ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P92, 生死一大事血脈抄の科学的アップデート
☆生死一大事血脈抄の科学的アップデート
「妙法蓮華経」を、法則ではなく、何かの「実体」として扱うと、そこからアニミズムが生まれる。
「万物・万象の体が妙法蓮華経」などのように、物体と法則を兼ねているような表現は誤解を生む。日蓮は、これを法則・成仏への修行法を含む、万物の統一法として扱い、ほとんどの弟子檀那も理解していたと考えられるが、このような実体・物体という扱いを一切廃することが重要である。日蓮が定義しているように「妙法蓮華経」を「法則」として扱う。
鎌倉時代当時において日本一の智者・科学者であったといえる日蓮が、タイムマシンに乗って現在のAI時代にやって来たとしたら、科学者として合理的・論理的に、現在の最先端科学の知見を大いに活用し取り入れて、今風にさまざまなお手紙を書くであろう。
私は日蓮には遠く及ばない科学者の端くれであるが、生死一大事血脈抄についても、日蓮の真意から外れるのを恐れながら自身の力の及ぶ範囲で、科学的知見を取り入れて今風にアップデートしてみた。
生死一大事血脈抄は、文永九年二月十一日、日蓮が佐渡流罪になって初期である、厳寒の塚原において 最蓮房日浄に与えられたお手紙である。
「御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて 此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、妙は死 法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云 此の釈に依正と云うは生死なり 生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地.陰陽.日月・五星.地獄・乃至仏果.生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、 釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、」(御書1336-1337)
《お手紙を詳しく拝見しました。その、生命の生死(生成消滅)における唯一無二で究極の血脈というのは、いわゆる「妙法蓮華経」という万物の統一法則です(*1)。
その理由は、この妙法蓮華経という法則は、その中に説かれている通り、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩に末法での布教を命じたもので、元々無限の過去から定まっている、一瞬ですら例外が無かった血脈である生命法則だからです。
それにおいてあえて立て分ければ、妙とは不可思議で観察不可能な死についての法則、法とは科学的分析できる生についての法則のことです。この一切衆生の境涯のおりなす生(生成)と死(消滅)についての法則がすなわち、十界の境涯を説明する法則です。そして、これを当体蓮華(*2)ともいうのです。開花と結実が同時に見られる蓮華の花に譬えられたこの表現は、生死の状態すべてにおいて、一瞬の一念のなかに原因と結果が同時に観察されるということを意味します。
天台大師は「まさに知るべきことは、この十界をおりなす生命、一体となっている主体と環境の因果あわせてがすべて蓮華の法則(因果が同時に観察されるという法則)である」と述べています。この説明で主体と環境が一体となった変化というのは、十界の中でのそれぞれの境涯の発生と消滅という変化です。その生成消滅があると、その一瞬の因果もまた同時に備わっているという蓮華の法則であることは明らかです。伝教大師は「生命の生死(生成消滅)のシステムは一心(一瞬一瞬の一念)の不可思議な姿であり、死んでいるか生きているか、存在するかしないかというのも生命自体の元々の性質である(*3)」と述べています。空や大地、光と影、太陽や月や空にキラキラと輝く星々、そして衆生の一念における十界の境涯である地獄~仏界に至るまで、生命の生死(生成消滅)でないものはありません。
このように、物理的な生死から一念の変化まで、すべてにわたる生成消滅もすべて妙法蓮華経で説明される生成消滅なのです。天台大師の摩訶止観に「生成は真の現象としての生成であり、消滅もまた真の現象としての消滅である(*4)」とあります。法華経で登場する釈迦仏や多宝仏も永遠に生死(生成消滅)をくり返す生命現象のあらわれの例なのです。
*1:ここでいう生死とは、物理的に生命が生まれる・死ぬという発生消滅の変化だけでなく、生きている間の一念の変化、十界の境涯(一念三千)の発生消滅の変化すべてを意味している。そして日蓮は当時の学問レベルに基づいてその一念三千の法則を含んでの万物の統一法則を南無妙法蓮華経と定義している。
*2:当体蓮華とは、一瞬の一念の姿(当体)に因果が同時に具わっていることを、蓮華という花を象徴として表現したもの。この意味を補って訳した。
*3:「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」の意訳
*4:「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」の意訳
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば.定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅まし浅まし,十王は裁断し倶生神は呵責せんか。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱えんほどの者は、千仏の手を授け給わんこと、譬えば瓜・夕顔の手を出だすがごとくと思しめせ、」(御書P1337-)
《このように、十界の生命自体の法則が妙法蓮華経なのですから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊が示す悟った法則と、実践すれば全てのものがみんな成仏するという修行法(*6)である法華経すなわち妙法蓮華経と、私たち九界の衆生の基盤である法則、この三つは全く同じであると理解し受け入れながら、ひたすら成仏を目指して妙法蓮華経と唱えることを、成仏するための「生死一大事の血脈」(生死(生成消滅)における唯一無二で究極の血脈)というのです。これ以外にはありません。このことこそが日蓮の弟子檀那等の肝要です。妙法蓮華経を受持し実行するとは、このことをいうのです。
所詮は、目先の現世利益を捨て、ただひたすら成仏を目的として、今の一瞬が臨終であると覚悟して南無妙法蓮華経と唱え、菩薩の行動に励む人を、法華経の普賢菩薩勧発品には「その人は臨終の後、一瞬にして転生し、その時には周囲のすべての環境がその人を恐れさせたり地獄・餓鬼・畜生・修羅の悪い境涯に陥れることのないように働く」(*7)と説かれています。喜ばしいことに、転生先のすべての環境がその人を怖い思いをさせず悪道に落ちないように守るなんて、歓喜の涙を押えることができません。これに対し、この「妙法蓮華経」を信じないで、悪く謗る人などは、法華経譬喩品に「・・・その人は臨終後転生して、絶え間なく苦しみが襲う無間地獄の境涯に陥る」(*8)と説かれているので、生まれかわったら周りの人や仲間たちはみんな地獄の境涯の人たちばかりで、その住む環境も苦しみが絶え間のない地獄の世界です。なんとひどいことでしょうか。なんとひどいことでしょうか。このような人は懺悔滅罪までの間、常に自身の脳内にある社会脳部分(良心・道徳心や記録部分)の働き(*9)によってその罪を絶え間なく裁断され、呵責され、人知れず厳然と精神的に大いなる苦しみを受け続けることになるでしょう(*10) 。しかも法華経は時空を貫く万物一切の法則なので、過去世・現世・来世も同様です。すなわちこれらここに出てくるシステムは現世、今これからの人生についてのことを強調しているのです。(*11) 今、日蓮の弟子や檀那等で、ただひたすら成仏を目的として南無妙法蓮華経と唱える者において、転生先ではすべての人や環境が菩薩として助け続けてくれる様子は、例えば瓜や夕顔の蔓が幾重にもからんで伸びるように、必ず抜かりなく至れり尽くせりとなるにちがいありません。》
*6:「皆成仏道」の説明
*7:「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」の科学的現代語訳。転生が一瞬であることから、死後の生命として説かれた内容は必然的に転生先の比喩的内容となる。「千仏まで来迎し手を取り給はん事」とは方便であり、真意はあらゆる環境が菩薩の働きとなってその人を助けるという意味である。
*8:法華経譬喩品には、法華経を聞いて誹謗するだけでなく、顔をしかめ、眉をひそめ、疑惑を持ち、あるいは法華経を読んだり書持する人を見て軽んじて賎しめ憎み嫉して、長い間の恨みを抱く者も、同様に阿鼻地獄(無間地獄)におちると書かれている。この内容も、転生後の境涯についての内容となる。
*9:「十王は裁断し倶生神は呵責せん」は、比喩・方便なので、真意を脳科学の知見に置きかえて現代語訳した。
*10:ちなみに、法華経とは万物の根源法という定義なので、今世であろうと来世であろうと、すべての行動等の記録が自身の生命に記録されている。これを「業」(カルマ)という。認識できるか否かに関わらずである。たとえば過去世や現世において殺人や窃盗、ハラスメントなどを犯しながら逃げたり、罪をつぐなっていないひとなども、表向きはどうであれ、社会脳部分の呵責に常に苛まれていることになる。
*11:日蓮の真意は来世について語るときも現世も同じ因果の法則(妙法蓮華経)であることが前提となっており、これを説くための手紙であるから、適当なところで真意を補って訳した。
「過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。」
《あなたは過去世において強盛に妙法蓮華経を実践していたので、現世の今、この法則を知り思い出したのです。現世でも来世においても同様に成仏を成し遂げることは間違いないでしょう。過去、現在、未来の三世の生死にわたり、永遠に法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのです。先程言った謗法不信の者は、譬喩品のさきほどの前の文に「人がもしも「妙法蓮華経」を信じないで悪く謗ったならば、すべての世界においてその人の仏となる種子(仏性)が、断たれてしまう。」と説かれているように、成仏すべき仏性を自ら断絶するので、生死一大事の血脈はないのです。》
*12:法華経譬喩品のこの部分「若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 或復顰蹙 而懐疑惑 汝当聴説 此人罪報 若仏在世 若滅度後 如斯経典 見有読誦 書持経者 軽賎憎嫉 而懐結恨 此人罪報 汝今復聴 其人命終 入阿鼻獄 具足一劫 劫尽更生 如是展転 至無数劫 従地獄出 当堕畜生
若狗野干 其形乞痩・・・」
《もしも信じないで、この「妙法蓮華経」を、悪く謗ったならば、すなわち、すべての世界においての、仏となる種子(仏性)を、断たれてしまう。
あるいは、顔をしかめ眉をひそめて、疑惑を懐くならば、汝は、まさにこの人の罪報を、私が説くのを聴きなさい。
あるいは仏の在世、あるいは滅度の後に、この「妙法蓮華経」を、誹謗する人がいたならば、あるいはこの「妙法蓮華経」を読誦し、書持する人を見て、軽んじて賎しめ憎み嫉して、長い間の恨みを抱く者がいたならば、その人の罪報を、汝よ、いま、きちんと聴きなさい。
その人は、 臨終の後、阿鼻地獄(無間地獄)に入ることとなる。
それから、ある、非常に長い年数がたって、その期間が終わっても、また阿鼻地獄に生まれる。このように、阿鼻地獄のなかで廻り廻って、無限の年数に至ることになる。
それが終わって、地獄より出たら、次は畜生(動物)に、堕ちることになる。畜生道のなかの、犬や野干として生まれたならば、見た目は、色が禿げて、痩せている。・・・》
は、法華経を誹謗した人の因果を述べている。まずこの下なく悲惨・無惨な無間地獄で無限の期間を過ごし、次に動物(畜生界)として、また悲惨な無限の期間を過ごし、ようやく人間として生まれてきても、肉体や精神のさまざまな障害や病に苛まれた一生を送り、長きにわたって法華経を聞く機会がない・・・などと述べられている。おもに罰論などとして引用・利用されてきた。
これらは現在においては、文字通りではなく、すべて比喩や一例として解釈するべきで、そういう因果応報を法則として示し、現世における行動を考える指針としていると解釈するべきである。しかも、死んでいる期間が一瞬の感覚しかないことをふまえれば、これらの内容はすべて生きている間でのことになる。現在の不平等・不公平な世界、世界中の様々な境遇にいる人々のことを考えると、受け入れがたいことではあるが、ここでしっかりと科学的に因果の法則を把握し説明できていると考えることができる。
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し、」
《私たちにあてはめて総合すると、日蓮の弟子・檀那等が、いちいち「自分や他人」・「あれや、これ」というように分け隔てするのではなく、水と魚の関係と同様の、たがいにとって不可欠であるとの認識をもって、身体は異なっても目指す心は同じくひたすら成仏のみを目的として(*13)、南無妙法蓮華経という法を唱え実践していくことを生死一大事の血脈というのです(*14)。しかも今、日蓮が弘めている「法」の肝要はこれなのです。
もし、あなたがた弟子や檀那等がこの目的・意義を肝に銘じて行なっていくならば、広宣流布の大願も成就するでしょう。反対に、日蓮の弟子の中に、ひそかに腹の中でこれと違う目的を抱いている者(*15)がいるとすれば、その人は例えていえば、城の持主が自ら自分の城を取り壊すようなものです。》
*13:異体同心とは、身体は異なっても心を同じくするということである。この文中での心とはひたすら成仏を目的とする心であるのは自明であるから、これを補って意訳した。
*14:南無妙法蓮華経と唱えることは、文意では、法の名を唱えるだけでなく、不惜身命で教学も含めて自行化他にわたる実践を意味することは言うまでもないから、これを補って意訳した。
*15:異体異心の者とは、文意からは、表面では仲間のように装っているが、心の中は、先述した日蓮の目的とは異なって、純粋に成仏のみを目的としていない者のことである。たとえば、目先の現世利益や毀誉褒貶に固執したり、組織を己のために利用したり、恨みつらみによる報復などを目論んでいる者を例として挙げることができる。
「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・ 還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、 金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。」(御書P1337-1338)
《日蓮は日本国の一切衆生に妙法蓮華経を信じさせ、最高の幸福である成仏を達成する方法の血脈を継がせようとしているのに、当局は逆に日蓮を種々の難にあわせて迫害し、揚げ句のはてにはこの佐渡にまで島流しにしました。
こうした限界状況になっても、あなたは以前から日蓮に随順され、また法華経のゆえに難にあわれていて(*16)、あなたの心をお察しいたし、大いに心が痛む思いでございます。
金は大火にも焼けず、大水にも流されず、また朽ちることもありません。鉄は水にも錆びて、火にさらされると曲がり、ともに耐えることはできません。
賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものです。あなたは法華経の金を持つゆえに、まさに真金です。
法華経の薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経の中で最も優れた経である」とあり、また「法華経を受持し・・・他人の為に説く、この福徳は無上である。これは火も焼くことできず、水も漂わすことができない」と説かれています。
過去の宿縁によって今世でも日蓮の弟子となられたのでしょう。あなたの業の象徴としての釈迦仏や多宝仏も御存知と思われます。法華経化城喩品の「諸々の仏の世に転生するごとに、常に師とともに転生する」の経文は、けっしてウソではないでしょう。》
*16:「貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事」・・・この、日蓮の計らずしもポロリと出さざるを得なかった一文で、このお手紙を与えられた最蓮房の素性が明らかとなる。このお手紙は佐渡の厳寒の塚原で年明けの2月に書かれており、このときに「日蓮に随順し」て佐渡に来て、かつ「難に値い給う」た人は、いったいだれか? その人は、立正安国論を書く前から日蓮の弟子で常に日蓮に給仕していた「日興」以外にはいない。それでなくても日蓮自身は地元の念仏者たちから日常的に命を狙われ、地頭警察の警護監禁も厳しい状況であったので、おいそれとは接触できない状況に置かれていたことは想像に難くない。つまり、日興は、日蓮の弟子であることを隠し、他宗の坊主として最蓮房と名のり、厳重な警備を突破して、日蓮と協議し、密かに食料や筆・墨・硯などを鎌倉から調達したりして、日蓮を支えていたのである。だからこそ、日蓮は、この生死一大事血脈抄の他、まもなく草木成仏口決という重要な法門の書を彼に書き残して与えたのである。このころ開目抄が書けたのも彼の支援のおかげである。そもそもこの流罪で信者のほとんどが退転(法華経を捨てる)する中で、どこの馬の骨とも分からない、会って間もない人に、いくら信頼できたとはいえ、このような、日蓮が生涯かけて見いだした重大な法門を簡単に伝えるなんてありえない。その後、彼の素性がバレそうになったのか、日蓮は状況が変わった一谷で書いた最蓮房御返事で「去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上・・・」などと、偽装工作を行なっている。これが、後に最蓮房の素性についての歴史学的争いが生じた原因になっている。日蓮の佐渡流罪赦免と同時に最蓮房も佐渡から消えたことも十分な状況証拠であるといえる。むろん、この言葉以上に重い証拠を持つ言葉はないだろう。
つまり、この生死一大事血脈抄は師匠の日蓮が弟子の日興に与えた重書であり、事実、そのように踏まえると、それが前提となって書かれていること及び文章全体の意義がよりはっきりするのである。ここに麗しく素晴らしい師弟不二の本来の精神があらわれていると考えられる。このおかげで我々は真の日蓮仏法を学べるのである。ちなみに私の検索した範囲では、日興門流はこのことをほとんど主張していない。
*17:「在在諸仏土常与師倶生」は「在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」と読み下す。大通智勝仏の十六人の王子が師匠として化導した弟子は、時空を超えたあらゆる世界に転生するとき、常にそれぞれの師匠とともに出生することをいう。師と弟子の契りの深さ、師弟不二を意味する譬えであるが、これも大通智勝仏以下をたとえ話とする方便であり、日蓮の真意は、最蓮房をあくまで俗世における師弟不二の譬えとして述べ讃えたものであることに注意が必要である。
「殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴貴、此の文に委悉なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり、」(御書P1338)
《ことに、生死一大事血脈についてのお尋ねは、先代未聞のことであり、まことに尊いことです。以上詳しく説明したとおりですので、よく肝に銘じてください。そして、唯一成仏をひたすら目指して南無妙法蓮華経と、つまり釈迦多宝から上行菩薩へ受け継がれた最第一の血脈である南無妙法蓮華経と唱え、修行してください。
火の働きは燃焼や照明、水の働きは垢や穢の洗浄、風の働きは塵や埃の吹き払いや、人や動植物の呼吸で命を保つこと、大地の働きは植物を養うこと、空の働きは万物を潤すことです。妙法蓮華経の法則もまた、この地(固体)、水(液体)、火(種々のエネルギー)、風(気体)、空(冥伏した様々な空間や場)の五大(大きく五つに分類した要素)の働きをすべて含んで説明しているのです。真実の教え「妙法蓮華経」によって教化された末法出現の地涌の菩薩が弘める恵み(*18)がこれらなのです。
さて、上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘めるため出現されることが法華経に書かれていますが、はたして、どうなっているのでしょうか?(*19)
今、上行菩薩がこの世界のどこかにいるのでしょうか、それともまだいないのでしょうか。どちらにしても、日蓮はその先駆けとして、上行菩薩が受け継いだ教えをほぼ(*19)弘めているのです。》
*18:「本化地涌」とは、本仏に教化された地涌の菩薩であり、本仏とは久遠実成の釈尊のことであるが、後に日蓮がこれも方便と明かしたので、事実上は「妙法蓮華経」を学んだ凡夫となる。その利益とは、自然法則も含有する「妙法蓮華経」がもたらす様々な恵みのことである。この文脈では方便を述べている段階であることを汲んで、翻訳した。
*19:この表現を、謙遜表現として主張する学者もいることを本稿P4で既述したが、この時点の表現は、日蓮は自身が上行菩薩かもしれない?程度の思いを素直に述べている表現であり、それ以上でも以下でもない。日蓮は、この時点でも未だ自身の悟りの法について未完成であると「謙虚に」自覚していたと思われ、この思いをそのまま取り入れて訳した。だからこの時点では未だ上行菩薩の確信までには至っていない。その自覚・確信は、身延に入山してから晩年になってはじめて得られたものであり、三大秘法抄にて初めて明かされている。
*19:「粗弘め候」の「粗」に注意すべきである。日蓮はこの時点では、仏界およびその象徴である久遠実成の釈尊や様々な諸仏も、凡夫が修行のために設定した方便であることをいまだはっきりとは述べてはいない。「粗」とは、日蓮自身もまだ完全には成仏の実態を掴みきれていない状態を示唆している、正直で謙遜した表現であろう。実のところは、これが日蓮仏法の科学的永遠性を担保する最も重要な点であろう。日蓮の悟りは、この時点でも未だ未完成なものであり、生涯にわたって更新・昇華されていくのである。この姿、この生涯も、科学的な進歩を遂げ続ける模範となるものであろう。
「相構え相構えて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日蓮花押
最蓮房上人御返事」
《心して心して、強盛に信心をふるい起こして、臨終という一瞬一瞬の一念の境涯において常に成仏を目指して正法を念じ(*20)、南無妙法蓮華経と祈念してください。生死一大事の血脈をこのことのほかには一切求めてはなりません(*21)。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことが前提になっているのです(*21)。ですから、信心の血脈がなければ法華経を持っても無益です。詳しくはまた申し上げましょう。恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日蓮 花押
最蓮房上人御返事
*20:「南無妙法蓮華経・臨終正念」について、この文意では、臨終とは、死の瞬間の意味に加えて、十界互具・一念三千の論理による一瞬一瞬の生命境涯も含まれている。つまり死ぬ瞬間までの一念すべてを指している。そして正念とは、正しい念慮すなわち南無妙法蓮華経に帰命していることを指す。あわせれば、死ぬ瞬間の一瞬一瞬の一念を、成仏を目指して南無妙法蓮華経に帰命しなさいという意味である。
*21:この表現によって、真の生死一大事の血脈とは、冒頭に述べたことも総合すると、すなわち、死ぬ瞬間まで不惜身命でひたすら成仏を目的として一生の一瞬一瞬の一念をすべて南無妙法蓮華経に帰命して自行化他の実践をしていくこととなる。
*21:「煩悩即菩提」とは、凡夫の抱いている様々な煩悩がすべて悟りになるという方程式である。「生死即涅槃」での生死とは、死ぬことや生きる事だけでなく、十界互具における一瞬一瞬の一念の変化の生成消滅も含む。つまり「生死即涅槃」も「煩悩即菩提」と同じ概念であり、凡夫の抱いている様々な境涯の生成消滅もすべて涅槃すなわち悟りの境涯であるという方程式である。
当然に、この法則が成り立つ前提がある。その前提は、その前に日蓮が述べている、ひたすら成仏を目的として一生の一瞬一瞬の一念をすべて南無妙法蓮華経に帰命して自行化他の実践をしていくこととなる。
ちなみに、日蓮の後世が陥っている様々な現世利益に囚われることは、「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」に違背することになって、日蓮の本意に反することになる。したがって「法華経を持つとも無益なり」となるのである。
現代語訳と注釈を参考にすると、あえて追加の説明を要しないように配慮した。
さて、日蓮の科学的姿勢を模範とすれば、そして日蓮が、タイムマシンに乗って現在のAI時代にやって来たとしたら、さらなる統一理論を求めて探求し、公上対決へと進んで行くに違いない。
今世紀に入って、世界中の物理学者、神経学者、哲学者たちが、それぞれの立場で万物の統一理論を発表している。なぜか、宗教学者や宗教関係者においては、その遅れをとっているように思われる。アズローが提唱するアカシックフィールドや進化の総合理論は、因果応報や転生の時の情報伝達の可能性、また瞑想時の閃きを説明する仮説として、おおいに期待できるものであろう。
そういった、万物の統一理論を論議する世界的な学会があってもいいと思われる。そのうち、人類の叡智が集って論議する場ができ、成仏と言う人間としての完成に迫る理論が活発に討議されるようになることを期待している。
そして、そういった場に、日蓮仏法の後世を名のる者や創価学会の会員たちも、勇んで参加するべきではないだろうか。日蓮が、日本第一の智者を目指し、公上対決を望んだように。