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P93, 真の日蓮仏法においての広宣流布のあり方

■ 日蓮の残した血脈

 前ページにて先述した生死一大事血脈抄において、こうある。
《私たちにあてはめて総合すると、日蓮の弟子・檀那等が、いちいち「自分や他人」・「あれや、これ」というように分け隔てするのではなく、水と魚の関係と同様の、たがいにとって不可欠であるとの認識をもって、身体は異なっても目指す心は同じくひたすら成仏のみを目的として南無妙法蓮華経という法を唱え実践していくことを生死一大事の血脈というのです。しかも今、日蓮が弘めている「法」の肝要はこれなのです。
 もし、あなたがた弟子や檀那等がこの目的・意義を肝に銘じて行なっていくならば、広宣流布の大願も成就するでしょう。反対に、日蓮の弟子の中に、ひそかに腹の中でこれと違う目的の者がいるとすれば、その人は例えていえば、城の持主が自ら自分の城を取り壊すようなものです。(*2)》
 今日のような教団の分派や対立は、「異体異心の者」の姿であり、明らかに日蓮の教えに背く状態、つまり師敵対である。立場や主張の分け隔てなく、互いを認め尊重し、団結しながら、教えを広めることが、日蓮の、師の立場からの教唆であったはずである。
なのに、日蓮を本仏としたり、無常の産物、つまり爆弾や火事で消滅するマンダラの板(板マンダラ)や掛け軸(形木マンダラ)を本尊として、日蓮の時代からは庶民には決して実現できなかったであろう高価な建物や仏壇をそなえたり、仏法が否定している梵我一如を言い換えたような解釈(アニミズム)を展開したり、創価三代会長、とりわけ生身の人間・池田大作を生きながら永遠関係としたり、…。
 本尊は、物体ではない。
 曼荼羅には日蓮の悟りが文字を使用して描かれているが、その悟りの内容=法則としての南無妙法蓮華経こそが、本尊なのである。以上の日蓮の教えをこれらの教団はきちんと踏まえ伝えているのだろうか? 日蓮が判断根拠とした依法不依人に基づいて、正しい法を師匠、そして、正しい法を本尊としている日蓮の教えを正確に伝えているのだろうか?
 日蓮は、おそらく、今日の教団の争いあう状態を想定していたからこそ、「依法・不依人」を説き、上記の内容の「生死一大事血脈抄」を残したのだろう。「日蓮が弘通する処の所詮」は「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」なのである。

 早急に本来の日蓮の教えに立ち返ることを切に願うものである。
 後述するが、その後の歴史的変遷の中での日蓮本仏論の台頭、そしてそれと同様な法主本仏論、池田本仏論、また創価三代師弟永遠化が出現し、教団の間や個人の内面でも争いや葛藤が今も絶えない状態である。
 その主張内容や状態を、依法・不依人に基づいて検討すれば、師弟不二、純粋な血脈の流れは存在するだろうか。

 ちなみに、創価学会副会長・川田洋一医学博士は本尊について、こう述べている。
「それは宇宙大に広がった大生命を、人間の意識の水準で顕在化した宇宙の実体であるといえよう。
 日蓮大聖人があらわされた本尊こそ、いわば、未曾有の対境であり、人々がこの本尊に、自己の全存在を投げかけるとき、その生命の波動が宇宙生命そのものと一体化し、融合し、本尊内在の慈悲と英知にあふれた大生命が個人の生命の奥底からわきあがってくるのである。
 自己の全存在を、本尊にかけるとは、この未曾有の対境を信じ、そこに自己の本源的欲望を投入することを意味する。つまり、自己の生命の深淵からつきあげてくる。生命内奥の〝声〟でもある本源的欲望の、宇宙生命の当体としての本尊への主体的な〝投射〟である。…人間の生と死を、その本源からささえているものこそ、宇宙生命自体に他ならないからである(*3)」
ここで、彼のいう「本尊」とは大石寺の板マンダラであり、「自分以外」の「物体」であるので、彼の主張はアニミズムである。すなわち「宇宙の実体」「宇宙生命の当体としての本尊」「宇宙生命自体」…と、「宇宙」が、自分以外の揺るぎない絶対的な存在として依りかかるアニミズムである。これは池田大作の著作にもよく出てくる、創価学会での本尊観である。
 ところが日蓮は、本尊について、
「全く日蓮が自作にあらず(*4)」と、それが元々の法則であることを示し、
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(*5)」
「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず 麁(そ)法なり(*6)」
と述べているので、「自分以外」である「宇宙」に本尊があるという人は、同抄にて、
「かくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり(*6)」《このような人こそ、せっかく自らの生命の中に帰着する法則であるところの仏法を学びながら、反対に自らの生命の外に根源を帰着する外道の見解に陥っていると、天台智顗よって辱しく指摘されている。》
ということになる。
 その典型例が、このアニミズムである。
 こういった、本尊を「自己の生命以外の実体」に祭り上げる表現は、いかに正しいように見えても、所詮、仏法ではない外道であると、日蓮は断じている。
 これは、創価学会が血脈と称して受け継いだ、日寛教学の誤りでることは後述する。

 諸法無我・諸行無常――これは、仏法の初歩的な基本論理である。「大我」や「小我」、「真我」等々、「我」のつく言葉などがよく見られるが、あくまで「無我」つまり不変不滅としての「我」は「無い」と説くのが仏法である。
 日蓮は、これを、「諸法実相」と断ずる。
 諸法実相とは、諸法即実相、うつりゆく姿そのものが実の姿、つまり「無我」を包括した論理である。
「爾前の経の心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、
法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、
爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、
法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり(*7)」
《法華経以前の経の説く真意は「心から万法は生ずる。譬えば心は大地のようであり、草木は万法のようである」という。
法華経はそうではない。心はすなわち大地であり、大地はすなわち草木である。
爾前の経々が説く意味は「心が澄むのは月のごとく、心が清いのは花のごとし」と。
法華経はそうではない。「月がそのまま心であり、花がそのまま心である」という法門なのである。》
 この御書は、諸法実相の例を明確に示している。
 法華経以前の経は「心」を媒介や根拠として万物を説明しているが、法華経は「心」も含めた現象そのものが実相であると説いているのである。
 つまり、論理のなかに、「実体」とか「モノ」とか、絶対者などが入り込むと、諸法実相ではない。
「人」というのも、変わりゆくもの(実体のひとつ)で、不安定で不確かなものである。
 だから仏法では、真理を判断するよりどころは「依法不依人」と説かれていて、日蓮も、これを採用している。

 仏法は、科学をも包含した、万物一切根源の法に更新可能であり、一念三千の法理が、周りの環境をリソース(資源)としながら無常にうつりゆく現実の一瞬を説いているといえる。
 その中で、生命にとって究極の幸福状態である「成仏」とは、「観心」という修行すなわち「一心に仏(己心)を見たてまつろうと欲して、自ら身命を惜しまず」「南無妙法蓮華経」を唱題し菩薩の行動をする修行、それによって得た結果が、さらなる完成へ向かってバージョンアップされていく姿である。
「観心」という修行によって、一切根源法=南無妙法蓮華経という法則そのものの織りなす実現が瞬間瞬間、リソースに対して果報として現れていく。
自身の生命とは、自身という独自の法則=南無妙法蓮華経という法則に含まれる法則であって、これが永遠に三世にわたってその時その場所でのリソースに対して現われていく、まさに諸行無常・諸法無我、諸法実相の姿、一念三千の法則の現れである。
また、真理を表現すべき言語自体も、もっとも、不完全だから、完全に正確には表現できない矛盾を常に携えていく。
 それをあえて、一切根源の法=南無妙法蓮華経と定義し、「観心」という修行をして行くことこそが、一切衆生にとって根源的な自己救済、自力救済となる。
 日蓮は、これを、即身成仏と言ったのである。
他にすがる、祭り上げた絶対者から特別な恵みを得ることを祈る、これに準ずる他力本願の救済は、物理的現実にはあり得ず、すべてウソ(の方便)といえる。
 ただし、日蓮の教えの中でさえ、同様の部分と思われる部分が混在するのも事実である。
 もとより、日蓮自身も、「法門をもて邪正をただすべし 利根と通力とにはよるべからず(*8)」と、超能力などに依り頼ってはならないと戒めているのであるが、当時は自然災害・国内の乱れや外国侵略など、人知を超えた状況に対して、呪術的祈祷以外に、その根本的対策法はなかったのだから、日蓮が、この状況において、方便として当時の思想を基盤として利用したのもやむを得ない。
 事実、日蓮自らも時代背景に応じて方便を使うと述べている。例えば、「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり(*9)」、続いて「『諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す』と申すこれなり」と述べ、他の経典や解釈を引用することがあっても、その真髄は常に法華経にあるとした。
 後に進歩した現代を基準として、過去の未熟な科学的部分を断罪するのは適切ではない。例えば日進月歩の医学においても、理論や治療法は更新され続け、過去の時代に正しいとされた理論や治療法が現在は間違いであるとされていることは数多くある。医療従事者は絶えず勉強し、過去の見識や治療法などのアップデートを続けなければならない。時代遅れの治療は当然ながら医療ミスを引き起こすが、裁判沙汰になったときは、その時代や地域などの当時の医療水準に基づいて判決が下されるのである。更新が必要なことは医療分野に限らず、根本的な人生の幸不幸に関わる宗教においても当然ながら同様ではないだろうか。
 南無妙法蓮華経の唱題という修行法は、現在、その行為自体についても、なんらかの生理学的・薬理学的、そして脳科学的効果の解明が研究されつつある。
 そしてそれを基盤とした自己変革の結果は、瞬時ではないか時間をかけて、確実に社会的変革へ影響していく。それは春にまいた種が芽吹いて夏に成長し、秋に結実するのと同様なのである。
しかし、自分自身以外に直接の働きかけを持たずに超自然的な効果を期待すること自体は、古今東西一貫して非科学的な過ちであり、こうした呪術性は現在では確実に排除されなければならない。
 日蓮も言う「通力とにはよるべからず」である。
こういった非科学性・呪術性は、日蓮門下や創価学会に限らず、多くの宗教団体にみられることであり、IT・AI時代の今後は、これらを取り除くための真剣な取り組みが要請されているのではないだろうか。
結局、全てにおいて、自分の人生は自力で切り開いていくしかないのである。
むろん、他人や他の環境、全宇宙を含むリソースの大きさを考慮すれば、自分の肉体や精神の及ぶ範囲は、限りなくゼロに近い微小なものでしかない。
が、ゼロではなく、それも含めて、無限大のリソースを操る自己独自の法則に基づいて、すべてが自身で自動再生している姿なのである。
 だから、自己のまわり、つまり他人や、環境のためへの尽力が大きいほど、本来の完成に近づく自己再生なのである。
 自己の不遇を嘆いたり、他人や環境への責任転嫁・誹謗中傷は、自己の生命の悲惨さを曝け出すことにほかならず、何の根本的な解決にはならない。
 仏法では、この状態を無明としている。
 今世が、たとえどんなに思いがかなわなくて無念に終わっても、三世永遠の因果を前提とし、これを認識して実行している境涯であるならば、決して嘆くに当たらない。
 また、それが一瞬の感覚時間で来世となり、業として新たな肉体を得て受け継ぐので、けっして焦ることもないのである。
つまり、日蓮の教えは、現代科学・哲学をすべて包含する、究極の自己救済、自己確立の法則となっている。
 この境涯に立てば、現世利益の代表である名聞名利・栄誉栄光を求める必要はなく、むしろそれは時間を浪費する「害毒」「障害」となる。
 原始仏教から、これを知るのを、悟りと説いていた。
 凡夫と仏の差異は、これを知るか知らないか、たったこれだけのことだったのである。

 「情けは人のためならず」(諺)
 「人のために火をともせば・我がまへ(前)あきらかなるがごとし(*10)」
 とあるように、他人のために、環境のために貢献することが、究極の自己の利益につながっていく。
 その菩薩の行動をする姿は、「限りなく完成へと努力する未完成な状態」の連続となり、未来永劫に善業を積んでいく。
 日蓮は、事実、自身の生涯において、僧の地位を得た後も、決して名利を求めず清貧を貫き、自己の完成のみならず他人・社会の変革を目指して、へつらうことなく戦ったのだった。
 そして、未発達な科学、弱肉強食・暴力が正義であった時代、厳しい自然選択の環境下において、現代日本社会から見れば短命であったとはいえ、上記のような、最高の境涯へ達していたのである。生涯にかけて権力になびかず清貧を貫き、「法」に頚を捧げた日蓮の象徴的な姿勢・態度は、全ての仏法を志す者の模範・鏡とすべきであることはいうまでもない。
 しかし、日蓮の後世の中には現在、毎年百億円単位のカネを集めて豪奢な建築物を各地に建て、広大な墓苑を作り、それらに戸田や池田の名前をつけて喧伝し、世界中から栄誉称号を集めて自画自賛し、多くの脱会者・造反者・批判者を攻撃・排除しながら、組織の拡大に奔走、政治権力に食い込むなかで、かつての先師の正義の主張すらも曲げてしまっている教団がある。
 この姿が、鎌倉時代の日蓮およびその門下の姿勢や態度とは正反対に映るのは、私のたった二つの目だけであろうか。

【注】
*1 開目抄、御書P230
*2 生死一大事血脈抄 御書P1337
*3 川田洋一著「新版 欲望と生命」1988/5/20 第三文明社、P196
*4 日女御前御返事(本尊相貌抄) 御書P1243
*5 日女御前御返事(本尊相貌抄) 御書P1244
*6 一生成仏抄、御書P383
*7 白米一俵御書、御書P1597
*8 唱法華題目抄 御書P16
*9 十章抄 御書P1273
*10 食物三徳御書、御書P1598


■日蓮仏法の血脈と、そのアップデートの試み

 仏法における「血脈」については、日蓮の遺文に明確に述べられた部分がある。すなわち日蓮は生死一大事血脈抄(御書P1336~1338)の冒頭から、こう述べている。

《生命の生死(生成消滅)における唯一無二で究極の血脈というのは、いわゆる「妙法蓮華経」という万物の統一法則です。
 その理由は、この妙法蓮華経という法則は、その中に説かれている通り、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩に末法での布教を命じたもので、元々無限の過去から定まっている、一瞬ですら例外が無かった血脈である生命法則だからです。》

 これに続いた定義として、
《(法華経の虚空会の儀式において、宝塔の中で並坐する)法華経で登場する釈迦仏や多宝仏も永遠に生死(生成消滅)をくり返す生命現象のあらわれの例なのです。このように、十界の生命自体の法則が妙法蓮華経なのですから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊が示す悟った法則と、実践すれば全てのものがみんな成仏するという修行法(*6)である法華経すなわち妙法蓮華経と、私たち九界の衆生の基盤である法則、この三つは全く同じであると理解し受け入れながら、ひたすら成仏を目指して妙法蓮華経と唱えることを、成仏するための「生死一大事の血脈」(生死(生成消滅)における唯一無二で究極の血脈)というのです。これ以外にはありません。このことこそが日蓮の弟子檀那等の肝要です。妙法蓮華経を受持し実行するとは、このことをいうのです。》

 平たくいえば、永遠の生命に関する一大事である「血脈」とは、「妙法蓮華経」と定義する。なぜなら法華経において、この血脈=妙法蓮華経が、永遠に貫かれている法則であり、宝塔の中で釈迦・多宝の二仏から上行菩薩をはじめ無数の地涌の菩薩が受け継いだのがこの法則である。
 釈迦・多宝の二仏も「妙法蓮華経」と定義する生死の二法則を意味している。であるから、一切の永遠にわたる生命法則を「妙法蓮華経」と定義して、これを「血脈」としたのであるから、仏界の象徴として説かれた久遠実成の釈尊も、万人を成仏に導く妙法蓮華経という法則も、その法則にしたがって修行する我ら九界の衆生が法則によって織りなす姿の三つは、まったく同じものである。このように悟って妙法蓮華経と唱えたてまつることを生死一大事の血脈というのである。
 そして、日蓮は、これこそが日蓮の弟子檀那などの肝要なのであり、結局のところ法華経を持つとは、これこそをいうのであると喝破する。
 その詳細な説明がなされながら、
「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり」
 とくぎを打っている。と
 だから、これに続く以下の言葉も、後世における指導も客観的でもっともなことになる。すなわち、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、 然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」
《私たちにあてはめて総合すると、日蓮の弟子・檀那等が、いちいち「自分や他人」・「あれや、これ」というように分け隔てするのではなく、水と魚の関係と同様の、たがいにとって不可欠であるとの認識をもって、身体は異なっても目指す心は同じくひたすら成仏のみを目的として、南無妙法蓮華経という法を唱え実践していくことを生死一大事の血脈というのです。しかも今、日蓮が弘めている「法」の肝要はこれなのです。》
 ここに、日蓮の客観的な分析と説明があらわれている。
 万人を成仏に導く法則に、その万人を個別に区別・差別するのは禁忌である。もしそれを許してしまったら、客観性が担保できなくなり、真理・法則ではなくなり、手前勝手でよこしまな主張になり下がってしまう。
 水魚の思いとは、魚の生存にとって水は必須であり、水は魚の肉体の中にも入り込んでいるから水にとっても魚はその栖となっているという自然法則の譬えである。
 異体同心とは、体(肉体や精神や、国や組織や所属団体や家族などの社会的条件)は個別に異なっていても、万人を救済し広宣流布を目指す心は同じであるということである。
 すなわち、法則を弘める血脈とは、一念三千の法則の中にある三世間(五蘊世間・衆生世間・国土世間)を個別には一切差別してはいけないことが含まれているのである。
 所属団体や国が違っても、老若男女、心を同じくして繋がり合いながら、南無妙法蓮華経と唱え広めていってくださいとのことなのである。

 創価学会が、この部分を切り文にして機関誌に載せることもしばしばあるが、残念ながら水魚の思い・異体同心などは、組織内の会員の間でのみの意味に限定し、他教団のそれらを排斥している。決して、南無妙法蓮華経と唱える他宗(とくに破門された日蓮正宗)を含んでいない。すなわち、日蓮のこの意図に背き、日蓮仏法を御書の通り広宣流布している団体は「創価学会しか無い」と言い張っているのである。これひとえに御書の組織利用である。何度も繰り返すが、そのような態度は、この御書のなかで言及されている「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」に違背しているのは明らかである。それだから、同じ遺文の中で「法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん」と説かれているところの「法華不信の者」に該当することになるのではないだろうか。
 したがって、創価学会は教義として、この部分は変更・更新すべきである。
 他に、日蓮の遺文にも「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし」(四条金吾殿御返事(八風抄)、御書P1151、コメント1)とあるとおり、日蓮が指摘している八風のなかの利(うるおい)・誉れ・称えに犯されることなく、つまりは、けっして、自己の組織の利害得失に捉われず、御書根本と謳っているのならなおさら御書にあるとおり、血脈に関しても日蓮の真意を正直に受け入れ、真摯にそれを実践していくべきである。広宣流布を目指す人や諸団体ともともに「自他彼此の区別なく」「水魚の思い・異体同心」にして、血脈を受け継いでいくべきであろう。それなのに、道理に反して南無妙法蓮華経と唱える会員(造反者も含む)や他の団体の人(民主主義時代では有権者)を恨んだりしては、組織としての諸天の加護もないことが遺文にも述べられているとおりである。


 話を戻して、さらに結びの前の部分では、当時の学問レベルで大自然の法則の一部(地水火風空)に言及し、それと同様に血脈の受け継がれていく姿が、こう述べられている。
《以上詳しく説明したとおりですので、よく肝に銘じてください。そして、唯一成仏をひたすら目指して南無妙法蓮華経と、つまり釈迦多宝から上行菩薩へ受け継がれた最第一の血脈である南無妙法蓮華経と唱え、修行してください。
 火の働きは燃焼や照明、水の働きは垢や穢の洗浄、風の働きは塵や埃の吹き払いや、人や動植物の呼吸で命を保つこと、大地の働きは植物を養うこと、空の働きは万物を潤すことです。妙法蓮華経の法則もまた、この地(固体)、水(液体)、火(種々のエネルギー)、風(気体)、空(冥伏した様々な空間や場)の五大(大きく五つに分類した要素)の働きをすべて含んで説明しているのです。真実の教え「妙法蓮華経」によって教化された末法出現の地涌の菩薩が弘める恵みがこれらなのです。
 さて、上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘めるため出現されることが法華経に書かれていますが、はたして、どうなっているのでしょうか?
 今、上行菩薩がこの世界のどこかにいるのでしょうか、それともまだいないのでしょうか。どちらにしても、日蓮はその先駆けとして、上行菩薩が受け継いだ教えをほぼ弘めているのです。》

 さらに結びでは、こう述べている。
「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日               桑門 日蓮花押
最蓮房上人御返事」
《心して心して、強盛に信心をふるい起こして、臨終という一瞬一瞬の一念の境涯において常に成仏を目指して正法を念じ、南無妙法蓮華経と祈念してください。生死一大事の血脈をこのことのほかには一切求めてはなりません。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことが前提になっているのです。ですから、信心の血脈がなければ法華経を持っても無益です。詳しくはまた申し上げましょう。恐恐謹言。》

 信心の血脈がなければ法華経を持っても無益である旨、仏法者としては、よくよく肝に銘じなければならないであろう。

 以上は、この日蓮の遺文を用いて、その見地から宇宙一切根源法の血脈について述べた。 ここで用いられている比喩の解釈は、現代の科学の発展状況に合わせて更新していくべきであろう。
 そして、その血脈=宇宙一切根源法の定義――南無妙法蓮華経――についても、必ずしも日蓮の遺文に従わなくてもいいのではないだろうか。たとえばサンスクリット語の音訳であるサ・ダルマ・プンダリーカ・スーツラを略して「サダプンスーツラ」と定義してもかまわないのではないか。そして、論理的にはそう定義した別の組織が出現して、仏法や日蓮の遺文を参考にして更新しながら広宣流布しても、一向にさしつかえないのではないだろか。


■真の日蓮仏法においての広宣流布のあり方の一例

 創価学会に限ったことではないが、組織化すると、創価学会のように、どうしても組織拡大や維持、組織利益や権益などへの執着が生じる。これは明瞭とした現世利益であり、日蓮仏法の本来のあり方を損ねる。この例となっているのが公明党である。国や地方の政治を監視する必要はあるが、そこに議員を送り込むと、権益権力が発生し執着が生まれる。本来は個人個人の成仏を目的とし、それを前提とした平和な社会の実現である。創価学会を組織として利用する企業も多く出てくる。これらの執着や権益は、社会全体という上から目線で個人の生き方へも大きく影響する。たとえば機関紙である聖教新聞の印刷は、古くから主に毎日新聞が請け負ってきた。現在では会員数減少による人材不足のためか、印刷も配達も地方ごとの有力新聞社や新聞販売店が請け負っている。すると、当然のことながら、顧客となっている創価学会から大いなる利益を得ているので、創価学会の都合の悪いような報道は少なくとも躊躇されるだろう。公平公正な立場からの客観的事実の報道が、有力紙でさえ危うくなりつつあるといえるのではないだろうか。これも世論操作を通じた現世利益獲得に直結することであり、こういったことも、日蓮仏法の精神に反することとなる。
 日蓮は、佐渡流罪赦免後の幕府権力による懐柔策を断固として拒否した。それは、ひとえに成仏への道をふさぐものであったからである。今の創価学会は、総体革命が実を結び、その人材が公明党や警察・検察・行政機関などを通じて国家権力機構に広く入り込んでいる。いわば、国政や世論に大きな影響力を与える権力をもっているといえる。人材一人一人は憲法に保障された基本的人権を持っているとはいえ、現世利益に容易に傾くと、国家権力やマスコミが容易に利用される危険性が内包されているのである。事実、公明党議員による汚職事件や不祥事も歴史的に繰り返されてきている。砂利船汚職や名電工事件、月刊ペン事件の裁判などでも明らかである。公明党議員と創価学会との関係は拙論文では最小限にとどめたが、言論出版妨害事件の反省後も、西欧での真の政教分離が実現されているかは甚だ疑問と言わねばならない。なぜなら、宗教活動の一環として政治活動つまり選挙の票取りがあり、それらを行なうために組織的に動いているからである。非課税となっている豪華な会館が宗教上の会合・集会として利用する際に同時に選挙活動の一部として利用されていることは、私も内部の会員であり、昭和時代には度々遭遇してきた。個人会館では、今でも遭遇する。内部会員なら周知の事実であるし、阿吽の呼吸で建前上は宗教上の会合となっているのが現状である。座談会会場に議員候補があいさつや政治活動報告をしにくることは恒例のことで、選挙区を超えて支援を宣伝することも常態化している。創価学会が、純粋に日蓮仏法の布教のみを行なっている宗教組織なら一応法的な問題は無いといえるが、現状ではそうではなく、多くの国民が抱いている本音の現実が数の力によって覆い隠されているのではないだろうか。この現状ひとつ取ってしても、真の日蓮仏法に弓を引いている姿である。


 宗教問題Vol45の総力特集「さらば池田大作」において、溝口敦は、こう結んでいた。
「創価学会を本当に立て直したいのであれば、池田大作氏の時代にあったような組織のおかしさを、見直すところから始めるべきだと思います。ようするに、外から見ていて実態がよくわからないようなあり方を正すということです。情報公開をきちんとして、不利な情報もちゃんと外部に出して、世間から信用してもらえるような組織改革を、進めるべきなのではないでしょうか。もっとも、創価学会がそういうことのできる団体なのか否かは、わかりませんが。」
また、創価学会が最近出版した教学要綱をみれば、日蓮本仏論は変わらず、本尊についてもアニミズムの域を出ていない。すなわち自らの教義(ドグマ)に対する見直しや更新は今のところ期待は薄い。
大石寺と決別し、教学要綱を新たに出版したとはいえ、ドグマに対する科学的裏付けや論述はほとんど見られない。仕事自体が科学的エビデンスをもとにする職業に就いている会員も多いはずなのにである。

 一般人には創価学会は正直なところ何をやっているか分からない組織のように思われている。お寺や神社のように一般人が自由に(又は拝観料を払って)利用できるところではなく、警備も厳重で、しっかりと会員と部外者を立て分けた対応がなされている。会員でも、入場券や整理券などを使いながら、会員の役職や立場などに応じて参加できる集会をコントロールされ、会合によっては手荷物検査(録画録音機器などの持ち込みの排除)が行われてきている始末である。このような中でこんな現状では、一般社会の人々に本当の理解は到底得られない。日蓮仏法を求めてくる人を自他彼此の心なく受け入れる観点で言えば、日蓮の生死一大事血脈抄の言葉「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」にも反するのではないか。封建時代に生きた日蓮は、鎌倉に質素な草庵をかまえて拠点にしていたが、はたして今行われているような厳重な立て分けや警備を日常的にしていたのであろうか? 仏法を求めて訪れる人は皆、敵対者や理解者の区別なく歓迎していたのではなかろうか。

 日蓮仏法の原点に帰る方法の一つとして、地方の会館を公共施設として開放し、そこを日蓮仏法のアップデートの場やセミナーなどの場としたらいかがだろうか。公共の場を利用したセミナーと、それを通じての布教なら、学会員だけでなく一般人も十分参加を見込めるかもしれない。そしてなによりも、真摯で堂々とした公上対決を望んだ日蓮の精神を実現するものではないだろうか。というのも、日蓮の時代は幕府や朝廷(天皇)が主権・権力を持っていたと言えるが、今の憲法では国民主権である。個別の組織の現世利益の拡大ではなく、国民一人一人の心の中へ、真の成仏を説いた日蓮仏法を弘める事こそが、日蓮の描いた広宣流布であると筆者は受け止めている。真の日蓮仏法においては、たった一人であっても真の血脈は受け継ぐことができるし、真の師匠も南無妙法蓮華経という法則だからである。たしかに、俗世においての指導者や先輩や同志がいた方が実践はしやすいし、互いに切磋琢磨しやすい。しかしそれは目的が成仏のみに限定されてのことであり、その目的からはずれて現世利益に逸脱してしまうこともまた、凡夫の常のように思われるので、この点は厳に戒めるべきであろう。
事実、日蓮の時代には、今でいう文化セミナー方式が布教のひとつであったと考えられる。というのも、寺の住職は一応存在していたが、その寺にはいろんな宗派の人たちが混在し、学んでいたといえるからである。
 IT・AI時代となった今、実際に会うなどのリアルなつながりを持たず、グローバルなIT空間でのみのつながりをもつ人も多い。クリック一つで世界中がつながる時代、またリアルなヴァーチャル体験も可能となっている。こうした情況では、御本尊曼荼羅も、物体である必然性はなく、帰命する法則をバーチャルリアリティに映し出せば、世界中の万人がそれを拝することができるのである。また、その曼荼羅も、特定の組織の認定を要すると主張すること自体が日蓮の教えに弓を引くことになる。なぜ認定するかといえば組織存続・権益のために認定するとしか言いようがないのではないか。真の日蓮仏法を踏まえれば、曼荼羅は組織の指定に限定する必要はないことがあきらかであり、法則の内容を描写したものを各人が自由に選び、書写し、美術として独自性を発揮して自ら描きあげてもいいのである。なぜなら、帰命の対象が物体や絵画ではなく、法則であるからだ。法則である限り、誰が描いても上手下手はあるかもしれないが、全く同じ法則である。各人だけでなく、末端組織で独自の曼荼羅を作成してもよかろう。ちなみに、現在創価学会が認定しているのも、日寛の描いた曼荼羅を現代の技術を使って綺麗にパッチワークしたものである。そこに、理論的にも日蓮仏法上でも、これでないと成仏できないなどと言う不可欠性・正当性はどこにもないのである。
組織の独自性や団結もいいと思われるが、それを強調し過ぎると、組織利益のみの暴走を許してしまい、これまた成仏のみの目的からはずれてしまうことになる。それらを特定の組織に限定してしまうとやはり「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」という日蓮の定めた血脈に違背してしまうのがあきらかなのである。
また、自分の好きな姿をアバターとして自由に参加できるリアルなヴァーチャル集会も、十分に成仏のみを目的として行なうものとして可能である。それがさかんに行われる時代が、そう遠くない将来、実現するであろう。
そうなる前の、現在においてすら、組織会員やその限定者だけが集まる豪華な施設などが、本当に真の日蓮仏法を弘めるために不可欠のものといえるだろうか。

 先述もしたが、政治を監視するためのみに、独自候補を擁立する必要性はない。選挙活動自体を宗教上の目的としていることは早急に改めなければならない。組織活動は、純粋に個人一人一人の成仏を目的とすることにのみ、つまりは日蓮仏法の行学を行ない信心を深め、更にはその法則のアップデートをこぞってしていく不特定の集団とならなければ、日蓮の弟子・檀那とはいえないのである。日蓮の立正安国論の真の視点に立てば、選挙についての祈りは候補者の勝利ではなく、その選挙区を含む全国の国としての安寧であるべきである。どの候補が議員になっても、権力・権益を乱用することなく、きちんと意見を交わし監視していくことは十分に可能ではないだろうか。日蓮が行なったように。
 加えて、創価学会が組織として日蓮の血脈の原点に帰り、真の日蓮仏法を流布している清らかな集団となるためには、早急に過去の隠蔽・改竄している歴史を書き直し、懺悔滅罪して真実を公開し再出発すべきである。
この際には当然ながら、純粋に成仏を目的とするために必要であるもののみを厳選して残すべきである。そして、それを遥かに超えた所有し残存する、膨大な現世利益というバブルは、はじけることを覚悟しなければならない。そうでなければ今後も他の現世利益にまみれた集団の歴史と同じく、煩悩の苦しみの海に深く沈んだ状態「没在於苦海」から、成仏の集団へと浮かび上がることは不可能であろう。ちなみに「没在於苦海」は、会員が毎日朝晩勤行の時に読誦している法華経寿量品の自我偈の中にある一句である。会員は、この自覚がなく、日夜、この句を唱えていることは、皮肉という以外にない。
 日蓮仏法に違背した現世利益への執着を絶つためには、豪華な各地の会館は公共施設として寄付するか、地域の神社仏閣と同様に一般開放し、公共の用途に使用するのも一つの方法である。そしてその維持・管理やそれに必要な費用も、真の日蓮仏法を志すものとして、地元の地域ごとに会員も含む広く一般人の勇士による、無私の供養によって賄うべきであろう。利用者には、必要なら会員内外からも平等に入室料・利用料を供養として集めたらいいではなかろうか。神社には外に賽銭箱がある。山の上にある社にも、賽銭箱があったり、無い場合でも参拝者や登山者が、社の前に供養の金銭を供えていくではないか。
 筆者は、学童期~学生部時代では、日蓮正宗の寺院は毎日毎日朝6時から始まる勤行や夕方の勤行には、お寺の住職や修行僧が輪番で導師を勤めて荘厳に行われていたところで、信者や友人を問わず誰でも自由に参加することができたことを思い出している。その間の日中の時間帯も、御本尊のある大広間は、信者たちに開放され、自由に唱題をする人たちで輝いていた。唱題の声の途絶えることは稀であったのだ。もちろん、正月や年中行事も自由に参加することができたのである。これこそ、仏法を求める人たちが水魚の思いで集まってくる姿といえよう。

 寺院不要論を主張して破門され、僧侶を排した創価学会組織では、会館に会員を誘導したものの、日本古来の地域密着型の文化を継承してきたといえる寺院の役割を果たしているとはいえない。だから、一般からは、中がわからない組織のように見える。
全国にある墓園も、宗派を問わず平等に募集し、管理して行けばいいだろう。信濃町の広宣流布大聖堂も、供養箱を備え、必要なら入館料・利用料を徴収して、創価学会常住の御本尊を一般公開したらいかがだろうか。そして、全国から集まってくる信者・同志たちが、自由に一日中唱題ができるような態勢にしたらどうだろうか。ちなみにこの板マンダラは、今の会員たちはほとんど知らないだろうが、今は亡き池田大作が生前に、時の法主に断りなく写真を撮って作ったものであることが歴史上判明しているが、とても立派な出来ばえである。また、とても豪華な施設なので、ある場所は憩いの場として無料で一日中一般公開したらいいではないか。このようにしてこそ、一般社会に開かれた創価学会と評価されるようになるのではないかと考える。

 個人としての創価学会員がなすべきことは、個人の成仏を目指す一貫として、組織全体が真に日蓮仏法の血脈に回帰できるためのあらゆる取り組みであろう。会員一人一人も、真に日蓮仏法を自ら学んでその血脈に回帰し、ただひたすら成仏のみを目的とした実践を貫くならば、先述したように組織全体が自然と回帰していく事になるであろう。これが一念三千の論理であり因果応報であり、南無妙法蓮華経という法則である。もうすでにIT・AI時代は、かつてないスピードで発展し続けている。狭い末端組織の中だけに埋没するのではなく、一般に普及した高度な科学技術を利用して広く世界中に視野を広げ、組織の現世利益を放棄・断捨離して、真の日蓮仏法を、ひたすら成仏のみを目的として、広めていくことが求められていると考える。


 創価三代の永遠性は、これからの若者にとっての魅力には欠け、あるのは既得権益や現世利益ぐらいだろう。膨らんだ現世利益のバブルは必ずはじけて消滅する掟なので、なにか特別なイベントがない以上は、創立100周年には、実質活動者はさらに大きく減少し、遅くとも半世紀後には、現日蓮正宗並みの規模にまで落ち込んでいき、その頃には政界の地図もかわっているだろう。
 真の日蓮仏法からみれば、今後の創価学会の未来は、創価三代の虚飾や幻影を捨て、自ら真の日蓮仏法にどれくらい回帰し、信仰や支持政党の如何に関わらず地域の人たちが出入り自由な開かれた組織にできるかどうかにかかっていると考えられる。たとえば地域密着型の神社やお寺のように地域の会館を一般解放すれば、危機回復の鍵にはなるかもしれない。そうでないと、わけのわからない組織と言うレッテルがとれないまま、公式発表とは裏腹に衰弱の一途をたどることになるだろう。

 以上、真の日蓮仏法にける血脈を踏まえて、本来あるべき布教・広宣流布の姿や展望について考察した。
筆者は、本稿がその一参考となることを期待しながら、陰に陽に、会員はもちろんのこと、会員に限らず広く一般に日蓮仏法を求める人のために貢献したいという思いでいっぱいである。

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