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P83, 万物が成仏するしくみ、法則(=南無妙法蓮華経)の定義より検討(1)

●83 万物が成仏するしくみ、法則(=南無妙法蓮華経)の定義より検討(1)

 日蓮は曼荼羅を法の内容・イメージとして定義していた。
 これが日蓮にとって本来の意味だったし、日蓮の遺文においては僅かな例外を除いて、曼荼羅とはほとんどが法の内容・イメージを指している。
 しかし、後世はその内容やイメージが書かれた「物体」をモノとして崇拝するようになった。これは仏像崇拝と同じアニミズムである。
 これ以降、誤解のないように本稿では、法の内容としての曼荼羅と物体としてのマンダラを次のように区別して用いる。
漢字で記載した「曼荼羅」を法の内容・イメージの意味として用い、カタカナ記載の「マンダラ」をイメージが書かれた物体を意味するものとして使用する。

 P82では、日蓮仏法においては、素粒子から宇宙の外まで、すべて万物の生命であることを示した。
 さらに、日蓮は、草木成仏口決において、それら万物はすべて成仏するとのべている。これはいったいどういうことなのか。

■草木成仏口決の内容

 草木成仏口決 御書P1338ー1339には、以下のようにある。
「問うて云く草木成仏とは有情非情の中何れぞや、
答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり、
問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、
答えて云く爾なり、
問うて云く証文如何、
答えて云く妙法蓮華経是なり・
妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、
有情は生の成仏・非情は死の成仏・
生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり」

《問うて云う。草木成仏とは有情(註、精神活動のあるもの)・非情(註、精神活動のない物質)のうち、どちらの成仏であるのか。
 答えて云う。草木成仏とは非情(註、精神活動のない物質)の成仏である。
 問うて云う。精神活動のあるものも精神活動のない物質もこの法華経において成仏できるのか。
 答えて云う。そのとおり、両方とも成仏できる。
 問うて云う。その文献の証拠は何か。
 答えて云う。妙法蓮華経の五字がそれである。
妙法とは精神活動のあるものの成仏であり、蓮華とは精神活動のない物質の成仏である。
また精神活動のあるものは生の成仏・精神活動のない物質は死の成仏である。
生死の成仏というのが、精神活動あるものと、ない物質の成仏のことである。》

 ここで日蓮は、万物が成仏できると説いている。
 精神活動のあるものの成仏を妙法と定義している。
 草木成仏とは精神活動のないものや単なる物質の成仏であり、それらも成仏できるとして、それを蓮華と定義している。
 精神活動のあるものは生の成仏、精神活動のない物質は死の成仏である。
 たとえば、髪の毛や爪は、切っても痛みがない。これは死の成仏であるとする。

 しかしこれは、常識でも科学的にも理解しがたい定義である。
そもそも、成仏を目指して努力しない・努力できない存在が、成仏することはあり得ないではないか。

 ところが日蓮の時代背景を踏まえれば、彼がこの定義をした理由、目的や意義が分かる。
 鎌倉時代当時、祈りの対象や本尊として木像や彫像が設定されていた。
 実はこれは現在も同じである。
 本来、成仏とは、また仏性とは、それに価する修行をして得られる境涯である。
 ところがほとんどすべての宗教において、修行して成仏しているとされている本尊(信仰の対象)は、草木などの物質でできている。
 物質でできている以上、これら本尊自体は、成仏への修行はできないし、そもそもそのような修行はしない。
 しかし、これら本尊自体が成仏していないまたはできないと定義するならば、帰命する(命を預ける)対象としては何の意義もないものとなってしまうではないか。
 これらは過去に修行をした結果すでに成仏した姿であるから今は何もしなくてもいいなどという説明も同様で、何の説得力もない。
 これらは過去に修行をした結果成仏したのではなく、誰かが木や紙などを材料として作成したものである。

 「仏作って魂入れず」という諺がある。これはいちばん肝心なものが抜け落ちていることを意味する諺であるが、今も昔も、いちばん肝心なものとは仏性であるといえる。
 たとえば密教(特に日本の真言宗や密教系の宗派)では、仏像に魂を入れることが重要視されていた。仏像は「仏性」を具現化したものとされ、魂を入れることで仏の存在が実現されると考えられていた。
 しかし、現代科学から見たら、つくった仏像や物体としてのマンダラが、人が魂を入れたら何でも成仏して仏様になるとする論理はナンセンスである。
 仮に魂というものが存在するとして、魂を入れる人が生身で成仏していたとしても、その魂は成仏した個人の魂であって、これを崇拝することはアニミズムでありカルトであり個人崇拝につながることになる。

 この難問を解決するためには、以下のように考えるしかない。
 この日蓮の教えは、この時代の常識に基づいて、衆生を成仏へ導くためのみの目的で説いたものだ。別の言葉で言えば、この一連の教えは、生きている者(衆生)の成仏を保障し正当化するための方便であるとみなすことができる。
 日蓮が、死の成仏つまり物質の成仏を説いたのは、生の成仏を明確に説明するためであった。
 すなわち、この教えは、仏道を修行する人のために説いた方便とみることができる。

 現実に、万人が幸せになるためには、仏の境涯にならなければならない。
 物質がどのように成仏しているかなんて、物質に聞かなければわからない。
 死人が成仏しているかどうかは、死人に聞かなければ分からない。
 しかし、自身が死んでしまえば心の情報を発することは不可能であるし、そもそも死んでいるという感覚さえ無いのである。

 拙論文で、死後の生命は一瞬で来世へ転生すると述べたのは、これが根拠である。
 五感の感覚も意識も時間感覚もない状態のものにとっては、そもそも定義できない状態が、死後の生命である。

 では、なぜ、仏法やその他の宗教において、死後の生命についての様々な教えや考察がなされてきたのだろうか。
 それは、一部は先述したが、それらはすべて、現に今、生きとし生けるものの救済のために説かれた方便なのである。
 日蓮も、同様に、この方便を使った。
 草木成仏口決も、それを含んでいることが分かる。

 むろん、依正不二の原理により、主体と客体は一体である。
 私たち主体が、客体である物体マンダラに向かって、南無妙法蓮華経と唱えながら南無妙法蓮華経(法則)に帰命して仏界に達していれば、客体であるマンダラも仏界に達していることになる。

 前ページにて述べたことからすると、一念三千の論理により、物体にも十界が備わっているので、仏界も備わっていることになる。
 この場合、物体であるマンダラの仏界は、主体としてはありえない。しかし、他の主体(人間)が帰命しようとしている客体(環境)としてなら、あり得ることになる。

 ここで、依正不二の原理は、科学的には正しい。なぜなら、これを科学的に完全に否定することはできないであろうから。
 すると、天台や日蓮の用いた「一念三千の論理」は、現代の科学によって更新すべき部分が見えてくる。
 というのは、一念三千の論理では、物質などの非情には、十界は冥伏しているが、その十界自体が主体として顕在化することはなく、客体としてのみ顕在化することを、説明として加えるべきである。
 考えてみれば当たり前であろう。非情は生命活動をしていないわけであるから。
 特に仏界については、有情(註、精神活動のあるもの)であっても、架空の概念であって、固定されたものとして説明されるものではない。
 すなわち仏界の概念自体が、拙論文P05で先述した「命を捨てて限りなく完成に向かう一瞬の境涯」である。つまりその境涯の現れ方が他の九界のどれかに含まれるのである。
 他の境涯との違いは、仏界の境涯は不惜身命(命を惜しまない状態)である。すなわちそこに現世利益を得る目的や意志がない、言い換えると現世の執着がないことである。
 このためには、三世(過去世・今世・来世)永遠の生命観と因果応報の業論に目覚めていなければならない。
「九界即仏界」、「仏界即九界」という現象も、これに目覚めていることが前提となっている。

 ついでに加えて言うと、同じような意味に使われる「煩悩即菩提」というのも、ある意味では方便を含んでいる。ここでいう煩悩とは、現世利益などの様々な欲望ではなく、自分自身が完成に向かおうという煩悩のことである。
 自身が修行を深める中で、この自身の煩悩自体を変革して現世利益から離脱させようとする方便なのである。
 日興門流や創価学会では、この論文にて先述してきたが、この重要な日蓮の教えを切り文(カットアンドペースト)にして都合の良い解釈をパッチワークで作り上げ、間違って理解していた。
 その結果として、日蓮の当時否定し破折していた道(アニミズム)に堕し、様々な現世利益や欲にまみれ、権力・権益に執着し、それが日蓮仏法であると勘違いしたまま、世界中に広がってしまったのである。
 これらは仏法で言うところの地獄・餓鬼・畜生・修羅の境涯である。
 だから、当然ながら、因果応報・盛者必衰の歴史の途上を歩んできている。
 あたかも現代版平家物語のようである。
 これは、生涯を法に捧げ清貧を貫いた日蓮の教えや姿勢とは正反対の姿である。
 これは極めて残念なことである。しかも、これがすでに世界中に広まってしまった。

 草木成仏に論点を戻す。
 精神活動のない(非情である)物体には、主体としての成仏はできず、客体(主体の環境)としての成仏のみがある。これは、精神活動のある(有情である)私たちが主体として成仏するための方便として説かれた理論である。
 これは、生命とその環境は同一であり、同時に相互に影響し合っているという「依正不二」の原理に基づいている。つまり、主体としての生命と客体としての物体や環境は一体であるということである。

 一見、何のことを言っているか分からない論理であるので、これを、私が唱題して成仏の境涯になることを例にして説明しよう。
 私が、成仏の修行をこれから始めようとして、御本尊(マンダラ)の前に座る。
 このとき、マンダラ御本尊は元々物体であるから、成仏への修行はできないので、仏界ではなく成仏していない。
 だから、この時点では、御本尊が私を成仏させることはできないし、そんな非科学的な霊力はない。
 だが、依正不二の原理によって、主体としての私と、私の環境で客体である御本尊(マンダラ)とは元々一体である。
 だから、厳密に分析すると、私が人界であったら、御本尊も人界である。
 私が地獄、餓鬼、畜生、または修羅界であったら、御本尊もそれぞれ地獄、餓鬼、畜生、または修羅界である。
 そこで私が仏界を目指して、マンダラまたは仏像に、法を信じ法に帰命しようとして南無妙法蓮華経と唱え続け、瞑想をする(この瞑想の機序については拙論文P78で先述した)。
 すると、私の修行(瞑想)のレベルが深まっていき、ついに私が凡夫のままで仏界の境涯になる。(ちなみにこれは、マンダラの有無にかかわらず、法に帰命すれば仏界になる)

 そうすると、依正不二の原理(主体としての私と、私の環境で客体である御本尊マンダラとは一体である)から、私(主体)が仏界になったと同時に、御本尊マンダラも仏界になっているのである。

 ここにおいて、私の成仏が無ければ、そもそもマンダラ(御本尊)の成仏も無い。
 私が成仏することによってはじめてマンダラ(御本尊)が成仏できるのである。
 日蓮は、本当はこのことを指して、草木成仏と定義しているのである。

 わざわざ、「境地冥合」などという特別な用語を用いなくても、依正不二の原理から、こうして仏性は得られることが説明できるのである。

 ところで、なぜ、先ほど、私がこれを方便と言ったかといえば、私が法に帰命するためには、マンダラが先に成仏していると思い込んでいるほうが、私が法に帰命する行為に入りやすいからである。これこそが信心というものである。
 御本尊(マンダラ=物体、草木)が成仏している・仏界である・仏界の姿(相貌)をしている、そしてそのように思いこませる・信じ込ませるーーこの事こそ、立派な方便であったのである。

当然ながら、帰命する対象が南無妙法蓮華経という法則ではなく、南無妙法蓮華経と書かれた物体としてのマンダラ(たとえば大石寺の板マンダラ)であれば、これはアニミズムであり、物体崇拝であるから、到達する境涯は仏界ではなく、単なる恍惚状態の一体感である。
また、帰命する対象が生身の日蓮であったり、法主や池田大作であれば、アニミズムであり個人崇拝でもあり、到達する境涯は仏界ではなく、単なる恍惚状態の一体感である。

 これらは、本稿で何回も先述したが、誤った日蓮本仏論・法主本仏論・池田本仏論などに陥ってしまった日蓮の後世達が到達する地獄・餓鬼・畜生・修羅の境地であり、真の日蓮仏法によって得られる仏界ではない。

■唱題している時の事実上の境涯について

 この際だから、先ほどの瞑想の修行について、御本尊の前に座って南無妙法蓮華経と唱えるにしても、雑念が湧いてきたときの十界の生命の境涯について分析しておこう。
雑念が湧いてきた場合は、法(南無妙法蓮華経)に帰命しているとは言えない。だから、到達できる境涯は仏界ではない。

 たとえば創価学会の選挙票取り活動においては、会員たちは「仏法は勝負」と尻を叩かれ選挙に勝つことのみ(他の候補を押しのけて自分たちの候補者の当選のみ)を祈禱しているわけで、この場合は修羅界での恍惚状態である。
 これを十界および十界互具の論理で正確に分析すると、修羅界における天界のエクスタシー境涯である。
 なぜなら多くの会員たちは政治学に疎く、選挙政策の論議や選挙区や日本国全体の先見や展望もない。ただ組織内で命令されるがまま特定の候補者の票取りをゼンマイ仕掛けのマシンのようにひたすら動かされるだけであるからである。しかも、創価学会や公明党組織の利益拡大・繁栄のために国会選挙や地方選挙に関わらず、選挙区を超えて票を集めるように命令されている。各組織内においては選挙の票取りだけにとどまらず、寄付(一口一万円以上の施し)の獲得や機関誌、聖教新聞や関連書物の販売などにおいても同様で、主な目的のすべてが創価学会の利益拡大・繁栄のためにある。御書を根本と謳いながら、御書を携帯している幹部や会員はほぼ皆無である。この姿勢は、日蓮の生涯の姿勢とは正反対である。
(ちなみに私は創価学会組織活動においては学童期から、創価学会の機関紙や聖教新聞だけでなく、御書を常に携帯してきている。そして会合では機会があるごとに御書を紐解いている。だから私は創価学会組織内では極めてまれなケースである)。

 また、先ほどの瞑想修行において、御本尊の前に座って南無妙法蓮華経と唱えていても、借金苦や借金地獄、いじめなどの嫌がらせから逃れようと雑念を抱けば、到達する境地は地獄界の恍惚(エクスタシー)である。(十界互具では、地獄界における天界のエクスタシーである)

※以下、( )内には十界互具での境涯を示す。

 池田大作の入信神話作成過程において隠蔽されたことであるが、彼の「御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい。」(本稿P62で指摘)という姿勢であれば、彼が祈禱で到達する境涯は地獄界の恍惚である。(地獄界における天界)

 折角、成仏しようという思いを奮い立たせて、御本尊の前に座って南無妙法蓮華経と唱えていても、自身の財産を増やそうとして株や投資、はたまた起業した会社のあくどい繁栄を祈禱していれば餓鬼界のエクスタシーであろう。(餓鬼界における天界)
 組織内のノルマや誤った「師弟不二」の精神に基づいたサドマゾヒズム(註、本稿P57,P66~P68にて指摘)に浸っている祈禱であれば、到達する境涯は畜生界の恍惚である。(畜生界における天界)
 これらの醜態・失敗は、御本尊に対して人類や社会の平和や自身の完成をめざす瞑想ではなく、現世利益や損得などに囚われた個人的な境涯の中で何を祈禱するか・目指すかによって決まる。
 かく言う私も、凡夫なので、しばしばこのような悪態に陥っている。
まことに恥ずかしい。

 本当に仏界を目指す祈りならば、たとえば選挙のために瞑想するなら、当選する候補者の執着から離れて、選挙区の安寧や平和こそ、祈りの内容とすべきである。
この場合なら、到達する境地は菩薩界の法悦である。(菩薩界における仏界)
 自身の研究や様々な謎の解明を目指して祈るなら、到達する境地は声聞・縁覚界の法悦となる。(声聞・縁覚界における仏界
 また、他人や社会の具体的な幸福を祈るならば、到達する境地は菩薩界の法悦である(菩薩界における仏界)

 ちなみに、仏界の仏界は、ありえないし定義できない。
そもそも仏界自体が一つの静的な状態として定義できないので、十界互具の原理は更新すべきである。
平静な状態で御本尊に手を合わせて南無妙法蓮華経に帰命し瞑想して到達するのは人界においての仏界である。
そもそも仏界は他の九界の姿として、その究極の幸福な境涯として顕れる。
これを仏界即九界・九界即仏界という。
このことは、日蓮の本尊観・成仏観(本稿P04~P05)において述べた。

 また、少し論点が外れるが、瞑想以外の恍惚についてざっくりいうと、いじめやサドマゾのエクスタシーは畜生界、競争相手がいる場合のランナーズハイは主に修羅界のエクスタシー、登山においてのクライマーズハイは天界のエクスタシー、医療現場におけるナーシングハイは菩薩界のエクスタシーである。
 薬物やアルコールやタバコ、食物などへの依存症において得られるのは餓鬼界のエクスタシーもしくは天界の一時的満足感である。
 また、学者などのひらめきや一般人のセレンディピティは縁覚界のエクスタシーである。
 なお、セックスについては、お互いへの愛情や奉仕に満たされたものなら、そのオーガズムは菩薩界のエクスタシーといえるだろう。しかし、単なる一夜の戯れ、援助交際や乱交パーティなどでの性交なら、餓鬼界又は畜生界のエクスタシーである。また襲われて強姦された被害者は地獄の境涯であるが、この場合や一般に地獄の境涯でもエクスタシーに到達する場合もある。
 これについては、死に直面した地獄の苦しみにおいても、脳内モルヒネの分泌によって恍惚状態になる場合もあることが科学的に証明されている。
 また、認知症老人の恍惚状態は、人間としての認知が伴っていなければ、畜生界のエクスタシーといえるだろう。この場合は、人間としての認知の度合いによって、人界~畜生界の度合いが決まるだろう。
 私は疼痛緩和医療において麻薬製剤を使用するが、これによる患者の恍惚は地獄界のエクスタシーであろう。
 それぞれの境涯によって、到達できるエクスタシーは異なる。

■現世利益目的の祈りは法に帰命することには当たらない

 さて、菩薩界での祈り以外の、このような祈りや瞑想の共通点は、当然のことながらそれ自体が法(南無妙法蓮華経)に帰命することにはなっておらず、自分の心の外にその解決を求めていることである。これでは、真の日蓮仏法ではない。
 法に帰命しようとすることは、成仏への努力であり、自分自身の人間としてのへの完成を目指して精進することである。
仏法において、そもそも現世利益を求める(自分の欲望を満たす)ために祈ること自体が、目的や動機が不純である。
このような祈りは、分かりやすい譬えで言えば、男が一夜の快楽を得るため女性を口説くようなものである。その時の下心が不純であるのと同じである。
このような低俗なことは、エンマ大王に聞くまでもない。その結果は言うまでもなかろう。
 日蓮の後世たちが陥ったこの間違いの発端・根源は、はっきりしている文献では、大石寺日寛の時代に遡る。拙論文でも先述してきた。

 ちなみに日蓮は、一生成仏抄(御書P384-384)において、こう述べている。

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば 全く妙法にあらず麤法なり、 麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、 方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば 多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、 故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」
 《ただし、妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし自分の心の外に法があると思うならば、それは全く妙法蓮華経ではなく欠陥のある法である。
 欠陥のある法は法華経ではない。法華経でなければ方便の教えであり、暫定的な教えである。方便・暫定の教えであるならば、成仏への直接の道ではない。成仏への直接の道でなければ、たとえ数え切れないほど生まれかわって生涯をかけて修行したとしても、成仏することができない。だから、この一生のうちに成仏することはできないのである。
 ゆえに妙法蓮華経と唱える時は、自分自身の一念をさして妙法蓮華経と名づけるのであるぞという深い信心を呼び起こすべきである。》

 日蓮は、上記の如く、ただし、妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし自分の心の外に法があると思うならば、それは全く妙法ではなく欠陥のある法であると、きちんと説明している。
自分の心が本当に成仏を目指すのではなくて、代わりに現世利益を求めることは、自分の成仏したいという心=成仏への直道(妙法蓮華経)以外に方法があると思うことに相当する。これは、妙法蓮華経ではなく、欠陥のある法である。
 ゆえに「妙法蓮華経と唱える時は、自分自身の一念をさして妙法蓮華経と名づけるのであるぞという深い信心を呼び起こす」のにおいては、現世利益を抱いてはならないことは自明である。

「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども 心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、 若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人 日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、 然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、 故にかくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり、 爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり、然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも 皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」
《釈尊一代の八万聖教、三世十方の諸仏・菩薩もすべて、自分の心以外にあるとは、けっして思ってはならない。
 したがって、仏教を習学するといっても、自分の心を観じなければ、全く生死の苦しみを離れることはできないのである。
 もし心の外に成仏への道を求めて万行万善を修めようとするのは、たとえば貧しさに窮している人が1日中通して隣の人の財産を数えたとしても、全く利益がないようなものである。
 それゆえ、天台宗の妙楽大師の止観輔行伝弘決巻四のなかに「もし心を観じなければ重罪を滅することはできない」と述べられ、もし心を観じなければ無量の苦行となると解釈されている。
 ゆえにこのような人を「仏法を学びながらも、還って外道と同じになっている」と解釈されている。
 それゆえに仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも、そのすべてが自分自身の一念に納まっている功徳善根であると、深く信心をおこしていくべきである。》(現代語訳)

 ここでは、日常の実践において気をつけなければならない重要なことが言われている。
 雑念を伴った唱題が、何の意味もないどころか、空しい結果に終ることだ。
 それは、この文の中で、「心の外に成仏への道を求めて」を、雑念を伴った場合の実質的な事実である「現世利益を求めて」にそのまま置きかえてみれば、その儚さがはっきりするであろう。
つまり結果として「たとえば貧しさに窮している人が日夜にわたって隣の人の財を数えたとしても、半銭の得分もないようなもの」になるのである。

「之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、 又衆生の心けがるれば土もけがれ 心清ければ土も清しとて浄土と云ひ 穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、
衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し 迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり 是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、 深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。」
《このことを、浄名経のなかで「諸仏の解脱を衆生の心行に求めるならば、衆生即菩提であり、生死即涅槃である」と説かれている。
 また、浄名経の中に「衆生の心がけがれるならばその住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ土も清い」と説かれるように、浄土といい穢土といっても、国土に二つあって隔たりがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によって浄土とも穢土ともなるのである。
 衆生といい仏というのもまた同じである。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。たとえば曇った鏡も磨けば宝石のような明鏡と見えるようなものである。
 我々の一念で無明の迷いの心は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮にまた懈らないで磨くべきである。
 どのようにすれば磨けるのであろうか。ただひたすら成仏を目的として南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが磨くことになるのである。》

 実はこの最後の文章が最も重要である。
私は文意をきちんととらえて訳したが、創価学会版の英訳御書をはじめ、多くの御書の通解に「ただひたすら成仏を目的として」が欠けているのである。この影響については後述する。

 ここで、「浄土といい穢土といっても、国土に二つあって隔たりがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によって浄土とも穢土ともなるのである」という部分は、依正不二の原理をあらわしている。

 また、「衆生といい仏というのもまた同じである。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。」ということは、元々我々凡夫こそが仏であることの意味である。(凡夫本仏論)

 法性真如の明鏡とは、リアルな世界をそのまま映し出す鏡であり、凡夫である我々を曇った鏡にたとえた場合の、到達目的である成仏の境涯を指す。

「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。」
の「ただ」とは、雑念がなく、成仏以外の他の目的が全くないようにという意味である。これは、文脈から明らかなのであり、そして極めて重要なことである。
 これは、けっして形だけ南無妙法蓮華経とさえ唱えていれば、棚から牡丹餅の諺や打ち出の小づちのように、御本尊が現世利益などの祈りをすべて叶えてくれるという意味ではない。

 しかし残念ながら多くの日蓮信者は、この意味を間違って捉え、南無妙法蓮華経とさえただ単に唱えれば、現世利益も含むどんな願いもかなうと誤解している。

 ちなみに、現在でも私の知る限り、大石寺や創価学会の御書の講義や創価学会版の英訳御書には、この「ただ」という意味の正しい説明が欠落している。
こうして、文脈から明らかに分かる日蓮の真意を得損ねているのである。
実際の文章を確認してみるがいい。創価学会版の英訳御書については本稿のこのページの英訳版にて、この文章を引用し確認しておいた。
結果として、現世利益も叶うという誤解を世界中に広めてしまった。
これは極めて遺憾なことである。

 これはおそらく、日蓮が言った「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈禱抄、御書P1351-1352)
《地面を狙って外ことがあっても、大空を繋ぐ者がいても、潮のみちひぬ事はあっても、太陽が西から上ることがあっても、法華経の行者の祈りが実現しない事は絶対にない》の部分のみを切り文にして、単に「法華経の行者」を「信者=南無妙法蓮華経と唱える者」に置きかえたものである。
地涌の菩薩の出現でなければ唱えることがない題目であると日蓮は言ってはいるが、「法華経の行者」と、単なる信者とは事実上天地雲泥の差がある。

 おそらく日蓮の後世が思い違えたのであろう。
これについてはっきりしているのは、この始まりは大石寺の日寛が言ったことである。

 というのは、江戸時代に下って、大石寺日寛が著した「観心本尊抄文段」の(序)には、有名な文として、
「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。」(「日寛上人文段集」日顕監修、1980/3/1、聖教新聞社、P443)
とあり、大石寺の板マンダラ崇拝の根拠となっている。
創価学会第二代会長の戸田城聖は、この板マンダラは「幸福製造機」であると言ったが、彼が監修した「折伏経典」(1961/5/3校訂三版、創価学会、P304-305)にも引用されている。(本稿P20にて既述)

 すなわち南無妙法蓮華経と唱える者の祈りは何でも叶うとしてしまい、己の我がまままや勝負に勝つことや権力の獲得や維持などの現世利益まで叶うとしてしまって、結果として大いなる間違いを犯しているのである。
 何度も先述したが、そもそも日蓮は「日蓮は少きより今生(註、現世利益)のいのりなし。ただ仏にならんとおもうばかりなり。」(四条金吾殿御返事(世雄御書)、御書P1169)
と言っている。日蓮は名誉や私欲のために祈ることはなく、ただ仏道を成就するために祈っていたと述べられている。
仏道を成就するための修行には、具体的には他人や社会への布施や奉仕も含まれているのである。

 法華経の行者としての祈りとは、日蓮を模範とした祈りであり、決しておのれの利益や私腹を肥やすための祈りではない。また、困難から逃避するための祈りではない。
 法華経の行者としての祈りとは、慈悲の心をもって他者を救済し、敢えて困難に立ち向かい、いわれのない難を忍び、人類に貢献するための祈りである。
十界でいえば、菩薩界の境涯での祈りである。
十界互具で言えば、菩薩界での各十界の境涯での祈りである。
この祈りが法華経の行者の祈りであり、この祈りであってこそ、煩悩即菩提、生死即涅槃、九界即仏界となるのである。
当然ながら、この菩薩界の祈りとその実践こそが、その人にとっての善業を積むことになる。この結果や報いは、瞬時には法悦として、その後遅れては現実の変革や困難の解決など、その人固有の徳や幸福(必ずしも満足ではない)となって現れてくる。これは因果応報という掟であり、時間差はあっても、たとえ来世になっても必ず、おまけもなければ割引もなく現れる。つまり、この菩薩界の境涯での祈りと行動を行なうことこそ、自我の本来の実現であり、その時の迷いであった取るに足らない現世利益は、悟りとしての莫大な功徳として、必ずいつかは自分自身に返ってくるのである。
 さらに当然ながら、それ以外、とりわけ地獄・餓鬼・畜生・修羅の境涯での、現世利益を求める祈りや行動の結果は、悪業を積むことになり、上記の反対であること、そしてその史実をこれまでさんざん指摘してきたので、改めて詳しく言うまでもないことから、省略する。

 再び草木成仏についての論点に戻る。
 実際、鎌倉時代当時も今も、こういった間違いはあるものの、マンダラや仏像に向かって手を合わせる行為が、成仏への修行とされていたから、マンダラや仏像が既に仏様であると思い込むことが、修行のしやすさにつながっているのである。
 くり返すが、本当は、自分の成仏が先にあってこそ、マンダラ御本尊が成仏するのであるが、先に私に御本尊が成仏していると思い込ませるのは、すなわち方便以外の何物でもない。だから、この方便を信じこむ力、信心ずる力(信力)が大いに関わってくるのである。

 日蓮は、一念三千の論理や御本尊を、巧みに方便として使い、衆生に南無妙法蓮華経の題目を唱えさせ、成仏に導いたのである。
観心本尊抄に「受持即観心」と述べているのも、このことを含んでいるのである。

 それを証拠に、観心本尊抄でさえ、日蓮は、人間の仏性を、文献上では説明したが、具体的な現象や様相およびそのあらわれ方などのシステムとしては、現代科学が行うような客観的な説明は一切していないのである。
 この詳細は、本稿の次のページ以降で行う予定である。

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