top of page
< Back

P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

■狸祭り事件


 新田倫三著「創価学会・公明党の真相」(1065/6/10、真世界社)P28-34には、創価学会の暴力のサンプルとして〝狸祭り事件〟をとりあげている。
 以下、少々長い引用であるが、当時の事件報道や、聖教新聞、大白蓮華の部分も多いので取り上げておく。

 「日蓮正宗の総本山富士の大石寺においても、一山あげて法要が行なわれ、四千人の学会員が戸田城聖を中心に登山していた。その記念すべき日の前夜、日蓮正宗の老学僧小笠原慈聞は、会長戸田城聖以下大幹部の直接指揮のもとに、青年部四十七名による計画的な集団暴行をうけたのである。小笠原師は、その経緯を『創価学会会長戸田城聖己下団員暴行事件の顛末』と題する手記につづっている。
 それは初代会長牧口常三郎が『天照大神の神札を拝むことは正宗の精神に反する』と主張し、昭和十八年七月、ついに牧口以下戸田をふくめて二十一人の幹部が逮捕され、一年余の後に牧口は獄死するのであるが、かねて正宗僧侶のなかで、小笠原師は『仏本神迹』にたいして『神本仏迹」を主張していたので(八八頁参照)、牧口らを獄死するに至らしめた元兇であるとして、この老僧をつかまえて『徹底的に糾明するように』という戸田の旨をふくんだ学会の青年幹部らが、たまたま小笠原師の大石寺登山をかぎつけ、チャンス到来とばかりに計画を練り、予め充分に打合せして謝罪文の要求――拒否――狸祭りと、おどろくべき暴力的懲罰行為を行なったのである。

 昭和二十七年五月十日の『聖教新聞』には、彼らとしての立場からの〝狸祭り〟事件を一頁余にわたって次のようにくわしく報道している。
 この日(戸田会長がその年の三月二日に『今度の記念祭には小笠原が登山するかも知れないから、部隊員達は、もし来たら徹底的に神本仏迹論を糾明するように』と指示した日をさす)以降青年部長以下顔を合わせる度に、この問題を話題にのせている中、何時となく徹底的にやろうでは無いか(ママ)と意見が強硬的になって来た。
 相談の結果、『彼らが詫証文をとって、……今後一切の動きを封ずべきだ』と意見の一致を見、辻、牛田両部長(辻武寿青年部長、現在は学会副理事長で公明党の委員長。牛田寛は当時は男子部長、昭和四十年死去、元東京都立大学工学部教授)から戸田会長に対して、この結論を申上げた。(中略)
 二十日の輸送の件で顔を合せたとき、この件を相談しあい、結論はその場で謝罪しなかったら、思い切って牧口先生の墓前へつれ出して、あく迄追求しようと部隊長たちが云い出し、それじゃあどうするんだという所から始まって、青年部の一部を以てやろうと、いわゆる狸祭りの具体案を建てたのであった。
 あく迄面会での謝罪上を取る事を目的とし、やむをえない場合にのみ〝狸祭り〟で強引に責めようと大綱を決定、〝狸祭り〟に迄行った時は、会長先生には事後報告と決めて、各部隊長から十名宛選定、二十五日にこれを参加人員に発表した。……
 とあり、以下発表事項数項があって、その四には『行動明示のプラカード三枚持参』とあり、事前の計画であった事を告白している。
それを伝えている全四頁の『聖教新聞』のうち、〝狸祭り〟事件に二頁近くをついやしているのであるから、彼らにとっても重大な出来ごとであったわけだ。
 しかし、さすがに彼らのその後の経過を記している記事には、暴力を加えたとは書いていない。辻武寿の『大白蓮華』第二十五号の記事にも、暴力問題には一言もふれてはいない。それは当然であろう。

 惨酷な老僧へのリンチ

 しかしその『聖教新聞』のこまく経過をつづった記事と、小笠原師自身が書いた『顛末』の文章とを読み比べてゆくと、彼らの暴行は歴然としてくるのである。とくにその『顛末』は、創価学会が『信仰を偽装せる一種の共産主義(的)暴力団』というべきだとし、その事件の真相を公開したもので、その後、師は数週間の静養を要したのであり、ついに五月六日、医師の診断書をそえて当局に告訴したことを記しており、したがって老僧の創作ということはありえないのである。小笠原師は、その体験をこう語っている。
  その時に、私の面前に威丈高に座っている会長戸田城聖が、『生意気いうな小笠原』とにらみ、右手で私の左耳を強く打ちました。私は生まれて始めての事で、頭が破れたかと思うた。すると其処に居た多数の者が、寄ってタカって私を打つ、蹴る等の暴行を働きましたので、私は後ろに倒れました。その時に戸田が、『命は惜しゅうないか』と言いましたので、私は『不惜身命』と叫びますと、青年は『先生の前に足を出すとは不届きぢゃ』と、私の襟首を掴んで引き起し、『衣服をぬがしてしまえ』と、私の衣服(被布、襦袢、袷、襟巻)を引むしり、シャツ一枚の裸にしました。その時に懐中物が落ちたので私が拾おうとすると、戸田が『それは己れが預る』と奪い取りました。私は声を大にして『汝等は追剥か、強盗か』と叫ぶと、又戸田が私の右の横頭を強打しました。私は大声に『神本仏迹であろうが、何であろうが信教自由である。汝等に制裁を受ける筈はない。新憲法はそれを保証してある』と叫びました。彼らはワッと声をあげて私をつるし上げ、頭、胴、手、足を六、七人で担ぎ表に出ました。見ると寂日坊の前庭は彼等一味党類で一ぱいになっていた。……
というぐあいで、牧口の墓の前へひっぱられてゆくのだが、その途中『御堂で説法を終えて帰る法主上人及び塔中の一行に逢いました時に……一行は知らぬ顔して行き過ぎ』てしまった。これは老僧の胸にグッとこたえたようで、後日譚もあるが、ここでは省略しよう。そうして牧口の墓前で脅迫されて、用意の懐中電灯のあかりのもとで、障子紙に墨汁で詫状を書かされるのである。やがてさわぎを聞きつけた上野村の消防団員たちがかけつけて、そこでスクラムを組んで中へ入れさせまいとする青年部員と格闘を演じ、ますますさわぎは大きくなるが、そうこうするうちに詫状をとった彼らは、ことは済んだと再び老僧をかついで元へ戻したという経過であった。
 この事実から、八十近い老僧に、いかにうらみがあるにせよ、戸田城聖みずから率先して暴力をふるい、このような行為をもって当然の報いとする創価学会という集団の陰険きわまる狂気性がよく看取されるのである。
 本件はその後当局によって調査され、戸田らの暴力行為は動かしがたく、結局は弁護士がなかに入り、金三十万円で示談とすることで話しあいがついたということである。

 堂々と報道するこの異常心理

 この事例を通して、公平な第三者が、むしろ異常だと感ずることは、この暴力事件について、さすがに暴力を加えたとは書いていないが、一見して残酷無残なしうちを感じさせる多くの報道写真を、彼らの機関誌である『聖教新聞』や『大白蓮華』二五号の巻頭に、堂々と掲載してはじないという、その狂った心理である。…中略…
 その日、直接これを指揮した当時の青年部兼理事である辻武寿が、『聖教新聞』に手記をのせ
 これだけの大事をやりながら、部員がきちっと統制に従って乱れなかったのは学会員なればこそと思うし、また女子青年部が事件と知るや、すぐ各所へ連絡網を張ってくれたのは全くすばらしいと感じた。色々のべたい事は多いが、無事に目的を達成出来て、全く感慨深いものがある。
 と、手放しで満足の意を表している。のみならず「大白蓮華」(二五号)の誌上では、やはり辻がその手記を書き、結論に、
 御山をお騒がせして御心配をおかけしたことは誠に恐れ多いことではあったが、大聖人様、日興上人様は、お褒めのこそあれ、お叱りは受けないものと確信して、今後の参考に処せられたいと思う。
 というのである。呆れるではないか。
 こういう暴力行為に、うら若き女子青年部員が即刻一体となってうごくという点も注目されるが、しかしなによりもその非道の行為を、日蓮聖人は『お褒めになると確信し』、かつ『今後の参考にせよ』という心理は、とうてい普通の頭では理解できないところであろう。
 八十近い老僧にたいして、問答無用と、多数をたのみ夜陰に乗じて暴力をふるって恥じぬどころか、日蓮聖人のお褒めに預かるというのであるから、この気狂い集団は、日蓮聖人を暴力宗の開祖にするにひとしいわけで、われわれ正しい日蓮聖人の門下としてはまったく許しがたいのである。
 ことに、こういう恥ずべき行為を、得々として写真にかかげて報道するがごときことは、まったく彼らがいかに迷信の徒で無知厚顔な徒輩か、天下に公知してあまりあるであろう。しかも一往は学歴のある大学の教授が、その指揮者のひとりであるというにいたっては、完全に異常心理の所産としかいえないのである。これがこの団体にひそむ基本の体質なのである。常識ではほんとうに理解できないような事実が、実際にこのように行われているのである。」(新田倫三著「創価学会・公明党の真相」、1065/6/10、真世界社、P28-34)





■池田大作著「人間革命」第六巻、七百年祭の章

 池田大作著「人間革命」第六巻、1971/2/16,聖教新聞社、七百年祭の章、P61~には、この狸祭り事件が詳細に描かれているが、さすがに、戸田が暴力を振るったとは書いていない。
 もとより、小説という建前ではあり、かなりの脚色があるが、ここには、戸田城聖と当時の創価学会青年部の、生々しい現実が描かれているといえる。


「戸田城聖は七百年祭の登山にあたって、青年部の幹部に、一つの訓辞を与えていた。
『笠原慈行は、七百年祭に必ず登山してくるであろう。諸君は、いつ、いかなるところにあっても、笠原慈行と遭遇したときには、必ず一戦を交えなさい! そして、彼の神本仏迹論を徹底的に破折しなさい』
 戸田城聖は、徹底的な法論を、堂々と展開するよう、青年部に諭したのである。…中略…
戸田は、今度こそ、令法久住のために彼と対決し、宗門の一点の汚濁たりとも、これを浄化しなければならぬと決意していたのである。…中略…

 この折り、宗務院側は、はっきりと次のように答えていたのである。
『現在、宗門には、かかる僧侶は絶対におりません。笠原は、宗門を追放されております』
…中略…

 笠原は、けげんな面持ちで、一同を見まわしたが、おびえる風もなく、むしろ傲然としていた。清原は、すかさずいった。
『笠原先生、『世界之日蓮』の主幹であった先生に、青年部の幹部たちが、一度、お話をうかがいたいといっておりましたので、一同で参ったわけです。夜分おそく参りましたが、よろしくお願いします』
…中略…
P74
 関は、すかさず、彼の欺瞞をついていった。
『あなたのその悟りが、問題なのです。いいかげんなことを、いわないでもらいたい』
『私は、正直にいったまでだ』
『神本仏迹は正しいのか、間違っているのか、それを正直にいってもらいましょう』
『そういうことはあるのじゃ。今でもあるのじゃ』
 話は、また振り出しに戻ってしまった。
 この時、山本伸一も、青年部の一人として加わっていた。彼はこれでは埒があかないと判断すると、部屋を出て理境坊にむかい、戸田に逐一、中間報告をした。
 戸田は、話を聞きながら、眉をしかめて、悲しい顔になった。そして聞き終ると、すくっと立ち上がった。
『よし、わかった。行こう』
 寂日坊の庫裏では、同じ問答が繰り返されている。空気はますます険悪になっっていた。
 権威主義の人は、正しい道理にも、なかなか従えないものだ。僧侶という権威にしがみついた老人の心は、みずからの非を頑なに否認して、いたずらに感情的になってしまっていた。
 平常、温和な山際男子部長でさえ、忍耐の限度に達した模様である。めずらしく言葉を荒げて、言い放った。
 これでは、笠原さん、話になりませんよ。神本仏迹論なんて、なんの根拠もないではありませんか。あなたも、これ以上、我を張らないで、良心があるなら、牧口先生に謝りなさい。牧口先生は、あなたのせいで、牢獄で亡くなったんだ。御本尊様と牧口先生に、素直に謝ったらどうですか?』
 笠原は、興奮しきっていた。こめかみに蒼い筋をたてて、わめくようにいった。
『どうなりと、勝手にしたらどうだ!』
 大阪の婦人は、いつか逃げ出してしまって、姿はない。三人の僧侶は、なお同座していたが、仲裁の甲斐なしとみたのか、呆然と、ただ見まもっている。
 ふてくされた笠原の言葉に、おとなしい山際が、皆にむかって、叫んだ。
『法衣は、僧侶にとって、最も大切なものだ。法衣を脱いでいただいて、牧口先生のところへ、一緒に行っていただこう』
 四人の青年が、さっと部屋へ入ってきたと思うと、一瞬のうちに笠原をかつぎあげていた。あまりにもすばやい行動に、笠原も面喰ったらしい。
 笠原は、身をもがきながら、叫んだ。
『年寄りを、大事にせんといかんぞ!』
 皆は、笠原を軽々と肩にかつぎあげて、部屋を出ていこうとした。このとき、戸田城聖が姿を見せたのである。思いがけぬことであった。
『待て』…中略…
『騒ぐことは無い。元へ戻しなさい』
 立ち往生していた四人の青年は、すぐさま笠原を畳の上におろした。…中略…
『笠原さん、あなたの神本仏迹論を、潔く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申しあげるのです。そして、今は亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです。……わかりますか?』…中略…
 戸田にむかって、うそぶいた。
『お前らは、いったい何をするんじゃ? ……話なら話を聞くようにしたらよかろう。それを大勢で押しかけてきて……まったく、何をするんじゃ?……まったく、こんな大勢で……』…中略…
『僧籍はないのですから、法衣を脱いでもいいのではないですか』…中略…
『衣など、勝手に脱ぐわ!』…中略…
 笠原は、シャツと股引き姿の、貧相な恰好になっていた。
『さあ、なんとでも好き勝手にしろ!』
 …中略…
戸田は、この時、三人の僧侶にむかっていった。
『お待ち下さい。お三方とも、この場の証人として、ぜひ、残っていただきたいのです。後日のこともありますし、真相が誤り伝えられてはなりません。…中略…

 ここで、石川幸雄が、背広の内ポケットから、古い新聞の紙片を取り出し断片的に読み始めた。
 それは、昭和十七年八月十二日付けの宗教新聞『中外日報』の記事である…中略…

 戸田城聖は、石川幸男の朗読の間、合い間、合い間に、数回、笠原に詰問した。
だが、笠原は、畳の上に寝ころがって、答えようともしない…中略…
『わしは狸じゃ。……いいように、勝手にせい』…中略…
 戸田は最後に、断案を下すように、笠原にむかっていった。
『最後に一言する。事ここにいたって、なおかつ神本仏迹論を、あくまで主張するなら、もはや、これ以上の論議は無用です。
 私は、君の思想の自由をどうするつもりはないが、神本仏迹は、仏の教えに反した思想であることに変わりはない。それを指摘しておくだけです。
 したがって、仏法の厳しさだけは、忘れてもらいたくない。神本仏迹論が誤っていたと気づくなら、いまが謝罪する機会だと、私は思う。
 笠原さん。心から大御本尊様にお詫び申しあげなさい。これが最後の機会ですぞ』
 笠原は、あいかわらず押し黙っていたが、このとき、いきなり脚をぐんと伸ばして、戸田の膝をしたたか蹴りつけたのである。
 それを見た、数人の青年は、大声で叫んだ。
『なにをするんだ! ……やめなさい!』
 そして、笠原に、つかみかからんばかりの姿勢になっていた。
 途端に、戸田の叱声が響きわたった。
『よせ! 絶対に傷をつけてはならん! ……こんな男は、なぐるにも値しない。放っておきなさい』
『私は帰る!』
 笠原は、狡猾な目をあけて、戸田の姿を見上げながら、罵声を投げつけた。
『勝手にしやがれ! 貴様なんかに用はないわ!』
 戸田は、立ったまま、笠原を見おろして、厳しい表情でいった。
『なんという、情けない男だろう。……それほどまでに強情を張るなら、あとのことは私は関知できない。青年部がどうしようと、私の手には負えなくなる。……もう一度だけ、はっきりいおう。今のうちに、御本尊様に謝りなさい』
 笠原は、無言のまま、冷笑さえ浮かべている。そして、またも、立っている戸田の脚を、蹴ったのである。
『貴様なんかに用はない!』
 年老いた、か細い脚には、さほどの力はない。ただ、道理の正しい判断を失った、狂乱の形相が、そこにあった。
『私は帰る!』
 戸田は、部屋を出て行った。」(池田大作著「人間革命」第六巻、P61-94、抜粋)



 以上が、池田大作が描いた(篠原善太郎が代作した)、戸田城聖と小笠原慈聞(文中では笠原慈行)とのやりとりである。

 一般人から見れば、言論の自由、思想信条の自由が保障された現憲法下では、明らかに異常なやりとりである。

 八十近い老僧を、大勢でつめかけて詰問し、謝罪を強要したあげく、四人がかりで担ぎ上げたことで、刑法に抵触するのは誰でも想像がつく。
 さらに、それを制止した戸田でさえ、「あとのことは私は関知できない。青年部がどうしようと、私の手には負えなくなる。」との文言は、脅迫や未必の故意が成立するとも思える。


 小笠原慈聞は、このあと、前述のごとく、大勢の前で謝罪文を書かされることになったが、このように暴力によって書かせた謝罪文に、なんの意味があるというのか。

 新田倫三氏の指摘するごとく、これを、暴力の事実を隠蔽して宣揚することは、日蓮門下としても、大いなる恥さらしであり、日蓮の顔に泥を塗るようなものであろう。


 不破優は、狸祭りの真相として、自著「地涌からの通信」別巻①資料編P178-184において、詳しく解説している。
 そのなかで、
「創価学会青年部は、宗門の小笠原の僧籍復帰を否定する表明を信じ、昭和二十七年四月二十七日の宗旨建立七百年大法要に登山してきた小笠原を糾弾したのであった。
 だが、この創価学会青年部の小笠原に対する戦中責任を問う闘争は、僧侶全般にとってははなはだしい脅威として受け取られた。というのも、戦中における邪義あるいは謗法加担、あるいはまた国家神道への協力などを追及されることになれば、日蓮正宗の出家は総じてその罪を糾弾されることになりかねないと判断したからであった…中略…
日蓮正宗の出家たちは、創価学会なかんずく戸田会長を懲罰にかけるため動き出した…中略…
創価学会青年部のおこないは〟〝在家の分〟をはなはだしく超えるものであると決めつけ…中略…日蓮正宗宗会は、戸田会長に対して、
『一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと
 一、大講頭を罷免す
 一、戸田城聖の登山を停止す』
の懲罰を下すよう、時の猊下・日昇上人に要求した。最終的には日昇上人は戸田会長に『御詫状』を提出させ、戸田会長に対する実質的処分を行わなかった。
 しかしながら、その裏には、戸田会長に対する宗門総ぐるみのペテンが存在していた。……,以下略」
 と指摘しているのも、同様に、因果な思いをかもしだすのである。


 この狸祭り事件は、戸田時代を源流とする師弟不二に基づいた仇討ちズムである。
 日蓮が「お褒めになると確信し」ているところから、まぎれもなく、日寬教学アニミズムの修羅道である。

 日蓮の遺文のどこを見ても、これを推進・正統化するものは見当たらない。

 さらにはこの狸祭り事件は、「今後の参考に処せられたい」と表明していることから、これ以降、数々の仇討ちズムが繰り返されて来た創価の歴史の「原点」であったことをいみじくも証明している。

 先述したが、仏敵とされ仇討ちされた、典型的仇討ちズムの、最初の犠牲者が小笠原慈聞であったとみることができる。


 小笠原は、言論の自由を盾に、法難を主張しなかった。
 戦後制定された日本国憲法においては言論の自由、思想・信条の自由が保証されている。
 確かに、日蓮仏法の、とりわけ日寬教学を基準にして考えれば、神本仏迹論は、論理的には誤りとなる。
 しかし、仮に、小笠原が、「神」を日蓮仏法と同様に「大自然の働き」という「法則」として定義しなおしていれば、現実に現れた日蓮をはじめとする「仏」の方はアニミズムであり「垂迹」であるから、依法不依人の大原則に立てば、神本仏迹論も、正論となる可能性も発生する余地がある。

 私が、依法不依人を原則として、日蓮仏法をも、アップデートすべきであるとする根拠もこういった可能性も含まれているからである。



 ところで、立場が入れ替わっているとはいえ、今回取り上げた「狸祭り事件」と同じ構図とみなせるものが、大阪事件である。
 後に池田大作は、大阪事件において多くの選挙違反を出した指揮官・責任者の立場にありながら、大阪拘置所において、小笠原と同様な立場にあって、警察官の取り調べ調書に違反を認めるサインをして早期に釈放されておきながら、法難を主張した。
 そして創価学会の費用で大弁護団を建て、裁判官に、警察での強引な取り調べを違法なものとして示し、これが決め手となって無罪を獲得した。
 しかもこれを法難として、自らの偽りを「正義」として宣揚・賛美し続けている。
 このことは、後述する予定である。




 ちなみに、後に、名誉会長になっていた池田大作は、埼玉でのスピーチでこのように指導している。
 しっかりと、前述した師弟の魂を受け継いでいることを想像させられる言葉である。

 「全員が『勝つ』と強く決めていけ! 勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ! 私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ!強気で勝つんだ! 強気、強気、強気……でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ。(中略)
反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ」(平成一年三月十二日、埼玉指導)(「池田大作自語相違録」慧妙編集室編 平成11年10月13日発行、P28-29)

bottom of page