ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P87, 因果応報のシステム、成仏と煩悩即菩提、万物の統一理論を求めて(2)
■ 「私たちは何なのか。私はどこから来て、どこへ行くのか」
シェリントン(コメント1)は「人間の精神は、この星で新しくできたものだ」と述べた。
進化によって人類が出現したが、人間の脳の精神活動があろうとなかろうと、もしくは観察されようがされまいが、世界や宇宙の存在は厳然としてある。ただ、同じものを人間が直接見ても鏡に映ったものを見ても、同じものと判断される。広い空間や時間の世界は、あくまで我々の心の中のイメージだが、九識を通じて環境を含む自分自身を把握している。
そもそも自然科学的な世界には、考えたり感じたりする主体に関係するものがない。倫理や美の価値も、目的や意味もない。
自然科学だけでは、そういうものは入れられない。
「この世界描像に取りいれられたことがらはすべていやおうなしに、事実を科学的に断言する形式を取ってしまうからなのです。そしてそうするだけでは事態を誤ってしまうのです。」
(シュレーディンガー著「精神と物質」P105)
心の働きは、無色の絵に色を塗るようなもので、その時点で自然科学的な事実が色づけされる。
生命はそれ自体で価値がある。しかし自然は無情である。
アルベルト・シュヴァイツァーは「生命への畏敬」という倫理を説いた。
しかし、自然は生命を大切にせず、生命を無価値なものとして無慈悲に扱うように見える。
たくさんの生命が生まれても、すぐに自然や他の生命に殺される。これが自然が新しい生命を作り、命が循環する実態である。
道徳的な「苦しまないで、苦しめないで」という思いは自然には通用しない。生き物は互いに苦しめあいながら生きている。
「善悪はない。皆がそう考えているだけだ」という論もある。
自然の出来事には善でも悪でもなく、美でも醜でもない。価値や意味や目的もない。自然は何のためにも動いていない。
「器官は環境に合わせて適応する」と言っても、単にそれは便宜的な言い方である。文字通りに受け取ると間違える。我々の世界の見方では、そういうことはできない。その枠から見れば原因と結果のつながりでしかない。
つまりは、自然科学のみでは世界と精神の意味についての答えはないし、哲学的には神の存在を否定することになる。神は教えの中にしかいない。
結局、これらの意味付けなどは、人それぞれが独自に生み出し、答えていくものである。
では人類は自然科学から何を学んで宗教的な答えを導いたのであろうか?
「私たちは何なのか。私はどこから来て、どこへ行くのか」という疑問に対して、先哲が挙げた重要な手助けは、時間の概念である。
ブラトン、カント、アインシュタインなどが重要な考えを述べた。
■ プラトンのイデアの世界
プラトンは時間を超えた存在を見つめて、理性に反して、それが現実よりも本物だと強く言った最初の人だった。
物質的なものは不完全で変化するものであり、精神的なものは完全で不変するものである、物質的なものは精神的なものの模倣であり、精神的なものはイデアと呼ばれる理想的な存在であると考えた。
パルメニデスの言う永遠で不滅の一つは、プラトンの心で、もっと強くて大切な考え、イデアの世界になった。それは想像するものだが、神秘的である。
彼は数や幾何図形の世界の驚きに感動した。それは論理で表せるもので、その論理で、永遠に明らかな真実の関係がわかる。その関係は、否定されても変わらず、ずっとそうである。
数学の真実、もっといえば万物一切根源の法、は時間に関係なく、見つけたときに現実になるわけではない。しかしそれを見つけたことはとても現実的である。
仏法では、これを見つけることを「悟り」、見つけた(悟った)人を「仏」と呼び、また、特定の仏が「本仏」として崇拝された。
■ カントの時空
カント(コメント2)は、時間と空間は私たちの精神が作り出すもので、物そのものの性質ではないと考えた。これは彼の哲学の基本だが、証明も反証もできない。
カントの考えでは、我々は時間と空間という枠組みに従って物事を知覚するが、それは経験から生まれたもので、経験する前にあったものではない。また、時間と空間は物そのものの順序としては証明できないし、見せることもできないという。
物そのもの自体は、我々の知覚のすべての原因ではない。個人は自分の感覚とそれを引き起こす物事とを区別できない。同じ物事でも、一度しか起こらないし、人によって見方が違う。同じように見えるのは、他の人や動物と情報を共有するからである。しかし、それだけで物そのものがあると信じるのは間違いも含まれる。幻覚・幻聴もある。我々の知覚は、物事についての知識の唯一の源であるが、物そのものは仮定にすぎない。仮定するなら、我々の知覚は物そのものから来るのではなく、我々の精神から来ると考えるほうが自然であるという。
カントは、精神と環境世界のどちらも時空間の概念で表せないと考えた。
これは、経験や思考だけでは確かめられないため、宗教的な信念につながった。
例えば、経験では、我々の肉体は死ぬと教える。だが、命は死んだ後も続くと信じることができる。これは、時空間の概念を使わない表現形式で言った。
カントは、自分の時代の物理学を最終的なものと思って、哲学的に説明しようとした。彼は、空間は無限でユークリッド幾何学の法則に従っていると信じた。物質は、時間がたつと空間の中で形を変える。彼は、空間と時間は別のものだと考えた。
しかし、空間と時間は一つのもので、四次元の連続体だということがわかったとき、カントの考えは崩れた。彼の哲学の大切な部分は壊れたのではないが。
■ アインシュタインの相対性理論
空間と時間の一体性を見つけたのはアインシュタイン(コメント3)たちであった。彼らは、この発見を世の中に広めた。
我々の世界では、時間と空間の関係は、カントや昔の人々が思っていたよりも、もっと複雑である。
自然科学での時間には「あとさき」がある。これは「原因」と「結果」の関係である。
結果が原因よりもさきに起こることはない。これは基本的な考えで、日常生活で、どちらがあとかさきかを決めるときに使う。
更には、結果は無限に速く伝わらず、その時の実験で、それは真空で光が進む速さが限界となった。この光の速さをcと呼んで、自然の基本とする。そうすると、先ほど言った「あとさき」や「のちにとまえに」(これは原因と結果に関係するものである) で区別することは、いつもできるわけではなく、場合によっては間違うことになる。
物理学者は、時空間の一体性を当たり前に使っている。時間が絶対ではないという考えは、心に響く、宗教的な考えである。アインシュタインは、カントの時空間の考え方を完成させるために、大きく進行させた。
(コメント4~7)
■ 時間の統計的理論
ところで、カントとアインシュタインの間に、物理学において大きな発見があった。ウィラード・ギブズとルートヴィッヒ・ボルツマンという人の名前がついている。少し説明しよう。
ほとんどの場合、自然の変化は一方向にしか進まない。逆に進むことは考えらるが、物理学の法則に反する。
自然の変化の方向は、熱力学や統計学で説明されていた。
ボルツマンによると、自然は、秩序から無秩序に向かう傾向がある。
例えばトランプのカードで、ハートの七からエースまで順番に並べたカードを混ぜと、だんだんバラバラになる。バラバラになったカードを混ぜ続ければ、最初の順番に戻るかもしれない。最初の順番に戻るのはわずかにありえるが、二番目の順番に戻るのはほとんど期待できない。それが偶然に起こるまで、とても長く待たなければならないからだ。
これが、ボルツマンの自然の一方向性の説明である。この「時間の矢」という言葉は、エィントンがつけた。この「矢」は、混ぜるという力学的な作用には関係ない。その作用は、過去と未来に区別がなくて、逆にできる。その「矢」は、統計的な考え方によるものである。つまり、順番になるのはたまにだが、バラバラになるのはたくさんあるということである。
時間の方向は、物理的な系によって違うかもしれないというのは、怖いことである。ボルツマンは、宇宙が広くて古ければ、時間が逆に流れる場所があると述べた。だが、今の我々は、宇宙はそんなに広くも古くもないとわかっている。小さな範囲では、時間が逆に流れることが見られる(ブラウン運動、スモルフスキーのゆらぎ)。
「時間の統計的理論」は、相対性理論よりも時間の哲学と深く関わっているようだ。相対性理論は、時間の方向を決めてしまうが、統計的な理論は、事象の順序で時間を作る。
我々は、心で作った時間は、心を支配しないと考える。だが、多くの人たちの中にはこれを神秘主義と言う人もいるだろう。
物理的な理論は相対的で基本的な仮定に基づいているとしても、物理的な理論は、時間を超えた精神の永遠を示していると考える。
■ 感覚の不思議(コメント12 に記載)
■ 光の特徴(コメント13 に記載)
■ 観測された事実と科学的理論
物理的測定に関する二つの重要な点がある。
一つは、測定の技術の進歩にあわせて、観測者が十分に精巧な装置を使っていたにもかかわらず、観測者の色の印象だけでは、光の物理的性質や要素を知ることはできない。光を測るには、格子や角度や長さなどの工夫が必要である。これらの工夫は、どんなに改良されても、本質的には変わらないのである。
もう一つは、観測者が装置に取って代わられることはない。そうなったら、観測者は何も知ることができない。観測者は自分の使う装置の正しさすら、その情報は、観測者の知覚に依存している。装置から得られる角度や距離やスペクトル線などのデータも、観測者が読み取らなければならない。観測者の不確定・不安定な「感覚」がなければ、記録したものは役に立たない。
こうして我々は、現象を直接見ても、その本質を知ることができない。直接見たことは、我々が作った理論の基礎になっているが、その理論は本当に現象を包含しているわけではない。我々は、この事実を忘れ、観測データを絶対視している。
紀元前五世紀のデモクリトスは、この事実を見抜いていたようだ。ガレノスが残した断片によると、デモクリトスは、真実とは何かという問題で、知性と感覚とを対立させた。知性は「色や味は表面的なもので、本当は原子と空虚しかない」と言った。感覚は「ばかな知性よ、私たちの情報を使って私たちに反対するのか。お前の勝利は、お前の敗北だ」と言い返した。
物理学の例でも、自然科学の知識は知覚に基づくが、感覚的性質を説明できない。
科学的な理論は、観察や実験で得た事実を整理するのに役立つ。科学者は、多くの観測した事実を伝えるのは大変だ。だから、理論ができると、それらを書かずに、理論や用語でまとめる。しかしこれは元の事実や伝えたい事実を隠すことである。これは、事実をパターン化するのに便利だが、観察と理論の違いを忘れさせる。観察されたことは、感覚的な性質によるものだが、理論はそれを説明することはない。
結果として、一つの法則でも、異なる感覚的性質に基づく異なる理論が次々と生み出される。しかし、追証明により再現性の有無がなされる。
こうして、科学的論理は絶えず批判され更新することによって発達する。
■因果応報情報(業)の受け継がれるシステムの仮説、情報の場――真空
それでは、実際に緻密な業の情報は、三世永遠にどのように受け継がれていつのであろうか。
これこそ不可思議=妙ということであろう。
釈迦や日蓮が、三世の因果を比喩や例えとして表現していたが、これこそ比喩や例えでしか表現できないであろうし、それらを通じて科学的な因果応報を信じるしか、今のところ方法はない。
ただ、それを、万物の統合理論を探求する一部として、科学的に説明を試みようとする人たちもいる。主に用いられる理論は、素粒子理論をもとにする最先端物理学である。
量子力学によれば、素粒子は粒子でありながら波の性質も持ち、その位置と運動量を同時に確定することはできない。これは、時間とエネルギーにも当てはまり、一方が正確に決まると他方は不確定になる。エネルギーは物を動かす能力であり、質量と等価で相互に変換可能である。素粒子はエネルギーの塊であり、場の振動によって表される場の量子論に基づいている。この理論では、空間は場で満たされ、その振動によって素粒子が存在するか否かが決まる。
真空は「無」ではない。真空は素粒子が常に生成・消滅を繰り返す活動的な状態であり、これはカシミール効果のような現象を通じて実験的に証明されている。この効果は、金属板が互いに引き合うことで、真空がエネルギーを持っていることを示している。
アーヴィン・ラズロは近年の真空についての研究をこう紹介している。すなわち、真空は全てと相互作用し、荷電粒子が基底状態を励起する。これは物理学者による詳細な理論で、真空は宇宙全体に広がる物理的実体で、荷電粒子の痕跡を記録し伝達する。これらの渦は情報を保持し、その情報は粒子の状態に関するものであり、渦同士が相互作用し、干渉パターンを形成する。これらのパターンは、すべての粒子の因果情報を保持し、パタ—ンのどこをとってもその情報は存在する。つまり、自然のホログラムだ。
ウラジミール・ポポニンのチームは、DNA分子にレーザーを照射した実験で、その周囲の電磁場が特定の構造を示すだけでなく、DNAが取り出された後もその構造が持続することを確認した。彼らは、これが真空の新しい場の構造の現れであると結論づけた。これを「幽霊効果」という。こうして真空に素粒子の記録「幽霊」が刻まれていく。この真空の渦は超光速で永続し、荷電粒子によって作られた「幽霊」も同様に持続する。これは仏法でいう因果応報を示している。
そして真空中にできた渦は、その渦を生み出した粒子の状態に関する情報を記録し、それらの渦が作る干渉パターンは、干渉を起こした渦を生み出したすべての粒子の集合に関する情報を記録する。すなわち真空は、原子、分子、細胞内の小器官、細胞、生命体や生命体の群れの情報をもすべて記録している。
そして彼はこう結論している。
「宇宙には、情報を保存し伝達し、それに よって結びつきと相関を実現させる、より深いリアリティが存在する。時代を超えたこの洞察を尊重し、著者は再発見された真空に基づくホログラフィック・フィールドを「アカシック・フィールド」と名づけた。アカシツク・フィールド、略してA—フィールドは、科学で扱われている四つの普遍的な場――Gーフィールド(重力場)、EMフィールド(電磁場)、そして、原子核を構成する粒子間で引力や斥力をもたらす短距離力である強い核力・弱い核力に対応する場――と並ぶ、もう一つの普遍的な場である」(アーヴィン・ラズロー著「生ける宇宙 科学による万物の一貫性の発見」吉田三知世訳 2008/2/25 日本教文社)
■因果応報のシステム――相互結合
また、アーヴィン・ラズローは、相互結合という概念に基づいて、進化における偶然という問題を解消する例えとして二つの例をあげている(アーヴィン・ラズロー著「想像する真空 最先端物理学が明かす〈第五の場〉」野中浩一訳 日本教文社)。
その一つは宇宙物理学者フレッド・ホイルによる、目の不自由な人が行うルービックキューブである。彼の試算によれば、目の不自由な人がキューブの六つの面を揃えるまでにかかる操作の回敖は一〜五×―一〇の一八乗回である。仮に一秒に一回操作しても、完成までは宇宙の推定年齢よりもはるかに長い時間がかかる。しかし、もし彼が一回操作するごとに「OK」とか「NO」と助言をもらえるとすると、彼に必要な操作回数は平均で一二〇回になる。 一秒に一回操作するとすれば、平均二分間で完成する。
この例では、あらかじめキューブの完成という目標があり、助言という相互結合(フィードバック)が常に正しいとなっている。だが自然界では目標はなく、相互結合による情報が常に正しいことはない。それでも、目標があるならば完全にランダムな操作よりは達成までの時間が短縮されるだろう。ただ、多くの科学者は、目標は行動そのもののなかで生まれると考えているが、これも因果応報の経験則を示している。
もう一つの例は、「二〇の扉」というゲームにおいて、量子物理学者ジョン・ホイーラーの示したバリエーションである。
このゲームは、二〇回の「はい」か「いいえ」の質問で特定の物や人を当てるものである。プレイヤーは順番に質問をし、出題者は「はい」か「いいえ」で答える。最初のプレーヤーが質問をして部屋を出ると、残りのプレーヤーたちはその人の答えとなる物や人を考える。プレイヤーは抽象的な質問から始め、具体的な質問へと進む。そして最終的には正解を直接聞きだせる質問となる。
ここで、ホイーラーは正解を決めないやりかたを提案する。プレイヤーたちが共謀して具体的な答えを決めずに質問者に質問させるとどうなるか? 続くプレイヤーはそれまでの答えと矛盾しない答えを言わなくてはならないとする。すると質問を重ねるにつれて許される答えはどんどん限られていき、最後の具体的な質問にたどり着く。つまり最初は答えがなかったにもかかわらず、特定の答えにたどり着くことになる。この例から、自らの過去の情報をフィードバックすれば、明確な目標志向が実現することが分かる。このゲームは、自然界の進化がどのようにして目標を生成し、自己進化するシステムとなるかを示唆している。
一念三千の論理の中では、因果倶時・十如是があり、つまりは因・縁・果・報が同等に次の瞬間の一念へ連鎖していくということである。ここでの縁と報は内外すべての情報であり、それが次の因・果へと同時にフィードバックされることである。
こうして、生命という主体と環境の相互結合(依正不二)によって過去の情報が現在にフィードバックされると、複雑さに向かう進化において、確率的でたらめな振舞いが制限され、自己一貫性という特徴が生まれる。これは生命そのものの特徴である。これは精神においても十分に当てはまり、すなわち自我の形成・維持・発展そのものである。更には社会との関係性(社会環境、すなわち衆生世間)にも同等に当てはまる。これが一念三千の論理である。
また、この例から科学的にプリゴジンの指摘した「多様化する特性」には「収斂する特性」も備わることになり、自然界のすべては、自己の目標を生成し、自己進化する系となる。しかも、この過程で多様性/収斂性の秩序が出現するのに、宇宙の物理的な進化や地球上の生物の進化に要した時間を超える事はない。ラズローはこうして、自然界がどのようにして複雑なシステムや生命を創造し進化させているか、そしてそれがどのようにして目標志向的なプロセスによって効率的に進行するかを科学的に説明した。「自然界に存在するものの進化に対して、自然が情報をフィードバックさせるプロセスを明らかにする理論なら、ビッグバン(あるいはそれ以前) から現在へと複雑さが増してきた道筋を説明できるかもしれない。そうした理論は――宇宙に存在するものすべてが自己創造する相互作用プロセスの産物だとすれば――究極的にはほとんどすべてのものを説明できるだろう。おそらくこうした理論は、進化論的な基盤を持つ統一理論であり、科学的に検証可能な宇宙に対する準全体論的な世界観をもたらしてくれるはずだ(同書P214-215)。」という。
ラズローは、この概念を用いて、宇宙の生成・消滅についてだけでなく、生命の生死、脳と意識や超意識、トランスパーソナル現象や、宇宙大に広がった情報や超自然的智慧を得るシステムなど、万物の不可思議な現象を説明している。
彼の提唱したA-フィールドの存在を前提とすれば、未知の現象や超常現象、因果応報を含む万物の不可思議な現象を説明できる。
対消滅を無限に繰り返す無量の素粒子に因果の情報が刻まれるとすれば、無始無終の因果応報システムを説明するのに十分余りある。
さらに、量子コンピューターの原理である、電子の対スピン情報が距離に活計なく一瞬で伝わることを合わせて考えると、ある特定の条件さえあれば超宇宙大の情報を瞬時にアクセスできる可能性も説明できる。これがトランスパーソナル現象の一つである可能性である。ラズローは、死後の生命や輪廻転生、死者との交流、また、脳の記憶や前世の記憶等の説明に、この理論を使って試みている。
現在のところは、思考実験・疑似科学の段階であるが、万物一切根源の法の説明として、頼もしい候補となろう。
一念三千の論理は、個々別々の生命の因果を含めて、これを十分に満たして有り余る論理である。これらの科学的知見は、一念三千の論理を示唆する有力な知見である。これらの無限の情報を宇宙全体の真空の場から瞬時に参照できるとすれば、瞑想や神秘体験での様々な不可思議な現象、また洞察能力やセレンディピティなども、ある程度説明できるかもしれない。
■ 地水火風空――仏法における万物の構成要素
仏法では、万物の法則を、仏の悟りとして説いている。
また、凡夫の考えは迷いとしてみなされているが、これも実の相である。
日蓮は、当時の学問レベルの用語を用いて、南無妙法蓮華経の説明を行った。この中で万物の構成について、五行などと説明した。すなわち、
《五行とは地水火風空である。五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいう。これらは本来ただ一つの法則であるが、経々によって種々に説かれている。内典と外典とその名目が異なるだけである。法華経にはこの五行を解説して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。
この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。
これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「唯一、仏と仏とのみが、これを究め尽くしている」と説かれている。
この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初心の位からこれを知ることができるから即身成仏するのであり、金剛不壊の体となる。》(総勘文抄、御書P568 原文はコメント11)
この時代の、万物である宇宙や人間の身体・精神を構成する要素として、地水火風空の五つ(五行)が挙げられている。これは、現代においては、
1.地: 固体の要素であり、堅さや安定性を象徴する。例えば、骨や筋肉など。
2.水: 液体の要素であり、流動性や結合力を象徴する。血液や体液など。
3. 火: 熱やエネルギーの要素であり、変化や成熟を象徴する。体温や消化作用など。
4. 風: 気体の要素であり、動きや呼吸を象徴する。呼吸や循環など
5. 空: 空間や無限の要素であり、他の四つの要素を包含する。時間・空間、真空、モノの有無などが該当する。
概ね、仏教では、これらの要素が調和することで健康や幸福が得られると考えられている。
例えばその方法として、
1.瞑想と呼吸法: 瞑想や深呼吸を通じて、心と体のバランスを整える。特に、呼吸法は風の要素を調和させる。
2. 食事と栄養: バランスの取れた食事を摂ることで、体内の地と水の要素を調和させる。新鮮な野菜や果物、適度な水分摂取が重要。
3. 運動と体操: 適度な運動やヨガなどの体操は、火の要素を活性化し、全体のバランスを保つ。
4. 自然との接触: 自然の中で過ごす時間を増やすことで、地と空の要素を感じ、調和を図る。森林浴や海辺の散歩などが効果的。
5. 心のケア: ストレスを減らし、心の平穏を保つ。リラクゼーションや趣味の時間を持つことで、空の要素を整える。
これらの方法を日常生活に取り入れることで、五大の要素を調和させ、健康と幸福を維持することができるという。
日蓮は、田入道殿御返事で、病気の六つの原因として、四大順ならざる故に病む(太)、また、飲食の不調、生活の不摂生、と述べていて、これらは先述の地水火風の不調を示す。また、外的侵襲(ウィルス~物理的作用)、魔の所為(精神的疾患)、悪業による3つの原因は、空に関するものである。
病に限らず、調和が大切であるとされている。
しかし、自然法則の説明について、そもそも調和とはいったい何か。これは、成仏への修行や菩薩の行動を行う観点から述べたものであり、混同してはならない。
話を戻して、釈尊の成仏を例に挙げ、永い昔である五百塵点劫からの生命の因果をこのように説明した。
《釈迦如来は五百塵点劫の当初、凡夫であったとき、我が身はすなわち地水火風空の五大であって本有常住の当体であるとお知りになって、即座に悟を開かれた。
後に、衆生を教化するために幾世も幾世も繰り返し繰り返し現れて成道し、いたるところにおいて仏としての八種の相を示した。今日においては、王宮に誕生し、菩提樹下に成道して、はじめて仏になるさまを衆生に見知らしめ、それから四十余年の間、方便の教を設けて衆生を誘引した。》(総勘文抄 御書P568 原文はコメント11)
この説明は、遠い昔ではあるが、釈尊もあくまで凡夫であった時期もあるということを示している。
日蓮は、「久遠元初」と述べているが、これは万物の初まりを意味するのではない。もしそうであれば、科学的には間違いであり、正しくは、久遠のある時点での存在と理解すべきである。
いかに悠遠の昔であっても永遠の未来であっても、万物や生命には、初めもなければ終りもない。
「初め」を設定すると、因果応報の法則により「終り」も設定しなければならず、さらにはそれを絶対視すればアニミズムに陥る。
無始無終で、地水火風空の五大が、万物の法則に従って因果応報を変化しながら続いていく。この法則を妙法蓮華経と名づけた。そしてこれを覚知することを成仏とした。
ここでの成仏とは、解脱の意味が込められているが、満足は含まれず、世俗的な幸福といった概念も含まれているとはいえない。
《この仏の悟った法則(極楽)とは、時空を超えた万物の生命の主体と環境とが元々一つであることをいうのであり、一つの因果・応報の法則(三身即一)である。四土(寂光土を鏡にたとえ、鏡に映った同居土と方便土と実報土)とは一つのものであり、法則の生命(法身の一仏)である。十界を真理・実体とするのが生命法則(法身)であり、十界を特性として示すのが報身であり、十界を現実として顕した姿が応身である。十界の他には生命はなく、生命の他には十界はない。すなわち依正不二であり、肉体と精神と環境は一つの生命である。時空を含む万物(十方法界)が一つの生命(一仏の身体)であり、これを寂光土という。だからこれを無相の極理という。生滅無常の相に捉われないので無相といい、天台が生命独自の本性(法性)の淵底・玄宗の極地であると解釈したところの究極の法理である。この無相の極理である寂光の極楽は一切有情の心性のなかにある清浄で煩悩に捉われない境界である。これを名づけて南無妙法蓮華経(妙法の心蓮台)という。この故に心の他に別の法はない、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。
生と死との二つの見識は、生死を夢のように見る物語であり、妄想であり、顛倒した見方である。悟りの智慧で自身の心性を素直に見ると、そもそも生ずるという始めがなく、死ぬという終わりもない。つまり既に生死に捉われない法則ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓箭にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。
虚空のなかに満ちたとしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭いということもない。》(総勘文抄 御書P563 原文はコメント11)
総勘文抄の詳細は別の機会にゆずるが、以上、ここには、万物の生命法則を、一念三千、依正不二・色心不二・因果応報などの概念も含めて説明がなされている。
拙論文で先述してきた万物一切根源法の内容が、日蓮の時代の学術的用語で述べられている。
虚空のなかに満ちたとしても虚空も広すぎることはないというのは、真空内も素粒子の消滅が無量・無限に繰り返され、宇宙空間も時間も同様に無量・無限であるという現代科学の所見や推察と矛盾しない。
科学は発達するほど未知の世界が広がるようであるが、「空」の概念は、更新することにより、万物一切根源法を説明できる。
ラズローは、先述の例も含め、疑似科学として、量子真空からAーフィールドの概念を提唱した。そして、宇宙の驚異的な一貫性、生命の一貫性や進化にもこれを適応して説明、さらにこれを多元宇宙や無限の時空へ、さらに生命の永遠性や精神的事象、トランスパーソナルな現象にも取り入れて説明し、現代科学を統合した万物の統一理論を提唱した。これらは、日蓮仏法だけでなく、古の智者や神秘主義者たちの洞察と、驚くほど、よく共通する。
■ 究極の幸福境涯「成仏」と「煩悩即菩提」
自然科学の目的は真理の発見や、その真理を技術革新につなげることにある。この物理的実現は現世利益そのものであり、害毒をもたらす境涯を含む六道輪廻の世界に帰着する。これらは一時的満足(天界)が含まれるが、根本的な幸福実現ではない。これはそれを悪用した凄惨な歴史が証明している。
某宗教団体が「煩悩即菩提」を基に、現世利益を目的として追求しているが、真の仏法において「煩悩即菩提」は、煩悩の実現を目的とするのではない。
仏法の目的は真理の洞察と一致した解脱、すなわち成仏(苦からの解放も含む)にあり、そのための方法も真理に含ませている。
自然科学では、真理の発見そのものは幸福に必ずしもつながらないが、真の仏法では、真理の発見すなわち成仏が、そのまま究極の幸福なのである。真理の発見やその他者への利用貢献がそのまま善業であり、因果倶時・因果応報となって、永遠に三世の生命を営んでいく。
これは自身の独自性・独創性の発現ともいえる。付随する現世利益(欲望の満足など)は、あくまでこのための目的ではなく手段である。
だから、悟りに応じた分は、自然に伴っている。これを煩悩即菩提という。