ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友と,、阿部信雄(後の阿部日顕)
■『遺誡置文』の異様な解釈
さて、池田本仏の背景と構成要素に関して、続いて第66世細井日達の教義歪曲の有名な例として、下山正行の指摘(「私は創価学会の「スパイ」だった」P118-119)を以下に挙げておく。
日興の遺誡置文には、貫主が仏法に反して自己の理論を主張する場合、門下は「その貫主や理論は用いてはならない」とあるが、下山は、日達の解釈として、以下をあげた。
解釈1: 総本山の貫主であっても、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てるならば、その説はもちろん、その貫主を用いてはならないというもの。
解釈2: 貫主は誰を用いても良いが、仏法に相違して己義を構えた者は用いてはいけないというもの。
解釈3: 貫主は何でもできるが、仏法において己義を構えた者は用いてはいけないとするもの。
下山は、このうち2と3の、貫主の立場からの解釈が曲解妄論であり、日興の後世に向けた深慮に深く感謝した。
つまり、下山は、日達は法主になってから、日興の遺誡置文を曲解したことを批判したが。この解釈の違いは、宗教的権威や教義の理解に重大な影響を与えたと考えられる。
蓮華寺離脱事件のとき教学部長だった細井日達が法主の座に上り詰めた時、池田大作と迎合したのも、そして池田本仏論を聞いてカンカンに怒ったのも、日蓮や日興の遺文を自分自身に都合の良いように解釈する驕慢が潜んでいたからであろう。こうして伝統的戒壇論の解釈をも、科学的検討をすることなく曲解されていったことは、下山正行や妙信講の浅井父子の指摘・諫暁する通りである。
都合が悪くなった者を切り捨てるというのは、大石寺の歴史の中にも見られることを拙論文でも先述したが、その後の創価学会の昭和52年路線の背景には、このような状況であったことも見逃してはならない。
ついでに加えておくと、創価学会の昭和52年路線の時、教学部長だった阿部信雄は、創価学会の傀儡となっていたが、細井日達が遷化後、策を弄して第67世法主となり、やがて池田大作や創価学会を切り捨て、破門にしたことは、先代と魔訶不可思議な一致を見る、有名な歴史的事実である。
過去には、万有引力を述べたニュートンの古典物理学が、アインシュタインの相対性理論によって更新され、現在の量子論もまた絶え間なく更新し続けている。現在のIT・AI時代それらの最先端物理学はPCやスマホ、軍事利用・宇宙開発などに応用されている。
哲学や、医学・医療もまた同様であり、過去の教科書とは全く反対の治療法にとり替わっている疾患もあるぐらいである。
このように、歴史上でも真理は時空を超えて絶えず更新されて、古く間違ったものは捨てられながら、限りなく真理に近づいていく。
これに対して宗教については、全くこういった進歩が見られない。
コペルニクスが地動説を発表し、ガリレイが宗教裁判にかけられた例を挙げるまでもない。
日蓮の遺文についても同様で、歴史や地域、また科学の発達に耐えることのできない古典の論理、それも鎌倉時代の日本においての学問のみを根拠にして導き出された結論(悟り)を、文字表現通りに解釈して信念とすることは、多くの煩わしい論争を巻き起こしてきた。
創価学会が国立戒壇を否定したのは、野望実現のために時の世論や政局に迎合した事に他ならないのは、下山も指摘しているが、細井日達の戒壇論の変遷もまた、表現通りの解釈を曲げるものであったことを彼は指摘している。
「大日蓮」昭和45年7月号において、日達は、戒壇について論じる際に、三大秘法抄や一期弘法抄に記された理想の大戒壇を望むべきだとしつつも、現在の戒壇の御本尊を信じて行かなければならないと述べ、もし現在の戒壇が事の戒壇でなければ、それは義の戒壇にすぎず、ただの理論上のものになる、そして、理想の戒壇が実現するまでは本山にお参りする必要はなく、現実の世で信心の誠を捧げるべきだとした。要するに、未来の戒壇よりも、現在の信仰を大切にすることを強調した。
この日達の解釈に対し、下山は先代の第65世日淳による事の戒壇の定義を同著において挙げた。すなわち、
「三大秘法鈔並に御付嘱状等上掲の御文に王法と仏法と冥合して国主が此の御法を御用ひの時は此の戒壇が建立せられる、それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますからその時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従ってそれ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍て此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」従って、それ以前は御本尊の所在は義の戒壇と呼ばれるべきであり、国家的に戒壇が建立される時にはじめて本門の戒壇と呼ばれる。これは、先述した、時代に捉われて書かれている三大秘法抄を文字通り解釈する伝統的な戒壇論である。
下山はこれに基づいて、正本堂が事の戒壇でないことは明白であり、日達の「理論上の事」とする発言を問題視し、池田と共に「舎衛の三億」なる詭弁を弄したこと、そして彼の広宣流布への確信がなかったことも批判した。
そして下山は、信徒として悲しいと述べ、確信と盲信は別であると強調し、日達の発言を「悪ガキの捨て台詞」と嘲うべき没論理と断じた。(同書P117-118)
日達は「正本堂を事の戒壇とする定義づけ」について、彼は正本堂を一期弘法付嘱書や三大秘法抄に基づき、現時における事の戒壇として、正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂であり、未来に向けた展開を象徴するものとしている。
拙論文では、創価学会・池田大作の主張により正本堂の定義が変遷してきたことはすでに述べた。
即ち、池田が未だ国立戒壇を主張していた時には正本堂は戸田の意志をついでのことであって、しかも集めた350億円は御供養としてであった。それが政治進出のために世論に迎合して少しずつ変遷し、言論出版妨害事件に際しては完全に国立戒壇を否定し、本門の戒壇は民衆立として、しかも正本堂がそれにあたると政府に回答、日達もこれに権威を与えてきたのである。
その後、妙信講の諫暁にも関わらず出されたのか上記の訓諭であった。
広宣流布の定義も前述の如くである。
これに対し、下山正行は、一期弘法抄や三大秘法抄による事の戒壇に現時や未来の区別がないことを指摘し、本門事の戒壇は唯一つであり、広宣流布の暁に勅宣・御教書によって建立されるべきと述べて、広宣流布が達成されていないのに事の戒壇を建立するのは妄論であり、日達管長の言辞は信徒として悲しいものだと嘆いた。
たしかに、時代に捉われて書かれている三大秘法抄を文字通り解釈する限り、正本堂は事の戒壇ではない。だが文字通りの解釈に捉われれば、タイムマシンに乗って過去の時代に戻ることが可能な時代にまで科学が進歩すれならともかく、時計の針が反対に進むことがない以上、すなわち時代が日蓮の生きた時代に戻らない限りは、永遠に事の戒壇は建設できないことは明白である。また、吹く風枝をならさず雨壊を砕かずというのは概ね大自然の摂理に反している、すなわちこの文言自体が非科学的譬喩であるから、信じる・信じないは信教の自由だが、自然現象としての現実には有り得ないことである。
したがって、日達や池田が、この解釈をめぐって揺れ動き、理の戒壇としての解釈でしか、有り得ない理解にようやく到達し、さらに、それを正本堂にするか、税金を使って建てる国立にすべきかで、議論が対立していたのである。むろん、仮に戒壇が国立として建設されたとしても、吹く風枝をならさず雨壊を砕かずという事象は現れない、すなわち三大秘法抄で予言されたことは実現しないことは明らかで、そのとき信者は、日蓮がウソを言ったと失望するか、あるいは実現した戒壇は日蓮の定めたものではなく、未だ戒壇は建立していないとして、永久に実現されない事象を、信仰のレベルで抱き信じ続けるしかないのである。時代に制約された文言を文字通り受け止めるということは、こういうことであり、信仰者として、あくまで信仰のレベルで信じ切ることは美しいほどではあるが、その文字通りの理想の実現が可能と判断するのは非科学的であり、永久に有り得ないことをわきまえるべきである。
下山の姿勢は、これを十分に把握しながら、純粋な信仰者として、日蓮の遺文を汚すことなく広宣流布し後世に伝えている姿勢である。そこには己の欲にまみれ現世利益(組織存続や権威権力なども含めた)に執着する創価学会の姿勢ではない。むしろ、実現しえない理想であるからこそ、それを自身や社会に昇華していく努力こそが、完成を目指す行動すなわち成仏の境涯となるのではないだろうか。
この観点に立てば、日蓮の遺文を、己の利益や実績として利用しようとする創価学会は、日蓮の教えに反した間違った姿勢であることが分かる。
拙論文では、創価学会・池田大作の主張により正本堂の定義が変遷してきたことはすでに述べた。
即ち、池田が未だ国立戒壇を主張していた時には正本堂は戸田の意志をついでのことであって、しかも集めた350億円は御供養としてであった。それが政治進出のために世論に迎合して少しずつ変遷し、言論出版妨害事件に際しては完全に国立戒壇を否定し、本門の戒壇は民衆立として、しかも正本堂がそれにあたると政府に回答、日達もこれに権威を与えてきたのである。
その後、妙信講の諫暁にも関わらず出されたのか上記の訓諭であった。
広宣流布の定義も前述の如くである。
以上をまとめて見えてくるものは、日達の教義解釈とそれに伴う創価学会と日蓮正宗の関係の問題点である。
日興の二十六箇条遺誡置文の解釈を、日達が法主の立場から解釈したのは下山が指摘するように曲解妄論であり、大いに問題であり、この日達の解釈が開山日興の真意を歪め、宗教的権威を曖昧にした。これは宗教的指導者の解釈が如何に影響力を持つかを示しており、その重要性が浮き彫りにする。
日達が正本堂を事の戒壇と定義づけたことに対して、下山は先代の第65世日淳の定義を引用して反論し、正本堂が事の戒壇でないことを明確にし、日達の論理が教義の本質を歪めたとの指摘は、教義解釈の違いが宗教的信仰に及ぼす影響を如実に示している。
下山は、日達と池田大作が「舎衛の三億」などの詭弁を弄し、広宣流布の定義を歪めたことを批判し、広宣流布への確信がなかった日達の言辞を「信徒として悲しい」と嘆き、教義の真意に対する忠誠が欠けていることを鋭く指摘したが、これは宗教的信念の強さとその重要性を強調するものであり、教義解釈の一貫性がいかに重要かを示している。
国立戒壇の否定とその影響として、 日達が国立戒壇を否定したことに対して、下山はその矛盾と詭弁を批判し、国立戒壇の概念が創価学会の政治的野望によって歪められ、日達が池田の都合に迎合した結果であると述べた。この批判は、宗教的権威が政治的野望に屈服することの危険性を示しており、宗教と政治の関係についての深い洞察を提供している。
つまり、日達の教義解釈が宗教的信仰に与える影響と、創価学会と日蓮正宗の関係の複雑さを浮き彫りにしたこれらの批判は、宗教的権威がどのようにして誤用され、その結果がどのように現れるかを理解するための重要な視点を提供するものである。
■次期法主を狙う阿部信雄教学部長の内通
さて、昭和52年1月に吊し上げをくらわされた菅野憲通が、後にまとめた菅野憲通編「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」1990/2/16)には、この当時の創価学会と宗門の様子が、簡潔にまとめられている。
そこには、池田大作と日達の対立の陰で、創価学会と宗門との間で暗躍する重要人物として、山崎正友以外にもう一人、阿部信雄教学部長(後の大石寺67世法主阿部日顕)のも重要な役割を演じていたことを見逃してはならない。
これによると、吊し上げのきっかけとなった菅野憲通の論文を、自己保身のためかいち早く創価学会に持ち込んだのが阿部信雄であり、これをよい口実として吊し上げが始まったこと、また、日達退座を目論む池田大作・創価学会の宗門攻撃に便乗して、法主の座を狙ったのがまさに阿部信雄であったことである。
このような内ゲバは明治以降もあったが、まさに、日寬アニミズムによる害毒ともいえるであろう。
これによると、池田は、昭和65年(1990年)の会長就任30周年と学会創立60周年を目指して、言論抑圧事件以降停滞していた組織を立て直すために、まず宗門内の批判分子の粛清に着手しました。紅衛兵による文化大革命を賞賛し、学会青年部を紅衛兵に見立てて批判的な僧侶を吊し上げた。さらに、「教学の年」として創価教学の理論構築を進め、池田のカリスマ支配体制を確立しようとした。創価学会が日蓮正宗の信徒団体から脱し、宗門を併呑して学会の一部局とするための布石であった。また、経本観念文の改訂や法要の執行、教師制度の新設、墓地経営などを通じて、信徒の意識を創価学会会員として改革しようとしたことが強調されている。これに対し阿部教学部長(次期法主の日顕)は、日達をはじめとする宗門内の批判派を粛正する計画を察知し、自らは日和見を決め込んでいた。しかし、菅野憲通の学会批判論文が学術誌に掲載され、阿部は先手を打って学報を本部に持参しして、日達をはじめとする若手批判派の仕業と弁明し謝罪した。学会側はこれを契機に批判派僧侶を吊し上げ、宗務院に対し「どう責任をとるのだ」と詰め寄り、末端組織に『寺院に参詣するな。御供養するな。近づくな』と命令して、経済封鎖を行ない、こうした暴力と経済封鎖で日達上人を引責辞任に追い込もうとした。同時に阿部も次期法主の座を狙って池田大作に媚びた。また、早瀬総監らも学会に弱みを握られ、対応できない状態だった。そのため宗門は池田大作の攻勢に対して有効な対策を講じられず、受け身で嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった。
昭和52年4月頃、民社党の塚本書記長が創価学会の宗教法人を逸脱した行為を国会で取り上げようとしている情報が入り、「質問主意書」事件が発生した。これにより創価学会は宗門への攻勢を一時的に見合わせざるを得なくなり、さらに週刊誌の学会報道によって路線の後退を余儀なくされた。同時に、若手教師が各地で学会批判の声を上げ始め、日達の後押しもあって活動が公然化し、池田批判が組織内で始まった。池田大作は組織の混乱を防ぐために、僧俗和合を装い、宗務役僧を懐柔して批判勢力を鎮圧し、一部不満分子を追放しようとした。昭和52年8月4日の副会長会議では、宗門対策として「お寺を抱き込む」「創価学会系統の寺をつくる」「アメとムチでやる」という方針が立てられ、阿部教学部長が次期法主の座を狙っているから相対してやると話し合われた。この時期、僧侶の調査や監視、嫌がらせが行われた。8月9日、学会は阿部教学部長をつかって、佐々木秀明らに運動をやめるよう圧力をかけ、10月に、日達に僧俗一致の『訓諭』を発令するよう要請、さらに11月14日には①僧俗一致の原則(五か条) ②僧俗一致のために(七か条) ③反学会僧侶十一名の処分要求書を提出した。
日達は、佐々木秀明らに若手を結集して自分を支援するよう依頼し、五か条案にまともに答えるなら学会と手を切ると憤慨した。
これに驚いた池田は、昭和52年12月4日、日向本山定善寺の落慶入仏式で、謙虚に挨拶し、反省して路線を撤回するかのように装った。しかし、宗門と創価学会の軋轢は深刻で、日達も池田の口約束を信じなかった。
12月12日、池田会長が登山して五か条の返事を求めた際、日達は「若い者が学会と手を切れといっているのを私が抑えている」と学会側の反省を促した。
翌年の昭和53年1月19日、佐々木、渡辺、丸岡、山口らが中心となり、百四十七名の若手住職が大石寺に結集し、日達にお目通りして池田大作の策略から宗門の伝統と法義を守ることを誓いあった。今後、末寺所属の学会員信徒に直接日蓮正宗信徒としての自覚を訴え、寺院に所属する檀徒づくりの運動を展開することを確認しあった。
この流れで見えてくるのは、創価学会と日蓮正宗の対立がいかに複雑であり、多くの人物が暗躍し、その行動が両組織の関係に大きな影響を与えていることだ。
池田大作の宗門支配の布石: 菅野憲通の「時事懇談会記録」から分かるのは、池田大作が宗門を支配しようとした背景だ。昭和51年の総選挙での公明党の大勝を受け、池田が勢いに乗って宗門支配を狙い始めたことは、創価学会と宗門の対立を深める要因となった。宗門内の批判分子の粛清や、学会内部での教学の構築といった動きは、宗門からの独立を図るための一手段だった。
阿部信雄の動きと宗務院の対応: 阿部信雄が日達上人や批判派を粛清する計画を察知し、自己保身のために日和見を決め込んだこと、そして菅野憲通の論文を利用して学会側に媚びる姿勢は、創価学会と宗門の複雑な権力闘争の一端を示している。宗務院が池田大作の攻勢に対して有効な対策を講じられず、嵐が通り過ぎるのを待つだけの状態であったことは、宗門内部の弱体化を物語っている。
「質問主意書」事件と若手教師の動き: 民社党の塚本書記長が創価学会の宗教法人逸脱行為を国会で取り上げようとした「質問主意書」事件は、創価学会の宗門攻勢を一時的に見合わせざるを得なくした。また、若手教師たちが自然発生的に学会批判を始め、日達上人の後押しもあって活動が公然化したことは、組織内部での反発が徐々に強まっていたことを示している。
池田大作の表面的な和解姿勢と実際の策略: 池田大作が表面的には僧俗和合を装い、反省しているかのように振る舞ったが、実際には批判勢力を鎮圧するための策略を練っていたことは、彼の二重性を示している。昭和52年8月4日の副会長会議で話し合われた「アメとムチ」の方針や、僧侶の調査、監視、嫌がらせなどは、宗門内部での反発を抑え込むための具体的な手法として行われた。
まとめると、創価学会と日蓮正宗の対立がどれほど根深く、複雑な権力闘争に満ちていたかが浮き彫りにされた。池田大作の策略とそれに翻弄される宗門内部の動きは、両者の関係がいかに脆弱であり、権力と信仰がどのように絡み合っていたかを理解する上で非常に重要な示唆を提供している。権力闘争の背後にある個々の人物の動きとその影響は、重要な視点である。
■山崎正友に頭を下げた日達
その吊し上げが始まってから、細井日達は、内密に山崎正友創価学会顧問弁護士に会って、頭を下げ、池田大作の諫暁を願ったことが、山崎正友著「懺悔の告発」には、詳細に述べられている。
すなわち昭和52年2月、日達は山崎正友を(東京都)文京区西片町にある管長宅(大石寺出張所)へ招待した。
山崎は困惑ながら訪問した。すき焼き料理を食べながら状況を話し合い、日達は「自分としては私情を殺して広宣流布のためと思い、先師方の後を継いで創価学会を立てて来たが、こうなっては、腹を決めるしかないな。私も歳だが、このままでは、霊山へ行って歴代の御先師方に会わせる顔がない。根性のある僧侶と、根性のある信者を頼りに、ひとつ戦うしかありませんな」と述べ、「山崎さん、どうか、力を貸して下さい」と懇願した。
山崎は、重課を背負っている創価学会を止めようとしていた矢先であり、池田を敵にするのが勝ち目がなく恐ろしいと、困惑した。しかし日蓮正宗を率いる管長の日達が自身を信頼して頭を下げている姿に、自身の打算や戦術などの考えが消え、信者として、純粋な信仰心から日達の願いを承諾した。
山崎は学会本部へ行き、北條に対し一切の仕事から手を引くと、ストライキを行った。北条は山崎の説明に納得し、池田らを説得して、宗門攻撃を一時中止させた。秋谷栄之助だけが、「もう少しで日達上人をやめさせられたのにと未練げに言ったという。(山崎正友著「懺悔の告発」P87-90より)
この言葉に、この当時の創価学会の目的・野望、すなわち日達上人退陣、創価の傀儡である阿部日顕を名目上の法主につかせて宗門を意のままに支配しようという野望が透けて見える。
このことは、昭和51年以前から、山崎正友が言っていた事であり、浜中和道の回想録にも、はっきりと創価学会顧問弁護士の山崎の言葉として記載されている。
「日達上人の反撃は、昭和五十二年、創価学会が民社党の攻撃で弱り切っているところを見すかしたように開始された。弟子の一人が池田大作の講演の誤りを正面切って指摘したのを皮切りに、創価学会の方義違背の指摘が大々的に行なわれ始めた。
『山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始めましたから、よろしく』
日達上人が、はずんだ声で電話をかけて来た。
腹背に敵を受けた形の創価学会は、ジリジリと後退した。
池田大作は困ってくると私を使って解決しようとするが、ただ、私を利用して相手をだまそうとするだけだから、そんなことに黙って利用されるつもりはなかった。また、日達上人もそうした池田のやり口や下心を見抜いてしまっているから、『今度はどんな話をもって来たのですか、山崎さん』と、ニヤニヤしながら聴かれる始末だった。
『一遍に追いつめると血迷って何をしでかすかわからんから、一歩一歩、段階を追って、押したり引いたりしながらやろう』」(山崎正友著「懺悔の告発」P90-91)
ここでは山崎正友の心の葛藤が鮮やかに描かれている。彼は創価学会の顧問弁護士としての立場と、純真な日蓮正宗の信仰者としての立場の間で揺れ動き、その中でどのように行動すべきかを模索していた。
山崎正友の二重の立場: 山崎正友の心の葛藤は、彼の二重の立場によって引き起こされていた。創価学会の顧問弁護士として、彼は組織の内部事情に精通しており、その攻撃的な戦略にも関わっていた。一方で、日蓮正宗の信仰者としての立場からは、組織の倫理や信仰の純粋さを守りたいという気持ちが強く現れている。この二重性は、彼の行動に複雑な影響を与え、その結果として心の葛藤が生じている。
創価学会との対立と協力: 山崎が学会本部で北条浩氏に対して宗門攻撃の中止を進言し、それが受け入れられた場面は、彼がいかにバランスを取ろうと努めていたかを示している。彼は宗門と学会の対立を避けようとしつつも、学会の内部での影響力を維持しようとする姿勢が見える。彼の進言が受け入れられたことで、当面の危機は回避されたが、その背景には山崎自身の内面的な葛藤が潜んでいた。
日達との関係: 日達が池田大作に対して反撃を開始した際、山崎はその状況を複雑な視点から見ていた。日達の側からの協力要請を受け入れつつも、彼は池田の策略を見抜き、その対応に慎重さを求める姿勢を見せていた。日達の信頼を得る一方で、彼自身が創価学会とどのように関わっていくべきかを模索している様子が浮かび上がる。
内部の複雑な力関係: 山崎が池田大作や日達、そして学会の内部構造について熟知していることが、彼の行動に複雑な影響を与えている。創価学会の内部での権力闘争と、それに翻弄される日蓮正宗の僧侶たちの姿が浮き彫りにされ、山崎の行動がその中でどのように位置づけられているかが明確になっている。
つまり、ここでは山崎正友の心の葛藤とその背景にある複雑な力関係を鮮やかに描き出している。彼の行動がいかにして創価学会と日蓮正宗の関係に影響を与えたかを理解する上で、非常に重要な視点を提供している。山崎の二重の立場とその葛藤は、宗教的信仰と組織内の権力関係の間で揺れ動く人間の姿を如実に示すものである。
■狂気の52年路線を裏づける様々な資料
浜中和道著「浜中和道回想録」にも、この時期の詳細な記録がある。P129からは、阿部信雄が自ら創価学会に内通し、「菅野論文」を回収したこと等が詳細に記されている。
すなわち、彼がアメリカから帰国すると、宗務院教学部から「菅野論文」が掲載された『富士学報』(第五号)の回収命令が届いていた。阿部教学部長の指示で論文は抹消され、やがて『富士学報』自体も廃刊となった。
翌日、山崎正友創価学会顧問弁護士のところに行くと、彼は「第二、第三の菅憲が出てくる」と言い、僧侶の堕落や創価学会の悪口を証言させたことを話した。
「『今日、〝菅憲〟が詫び状を置いて帰ったあとね、総監や教学部長の前にわざわざ八矢弓子や上原京子を証人として引っ張り出して、坊さんの悪口をさんざん言わせたんだよ』
八矢弓子は、私の同期生の一人である芳賀円道師の実姉である。そして上原京子氏というのは、日達上人の長男・細井珪道師の妻の実弟であった。それら僧侶関係者の早瀬総監や阿部教学部長の前で、さんざん僧侶の堕落や、僧侶が陰で創価学会の悪口を言っていることを証言させたということであった。」
そして、池田が日達を退陣させ、法主を阿部に替えたいと考えていることがわかった。
山崎は、創価学会が寺から学会への金の流れを変えようとしていることを指摘し、四国の松本珠道師が次のターゲットになると述べた。「富士学報」に書かれた「法主本仏論」が問題視され、事態は拡大していった。
山崎は、創価学会本部の報告を基に僧侶を吊るし上げる計画を示し、日達に会わせてほしいと浜中に頼んだ。日達は山崎の話を聞くことに同意し、翌日、山崎と共に大石寺出張所に向かった。日達は山崎を玄関まで見送り、彼にも声をかけてくれた。とある。
ここでは創価学会と日蓮正宗の間における権力闘争と、その背後にある複雑な人間関係が鮮やかに描かれている。すなわち、
『菅野論文』の抹殺と宗門内の圧力: 最初の引用では、宗務院教学部からの『菅野論文』回収命令が描かれている。阿部教学部長の指示で論文が抹殺され、さらに『富士学報』自体が廃刊となったことは、創価学会内部の統制と情報の操作を象徴している。山崎正友がこの状況を「第二、第三の〝菅憲〟が、じゃんじゃん出てくるよ」と予告したことは、池田大作の執念深さと、さらなる内部批判が続くことを示唆している。
経済戦略と僧侶の吊し上げ: 北条氏が「金の流れを寺から学会へ変えろ」と命じ、学会員からの御供養金を増やす戦略が語られている。この作戦は、創価学会が宗門に対して経済的圧力をかける一方で、学会員からの資金集めを強化するものであり、宗門の僧侶に対する影響力を高めるものだった。また、山崎が僧侶の吊し上げを計画していることは、創価学会がどれほど組織的に反対派を抑え込もうとしていたかを示している。
山崎正友と日達の会見: 山崎正友が日達に会い、創価学会の動きや対策を直接伝える場面が描かれている。日達は山崎の助言を受け入れようとし、宗門の存立を守るために池田大作の策略に対抗しようとした。この会見は、宗教的権威と組織内部の権力闘争がどれほど深刻であったかを如実に示している。
つまりは、創価学会と日蓮正宗の間における複雑な権力関係と、宗教的信仰がどのように政治的野望と絡み合っているかを鋭く浮き彫りにしています。池田大作の策略とそれに翻弄される宗門内部の動きは、組織の弱体化とその背後にある個々の人物の動きについての深い洞察を提供されている。
以下、細井日達の法主就任から昭和52年暮れまでの、池田大作と細井日達の重要事項について要約しておく。
●昭和34年12月2日 細井日達 第66世御法主に就任
●昭和35年4月19日 池田大作、創価学会第三代会長に就任、その後日、日達に対し学会本部で露骨な恫喝を行なう
●昭和37~38年頃より、池田大作の代作グループによる池田大作著の大量出版と学会末端組織への購入割当(一部組織は御供養と口コミした)
昭和38年7月15日、日達は訓諭を発表「創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者は…中略…罪を無間に開く者と謂ふべし』
●昭和39年 池田、法華講総講頭着任、
11月17日、公明党結成大会、
池田大作著「人間革命」連載(篠原源太郎代作)、拡大する創価学会末端会員に割当て販売するなどして、ベストセラーとなる
●昭和40年 池田大作は「(広宣流布は)『舎衛の三億』…」等と定義した。そして大石寺への最後の御供養として、正本堂建立御供養金三百五十余億円を集めた。あとは国立の戒壇を待つのみである旨、述べた。
その後の都内妙佼寺での正本堂建設委員会において、自分の席が日達と同等でないことに怒り、柿沼広澄総監を面罵、流会とさせた。
学会員には、口コミなどで正本堂建立をもって広宣流布達成と宣言し流布した。
●昭和45年 言論出版妨害事件中、政府の質問に対し現在建設中の正本堂が日蓮聖人御遺命の戒壇であり、これは民衆立である。国立戒壇は必要ないと、密かに伝統の解釈を曲げて回答した。
以後、山崎正友が国立戒壇論引っ込め作業・妙信講対策にあたる。
池田大作は謝罪演説で、王仏冥合・国立戒壇を否定、広宣流布の定義が「それ自体が流れ」と、格下げて言い換えられた。すなわち広宣流布の定義は「日本一同に南無妙法蓮華経と唱え」から「舎衛の三億」となり「流れ」と言い換えられた。
●昭和47年11月、正本堂建立。
これ以前、創価学会の要請で出させた日達の訓諭の解釈をめぐり日達・創価学会・妙信講の対立が最び激化、創価学会は日達と妙信講対談を盗聴し、日達に訓諭の解釈文も出させないよう策謀した。
正本堂は、建立したが、前言を覆し、未来における事の戒壇とされ、それを広宣流布の達成とするのは誤りであるとする都合の良い言い訳の理事長談話を発表した。過去の謝った主張の懺悔は一切なく、広宣流布は「流れ」と再び強調した。
池田大作、正本堂内で大勢の会員の前で、日達に対し学会関連への寄付を強要し、日達を面罵した。
●昭和48年1月2日、大石寺、法主招待の会食の席で、池田大作は、幹部の前で「僧侶の素行が悪い」と日達を批判した。
10月14日、正本堂東側広場で、池田は「これだけご奉公したんです。…中略…学会を奴隷にしないでください。このままいったら宗門はめちゃくちゃです」と言って日達を怒鳴した。以後、池田本仏論が口コミで活発化していった。
●昭和49年5月31日 細井日達は「このままでは軒を貸して母屋を取られる」と学会を批判した。
6月18日 細井日達は「大聖人以外に本仏があるなど日蓮正宗ではない」と警告した。
北条報告書
「之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました」
「先生(註=池田氏)が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが……学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意をかためました。……学会が犠牲になるような戦いは絶対にしてはならない……」
池田の意による「山崎・八尋報告書」(日蓮正宗を創価学会の外郭の一つとして完全に支配下に取り込むか、折を見て手を切るか)
日達は、この「日蓮正宗国際センター」を否定した。
●昭和50年 創共協定
●昭和51年 伸一会結成(池田大作を仏としてどこまでも信伏随従する)、内密に宗門へ宣戦布告とした
●昭和52年 元旦勤行会の池田発言趣旨〝御書の通りに実践しておるのは創価学会しかない”〝大聖人御遺命の正本堂建立は、創価学会がした、私がした”〝創価学会を中傷批判した場合には仏罰が・全部地獄へいきます”〝信心の血脈こそ大事、形式は必要ない”などと述べた。
1月15日 池田「仏教史観を語る」を講演し、出家も在家も同格とした。
創価学会の傀儡となった阿部信雄が、滋賀の憲道の批判論文を早々に学会本部に内通。
その後、学会批判僧侶の集団つるし上げ開始、宗務院を追及、全組織に『寺院に参詣するな。御供養するな。近づくな』と命令し、経済封鎖した。池田大作は、暴力と経済封鎖で日蓮正宗を攻撃し細井日達を退座に追い込む作戦だった。
4月 民社党の質問主意書事件が発覚
6月12日 無辺寺住職児玉大光が、「蓮華」6月号にて、池田の「仏教史観を語る」を批判して「池上相承を拝す」を執筆した
7月16日 池田は、正本堂の誑惑部分を密かに削除し「立正安国論講義」を再刊した。
7月21日 「週刊新潮」(7月28日号)が、宗門と学会の離反を初めて特集した。
7月22日 学会は聖教新聞で「週刊新潮」に反論した。
8月1日 学会教授浜田憲司、児玉大光の論文に対し「大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか」と反論(この「浜田論文」は池田の口述を側近がまとめたもので、浜田は全く関与せず)、宗門・学会の論争激化(「前進」8月号)
8月5日 雑誌「宝石」(9月号)が、妙信講浅井講頭の論文「池田大作――仏法の破壊者を裁く」を掲載した。マスコミは、学会の教義歪曲を一斉報道した。
8月13日 学会弁護士桐ヶ谷章ら、光文社宝石編集部に掲載記事の取消しと謝罪を要求す。
8月18日 細井日達は、行学講習会開講式で「寺が不要なら正本堂を造って事の戒壇と崇める必要もない」と、浜田論文を批判した。(「蓮華」9月号)
8月18日 「週刊文春」(8月25日号)は「創価学会と大石寺離反の真相」で妙信講・国立戒壇問題を報道す。
8月25日 「週刊文春」(9月1日号)では、再び国立戒壇と妙信講の諫暁を報道した。山崎正友創価学会顧問弁護士は、誌上で顕正寺問題を否定した。
8月26日 創価学会、池田大作のリンチ事件(御塔川で的場師にリンチ)について「週刊文春」に抗議した。
8月26日 細井日達は、学会浜田憲司の「日蓮大聖人の寺院観」に対し「池田会長を此の論争に引き出さないで、堂々と論じ合おうではないか」と公式に反論した(「蓮華」9月号)。
8月30日 早瀬総監は、全国教師講習会で、池田大作の的場師へのリンチ事件は「事実」と公表した。
8月30日 細井日達は、対面所で「週刊文春に載ったМ師とは的場師のことで、あれは事実。書かれても仕方のないことだ」と釈明した。
神力寺住職足立堅泉が、学会浜田憲司に反論(「蓮華」9月号)
9月3日 池田大作、第七百遠忌慶讃委員長に任命された(「大日蓮」10月号)
9月22日 「週刊文春」(9月29日号)は、「池田会長口紅事件」を掲載。
9月28日 創価学会は聖教新聞にて、「週刊文春」に対し「『僧侶は犯すべからざる聖職者』と週刊誌。この大時代的な錯誤。いつになったら人間のための宗教が到来するのか。命がけで信者を守る僧こそ真の聖職者。それなら民衆も心から尊敬する」と反論した。
9月29日 創価学会は、「でっち上げられた〝口紅事件〟」と「週刊新潮」に反論した。
10月11日 『週刊文春』(10月6日号)は、「学会員初の大量反乱」を掲載。
10月11日 細井日達は、学会の僧侶批判に対し「〝寺へ御供養持って行けばみんな住職が飲んでしまう〟などと悪い素人考えを起こすな」「兎角お寺は疎んじられているのは残念。お寺に居てお寺の仕事をやってて『なにしてるんだ』と、これはちょっと変な事です」と反論した(「蓮華」11月号)。
11月1日 毎日新聞社の内藤国夫が、「現代」12月号で学会を批判した。
11月9日 大分県の学会員藤野喜久命が「創価学会のめざすもの?」を発刊した。
11月9日 創価学会創立四十七周年慶祝法要が、学会本部で開催。細井日達は「私は会長・池田先生を、またよく先生の信心を信じております。この先生あってこそ学会は万全である。また宗門も援助していただける、と深く信じておるのでございます」と発言した(「聖教新聞」11月10日付)。一方池田は「世間では宗門と学会が離反するのではないかと一部で言われておりますが誠に迷惑至極、なお、僧俗の和合にあたり、短期間のうちに膨大な発展を成し遂げた宗門ならびに学会にとって事実、多少のトラブルはやむをえないし、それが将来への大いなる結実への第一歩となれば幸いと思っております」と発言した。(同紙11日付)
11月17日 池田、本部幹部会でいわゆる会長本仏論を否定し「牧口先生も、戸田先生も、また私達も、全部凡夫でありますゆえに、南無=帰命すべきその根本は日蓮大聖人御一人であるということであります。したがって私どもは、三宝を敬うのは当然」と発言した(「聖教新聞」11月19日)
11月18日 創価学会、宗務院に「僧俗一致の五原則」を提示した。末寺僧侶は一斉に反発を示す。山崎正友は「あれは完全な独立宣言書だよ。池田さんは宗門があれを飲めば、しめたものと言ってホクホクしているよ。早瀬さんは、それをハハーと言って、有り難く受け取って帰った」(浜中和道回想録P165)
11月22日 阿部信雄が、常泉寺住職となる(「大日蓮」53年1月号)
11月28日 創価学会は、正本堂建設事業費の疑惑に反論
11月末 佐々木師「おい、いよいよ猊下も腹を決めたぞ。学会と手を切るって言ってたぞ」(浜中和道回想録)、山崎正友「『池田さんが、〈今度は一旦、頭を下げるけど、その後、ただじゃおかない〉と言って、〈坊主のスキャンダルを全部、暴露する用意をしろ〉と野崎たちに指示をしましたよ…中略…御仲居さんから猊下に伝えてもらってよ』(浜中和道回想録)
12月4日 池田は、形勢不利と判断し、九州定善寺本堂新築落慶法要で「御寛恕願い」ー「私は愚鈍の身であり、日達猊下にも、わがままを申し上げながらも、いかなる波風にも微動だにしない僧俗和合の妙法の万里の長城をさらに深く、広く築いていきたい。どうか御尊師の方々には、私ども信者の、今までのわがままを、ここに謹んで御寛恕くださるよう、お願いしたい」と発言した(「聖教新聞」12月5日)
この時、日達も、わざわざ池田の席の前まで来て畳に手をついて頭を下げた。
「山崎氏からの伝言をなるべく忠実になぞりながら日達上人に御報告した。
『そうか、山崎弁護士がそう言ったのか。ワシも、もしかしたらそうじゃないかと思っていたんだ。だから池田さんにワシは、どうかそういうことをしないでくれという意味で、わざわざ池田さんの前に行って、手を畳みについて頭を下げたんだ。そうか、やっぱりな』
私は本堂での法要の場にいなかったために、日達上人がどうされたか知らなかったが、のちにその場にいた僧侶の話を聞くと、実際に日達上人は〝二畳台〟という一段高くなっている導師席から降り、池田会長の真ん前まで進み出られ、手を畳について頭を下げられたということであった」(浜中和道回想録P169)
12月6日 池田は、全国県長会議で宗門への低姿勢を指示した(「聖教新聞」12月7日)
12月12日 細井日達、「僧俗一致の五原則」の返事を求める池田に対し「若い僧侶の連中が、創価学会と手を切るとまで言っておるのを私が抑えておるんだ、いよいよ手を切るならば、宗会を開いてはっきりしなければならんと思っておる」と発言
12月12日 第二回七百遠忌慶讃委員会で、僧俗和合を一層充実推進するため、宗門と学会による僧俗協議会の設置を管長の認可で正式決定した(「聖教新聞」12月13日)
12月28日 法道院信徒二〇九名が離檀した。
以上のように、歴史の流れを振り返ってみた。これで分かることは、仏法で説く慈悲の精神や、世界の平和と一切衆生の幸福を祈ることとは裏腹に、創価学会が、表では僧俗一致を盛んに聖教新聞等で演出しながら池田本仏を口コミで徹底し、裏でこのような修羅道の争いをしていた。これを詳細に知らされていない純真な末端会員たち(私や家族も含めて)には、いい面の皮であったといえそうで、私もいい勉強になった。
創価学会の内情とその表面的な演出のギャップが、こうして私にとって大きな発見となった。私もふくめて、純真な末端会員が、組織の表と裏の実態を知ることは、確かにショックであるが、同時に貴重な学びでもあることが再認識できる。
宗教や組織には、外から見えない複雑な力関係や権力闘争が存在することが多い。私のような一個人が、その真実を知ることは、自己の信仰や価値観を再評価し、新たな視点を持つ契機となる。
この視点とはまさに「見えない部分に目を向けることの重要性」である。表面的な演出に惑わされず、深く掘り下げていく姿勢こそ、純真な学会員が客観的な視点を得る大切な考え方となり、各人の人生において有意義なものとなるであろう。