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P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

「ここで一応、山崎師団のなした謀略にふれておきたい。今は創価学会の謀略性、社会的不正が問われているのであり、それは山崎正友の『恐喝』と、すり替えられるような性質のものではないと考えられるからである」と、溝口敦著「池田大作『創価王国』の野望」での引用で拙論文P44にてしておいた。
 山崎正友著「懺悔の告発」1994/3/15 日新報道、P53-56には、創価学会の謀略・犯罪に実際に関わった彼の告白が生々しく述べられている。



 「一方で北村芳典は、PL教団教祖の、戦時中、特高警察に弾圧され、拷問された際の調書などを使って、下半身攻撃を執拗に行なった。

■ 自民党市議、暴力団、金丸信まで使った〝富士宮問題〟

〝宗教放送〟を使っての謀略が攻めなら、守りの代表は、富士宮市問題の処理であった。
 日蓮正宗総本山大石寺の所在地・静岡県富士宮市は、創価学会にとっても重要な拠点であった。しかし、ここの地元対策には手を焼いた。
 富士宮市における創価学会の問題は、昭和四十年から同四十七年にかけての正本堂建立事業から生じた。
 この事業は金集めも金の処理も使い方も放漫かつ杜撰であったため、私と桐ヶ谷、八尋の三人の弁護士と十数名の本部職員で、数年がかりで帳簿や議事録をすべて改竄し、目的外の支出を学会本部の支出に振り返るなど、後始末に苦労した。
 正本堂建設委員長に就任した池田大作は、正本堂建立に必要な用地確保という名目のもとに、都議会議員や地元議員を使って大石寺周辺の土地を買いまくった。その総量は、三百万坪にも及んだ。そのほとんどは農地であったから、農地法の手続きが必要だった。しかし、池田大作はそうした手続きを無視した。結果として昭和四十七年の段階で、七割近い土地が、農地法による手続き未了のままであり、しかも、そのうち半分くらいは、農地以外へ転用が許されず、農業従事者以外の所有を禁止される土地であった。このような農地法違反に対しては、契約が無効とされる他、刑事罰が科せされる。さらに、正本堂建設に伴い、敷地内に通じていた市道を廃止し他に道路を建設して市に寄付する、という約束を市と交わしていたが、市道について、廃止の手続きをとらないままに勝手に取り壊して、その上に正本堂を建ててしまった。これも、刑事罰の対象となる違反行為である。
 日頃から創価学会は、大石寺の存在する富士宮市に対して配慮を欠く嫌いがあった。毎年百万人をこえていた大石寺への登山者は、駅から団体バスで市内を素通りし、買物も飲食も大石寺境内の専用売店ですませるから、地元へは利益が落ちないばかりか、電気、水道、下水、道路等、公共負担ばかりが増えた。大石寺や創価学会が買い上げた土地はすべて無税となって、税収は減る一方だった。富士山麓は宗教のメッカで、本拠とする他の宗教団体も多く、その反発も強まった。こうした情況のなかで、富士宮市政の混乱から生じた疑獄事件について追及派に回った公明党に対する恨みもあって、昭和四十八年、地元市民が池田大作を告発する事件が起こった。池田大作の指名で私はこの事件の処理に当たったが、先に述べたような弱味をもっていた創価学会としては、なんとか穏便にすませるべく、懐柔策を取るしかなかった。
 池田大作は、富士宮市に積極的に介入し、支配し、天理教における天理市の如く、富士宮市を〝創価市〟にすべく工作するよう、私に命じた。
 私は、当時の市長(社会党)を実質的に動かしている全逓労働組合の幹部と接触し、市長と、そして市議会のボスの掌握に成功した。その際、郵政省の外郭団体・郵政互助会の子会社である弘信商事が、市長の政敵であった自民党市議懐柔のために融資して焦げつきかけていた金を、創価学会が肩代わりした。その名目は、その市議が所有していた土地(弘信商事の抵当に入っていた)を、市庁舎新築移転計画用地として、富士宮市の公団が先行取得して買い上げ、その買い上げ代金を創価学会が市に貸し付ける、というものだった。創価学会が市の公団に貸し付けた金は市議の会社に支払われ、その金はただちに弘信商事に返済された(この土地には結局、市庁舎は建てられなかった)。これにより、市長も全逓幹部も弘信商事も救われ、また、自民党市議も助かり、その市議の口ききで、池田大作の告発者も矛を収めた。池田大作は、創価学会からさらに二億円、三億円と富士宮市に寄付を行ない、公園作り、駅前の都市計画などを行なった。その額は十億は下らない。あげくの果ては、アメリカにおける創価学会の拠点であるサンタモニカ市と姉妹都市の縁組をさせ、そのセレモニーのためという名目で、市長以下幹部職員、全市議会議員(共産党を除く)、有力者をほとんど丸抱えでハワイ・アメリカ旅行に招待した。アメリカでは、現地会員が彼らを下へもおかぬ接待をしたことはいうまでもない。
 こうした金のお陰で、池田大作は、富士宮市から名誉市民の称号を受けた。そして、富士宮市の市政を実質的に支配するようになった。
 その後、大石寺封じ込めと地元対策、そして創価学会自身の金儲けのために、富士山麓に墓園造成を計画し、創価学会の忠犬となった自民党市議の会社が中心となって、二百数十億円にのぼる工事を請け負うこととなった」



 この墓苑開発等で地元・富士宮市議会で賛否両論が巻き起こり、暴力団による傷害事件にまで発展した。
 この墓苑開発は1970年代に始まり、総額二百数十億円にのぼる工事を自民党市議日原博の会社、建設・造園業『日原造園』が中心となって請け負うことになった。
彼は1967(昭和42)年から富士宮市議、1979(昭和54)年から静岡県議を務め、自民党富士宮支部長を兼ねる実力者であった。
だが、市長や自民党市議の勢力と反対勢力との政争もからんでトラブルが続発した。
双方の陣営への賄賂と地元暴力団の積極的な協力で何とか完成にこぎつけた。
妨害した富士宮市内のM宅に、後藤組幹部が1977(昭和52)年11月21日、12トン用の大型ブルドーザーで突入、ブロック塀を破壊。その後、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2か月の怪我を負わせ、翌日、殺人未遂の容疑で逮捕され、懲役刑となった。Mは、これがもとでその後死去する。



 「しかし、市長や自民党市議の勢力と反対勢力の政争などから種々トラブルが起き、最後は障害事件(ママ)まで生じたが、双方の陣営に対するワイロと、地元暴力団の積極的な協力によって、何とか完成にこぎつけた。最後まで妨害した人物に対しては暴力団がブルドーザーで家につっこみ、日本刀で片腕を切り落とすという荒治療で鎮圧した。
 何しろ国立公園のど真中で有名な大沢くずれのそばの土地であり、保安林、水源から養林、開拓農地、防災地区、砂防地区その他複雑な規制がからみ合っていて、建設省、環境庁、知事や市長、そして自然保護団体等々の協力がなければ絶対に開発ができる場所ではなかった。それでもなお、一、二、法律違反にほっかむりしてもらったまま、開発許可にこぎつけた。
 後に、政治家や地元工作に支払った裏金の処理などもからんで、工事代金をめぐって業者と創価学会の間にトラブルが尾を引いた。
 私が内部告発に踏み切った後、私が逮捕されている間に私の預けていた書類が流出し、それが原因で、富士宮市に対する創価学会の支配、介入が明らかになった。また、墓園造成工事をめぐる疑惑が提起された。その真相解明のため、市議会に百条委員会が設置され調査に当たった。これを阻止しようとして、墓園工事の請負業者社長が市議会議員に贈賄して、逮捕された。
 私は、百条委員会に証人として喚問されたが、数日前、地元暴力団幹部に『出頭したら生命の保障はないですよ』と、証言をやめるように忠告された。
 また、墓園造成を請け負い、私の恐喝事件にかかわりの深かった、造園会社の会長である県会議員から、『百条委員会で証言するなら、先生の刑事事件裁判で私は敵に回り、学会側につくよ』と圧力をかけられた。
 しかし、私は、万一のことを考え、知り合いのジャーナリストとともに、富士宮市に出かけた。ところが、肝心の百条委員会は、委員である市議会議員が欠席して定足数を満たさず流会となってしまった。市議会議員が、中央からの圧力と、地元暴力団の脅迫に屈して、当日、雲隠れしたのである。
 その後、百条委員会は、池田大作の証人喚問を求めたりする動きを見せたものの、次第に尻すぼみとなり、やがて消えてしまった。
 創価学会と池田大作の疑惑も、闇に葬られた。
 後に、この際の報酬をめぐって地元暴力団と創価学会との間にトラブルが生じ、暴力団から『使い捨てはけしからん』との内容証明郵便が送られたり、学会本部にピストル乱射事件があったりした」(同書P56-57)



 これら、富士宮市における、池田名誉称号授与や、創価学会の『富士桜自然墓地公園』(敷地面積百二十二万平方メートル)の建設や土地取引に絡んで、創価学会の暗躍ぶりに関しては、アンチ創価学会以外にも、下記のような著作にも様々に指摘されている。
 野村秋介著「陣中に人あり――右翼・任侠・浪漫」1986年 廣済堂出版、P241-、
 魚住昭著「野中広務 差別と権力」2004/8/4 講談社、
 宝島NF「池田代作と暴力団」2012/9/10 西岡研介、乙骨正生、森功、山田直樹他、宝島社出版、P10-11
 後藤忠政著「憚りながら」2011/5/26宝島社 P95-116





 山崎正友は、創価学会やそのシンパ、さらには数々のジャーナリズムから、マッチポンプだと言われている。
はたして、この指摘は正しいだろうか。
確かに、そのような指摘も的外れではないにしろ、はたして彼が最初にマッチをすったのかどうか。
本当に最初にマッチをすったのは誰であろうか。
そして、それによって火を放ち続けて、風を送り続け、消えたらまた火を起こしたていたのはどこなのか。
もう一度、創価学会と宗門との、言論出版妨害事件前後からの争いごとなどを振り返ってみる必要もあろう。



 山崎正友著「懺悔の告発」(1994/3/15、日新報道刊、P77—)には、
「戦後、信教の自由と占領軍の宗教政策を追い風に、新興教団が勢力を伸ばす中で既成教団は出遅れ、取り残された。日蓮正宗も同じだった。困窮が続いた。その日蓮正宗にとって、新興教団の後を追うようにして世に出て来た創価学会は、ある面で救世主のように見えたに違いない。創価学会の教勢拡大とともに、多数の会員が大石寺に登山し、また、末寺は会員の授戒や冠婚葬祭で賑わった。
 創価学会は、日蓮正宗、大石寺の信徒団体であることを強調し、『新興宗教ではない』と、特別の権威づけに利用したし、日蓮正宗としては、何よりも疲弊していた台所が潤った。両者は、持ちつ持たれつ、理想的な補完関係と見られた」
 とある。

 これらは拙論文P23で紹介した、いずれも下記の小口偉一著「宗教と信仰の心理学」でも以下にあげる如く、裏付けている。
 「戸田氏のように、特殊の宗教体験のない人にとっては、既成教団の権威と伝統をその教理体系と共に用い得れば、きわめて好都合であろう。」
「戸田氏の場合も、彼自身は既成教団の教理体系と新しい理論(『価値論』)の二つながらすでに準備されており、彼自身が新しく自己の宗教体験に基づく宗教理論を形成する必要はなかった。他の新興宗教が、なんらかの意味で素朴な宗教体験と理論とをもって出発し、郷里の体系化はそうとうの時間を経て、徐々に形成されるか、あるいはほとんど体系のないままに発展するかのいずれかであるのに対し、新興宗教としての創価学会は、七〇〇年の歴史的伝統を利用し、日蓮正宗は伝統的停滞を新興宗教との結びつきによりうち破るという相互依存関係に立っているのである」
 

 「だが、実際は、日蓮正宗と創価学会との関係は、当初から必ずしも円滑ではなかった。
 戦時中、日蓮宗の合同を主張した小笠原慈聞師という僧侶に対し、『牧口先生を死なせたことの仇討ちだ』と称して青年部による集団暴行を行なったり(いわゆる狸祭り事件)、大石寺の所化頭を境内の潤川に投げ込んだりするなど、日蓮正宗に対して集団の力で威圧を繰り返している」(山崎正友、同書P78)

 狸祭り事件には池田大作が当事者として参加し、潤川リンチ事件は、池田大作が首謀者であることは先述した。


 「僧侶達や古くからの法華講員の中には、創価学会の〝現世利益〟を正面に打ち出した布教の仕方や教義解釈に対して、批判的であったり拒否反応を示す者も少なくなかった。だが、数と力が次第に圧倒していった。日蓮正宗と創価学会の関係は、日蓮正宗が権威の上では上位にあるにもかかわらず、創価学会が支配し、動かすようになっていった。
 創価学会の宗教法人認可に当っても、日蓮正宗は必ずしも乗り気ではなかった。できれば許したくない、という空気の方が強かった。それを創価学会が力と謀略で押し切ったのである。戸田城聖の指示で、青年部幹部は、日蓮正宗の高僧に対して女性を近づけ誘惑させた。その女性が懐妊すると、戸田城聖はその高僧を責めた。
『他人は許しても、この戸田は許しませんぞ』
 戸田城聖はそう言って、ひたすら謝る高僧を、持っていた数珠で何度も打った。その席に池田大作と藤原行正が同席していた。
 このような策略を用い、一方では青年部の暴力をちらつかせ、多数の会員を擁する経済力を使って、戸田城聖は、日蓮正宗を押し切って、創価学会の法人化を認めさせた。その際、日蓮正宗側は、〝信徒団体としてのあり方をすること〟等三項目の条件をつけて、抵抗の跡を残した。
 後に、ある信者が、六十六世日達上人に対して、『日達上人が庶務部長の頃、学会に懐柔されて、管長印を勝手に使って創価学会の法人化を認める手続きをした』と中傷したことがあった。
我々は、とるに足らぬことだと考えて、放置するよう進言したが、日達上人は、
『私は、絶対にそんなことはしていない。第一、創価学会の法人化は私の意志で行ったことではない。すべて、当時の管長の意向で行なわれたことだ。こんな中傷は、後世のため許しておけない』と、異常なまでのこだわりを見せ、名誉棄損で訴えた。今にして思えば、庶務部長当時、創価学会の横暴に押し切られた宗務院の口惜しさを表現されたのであろうと思っている。
 戸田城聖はいろいろと尤もらしい口実を設けたが、信徒団体を独立の法人にする必然性はまるでない。要するに、戸田ら学会幹部が日蓮正宗の干渉を排して勝手にふるまいたい…中略…」(山崎正友、同書P78-80)





 さらに、同書P80—では、
 「会長就任後、池田は宗門支配・吸収戦略を露に
 昭和三十三年、戸田城聖が祈りと唱題の甲斐もなく五十三歳の若さで病死し、同三十五年、池田大作が会長となった。
 戸田城聖の代には、創価学会は、日蓮正宗からフリーハンドを得ることが目的に見えた。しかし、池田大作が会長になると、対日蓮正宗戦略は、逆に「支配し、吸収する」ことへと一歩進められた。
 池田大作は、会長就任直後、日蓮正宗管長・六十六世日達上人を学会本部に呼びつけ、露骨な恫喝を行なった。
 後日、日達上人は私に、『何で池田の若造に、法主の私が呼びつけられ、ドヤシつけられなければならないのか。後で口惜しくて涙が出ましたよ。だが、あの時は、相手も若いことだし、我慢しました』と語った。
 日達上人は、公式には親創価学会路線を踏襲し、反学会色の強い寺院や僧侶を切り捨てる処分を行なっている。また、創価学会による折伏路線に全面的な支持を与えていた。
 昭和四十年、創価学会が正本堂建立御供養金三百五十余億円を集め、その直後に都内品川区妙佼寺において正本堂建設委員会が開かれたが、その際、池田大作の席次と椅子が皆と同じなのが気に入らぬとケチをつけ、池田大作以下、創価学会側は出席者は席を蹴って帰った。
 その責任をとらされて、日蓮正宗総監らが更迭され、日蓮正宗は以後、池田大作を法主の隣に、法主と同じ待遇で坐らせること等を決めて〝院達〟として広布するなどした。要するに、日蓮正宗側が全面譲歩したのである。
 以後、池田大作は、法要の席では法主の真後ろに特別席を用意され、それ以外の時は法主と同等の扱いをされることになった。
 
 〝国立戒壇〟をめぐって対外的、対内的に紛糾

 言論問題の際、創価学会の主張する〝国立戒壇建立〟は憲法違反ではないかとの批判が他党からなされたが、池田大作はこれに対し、『現在建設中の正本堂が日蓮聖人御遺命の戒壇であり、これは民衆立である。国立戒壇は必要ない』との回答を、東京都を通じて文部省、国会へ提出した。
 日蓮正宗では、明治以降、〝国立戒壇を富士山麓に建立する〟ということが伝承となっていたから、これをめぐって、日蓮正宗僧侶や他の法華講から異論が出た。中でも、‶妙信講〟という講が強硬に『国立戒壇論の撤回は教義に違背する』と主張し、日蓮正宗と創価学会に食い下がった。
 昭和四十七年の正本堂落慶を目前にする頃、この〝国立戒壇〟論をめぐる論争は白熱し、集団暴力事件に発展しかかった。日蓮正宗としては、創価学会の要請と旧来の法華講や僧侶の勢力との板挟みになり、対応に窮して右往左往した。
 この時は、同年八月、秋谷栄之助氏(現会長)、原島崇氏、そして私の三人が、妙信講首脳と対決討論し、何とか激突を回避した。しかし、その後、問題がぶり返し、妙信講による創価学会本部襲撃事件、そして幾つかの訴訟事件へと展開したが、昭和五十二年四月、裁判所における和解で紛争は一応の収拾を見た。
 この言論問題時における〝国立戒壇論〟引っ込め作業、及び妙信講問題の処理は、私が司令官となって処理に当たった。

■ 日達上人の反論と宗門ー学会の対立激化

 こうした事件の流れの中で、日蓮正宗側は次第に創価学会の言いなりになることを拒否するようになり、池田大作はイライラを募らせた。昭和四十七年十一月、池田大作は正本堂内で大勢の会員のいる前で、法主の日達上人を面罵した。また、翌年一月二日、大石寺対面所での法主招待の会食の席において、池田大作は、やはり幹部の居並ぶ前で、日達上人をなじった。
 事の次第は、池田大作が、『最近、大石寺の僧侶の素行が悪い。警察や検察庁でも話題になるくらいだ。厳重に注意してほしい』と発言し、日達上人が気色ばんで反論しかかったところ、池田が、『そんな言い方はないでしょう猊下。そんなことを言われるなら、こちらにも考えがありますよ』と恫喝した。そして、会食に同席していた静岡地方検察庁検事・会田宣明氏を指名して立たせ、『私の言ったことに間違いないだろう』と念を押し、合槌をうたせた。
 その時は日達上人が黙ったが、やがて説法や講演の席で創価学会批判を始め、日蓮正宗と創価学会との間はにわかに険悪になった」



 また、原島崇は、自著「池田先生への手紙」P29-31にて、

「猊下を怒鳴りつけた先生

 昭和四十八年一〇月一四日、正本堂建立一年後、正本堂東側広場で、池田先生は日達上人を怒鳴りつけられました。
『これだけご奉公したんです。御褒美を下さい!私が欲しいのは猊下の慈悲です。猊下はすぐお忘れになってしまう。学会を奴隷にしないでください。このままいったら宗門はめちゃくちゃです』
 私はその場におりませんでしたので正確な内容ではありません。また、活字になるとそのすごみはなくなります。しかし、信徒の面前で、血脈付法の、時の御法主上人を小僧っ子のように扱われたのです。当時私はこの話を聞いて、池田先生はすごいお方だと感心しました。
 これを裏づけるものとして、同じ日に総本山雪山坊二階会議室にて御宗門と学会との連絡会議が行われた、その記録がありますので掲載させていただきます。

『富士宮市長との戦いだ。よっぽど連携をとっていないとやられる。ヒゲ(市長・社会党)は、前の山川なんかよりずっと政治家だよ、あれは。
 私自体は、湊川の決心です。
 学園(創価女子学園)の寄付については、猊下に、正々堂々とお願いします。交野(大阪府交野市、創価女子学園のあるところ)の寺院へ(猊下が)見にいって、寄宿舎がないことにはしかたがない。二億円を寄附しましょうと、猊下が言われたんです。
 それを正本堂の基金を使ってとはなんですか。
(表彰状を)たたき返すか! といってもいたんです。
 これだけ、宗門のために尽くしているのが……(先生ご自身のことをいわれたと思います)
 一人の人間が大事です。
 宗門は、こ息なゴマカシをやめて、宗教人らしくふるまったらどうですか。僧侶も千人以上になった。寺院も増えた。財政も増えた。学会は総力をあげたんですよ。宗門のために……
 本山から、大学へ10億円、寄附してください。いいですか!
 これだけやって、正本堂を建立して、感謝状一枚で、ごまかして。内容を吟味すべきです。学会人は純真だから、とんでもない。こんなものいるか、とつき返そうかと思った。
 ほんとだったら(猊下の方から)こうこうこういうふうにさせてもらいます、というのが礼儀です。あまりにも、世間を知らなさすぎます。うけてもらえますか!
 生命をかけている人間に冷たすぎます。後世の為に危険です。今のやり方は、信者がかわいそうです。
 坊主に対する教育は頼みますよ。教育がよくない。本山のことを総監(当時早瀬日慈総監)さんが知らないことはよくない。十年前の宗門とは違うんだ、全部、総監さんが知らなくてはいけない。
 帝国ホテルなどに招待はいらない。五百万円と七百万円をもらった方がよい。
 富士宮市への寄附は、七億円です。頼みますよ。学林は、本山で建てるように。
 大聖人様は、ムシロ三枚でも、立派なご真筆をくださっているじゃないですか。こっちは、毎日、袋だたきだ!』
 長くなりますので引用はここまでにしておきますが、これが機縁となって、例の早瀬総監と北條理事長(現会長)との間で、本山から学会へ一三億円の寄附、学林は本山で建てる、などの取り決めとなったものです」
 と告発している。
「富士宮市への寄附は、七億円」という文言は、先にあげた当時の富士宮問題等々について、池田大作の指示・関与を物語るものである。池田大作はこれらにより、富士宮市から名誉称号を受けている。
 この池田の態度も、原島らの指摘通り、内容と言い態度と言い、池田の傲慢な境涯が引き起こしているといえる。前ページでも述べたが、これは正本堂建立以前からも明らかになっていて、そして昭和52路線の伏線となったことは明らかである。


 また、浜中和道は以下を述べている。
「昭和四十八年頃には、日達上人は、しばしば公の場でも苦言を呈されるようなことがあった。創価学会においては、池田会長が絶対的な指導力を持っていた。そのため一部の幹部において、
『池田先生は仏だ』
 との極説が創価学会員の間にひそかに噂されているらしいということが、日達上人のお耳に入った。それに対して日達上人は、
『最近聞くところでは、新しい本仏が出来たようなこと宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば、正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません』
 と、昭和四十九年四月の法華講の登山会の場で、厳しくとがめらた。さらに五月三十日、三十一日の両日にわたっての全国教師僧侶及びその家族が出席して開催された寺族同心会では、
『ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろと生活が楽であればいいと考え、皆、今までの色々な法門の在り方、あるいは布教の在り方を忘れるというような事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから、本山を護りたいと思います』
『富士宮の、これは信者ではないんだけれども、ある有名な人は、大石寺は前から言うとおりに、軒を貸して母屋を取られるような事があるならば、大石寺の恥だけではない。富士宮の恥だと放言していたということです』
 と、創価学会に対する不信、不満を露わにされていた」(「浜中和道回想録」、P25-26)



 これら、山崎、原島浜中の指摘が示している事実は、最初にマッチをすって火種をだし、また出し続けていたのは常に池田大作、創価学会側であったことを示している。
 しかも、山崎正友は、直接には関与していない。
 さらに見てみよう。


 「その間の事情を『蓮華』(昭和四十九年八月)は次のように書いている。
 『おととしの秋位から、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また教義上においても我々から見て逸脱している事が多々あるように思われます。それは世間の友好の為、広宣流布の為という目標に依ってそうしておると聞きますけれども、そのままにして置いたんではそれは大問題になりはしないか。終いに於て取返しのつかない事になりはしないかという憂慮の為に』
『富士宮のーこれは信者ではないけれどもーある有名な人は、大石寺は前々から云う通りに、軒(庇)を貸して母屋を取られるようなことがあるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だと放言していたという事です。私はそれを聞いて、非常に残念であると同時に、まだまだ我々は僧侶として考えが甘いのではないかと思いました。どうか皆さん、自主的に日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくても、大聖人は必ず袈裟の功徳がある、その功徳(は)甚大である、という事を出家功徳抄に出しておられるでしょう』
 ひさしを貸して母屋を取られる――創価学会の宗門乗っ取りの野望を、こう表現され、『日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくても』とまで仰せられた日達上人のご覚悟は、よくよくのことであった。それほどに、創価学会の路線は、土足で宗門をふみにじるような専横ぶりであったのであり、宗門と創価学会の亀裂は、修復困難なまでに深まっていた』
 その頃、妙信講問題、正本堂の事務処理などで日蓮正宗との接点にあり、学会首脳と日達上人の信頼が厚かった私に対し池田大作は、関係修復工作を命じた。
 昭和四十九年四月、北條浩氏と二人で日達上人に面談に行ったところ、ケンもホロロにあしらわれてしまった。
『学会は好き勝手にやれば良い。宗門は関係ない』
『謗法者をいくら増やしたって、当宗には何の関係もない』
『いくら折伏といったって、間違った教えを広めては何にもならない』
『池田さんを仏にしてやれば良いじゃないか』
 腹を立て、顔を真っ赤にした北条浩氏は、学会本部に帰り着くなり、後に有名となった〝北条報告書〟を書いた。
『本山の件
 九日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました』
『先生(註=池田氏)が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。……学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意をかためました。……学会が犠牲になるような戦いは絶対にしてはならないと思いました。……』

 一方、日達上人の方でも学会に対して宣戦布告した。
『先月の中頃でしたか。私は北條副会長並びに山崎弁護士が来られました時に私は申し上げました。その時国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当って、創価学会と日蓮正宗との真中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターと云うものを造るという趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
 日蓮正宗は日蓮正宗としての一つの宗教法人である。大聖人様の遺命に依って広宣流布を全うしなければならない只一つの宗旨である。それを、その上に一つ、日蓮正宗国際センターと云うものが出来るとなれば、正宗としては其の上に一つ、又被宗教法人ができる(ことになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、又御戒壇の大御本尊をお守りしていると云うのも、今後は出来なくなってしまう。
其の上の宗教法人に於てどうとかこうとか言われたらばこっちもその下につくんだから何ともする事が出来なくなる。其の意味からはっきり断りました。どこまでも日蓮正宗はたとえ小さくても宜しいから、大聖人の教義を守っていきます。又今皆様方のお陰で大きく成って居るけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか又大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)有るかもしれない。だから私はどこまでも大聖人の仏法を守ると云って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと云うものを、私は否定といいますか、お断りしたわけでございます。
 それから端を発して、其の後、最近の一年か二年かに亘る所の学会のいろんな教義の違い、謗法の有り方と云う事も申し上げました。で、ついにその為に二人は帰っていきました』
 その後、池田大作と三人で話し合ったが、池田も、事態の深刻化に改めて対応に苦慮した。
首脳達と宗門問題について会議を開くに当たって、資料作りを指示され、私と八尋頼雄氏の連名で作ったのが、やはり後に問題となった〝山崎・八尋報告書〟であった。

 その中で、日蓮正宗を、『創価学会の外郭の一つ』と定義して完全に支配下に取り込むか、さもなくば折を見て手を切るか、と二つの道を提案した。池田の意によるものであった。


■逆恨みした池田は経済封鎖に出た

 この時は結局、私が一対一で日達上人と直談判した上で、妙信講問題その他で親しく往来していた阿部総監代行(現法主上人)のとりなしにより、池田大作が頭を下げて何とか手切れはくい止められた。
 だが、創価学会側は、この時の日蓮正宗側の対応を深く恨んだ。池田大作は、とりわけ根にもった。そして、〝山崎・八尋報告書〟に基ずいて(ママ)、日蓮正宗制圧へと着々と手を打っていった」(同書—P87)



 この年の翌年、昭和五十年に、背後からの共産党の攻撃を抑えるために、行われたのが創共協定である。向こう10年間の休戦を約束して背後を固めた後、宗門支配にのり出したといえる。
 また、この時期は、富士宮の墓園問題に絡んで、池田大作の指示を受けて山崎正友が富士宮市を舞台に暗躍した頃でもある。
山崎によると、池田大作は、富士宮市の名誉称号の獲得をも目論んで、それを実現したのであった。
 この頃、山崎正友の羽振りが急に良くなったこと、昭和51年当時から以降の宗門問題についての創価学会と宗門内の様子ややりとりと、それに絡む山崎正友とのやり取り等は、宗門の若い僧であった浜中和道の回想録に、詳細に記載されている。




 同書P87の続きである。
 「池田大作の反撃は、昭和五十二年一月から始まった。元旦の挨拶を日蓮正宗攻撃で始めた後、日達上人の直弟子で、学会批判の言動のあった僧侶を選んで、青年部による集団つるし上げを行なった。同時に宗務院に対して、『どう責任をとるのだ』と詰め寄った。全組織に命令をして『寺院に参詣するな。御供養するな。近づくな』と、経済封鎖を行なった。
 池田大作は、暴力と経済封鎖で日蓮正宗を追いつめ、日達上人を退座に追い込むつもりだった」

 浜中和道回想録P128-130には、この時の模様が詳細に出ている。
「『〝菅憲〟(註、菅野憲通住職)を吊るし上げている連中が詰める相談を途中で原島にして、やりあっていたんだけれど、『筋としては〝菅憲〟の言い分が通っていた』と原島が言ってたよ』
 それを聞いて、山崎氏の情報源が原島崇氏であることが、私には推測できた。
『結局、野崎たちは、そんなんじゃ、詫びじゃないと言って、〝菅憲〟に詫び状を突き返したんだけど、池田さんはカンカンらしいよ。アイツらは絶対に〝菅憲〟を首にするとか、寺を潰して会館にする、山に押しかけて猊下に談判するとかメチャクチャに頭にきているよ』
 という状況であったとのことである。後日、菅野師が話してくれたが、論に詰まった野崎氏らは、
『坊主のクセになんで結婚している』
 とか、
『お前は学会の女子部を引っかけた』
 そして、
『土下座しろ、土下座しろ』
 の連発であったとのことであった。私は山崎氏に阿部教学部長(註、後の第67世法主阿部日顕)はどうであったか尋ねた。
『阿部さんはね、もうオロオロして、野崎らと一緒になって『あやまれ、あやまれ』と言っていただけみたいですよ。でもあとで野崎らは〝菅憲〟のことを『敵ながらあっぱれ』と言っていたみたいだよ。それに比べて『なんだ、〝阿部教〟は』というのが、青年部の感想ですよ。
 その 阿部教学部長の情けない姿が目に浮かぶのか、山崎氏は大きく笑った。
『〝菅憲〟に池田さんが首にすると騒いでいることは、教えてやったほうがいいですよ』
 との話であった…中略…
『和道さん、今度のことを、どうせ宗務院は隠すだろうから、和道さんの知っている坊さんたちに電話で話してやったほうがいいよ。池田の最終的な狙いが、日達上人を退座させることにあるってこともね」
 私はその山崎氏の忠告に従って本山の在勤で一緒だった者や同期生の所に、電話で一連の経過を流した…中略…






 この吊し上げの様子を、原島崇が別室で盗聴しながら聴いていたことを告白している。
 「ただ、一月十九日、原田稔青年部長(現副会長)(註、現創価学会会長)、野崎男子部長(現総合青年部長)(註、後の野崎勲副会長)の二人が、菅野憲通師をつるし上げたことは、いま思うに、重大な問題でした。あのとき、隣室でテープを聞いていた私は、およその内容を覚えています。
〝学会に、池田先生に感謝しろ!〟〝土下座して謝れ!〟--えんえん五時間におよぶ、いわば恫喝、恐喝に等しいものでした。その前日、池田先生が、あの白浜の温泉(当時は、非常にデラックスなものでした)(註、現在の関西研修道場)のなかで指示したことを、原田氏がメモし、二人はその通りやったのです…中略…
 戸田先生の青年訓『真摯にして暴言を用いず』の精神をお忘れになったのでしょうか。私も加担者ですが、日蓮大聖人が、このような天魔の所行をおほめ遊ばされるでしょうか。やがて原田氏、野崎氏を中心とする青年部の僧侶のつるし上げは、ますますエスカレートしていくのです。必ずといってよく、テープをとり、詫び状のコピーもとり、いつかのときの証拠にしていくという形がとられました。
 そこには日蓮大聖人の仏法はみじんもなく、ただただ学会中心、学会のため、池田先生のためということがあるだけで、要するに、池田先生への批判、創価学会への批判をした僧侶は容赦なく〝総括〟されていったのです。その上、さらに僧侶の素行調査なども極秘裡に行なわれていたのです。
 仏法上の誤りはもちろんのこと、この苛烈なまでの裏工作は、あのナチスドイツの〝ゲシュタポ〟を思わせます。ちょうどその頃『猊下は婦人に弱い』と先生がおっしゃり、その指示によって、とくに自分の親戚や家族に得度した人や、ご僧侶のいる関係者の婦人部首脳を使って、猊下(日達上人)にご僧侶の非行を訴えさせたのです。
 その当時、日達上人がいかばかり苦悩されたか、どれほど忍の一字に徹せられたことかと、」(原島崇著「池田先生への手紙」P158-160)




 鎌倉時代、日蓮の立正安国論を論理的に破折できない邪宗の僧侶たちが、幕府要人の尼御前たちに取り入って讒言し、これが龍ノ口の処刑や佐渡流罪につながったことは史実であるが、邪宗の僧侶たちの讒言を連想する事は難くない。
 また、池田大作とその側近たちがヒトラーの「わが闘争」を読んで議論していたという山崎正友の著作もある。




■『浜田論文』は池田の口述


「『浜田論文』は池田先生の口述だった
 昭和五十二年八月号の『前進』に『日蓮大聖人の寺院観』と題して浜田憲司氏が原稿を寄せています。これは、児玉大光師の『池上御相承を拝す』と題する論文が、『蓮華』誌上に掲載されたのに対する反論なのです。これは、池田先生の『仏教史観を語る』のなかで『近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院は持てれなかった。お亡くなりになるまで草庵であります。折伏仏教の指揮をとられ、また自ら布教のために歩く拠点としての庵室を持たれたのみであります』とあるのに対し、児玉大光師は、池上相承書に『身延山久遠寺の別当たるべきなり』の御文を引用して、大聖人は寺院を持たれたと主張した内容でした。これを先生にお見せするや『すぐ反論を『前進』に出しなさい。私(先生)が見てあげるから』と私に指示されました。内容は『一夕、ある僧侶と懇談する機会を持った。……といった書き出しでやろう』等、具体的なものまでありました。
 さっそく、私は教学部の副教学部長の一人に書かせ、内容を点検し、先生にお届けするようにいたしました。間もなく、先生のご自宅に呼ばれ『これでは破折にならない』といわれ、何ヵ所か口述され、それを私がメモし、もう一度相談し合ってともに書き直したのが、例の『浜田論文』だったのです。しかも、九州在住の浜田憲司氏は、いっさいこの論文にはタッチしていなかったのです。先生は、野崎勲氏と『だれの名前にしようか』と相談され、児玉大光師が九州ですので、野崎氏が浜田憲司氏がいいだろうと名前をあげました。
『じゃあ、そうしよう。しかし、よく君(野崎氏)から、あくまで自分が書いたと言い切ることだ』と浜田氏への指示が与えられました。
 とくに、その論文のなかで『これまで身延派の徒輩を折伏する際に、何度も言って聞かせてあげたので『身延山久遠寺』とあることも胸に焼きついている。だがこれ以外に大聖人が『久遠寺』の名称を使われているのはどこにもない。せいぜい大聖人滅後二年たって謗法に堕した波木井実長が日興上人にあてた消息に出てくるくらいだ。また、大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか』との傍点の部分(註、『だが…あろうか』の部分)は、先生が、私に確認されながら口述されたものです。その他の部分もありますが省略いたします」(原島崇著「池田先生への手紙」P161-162)



 この部分について検討するに、池上相承書が後世の偽書であることが判明している現在においては、この時点で池田大作が口述させた、
「だがこれ以外に大聖人が『久遠寺』の名称を使われているのはどこにもない。せいぜい大聖人滅後二年たって謗法に堕した波木井実長が日興上人にあてた消息に出てくるくらいだ。また、大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか」
 は、事実・真実である。
だから、池田大作の「仏教史観を語る」のなかの
「近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院は持てれなかった。お亡くなりになるまで草庵であります。折伏仏教の指揮をとられ、また自ら布教のために歩く拠点としての庵室を持たれたのみであります」
 も史実である。
 ただ、この真実を、自分達創価学会の誤った主張の根拠にしたことを見抜かねばならない。
 この欺瞞性を、しっかりと原島崇や山崎正友が受け継ぎ、それを実行しているのである。「虚実とりまぜた」と言われる山崎正友が、まさにその証拠である。
 池上相承書が後世の偽書であることが分からなかった故に、創価学会や宗門の頑なな争いのひとつが生じていることが分かる。
 第66世日達も同様で、池上相承書は自宗の血脈の正統性の根拠であったから、その後のかたくなな破折につながっていく。
 そもそもこの論文に対する争いからして、非科学的な日寬アニミズムの域を出ないものであり、さらには、実質的には日達と池田大作のバトルだったのである。


 その続きで「この浜田論文が、御宗門に与えた波紋は思いがけなく大きかったのです。日達上人みずから、その年の八月三〇日、第二十六回教師講習会開講式において、『『日蓮大聖人の寺院観』浜田憲司氏に答う』と題されて講演されております。しかも日達上人が、最も力を入れて『浜田論文』を破折されたのは、先ほどの傍点部分なのです」
 と原島は述べている。
 この部分の文献は当方にはないが、おそらくは日寬アニミズムを根本に後世の偽書などを重ねて根拠としたのであろう。
 それがどんなに痛烈な文言で破折したとしても、真実を間違いであると破折することは不可能だから、その内容は推して知る可しである。

 さらには、原島崇は続いて、
「かわって、『前進』の九月号に、今度は浜田論文をたしなめるものを書くようにとの指示が秋谷副会長(註、後の第五代創価学会会長)からあり、それも、私が、教学部副教学部長に書かせ、辻武寿師範の名前で掲載したのです。
 考えれば愚かしいことです。浜田論文もそれをたしなめる論文も、私が指示を受けて推進したのであって、しかもかつ猊下への反論も、私が指示を受けて副教学部長の一人に書かせていたのです。こうなっては私も精神分裂というか、どっちも論証できる人間にならなくてはいけない、一種の教学をもてあそぶ〝技術屋〟になりさがってしまっていたのです。私も、学会の体質の〝ウミ〟の中にどっぷりとつかっていたのです」(原島崇著「池田先生への手紙」P162-164)と述べている。

 原島もまさしく池田大作の忠実な弟子である。しかもその遺伝子的性質を忠実に受け継いで自身に発現している。
「学会の体質の〝ウミ〟」とは、まさしくこれであり、山崎正友の「虚実とりまぜて」といわれる性質とも共通しているといえる。

「ただ、私とすれば、いまとなってはこうした私の体験から、良識ある読者の方が創価学会の体質を鋭く見破ってくださることを念じるばかりです。
 日蓮大聖人の法義は厳正なものです。それを、どっちにも、どのようにも解釈できるテクニシャンになってしまえば、私自身、大謗法をおかしたことになります。私が、池田先生の〝アクセサリー教学〟をつくり得たのも、御書を、先生の行動に合わせて適当につなぎ合わせの論理が優先し、教学が従にされていたことに対して私の一種のあきらめであり、いわば、その論理に屈伏したことを意味します。
 大聖人の仏法を学会内でふみにじったのはだれであろう、教学部長であった私自身だったのです。私は、学会が大聖人の仏法に反していくのを感じながらも、その大聖人の仏法を死守する勇気がなく、ただひたすら自己の保身に汲々としていたのです。いま罰を受けるのも当然といわなければなりません」(原島崇著「池田先生への手紙」P164)

なんとも、痛ましい告白である。

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