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P88, 功徳や罰の実体と、宗教上の意義

 では、どうして呪術的な祈り、タナボタ式の祈りなどに対しても功徳と捉えられる現象が個人的な現実としてあらわれるのだろうか。また、罰の現象も同様である。神仏の教えに逆らい、神仏に呪われるような行為をすれば罰が当たるのだろうか。
 私は、これらの現象は、個人の心と体が相互に影響を与えることによる行動の総合的な結果と評価のあり方だと考えている。
臨床上では、功徳の例として、プラセボ効果をはじめとする「心身相関効果」が挙げられる。
 プラセボ効果は、実際には治療効果を持たない偽薬や偽の治療が、患者に対して価値的な変化を起こす現象を指す。この効果は、患者が実際には何の医薬的価値もない薬剤や手術などの処置を、有効な治療だと信じこむ場合に生じ、この信念が心理的なメカニズムを通じて身体的な改善へとつながるものと考えられている。
治療効果を持たない偽薬や偽の治療や、実際には科学的に何の意味もない宗教上の教義や実践が有力な現実変革の候補となり得ることは想像に難くない。

 プラセボ効果判明の有名な例として、クリス・バーディックが自著「『期待』の科学」で紹介している、メスメルの動物磁気を参考として論を進める。

 1784年の夏、パリの知識人たちはフランス王ルイ16世に、動物磁気が国民の道徳を壊すと伝えた。医師メスメルは手をかざすだけで病気を治すと主張し、多くの人々が彼の治療を求めた。科学者フランクリンは、動物磁気ではなく患者の想像力が治療に効くと考え、実験を行った。結果、メスメルの治療法はインチキだと報告された。メスメルの治療は、世界初のプラセボ検査となった。
 一七八四年の夏、パリの知識人たちはフランス王ルイ一六世に、ある危機を伝えた。動物磁気という不思議な力が国民の道徳を壊すという。その力は目に見えず、においもしない。だがどこにでもあるもので恐ろしい。
その正体はメスメルという医師が使っていた。メスメルは手をかざすだけで病気を治すという驚くべき方法でパリを騒がせていた。宇宙のエネルギーを動物磁気と呼び、それを調整する等と言っていた。金持ちや王妃マリー・アントワネットなど、多くの人が彼の治療を求めた。人気が高まると、彼は仲間を増やして組織的に動いた。
メスメルは、宇宙のエネルギーを使って、患者の手や棒を動かすだけで病気を治すと喧伝していた。その治療は、紫色のカーテンや鏡で飾った暗い部屋で、患者たちの目を見たり、身体に手や棒を当てたりした。すると、患者たちは咳や吐き気、叫び声などの症状を起こし、身体を震わせたり、失神したりしたが、その後、みんな元気になり、病気が治ったと感じた。
 メスメルは、自分の治療法は神の力ではなく、科学者の研究に基づいていると主張した。地球の磁力や重力のような宇宙の力が、人間の身体にも影響すると考えたからだ。
こうしてメスメルは、手や目で磁気を使って病気を治していた。パリでたくさんの人が彼の治療を受けた。貧しい人には木に触れるだけで治ると言った。しかし、医師たちは彼を詐欺師だと考えた。
 科学好きのルイ一六世王は科学者たちに調査をさせた。科学者フランクリンがその調査のリーダーだった。メスメルは調査に協力しなかったが、彼の弟子デスロンが同じ治療法を使っていたので、フランクリンはデスロンの治療を調べた。
 フランクリンは動物磁気ではなく、患者の想像力が治療に効くと考えた。そこで、同じ治療をするとウソを言って患者に目隠しをしてから、磁気がない水や木を使って治療実験をした。患者はそれでも痙攣や失神をしたあと、皆元気になって、メスメルの治療と同じ効果が現れた。フランクリンはこの結果を王に報告して、メスメルの治療法はインチキだと報告した。デスロンは想像力も大事だと主張したが、誰も相手にしなかった。その後メスメルはフランスを出て、姿を消した。
 この調査はメスメルの治療が本当かどうか、動物磁気という力があるかを調べたものだったが、調査委員はもっと不思議なことに気づいた。人間の想像力が大きな力を持っているということである。それは超常現象のようなもので、不可思議で恐ろしいと思われた。「その力は世界中にあるが、どこから来るのかは謎だ」と報告書に書いた。
 だが、想像力は彼らにとって不都合なものだった。理性の敵で、認められないものであった。報告書には「大衆は想像力に支配される。想像は人に伝染する。だから集会は危険で禁止すべきだ。集会がなければ想像も広がらない」と書いた。プラセボ効果は悪で、魔術みたいなものだとされた。それから約二〇〇年、ずっとこう思われ続けた。
 こうして、メスメルの治療の検証は、世界初のプラセボ検査となったといえる。
 この紹介のあと、クリス・バーディックは続いて以下のような趣旨を述べている。
すなわち、人が心で思ったことが本当になることはよくある。「予言の自己成就」という現象だ。偽薬で治ったり、銀行の騒ぎが起きたりするのもそうだ。今でも、そんなことが起きると、現実とは違うものを感じる。偽薬で病気が治るなんて、風に声が聞こえたり、イエスの顔が見えたりするのと同じだと思う人もいるだろう。
人間は自分の心をだますことができる。自分の心が期待したり予測したりすることの方が強い。我々が見る世界は、感覚だけでなく、期待や予測で作られる。期待や予測は情報を選んだり補ったりする。それは未来のことを考えるために必要だ。だが、それが間違っていたり行き過ぎたりすると、現実と違うことになる。本当の世界と私たちの世界は同じではない。たとえば視力検査の結果が変わったり、偽薬で病気が治ったり、食べたつもりで満腹になったりする。それは想像力のせいだ。想像力は嘘と思われることが多い。だが、想像力は現実にも効くことがある。それを知って、上手に使えば、いいことができるかもしれない。

 メスメルはフランスを追われたが、彼の治療がきっかけとなってか、催眠術が生まれた。メスメルの動物磁気は非科学的であったが、催眠術や催眠療法は、フロイトやユングなどの心理学者や精神分析家に取り入れられ、精神医学的分析や治療に役立っている。科学的検証や再現性について、多くの研究がなされてきたが、いまだ科学的根拠があいまいな部分が多い。
そもそも、催眠術をかけようとしても、相手がそれを拒否したり、または話が理解できなければ、催眠術にはかからないのである。催眠術や催眠を利用した心理的治療は、ひとえに術者への信頼関係――すなわち、信、信心――が必須なのである。
(これに対して、薬や毒は、「信」に関係なき効果を有する。これが科学的真実・客観である。)
 ところで現在ではプラセボ効果は、不安や緊張、疼痛などの症状に関連して反応しやすいとされ、治療環境や医療者との関係性などの背景的要素が患者に肯定的な変化をもたらすことである。一方で、ノセボ効果という現象もあり、これはプラセボ効果の逆で、患者が治療に対して持つ否定的な信念や期待が、実際には副作用のない偽薬によって副作用のような症状を引き起こすことを指す。
 プラセボ効果は、患者が実際には効果のない偽薬(プラセボ)を有効な治療だと信じることで、心理的な要因によって症状の改善が見られる現象である。この効果は、期待、信念、条件付けなど、複数の心理的・神経生理学的要因が関与していると考えられている。
 プラセボ効果に関する研究は、主に医学的な文脈で行われており、治療や健康に関する心理学的な側面を探求している。この効果は、医療実践においても重要な役割を果たしており、新薬の臨床試験などでプラセボ群を設けることで、新薬の効果をより正確に評価するために利用されている。

 また、個人の信念や期待が、その人の体験や感覚に物理化学生物学的な様々な影響を与えることを指して、意味反応(セマンティック・リアクション)という。意味反応は、言葉や記号が持つ意味が個人の感情や行動に影響を与える心理学的メカニズムである。例えば、ポジティブな言葉を聞くと気分が良くなる、といった現象がこれに該当する。意味反応は、言語の理解と感情の経験が密接に関連していることを示している。
これはプラセボ効果と関連があり、患者さんが治療に対して持つ前向きな期待が、実際の身体的な改善を促すことがあるとされている。
まさに日蓮が「ご信心によるべし」と述べているのは、このことであろう。
 これらの現象は、心と体の相互作用を示すものであり、心理学的なアプローチによってさらに理解を深めることができる。プラセボ効果や意味反応は、単に「気のせい」というわけではなく、実際の生理的変化を引き起こす可能性があることを示している。これらの心理学的メカニズムは、医療や日常生活においても重要な役割を果たしている。

 これらを含む、心身相関についても、多くの研究がなされてきている。
これらについて、実験モデルの設定から実行および集計・考察も含め、科学的再現性を証明することは、極めて困難である。
 また、これらの効果を疑問視する検証もある。
実験対象として注目され観察されること自体が、その後の経過に良い影響や悪い影響を与えることがある。これをホーソーン効果という。

 これは、最先端科学である量子物理学において、観察者の観察そのものが、対象となった量子に変化をもたらすという知見に共通する。

 また、病気について言えば、治療の効果ではなく、病気自体の自然経過である場合がある。

 また、被験者の、実験に協力するという主体的な意志が、心身相関をもたらす場合もある。

 また、病院に行って、頻繁に医療従事者の介入を受けること自体が、それらが治療に何の意味がなかったとしても、病気の治癒に影響することも分かっている。

 したがって、プラセボ効果を科学的に証明するには困難を伴う。

 ここでカギとなっているのは、被験者の心に、何をどのように信じるか、すなわち「信」の有無と内容である。

 信じる者は救われる、などとよく言われる。
これは、信じることが正しい場合、良い結果が得られるということであるが、それの結果はまちまちであり、非科学的ではある。

 また、イワシの頭も信心からという諺もある。これは、信じる対象が何であっても、信じるという行為・事実のみを強調するものである。

 こうしてみると、プラセボ効果や、心身相関、そして宗教に至るまで、その内容は、信じることによって成立する、信の範囲にのみに限定された法則や効果である。
信じる人にとって、また、その人の悩みや病気・直面している課題への対応に際して、実際に何を信じて基準としたり根本としたりするかなどの「範囲」に限定された、事実・真実であり、これにすぎない。
すなわち、万人・万物に共通する普遍的な法則とは言えない。
とくに、宗教やその団体においてのドグマは、そのドグマを信じると言う限界内での真実であり、万人共通の普遍的客観的な真実・法則ではない。

万人共通の普遍的客観的な真実・法則の例として、全身麻酔薬を挙げる。
全身麻酔薬は患者が信じようと信じまいと、効果がある。そうで無ければ、患者に全身麻酔をかけることができない。
例えば、私の専門は外科医であり、全身麻酔をかけることができるが、専門外の医師が、その正しい医療の法則を信じていようと疑っていようと、正しい医療の法則に則って、正しい全身麻酔薬を使い、正しい手技を用いて行えば、結果は私が行ったのと同じ全身麻酔が実現する。
 修行法も含む「法則」とは、このように、「信」の有無を問わない。むしろ、「疑い」があることが、法則の真偽を試すことになり、かくして科学技術の進歩が実現する。

 すなわち、「信」の有無や内容に関係なく、効果があるかどうかが問われるのが、薬としての意味である。これが、科学的再現性・客観性ということである。
 万人・万物に共通する普遍的な法則とは、個人が信じようが信じまいが関係なく成り立つ法則である。
 日蓮は、南無妙法蓮華経を、こうした万人・万物に共通する普遍的な法則として定義し、これを本尊としたのである。ただし、その論理的根拠となったものは、科学的とされていた当時の最高学問ではあったものの、現在では科学は遥かに発達している。

 こうしてみると、この動物磁気を使った治療に類似するような主観的な信仰体験は、旧来や新興宗教の間でしばしば見られるだろう。大石寺や破門前の創価学会では、病気を治す御秘附というものがあった。昔からあるような病気の治癒の様々な祈禱は、メスメルの動物磁気と同様のものだろう。それでも、治った人がいるなら、これはプラセボという立派な方便であろう。神の力ではなくて宇宙のエネルギーだと言った手合いは、先述してきたアニミズムに相当するといえよう。しかし、クリス・バーディックも言うように、心で思ったことが本当になること、すなわち「予言の自己成就」という現象はよくあることである。肉体と精神は十分に一体、かつ、命と環境は十分に一体である証拠なのだ。これが仏法で言う「色心不二」と「依正不二」の原理である。

 病気についていえば、治ると思い込むと治る現象をプラセボ効果というが、同様に、治らないと思えば悪くなる効果をノセボ効果という。薬の副作用が出ると思い込むと本当にその副作用が出るものなのだ。プラセボ効果とノセボ効果は現在も薬理学的・心理学的などでその解明の研究が進められている。
 宗教においての功徳と罰の現象を、プラセボ効果とノセボ効果で、よく説明できるといえそうだ。すなわち、功徳を期待して祈れば実際にその功徳が実現する、そして罰当たりな行為をして罰が当たると思っていれば、実際にその現象が現れたりすることもありうる。
事実、多くの宗教組織内で、教えを守れば功徳が出て願いが叶い、教えに違背したり約束を破ったりしたら罰が当たると思い込まされているので、そういう現象が、その宗教の信者もしくは信者だった人に現れることはあり得る。
当然だが、その宗教を元から信じていない人はまったくこの現象は現れない。宗教を信じていない人は、たとえば良い結果がでたら「棚から牡丹餅」と喜び、悪い結果がでたら「運が悪かった」とあきらめることもあるだろう。
日蓮~日興門流、創価学会では、悪い結果が得たら三障四魔とか三類の強敵などという受け止め方や、前世の業を滅するためという受け止め方が混在している。
因果応報という科学的論理からすれば、善い結果は善業の結果、悪い結果は悪業の結果ということになる。
これを善業楽果・悪業苦果という。ちなみに楽果の楽はたのしいという意味の他に善いという意味があるが、楽(らく)をするということではない。
 ただ、楽といっても満足していないこともあり、苦といってもエクスタシーを感じていることもある。そういう意味で言えば、功徳と言い、罰と言っても、すべて、実生活上で現れ認識される因果応報・善悪の業の受け止め方・捉え方・プラスかマイナスかといったいろいろな評価の内容であるといえる。
 苦しみであったとしても魔や悪業の謝罪としてプラスに受け止めることができ、またその逆に、楽しみであっても悪業に彷徨う天界の刹那にしかすぎず、直ぐに消えてしまって、成仏へのモチベーションがなくなればマイナスである。三障四魔のなかでの煩悩魔というのがこれである。
 つまり、すべてが自身の生命による受け止め方である。
 だから、第三者である絶対者・絶対物・宇宙・創造主・神や仏などという架空の第三者から、霊力などによって物理的にまたは精神的に与えられるものではない。もしそのような作用があるとしたら、それはそれらを崇拝する等の関係者からの作為や陰謀そのものであろう。
 法華経においても、功徳と罰を方便として誇大に表現している。色相荘厳の仏や地獄の無残な姿はその例であり、文字通り受け止めてはいけない。実生活上での境涯は先述したが、仏界の境涯は方便としかあらわされていない。
 日蓮も「ご信心によるべし」と述べているのは、功徳と罰やそれぞれの境涯は、受け止め方次第であるという意味と考えられる。
日蓮の手紙で見られる様々な因果の例や譬えは、法華経譬喩品の引用などに見られるように、また当時の風習などもあって、誇大表現となっている。これらの比喩による誇大表現は、三世永遠にわたるスケールに立てば決して誇大表現とは言えないかもしれない。しかし、すべてが成仏への行い・人間としての完成を目指す行いのための方便として理解すべきである。
 功徳と罰の具体的な現れ方は、科学的には意味反応やプラセボ効果、罰の場合はノセボ効果に似ているので、これによる説明が可能と思われる。
功徳がある・絶対に願いが叶う――この信念が心理的なメカニズムを通じて身体的な改善へとつながるのである。信仰や瞑想が深い意味を持つ行為であると信じることによって、心理的な安定や精神的な満足感を得ることは、プラセボ効果が身体的な改善につながるのと同様のプロセスを経る可能性がある。これらは個人の期待や信念によって変わる可能性がある。
 また、心理的な観点からは、マンダラの実践が直接的な身体的な改善をもたらすとしたら、それは直接的な物理化学的因果によるものではなく、個人の期待や信念が伴うか否かに因果関係があり、おなじ直接的な物理化学的実践をしても個人の期待や信念が伴っていなければ、身体的な改善をもたらすことはない。
 身体的な改善が起こるかどうかは、物理化学的な因果関係だけでなく、個人の心理状態、期待、信念に大きく影響されることがある。これは心身相関とも呼ばれ、心理的な要因が身体的な健康に影響を及ぼすことを示す。したがって、マンダラの実践が身体的な改善をもたらすかどうかは、その実践に対する個人の信念や期待によって変わる可能性があると言える。ただし、これは科学的な研究によってさらに検証されるべき事項である。
また、曼荼羅の内容を個人が理解しているかどうか、またその内容が正しいかどうかに関わらず、信念や期待によって心身に何らかの影響が及ぶことは考えられる。
これは、信仰や瞑想が個人の心理状態に与える影響として理解されることが多く、プラセボ効果や意味反応といった現象と類似している。
 心身相関の観点からは、個人が何かを深く信じることで、その信念が心理的な安定やストレスの軽減、さらには身体的な感覚にも影響を与える可能性がある。ただし、これはあくまで心理学的な効果であり、物理化学的な因果関係とは異なることに注意が必要だ。これらは科学的な研究によってさらに検証されるべき事項であり、個々のケースによって効果は異なるものである。今後の科学的検証が必要であり、期待される。

 
■ 日蓮の祈禱抄における、祈り実現保障の誤解と、真のあるべき祈り

 加えて、日蓮の遺文に祈祷抄をとりあげておく。

「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈禱抄、御書P1351-1352)
《大地に指をさして外れることがあっても、虚空をつなぐ者がいたとしても、また潮の満ち干きが無くなることがあっても、日が西から昇ることがあっても、このような有り得ないことがあったとしても、法華経の行者の祈りがかなわないことは絶対にない。》

この部分は、切り取られて恣意的に利用されてきた。
カット&ペースト利用である。
ここでは、文脈をさらに理解することを要する。すなわち、その前に「いかに申す事はをそきやらん」《どうして祈る内容が叶うことが遅いのであろうか。》があり、この文の後には「法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等・二聖・二天・十羅刹等・千に一も来つてまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り下は九界をたぼらかす失あり、行者は必ず不実なりとも・智慧はをろかなりとも・身は不浄なりとも・戒徳は備へずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし」と続いている。
つまり、この文は、方便の法華経を文証とした励ましの文であり、科学的真理・真実を述べたものではない。
さらに、「法華経の行者の祈り」という条件が付いていて、万人の祈りが叶うと言っているのではない。
その「法華経の行者の祈り」とは、この遺文から、成仏(人間としての完成)を目指す祈りである。
だから、そうでない祈り、例を挙げれば現世利益の祈りは、この遺文からいえば邪教の祈りすなわち呪いとなるので、悪い結果がでるか、悪い結果となって後に返ってくると言う意味である。
人を呪えば穴二つという諺のとおりとなる。
ちなみに現世利益の多くは、他から何かを奪うことの上に成り立つ。例えば、資本家の利益は労働者の搾取、商いの利益はお客様からいかにして高値で買ってもらうかである。すなわち、契約者の利益とトレードオフの関係で、資本主義経済は、これで成り立っている。

、成仏(人間としての完成)とは、それぞれの境遇で、菩薩の行動により人格陶冶し、完成を目指すことである。この祈りこそ、叶う。情けは人の為ならずという諺の通り、善業・福運となって、まわりまわって自身に果報として帰ってくる。
そうでない祈りは、この逆を考えればよい。
 それ故に、法華経の行者の祈りについて、日蓮は、
「法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし・方諸の水をまねくがごとし・磁石の鉄をすうがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、 あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし」(祈禱抄、御書P1347)と、成仏(人間としての完成)を目的とするものとして、讃嘆しているのである。

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