に「諸教の中では、この即身成仏の法は秘匿して伝えていない」という。》(現代語訳)


(*13) 「大強精進経の中に 衆生と如来と同じく共に一法身にして 清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文(日蓮、当体義抄、御書P511)
大強精進経の中に、「衆生と如来とが同じ一つの法則、清浄で妙なる比類のない、これを妙法蓮華経と称するのである」と説いている。
法身とは法則(真理)そのもののことをいう。


(*14)「五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、 今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり 是則ち妙法蓮華経の五字なり、 此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う 此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、 不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る 故に即身成仏するなり 金剛不壊の体なり」(日蓮、総勘文抄、御書P568)
《五行とは地水火風空である。五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいう。これらは本来ただ一つの法則であるが、経々によって種々に説かれている。内典と外典とその名目が異なるだけである。法華経にはこの五行を解説して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。
 この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。
 これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「唯一、仏と仏とのみが、これを究め尽くしている」と説かれている。
 この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初心の位からこれを知ることができるから即身成仏するのであり、金剛不壊の体となる。》(現代語訳)


(*15)「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す」(日蓮、総勘文抄、御書P568)


(*16)「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、 四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは 報身なり十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て 寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、 生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり 法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、 此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり 之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり 是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、
生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て 我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず 剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず 心法も縮まらず虚空の中に満つれども 虚空も広からず心法も狭からず」(日蓮、総勘文抄、御書P563)
 《この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体となったことをいうのであり、三身即一身の境界を示す。四土とは不二であり法身の一仏である。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。十界の他には仏はなく、仏の他には十界はない。依正不二であり身土不二である。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、このゆえに無相の極理という。生滅無常の相を離れているゆえに無相といい、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理という。この無相の極理である寂光の極楽は一切有情の心性のなかにある清浄で煩悩を離れた境界である。これを名づけて妙法の心蓮台という。この故に心の他に別の法はない、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。
 生と死との二つの原理は生死の夢の原理であり、妄想であり、顛倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただして見ると、そもそも生ずるという始めがなく、死ぬという終わりもない。つまり既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓箭にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空のなかに満ちたとしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭ということもない。》(現代語訳)



(*17)「何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり 心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり 其中に識神をやどす 濁水に月のうつれるが如し 糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず 身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」(日蓮、佐渡御書、御書P958)
《まして日蓮は今生では貧しい下賎の者として生まれ、旃陀羅の家の生まれである。心こそ少し法華経を信じるようであるが、肉体は人間で、動物である。畜生と同じように魚や鳥を食べ、父母の交尾、その中に精神を宿した。これは濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだようなものである。心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わない。しかし身体は畜生であり、身と心とが相応しないから愚者が侮るのも道理である。》(現代語訳)

そもそもこの世界は煩悩に汚れた一般人しかいないが、その一般人=凡夫が、即身成仏する法則こそ、最高の法則であること、そしてそれは、一般には理解しがたいことを述べられている。




(*18) これを、仏法を学んでいながら、かえって外道になると、戒められた御書がある。
「…かくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり」(日蓮、一生成仏抄、御書 P383)

自己の幸福の原因・結果を自己以外の他者(偶然、絶対者、創造主など)に求める教えを外道という。
これに対して、自己の幸福の原因・結果が自己そのものにあると教えるのが本来の仏法という。

この文証の前後を引用しておく。
「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども 心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人 日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、 然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり 爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり」(日蓮、一生成仏抄、御書P383)


イワシの頭の高級さをいかに詳細に論じても、所詮はイワシの頭でしかない。
巷で流行している○○本仏論も、概ね、同様の趣旨であるから、なお嘆かわしい。
法身・報身・応身とか、空・仮・中などという詳細な理論もあって、それぞれ甚深の意味を説いているが、根本なのは「法則」そのものである。詳細は渇愛する。
釈迦本仏論、日蓮本仏論、法主本仏論、はては池田本仏論まであったではないか。

途中では仏法を難しく学んでいながら、結果としては、自身の幸福を「他者」に求める、自己の即身成仏を「他者」に求めるという、外道と同様の過ちを犯している。
どんなに崇高な理論を掲げても、結果としては、架空の阿弥陀仏に「南無」する(南無阿弥陀仏)のと同列である。
これは単純明快な論理である。


(*18-補足1) 日寛は、
「久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべく候」(六巻抄P88、分段P463)
「当に知るべし、久遠元初の自受用とは蓮祖聖人の御事なり。久末一同、これを思い合わすべし」(観心本尊抄分段P548)
蓮祖即ち是自受用身なり、是の故に応に知るべし、下種の教主は但是れ一人なり。謂く、久遠元初の教主も自受用身、末法今時の教主も自受用身なり。久末一同之を思い合わすべし。」(六巻抄P711)
「蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば焉ぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや」(六巻抄P210)
と述べて、実在人物「日蓮」を=「久遠元初の自受用身」如来とし、唯一絶対仏として神格化している。
一般人はそれを奉ることで救済されるとし、それに直結する法主・僧侶に頼らなければ救済されないとする、法主本物論の根拠となっている。これは誤った血脈観である。
まるでキリスト教の神学にでてくる理論とよく似ている。


日蓮は、自身について「日蓮聖人は、御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大尊師にて御座候」(日蓮、頼基陳情、御P1157)
と述べているが、
この遺文は四条金吾の立場で、四条金吾に代わって主君の江間氏に対して書いた陳情であるから、権力者に対しての権威づけのためにこのような表現となっているのである。そもそも、自分自身のみを指して久遠元初の自受用身(如来)であるとは言っていない。
なぜなら、久遠元初の自受用身は南無妙法蓮華経の法則としての実体名であると、「原理」として日蓮自身が説いていて、日蓮の独占名ではない。たとえ弟子から頼まれても、自身のみを自らそのように名のることはできない。
日蓮も含めた生身の一般人こそが、南無妙法蓮華経の法則としての実体だからである。
それを歴史上、一番最初に自身に顕して弘めたのが日蓮という一般人である。
この意味で、日蓮は、本因妙の教主であるといえよう。
そもそも仏法の出発点で、仏とは、一般人を「我が如く等しくして異なること無からしめん」こと(如我等無異)が本意ではなかったか。
即身成仏とは、「原理」として、まさにこのことである。

真実の日蓮仏法が、原理として「万物一切根源の法」であるからには、こういうケジメをきちんとつけておく必要がある。
ついでに、「我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」があるが、あくまで「我等が」であって、南無妙法蓮華経と唱える一切衆生すべてについて、「自受用身の仏」と述べているのである。これは、法則に基づいてのべた一般化である。

詳しくは、
「一切衆生 南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文.あに自受法楽にあらずや、衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」(日蓮、四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)、御書P1143)
《一切衆生にとって南無妙法蓮華経と唱える以外の遊楽はない。法華経如来受量品第十六に「衆生の遊楽する所なり」とある。この文こそ自受法楽をさしているではないか。「衆生」のなかにあなたがもれていることがあるだろうか、また「所」とは全宇宙であり、日本国は宇宙の中である。「遊楽」とは、我等の色心・依報・正報ともに、一念三千の当体=自受用身の仏ということではないか。つまり遊楽である。》


(*18-補足2) 釈迦も日蓮も、即身成仏した一個の生命体であり、本仏を顕されたという点では事実の上で尊い。
が、自己の即身成仏を、自己以外の、釈迦や日蓮の個人の生命に求めるのは誤りである。
御本尊を他者に求めてはならないと、ちゃんと御書にあるではないか。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(日蓮、日女御前御返事(御本尊相貌抄)、御書P1244)

御本尊に南無するということは、あくまで「自分」の生命の仏界(=「法」=南無妙法蓮華経)に南無(帰命)することであって、
「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(日蓮、一生成仏抄、御書 P383)
その自己の成仏を、自己以外の、過去に出現した個人的な生命に過ぎない釈迦や日蓮に求めるのは、道理に反し、誤りである。(いくら仏界であっても、個人の仏界の生命ではない)
日蓮仏法においては、自己の成仏を求める対象は、あくまで「法」であって、日蓮の説いた「法」(=南無妙法蓮華経)という理解でなければならない。

信仰の基本、信心の基本について説かれた方便は幾多ある。
「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」の文における「仏」とは、南無妙法蓮華経という「法則」なのであって、個人的な生命ではない。
たとえば、釈迦お教えの中にある雪山童子について、人肉を求める鬼に対し、雪山童子が身を投げて求めたのは「法」(生滅滅已 寂滅為楽)であって、「鬼」ではない。

「自己以外の個人的な仏界の生命に南無するという論」の延長線上にある邪義が、前述の日蓮本仏論、法主本仏論や池田本仏論などである。


血脈については生死一大事血脈抄で明確である。
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(日蓮、生死一大事血脈抄、御書P1337)


(*19)過去では「日蓮大聖人に南無し・・・」、現在では「法華経の肝心・・・」というご観念文に、端的に表れている。
日蓮正宗にもあるが、創価学会 勤行要典P16より、引用。
「一、御本尊への報恩感謝
法華経の観心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます。
末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し、報恩感謝申し上げます。
日興上人に南無し、報恩感謝申し上げます。」

日蓮は仏法僧の供養を説いているが、日蓮自身に「南無せよ」とは一言も述べていない。
ちなみに当方は、日蓮大聖人御書全集全ページ(P1~1619)で確認したつもりだが、見落としがあったなら、ご指摘願いたい。

仏法僧の供養という観点ならば、「日蓮大聖人に報恩感謝いたします」だけでいいのではないだろうか。
「仏敵」という言葉も、「仏」に特定の人物を想定しているからこそ、結果として暴力が生まれる。
「法」が間違っているだけなら、法論で戦えばいいだけではないか。
塚原問答のように。

 ただ、「南無」という言葉は「帰命」という意味であるが、マンダラ御本尊の仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界を顕す衆生の頭につけられている。南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無上行菩薩など。
マンダラ御本尊においての一念三千の表現が、そもそも擬人化された内容となっている。


(*20) マンダラ本尊が「鏡」の作用をする文証
「譬えば、闇鏡も磨きぬれば、玉と見ゆるがごとし。ただ今も一念無明の迷心は、磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(日蓮、一生成仏抄、御書P384)
《たとえば、暗い鏡も、磨けば玉のように見える。今の無明という迷いの一念は、磨かない鏡のようである。これを磨くと、必ず真実の覚りの智慧を映す明鏡となるのである。深く信心を起こして日夜、朝夕に、また怠ることなく自身を磨くべきである。どのようにして磨いたらよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである》(現代語訳)


(*21)「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや・・・
『但し御信心によるべし』つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ 鬼に・かなぼうたるべし」(日蓮、経王殿御返事、御書P1124)



(*22) 宇宙についての科学的解析の歴史や最新知見の詳細は、この時点では割愛するが、
"THE BOOK OF NOTHING - VACUUMS,VOIDS,AND THE LATEST IDEAS ABOUT THE ORIGINGS OF THE UNIVERSE"(JOHN D BARROW)「無の本 ゼロ、真空、宇宙の起源」(ジョン・D・バロウ著、小野木明恵訳 2013年、青土社)が、良くまとまっていると感じたので、感銘した結論の部分を引用しておく。

「一見すると、始まりのないことは、科学的なアプローチにとって有利に思われる。推論や説明をすべき、やっかいな出発時点での条件がないからだ。だが、これは幻想だ。それでもなお、なぜこの宇宙には、過去の無限の時点において、特定の性質ー膨張速度や密度などーがあるのかを説明することは必要だ。」(P363)

「最後に、忘れてはならない考察がひとつある。科学では、たとえ原理的には可能であっても、起こる確率が非常に低いものごとは無視するのが普通だ。たとえば、物理学の法則では、わたしの机がすっと持ちあがって空中に浮かぶことは許される。すべての分子が、ランダムな動きの流れのなかで、「たまたま」同じ瞬間に上に向かって動くだけでよい。これは、宇宙一五〇億年の歴史のなかでさえ、あまりにも起こりそうにないことであるため、実用的な目的においては、そのことを忘れていられるのだ。
しかし、このことについてあれこれ思い悩む余地のある無限の未来がある場合、非常に起こりそうにない物理的なできごとが、いつかは起こる確率が高くなる。真空の景観の底にあるエネルギー場が、いつか跳び上がって山の頂上に戻ってくるという、まったく起こりそうにないふるまいをすることもあるだろう。すると、この宇宙がもう一度、インフレーションを経験し始めるかもしれない。さらにいっそうありえそうにないことだが、この宇宙全体が、量子遷移を経て、別の種類の宇宙へと移り変わるという確率も、ごくわずかながらあるだろう。このような急激な革新を経験したら、宇宙の住人は誰も生き延びることはないだろう。ただし、ある系にたいして、量子的変換の性質をもつ劇的なできごとが起こる確率は、系が大きくなるにつれ、小さくなる。宇宙全体が作り替えられる前に、岩やブラックホールや人間など、この宇宙にある物体がそうした改変を経験することのほうが、はるかに可能性が高い。その可能性は重要だ。それが起こりうる時間が無限にある場合にどういうことが起こるかを予測できるからではなく、予測できないからである。待つ時間が無限にある場合、起こりうるどのようなことも、最後にはきっと起こる。いっそう悪い(あるいは良い)ことに、それは、無限に煩雑に起こるのだ。・・・
・・・全体的には、自己増殖によって新たな始まりや新たな物理学、新たな次元が触発されるかもしれないが、結局のところ、この世界線、すなわちこの宇宙において私たちがいる領域では、永遠に一様であり、星も生命も存在しないように見える。おそらくは結局、私たちはそこにいなくて正解なのだろう。」(同、P368~9)


(*23) 同一内容の科学式において、その表現の多様性は根本的な原則だから、ひとつのマンダラ本尊についても、日蓮の教えに忠実に従えば、科学的に相貌が合っていれば誰がどのように何を使って描いても相当であって、「名鏡」としての効力は同等である。
細かく言えば、一念三千またはこれに相当する内容を顕す方法として、釈迦牟尼仏や上行菩薩などを含めない、つまり法華経の虚空会を使わないで、相当する意味を持たせた新たな別の表現も可能なはずである。
なぜなら、御本尊が「鏡」であり、その内容が法則であり、一般性・普遍性・再現性をもたせるからこそ、期間の縛りがなく対象者も限定しない、つまりは万人の成仏が担保されるからだ。(もちろん、この対偶や逆も真実となる)

「南無妙法蓮華経」は、あくまで法則の表現であるから、科学的には、同一の意味内容を他の表現で定義・命名しなおして再現することは、当然ながら可能である。

例えば将来、AIの学習機能が発達すれば、非科学的宗教やエセ宗教が廃れ、科学と宗教とが統一した見解を持つ宗教革命が起こるかもしれない。
また、これを試みる宗教団体が出現するだろう。
これも「万物一切根源の法」=「南無妙法蓮華経」に相当する、真実の教えとなる。

この宗教は、その教義・説明における語彙や形式や論法は異なるが、その科学的宗教的内容・すなわち教義も御本尊も、同じ日蓮教団の真実の仏法に相当する。
しかし、その形式は仏法である必要も必然性もない。

その時は、悔しいであろうが、創価学会は、その宗教を折伏できない。
もしこれを、従来の仏法の教えに沿って破折したならば、それは自らの弘教内容を誹謗することになって、自らのよこしまさを露呈し、教義上は堕地獄の因となる。


日蓮の仏法も、一時代(鎌倉時代)・一地域(日本)の語彙・言語による記載である。
後世で、異なった解釈がなされるのも、古い限定的な表現を唯一絶対的(な表現)なものとして扱い、科学的根拠のある法則として扱い伝えてこなかったからともいえる。

基本的な内容は変えてはならないが、グローバル化・文明化に従って、その記載表現は、誤解がないように絶えずバージョンアップできるし、していくべきであろう。
できれば数学における命題や数式化等のように客観的記述にすれば、翻訳での間違いもなくなる。(数字や数学は万国共通である)

そうなると、人生の幸不幸を扱う現代の僧侶や宗教学者などの論議も、一教団の教義の解釈論議や真贋論争にみられるように辺境・偏狭的になることなく、より全般的な視点となり真に価値的になるだろう。
逆に言えば、客観的記載が不可能というならば、それは万人に通用する客観的法則ではなく、一部の限定された時代や地域での個別の思想に過ぎないということになろう。

日蓮の御書も、基本は完結しているようにみえるが、発達しゆく現代科学に従い、その内容の伝達内容をより客観的な表現にバージョンアップできるし、していくべきであろう。
法華経などの大乗経典が多くの後世の努力によって素晴らしい著作になり、それが日蓮仏法の展開に大いにつながっていることから分かるように、日蓮の御書についても、その内容が、後世の作となっても、それが万物一切根源の法に矛盾なく真実を伝え続けながら、より優れた分かりやすい内容となるなるなら、いっそう広宣流布が進んでいく。


(*24) 100年人生でも短命な生でも、流産寸前の胎児でも、長期間の病期や植物状態・高度認知症でも、余命幾ばくも無い高齢でも、あらゆる境涯の生命について、その物理的長さは、∞に比べたらゼロ(一瞬)に等しい。
だからこそ、その一瞬の一念の価値がどうかが問われる。
一瞬が光り輝いていれば、永遠に輝く。
一瞬の充実は永遠に結びつく。
一瞬でさえも、取るに足らない境涯ならば、永遠も同様にくだらない生命となる。
せっかく希な人間に生まれてきたのだから、短命でも余命いくばくでも、せいいっぱい輝きたいものだ。

「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(日蓮、崇峻天皇御書、御書 P1173)
《人間に生まれることは難しい、大地に対して爪の上に乗る土ぐらいである。その身を生きることも難しく、草の上の露のように儚い。120歳まで長生きしてもくだらない人生で終わるよりは、残りたった一日の人生でも充実して生きることこそ大切である。》(現代語訳)


(*25)「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(日蓮、御義口伝、御書P788)
《御本尊を受持することによって、初めて自分自身が元から仏の当体であると解る、これを大歓喜という。すなわち南無妙法蓮華経と唱えていくことは、自分自身の即身成仏であり、歓喜の中の大歓喜である。》

bottom of page