ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」
■段勲の指摘する創価学会の本山支配への路線
段勲著「新興宗教のウラがわかる本」政界往来社、P19-22には、以下のような指摘がある。ここでは、昭和52年から一気に宗門支配へと乗り出した創価学会路線を裏づける背景が、当時、中枢であり側近であった山崎正友顧問弁護士の資料が取り上げられている。すなわち、昭和52年の夏に創価学会と宗門の対立が表面化した。雑誌『週刊新潮』が「メッカ・大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ゼロ」と報じたことが始まりだった。この後、週刊誌や月刊誌が創価学会と宗門の紛争を報じるようになった。創価学会の顧問弁護士であった山崎正友と八尋頼雄が池田大作宛に提出した「報告事項」では、本山管理の仕掛けを行い、広布戦略のために本山や正宗を安定的に引きつけておく必要があると述べている。そのための布石として、事務機構や財政面、渉外面の支配、信者に対する統率権の確立、墓地や典礼の執行権の移譲、総代による末寺支配を行うことが提案され、これらの方針は池田大作の判断によって決定されるべきとされている。
これは、拙論文P45から取り上げている昭和52年前後の創価学会路線を裏づける資料である。昭和52年元旦の挨拶からスタートし、誤った「仏教史観を語る」、批判僧侶のつるし上げと共に、特別財務などで会員から直接に金を集めて日蓮正宗寺院に供養・参拝の流れを止め、聖教新聞や大白蓮華などで生死一大事血脈抄講義を連載し、新たな誤った血脈論を会員の間に吹き込んでいった。
この血脈論は、創価教育学会初代会長牧口常三郎を起点とした師弟を根本とするもので、本来の日蓮仏法とはおよそかけ離れている。末端組織においては、これを根本にして、師弟不二の論理が展開され、池田大作をあたかも主・師・親の三徳を具備した仏として崇拝する風潮となった。つまり、池田大作を現代の日蓮もしくはそれを越える存在としてみなし、その一挙手一投足が神聖視・絶対視され、また創価学会組織そのものも、これを伝える機関紙なども神聖視された。「創価学会仏」、「小説人間革命は現代の御書」、「聖教新聞は広宣流布のミサイル」などという用語は、それを端的にあらわしている。
段勲はさらに続きで当時の状況を
「創価学会・池田大作による宗門支配計画は、山崎弁護士らの前記『報告事項』にそって着々と進められていった。
こうして宗門支配を進行させる一方、池田は新たな〝創価池田教〟の実現に向かったが、途中、思いがけぬ強敵が出現し、池田の野望は頓挫してしまう。日ごろおとなしい宗門の若手僧侶たちが、宗門が学会に乗っ取られてしまうという危機感を抱き、猛烈な反撃に出たからである」
と指摘している。
■浜中和道回想録
日蓮正宗側の動きは、一部前述してきたが、浜中和道著「浜中和道回想録」にも詳しく記されている。当時の創価学会と宗門の微妙な関係、創価学会の幹部たち、山崎正友や細井日達、若手僧侶たちの行動や思惑などが詳細に記されている。
〝狐と狸の化かし合い〟のような場面が出てくるので面白い。
以下は、昭和52年、山崎正友と細井日達が話し合ったあと、浜中和道が東京から地方の伝法寺住職として就任する頃以降の記載(浜中和道著「浜中和道回想録」P137—)によればすなわち、
昭和52年5月11日、大分県竹田市に建立された伝法寺の入仏落慶法要が日達を迎えて行われた。伝法寺は大分市の本土寺住職・斉藤善道師が建立し、大石寺に寄進したもので、創価学会寄進の寺院とは異なった。斉藤善道師は、創価学会が僧侶を目の敵にしている現状を浜中和道に伝え、学会本部に挨拶に行くよう勧めた。対応した福島源次郎副会長は当初、傲慢な態度だったが、池田大作会長が電話をかけて浜中を祝福し、学会員を大事にするように求めた。その後、福島の態度は一転して丁重になった。この話を山崎正友に伝えると、彼は池田の手段であるとして浜中に注意を促した。入仏式の前日、山崎正友から伝法寺に電話があり、日達に、学会が週刊誌を使って僧侶のスキャンダルを流す計画を伝えるよう依頼さた。入仏式の数日後、日達から電話があり、山崎の情報を再度確認された。日達は僧侶に身の回りをきれいにするよう指示し、山崎によろしく伝えるよう言った。山崎はこの情報を喜び、徹底して対策を講じる必要があると述べた。彼は桐ヶ谷弁護士、福島弁護士、岩住氏に電話をかけ、相手に油断させるために会うことを計画した。山崎は週刊誌を使って吊し上げの事実を暴露する手段も考えた。
この5月には、民社党の塚本三郎が創価学会の財務問題を国会質問で取り上げようとしたことから、創価学会の独立路線が一時的に、うろたえた。
その後8月、学会と対立していた妙信講がマスコミ攻勢をかけたが、そこへ学会幹部への機関誌である「前進」に法主の権威否定のような論が載ったのを契機に、法主が反撃、若手僧侶も総決起したのをマスコミ「文春」、「現代」が取りあげた。
その略年表は前ページに記したが、その後の11月、『創価学会のめざすもの』を創価学会員が発行したあたりから、再び浜中和道の回想録(P162—)を見ておく。これによればすなわち、昭和52年11月、浜中和道はお講の席や親しい学会員に学会の誤りを話し始めた。同月、佐々木秀明師から『創価学会のめざすもの』という小冊子が発行され、学会への不信を書き連ねていた。発行者は学会員で、責任は佐々木師が取ることにしていた。佐々木師は、過去に児玉師と共に阿部教学部長と河辺師と会談し、学会批判を止めるよう言われたが、無視したとのことで、日達から激励の電話があり、学会を離れた信徒300人が集まったことが報じられていた。佐々木師と共に学会批判に立ち上がった僧侶は、百人以上が日達にお目通りする予定で、日達はそのメンバーを固めるよう指示していた。浜中は直感的にこれらのことを山崎正友に話さない方が良いと判断した。山崎が情報を他人に誇示する傾向があったためである。
■学会の独立宣言:五ヶ条の『僧俗一致の原則』、その前後の謀略性
昭和52年11月に創価学会が宗門に提出した五ヶ条の『僧俗一致の原則』については、細井日達が、これに回答する時は手を切る時だと言っていた。これについての浜中和道回想録(P164-)を見ると、すなわち、昭和52年11月、日蓮正宗の本山格の寺院である宮崎県の日向定善寺で本堂新築落慶入仏式が行われるとの連絡があった。その頃、浜中和道は佐々木秀明師のもとに頻繁に出入りしていた。ある日、佐々木師が「僧俗一致の原則」と題された五ヶ条のコピーを見せてきた。
その内容は、日蓮正宗と創価学会が共に広宣流布を目的とし、僧俗和合して進むこと、創価学会の自立性を尊重すること、相互に批判しないこと、一定の儀式・法要を認めること、そして相談に応じる際は創価学会の組織につけることを含むものだった。佐々木師はこれを「創価学会が日蓮正宗と対等な一宗一派を作る宣言」として怒りを表し、この内容について日達に意見を求めに行くつもりだと述べた。浜中和道は佐々木師のもとから帰宅後、山崎正友に「僧俗一致の原則」の内容について尋ねた。山崎はそれが創価学会の完全な独立宣言書であり、宗門がそれを受け入れれば池田大作が喜ぶだろうと答えた。11月末、佐々木師から電話があり、日達が創価学会と手を切る決意を固めたと伝えた。すると彼は、
「それを聞いて、私もいよいよ来るべき時が、来たのかなと思った。同時に竹田の学会員や東京で知り合いになった人々は、どうするのかなとも思った。
『ただ、定善寺の入仏式は、無事すませたいと猊下も言ってたから、ハッキリするのは、もっと後になると思うけど、ともかく入仏式が終ったら、もう一度、大勢で本山へ行くことになるから、お前もその時は行けよ』
とのことであった。その佐々木師の言葉を聞いたあとは、さすがに心がおだやかではなかった。そして、やはりここまでくれば状況を山崎氏に伝えるべきだと思った。
山崎氏に電話をすると、さすがに山崎氏も驚いた様子だった。
『わかった。和道さん、あんまり心配することないよ。なあに、なるようになるさ』
と、山崎氏は言い電話を切った。
十二月二日、佐々木師は、私の車で一緒に定善寺に行くことになっていた。私が福寿寺へ行くと、佐々木師は出発の支度をしていなかった。
『どうしたの』
と尋ねると、
『昨日、ある男が俺の所に来てな。『池田が九州に来たら、鉄砲で撃ち殺す』と言うんだ。俺も驚いて、『我々の運動は、そんな池田さんを殺すなどというものじゃなく、学会員さんに真面目に信心して下さいという運動なんだ』と、説得して帰したが、万が一、そんな暴発がウチの寺から起こったら大変だから、俺は寺に残ることにしたよ。猊下に言ったら、『是非そうしろ』と言っていたよ』
ということであった。そして、
『なにか池田会長さんが、今までのことを定善寺でお詫びするなんてことを言っていたぞ。まあ、それを聞いてみよう』
と話してくれた。」
浜中和道は、12月3日の午前中に集合する予定だったが、佐々木師が定善寺へ行かないため、早朝に出発することにした。その夜、山崎正友から電話があり、北条浩氏に「僧俗一致の原則」について話したところ、北条氏が驚いたことを伝えた。山崎は、池田大作が日向で謝罪する予定だが、その後に僧侶のスキャンダルを暴露する計画があると警告した。浜中は、池田が過ちを詫びれば事が済むと楽観的に考えていたが、山崎の話を聞いてショックを受けた。山崎は、今は詫びを受け入れ、その間に池田を徹底的に攻撃する陣容を組むべきだと助言した。定善寺本堂新築落慶法要当日、浜中和道は鐘楼の落成式を担当していたため、本堂での法要に参加できなかった。後日、聖教新聞で池田の挨拶を読み、池田が「御寛恕くださるよう」と謝罪し、日達が感謝の言葉を述べたことを知った。この挨拶は後に「御寛恕願い」と呼ばれるようになった。その夜、浜中は日達が宿泊しているホテルを訪れ、山崎正友からの伝言を伝えるために光久師を呼び出した。光久師は、日達上人がホテルで休んでいることを確認し、浜中に直接伝えるよう促した。浜中はホテルを訪れ、光久師と共に日達上人のもとへ向かった。浜中和道が光久師と共に日達の部屋を訪ねると、日達はテレビを見ながらソファにくつろいでいた。浜中が山崎正友の伝言を伝えると、日達上人の顔が曇り、池田大作がスキャンダルを暴露する計画を知って驚いた。日達は池田に頭を下げたことを思い出しながら話し、考え込んでしまった。
「『そうか、山崎弁護士がそう言ったのか。ワシも、もしかしたらそうじゃないかと思っていたんだ。だから池田さんにワシは、どうかそういうことをしないでくれという意味で、わざわざ池田さんの前に行って、手を畳みについて頭を下げたんだ。そうか、やっぱりな』
私は本堂での法要の場にいなかったために、日達上人がどうされたか知らなかったが、のちにその場にいた僧侶の話を聞くと、実際に日達上人は〝二畳台〟という一段高くなっている導師席から降り、池田会長の真ん前まで進み出られ、手を畳について頭を下げられたということであった。
『今まで、池田さんと一緒だったんだ。池田さんは隣のホテルに泊まっているよ。明日、一緒の飛行機だったら、ワシは嫌だな』
と日達上人は話された。そのまま考え込まれるように、口を閉じられた日達上人のもとを辞して私は光久師と一緒にロビーに出た。」
その夜、山崎に電話をすると、彼は厳しい戦いになると話し、連絡を密にすることを提案した。山崎は宗内の僧侶の言動が報告書として届いていることを示唆し、秘密を守ることを強調した。数日後、浜中和道が佐々木秀明師に会うと、日達が学会の出方を見ることにしたとの話があったが、日達の心中は変わっていないようだった。佐々木師は、学会の策略を予見し、再び何か仕掛けてくるだろうと述べた。
その後、佐々木師から日達へのお目通りの日が1月19日に決定したとの連絡があった。日達は創価学会と池田会長との戦う決意を固めていた。年末には、法道院の法華講が早瀬総監に反旗を翻し、志岐長導師が「本従の師」と指導したことが日達の怒りを買い、脱講が発生した。これに対し、日達が早瀬総監を排除する決意を固めたとの噂が流れた。昭和52年は、池田会長の年頭所感で始まった学会問題で明け、法道院の法華講の内紛で暮れる混乱の年となった。
この浜中和道の回想録から見えてくるのは、学会員には知らされていない創価学会と日蓮正宗の関係における内部の動きと対立の詳細である。
伝法寺の入仏落慶法要と創価学会の態度: 斉藤善道師が伝法寺を建立し、大石寺に寄進した背景と、創価学会の副会長・福島源次郎の態度が対照的に描かれている。池田大作会長の電話による祝福と、その後の福島の態度の変化が、創価学会の内部での力関係を示している。
山崎正友の警告と日達上人の反応: 山崎正友が浜中に伝えた学会の週刊誌を使ったスキャンダル暴露計画と、それに対する日達上人の対応が記されている。日達は池田大作に頭を下げながらも、その背後にある企みを疑っていた。これは宗門と学会の緊張関係を象徴している。
池田大作の謝罪と日達の対応: 池田会長の「御寛恕願い」と称される謝罪と、それに対する日達上人の対応が描かれている。表面的には和解の姿勢を見せながらも、裏ではスキャンダル暴露の計画が進行中であることが明らかにされている。
日達との対話と内部の緊張: 日達に対する山崎正友の伝言と、それに対する日達の反応が詳細に描かれ、池田大作の策略に対する日達の警戒心と、その後の対応が浮き彫りにされている。
法道院の内紛と宗門の動き: 法道院の内紛と、日達上人が早瀬総監を排除しようとする動きが記され、創価学会との関係に揺れる宗門内部の混乱が描かれている。
創価学会の「僧俗一致の原則」: 創価学会が提出した「僧俗一致の原則」と、それに対する日達の反応が詳細に描かれている。この原則が創価学会の独立宣言書であることが明確にされている。
日達の決意と学会批判: 日達が創価学会と手を切る決意を固め、佐々木師と共に学会批判に立ち上がる姿勢が描かれている。宗門内部の反撃の兆しが見え始めている。
学会幹部の陰謀と内部情報: 山崎正友が創価学会内部の情報を収集し、報告する姿勢が描かれている。彼の情報収集能力とその誇示の傾向が明らかにされている。
内部の対立と未来の戦い: 浜中和道と山崎正友の会話を通じて、創価学会と日蓮正宗の対立がさらに深まっていく様子が描かれていて、以後の戦いに向けた準備が進行中であることが示されている。
つまり浜中和道は、創価学会と日蓮正宗の関係における複雑な力関係と、宗門内部での対立を詳細に描写した。組織内部の権力闘争や策略、そして宗教的信仰の揺れ動きを理解する上で、非常に重要な視点を提供している。
■ある信者からの手紙
池田大作が形式だけ謝っても、宗門への締め付けは続いた。
後の正信会のメンバーとなった若手僧侶の佐々木秀明は「大体、本当なら、年とっている老僧の連中が、学会がここまで謗法化したら、毅然として立ち上がらなきゃならないんだぜ。俺たちみたいな若僧が出る幕じゃないんだ。ところがあの連中は、金だけ貯め込んで、みんな事なかれ主義なんだ」と言った。(前掲書P182)
細井日達派=若手反学会僧侶、創価学会派=阿部信雄・早瀬の宗務院派、中間派は事なかれ主義の老僧と、宗門僧侶は分極化していった。
こうした中で、細井日達は、先の五ヶ条の原則を学会へ突き返す口実のために、昭和53年1月19日に、佐々木秀明などに指示して大勢の反対僧侶を本山に集め、「ワシを、皆で突き上げろ」と、仕組んでいた。
浜中和道からこれを聞いた山崎正友は、急いで殴り書きで手紙を書き、それを清書して極秘扱いで細井日達に渡すように浜中和道に指示した。
前日の18日、本山・妙泉坊に着いた浜中和道は、先に着いていた先輩僧侶から明け方近くまで麻雀に誘われ、山崎から受け取った手紙の清書は御仲居の光久師の妻がたのまれて行った。ところが解読不能な字が多く、不明な個所は後から浜中和道が書き足すことになっていたが、彼は翌朝寝坊をしてしまい、結局、彼女の清書した手紙をそのまま細井日達へ届けたのであった。
昭和53年1月19日、本山対面所において、約百人の僧侶の前で、細井日達はこの手紙を、側にいた山口法興に読み上げさせたのだった。
これが「ある信者からの手紙」である。
これは既に浜中和道回想録や書籍等で公開されているが、奥野史郎著「謀略僧団 悪僧の巣――山崎正友と「正信会」」1981/11/30 現代史出版会、徳間書店、P205-215では、その全文がある。これを奥野史郎は「誤字、あて字がおびただしく、京都大学法学部卒の〝秀才〟の識字能力が、高校生程度ではないか、と思いたくなる」(同書P202)と酷評しているが、誤字・脱字や語句の不自然な部分は一般信者に成りすましたカモフラージュだったかもしれない。当時の創価学会の戦略や実態がありのままに描かれている。そのくせ、以後の宗門の対処方針などへの意見も述べられているから、れっきとした謀略文書といえる。
これを聞いた大勢の僧侶の間に衝撃が走ったのは言うまでもない。
しかし、日達がこの手紙を読み上げさせたのは、山崎正友にとっては非常にまずい、想定外の事態だったことは、手紙の謀略内容からも明らかであろう。
「ある信者からの手紙」では、正宗と創価学会の間にこれまで様々な経緯があったことを述べている。
これによればすなわち、学会が常に主導権を握り、情報操作を通じて信者や社会と本山を切り離してきたと批判。学会は宗教的権威を利用し、信者と社会が正宗と直接交渉を持つことを拒否し、自らが窓口となることを強要してきた。
本山に対しては、強圧と懐柔を行い、社会と信者との直接の交流を封じてきた。こうして学会は信者に絶対的な権力を確立し、布教と信者の教化育成を支配してきた。池田会長はこの力を背景に政治や社会への権力を目指している。
次に、池田会長の側近や直系の弟子たちの間で自明の理とされる二つの点が述べられている。
第一点は、池田会長が仏であり、末法の御本仏の再誕であるということ。池田会長は自らこのことを言わず、側近に言わせることで皆にそれを習わせている。学会内では、あらゆることが報告書として会長に届き、会長が決裁するシステムが整っている。
第二点は、池田会長と創価学会の目的が、来る二十年の間に政治権力を握り、日本を支配することにあるということ。学会のすべての行動はこの二点に基づいており、池田会長が日本の最高権力者となることが広宣流布であるとされている。池田会長以上の宗教上の権威は邪魔であり、その存在をできる限り少なくし、社会や信者から遠ざけたいとしている。
続いて、創価学会の本質が宗門に対する自由と統制の確保に向かっていることを述べている。学会は宗門を押し込めるために様々な方策を用い、宗門を弱体化、分裂化、封じ込めようとしている。学会が主で宗門が従という関係を築こうとしており、御本尊と法主の権威に対抗するために経済力や集団力を利用している。池田は学会内で絶対的支配権を確立するために異常な執念を燃やしており、彼は自らを仏の地位に置くことで、末端会員の絶対的支持を得ようとしている。さらに彼は歴代会長の権威を利用し、創価教の素地を作り上げ、信者からの供養を独占して経済力を掌握しようとしている。
この池田会長の支配欲、名誉欲、権勢欲は非常に強く、その術策の凄まじさは人々をひれ伏させるか、反発させるかのどちらかであると述べ、最終的には池田一族による永久支配を目指しているとしている。
更には、創価学会が政権を取るために手段を選ばず、教義を変え、他宗と妥協することも厭わないことが述べられている。学会幹部は、日蓮正宗の根本教義は御本尊と南無妙法蓮華経以外にはないと断言し、教義を手段として利用している。選挙違反もバレなければ良いと考え、権力を取ることが最優先されている。
学会の宗門に対する態度は、計画された路線であり、状況が変われば再び攻撃を仕掛ける。学会は、経済力と会員数を増やし、国家権力を握ることで宗門を押さえつける計画を立てている。法主の権威を弱体化させ、学会独自路線を確立しようとしている。
また、一部の僧侶は学会の影響下にあり、誰が次の法主になっても学会の意のままになると述べられている。
この情勢の中で、創価学会の根本路線に対して宗門側が取るべき道が二つしかないと述べている。一つは妥協して学会の主導権を許し、吸収されること。もう一つは、ここ二、三年の内に決着をつける戦いをすること。
池田会長は総選挙の勝利を背景に宗門を押さえ込もうとしたが、民社党の攻撃やマスコミの集中攻撃、内部からの造反により計画は頓挫した。池田会長は猊下に頭を下げ、猊下の権威を利用して末寺の僧侶に対抗しようとした。学会は、会員に対して謝罪や自己批判の事実を隠し、猊下の信頼を強調して末寺の僧侶を抑え込もうとしている。また、マスコミや政治権力に妥協し、当面の危機を切り抜けようとしている。池田会長は再び報復と弾圧を宗門に加えようとしており、総監や教学部長も報復の対象になることに気付いていないと述べている。
さらに続いて、創価学会と対決するための具体的な戦略が述べられている。以下のような大義名分とスケジュール、方法を練る必要があるとしている:
過去の謝罪の無効性: 学会が過去に何度も謝罪したが、改善されずに再び問題を起こしているため、曖昧な対応ではなく、次の事項を明確にするまで追及を続ける。
教義上の誤りの訂正: 教義上の誤りを認め、訂正する文書を発表する。
責任者の処遇: 責任者の処遇を明確にし、詫び状を提出させる。
再発防止の誓約書: 今後、二度と誤りを犯さないとの誓約書を提出させる。
悪口の訂正: 末寺の僧侶に対する悪口を会員の前で訂正させる。
選挙と信仰の分離: 選挙と信仰は無関係である旨を声明する。
選挙方法の民主化: 信者の団体として独裁的な形態を望まないため、選挙方法の民主化を要望する。
寺院と僧侶の自由: 寺院及び僧侶、法華講の自由を認め、干渉しないことを誓約させる。
これらの要求を学会が受け入れなければ、手を切る方向に進むことが有利であるとしている。今が千載一遇のチャンスであり、決断の時であると強調している。多数の僧侶が具体的な証拠を挙げて教義上の問題を訴え、信者を組織化し、理論武装用のパンフレットを作成して配布することが必要で、態度のおかしい僧侶の粛清も行い、小分裂も辞さない決意で臨むべきと述べている。
更なる対策として、
マスコミ対応: 折を見て、マスコミの取材に対してはっきりとしたコメントを出すべきである。
納骨堂・墓地の推進: 納骨堂や墓地の積極的な推進が必要である。
総代の追及: 寺院の経営に協力的でない総代を追及し、罷免することも必要である。
法華講青年部の動員: 法華講青年部を集めて激励し、戦闘に参加させることが必要である。
本山周辺の根回し: 本山周辺への根回しを充分に行う必要がある。
登山会の中止時の対応: 登山会が中止された場合、一般紙に広告を出して全国の信者に本山の外護を訴えることが有効である。
大義名分の形成: 僧侶の大多数の意見具申に基づく大義名分を形成し、個人の責任にされないようにする。
宗会の活用: 宗会の使い方も重要である。
猊下の言動の抑制: 当分の間、猊下に学会側の力添えになるような言動を差し控えてもらうことが望ましい。
追伸として、学会側の見通しについても述べられている。内藤国夫が次号で書く予定であり、国会は二月上旬まで何もなければ切り抜けられるとしている。学会は猊下を押さえれば問題ないと考えており、内部の造反も抑え、公明党も持ち上げているため大丈夫だと述べている。
この、山崎正友の書いた「ある信者からの手紙」の内容は、創価学会の内部事情と宗門との関係を鋭く描き出し、池田大作の野望と戦略を暴露していて、社会的にも宗教的にも、更には日蓮仏法の観点からも、大いなる問題が以下のように浮かび上がる。。
学会の策略と情報操作: 手紙の内容は、創価学会が一貫して宗門と信者、宗門と社会を切り離し、情報操作を通じて常に主導権を握ろうとしてきたことを批判している。池田会長の巧妙なやり方と、信者に対する圧倒的な支配力の背景が明かされている。この点は、誤った宗教による宗教組織の持つ権力の危険性を浮き彫りにする。
池田会長の権威と宗教的独裁: 池田会長が末法の御本仏の再誕であると信じられ、宗教的な権威を自らに集中させている様子が描かれている。会長を仏と認める者だけが高位に就けるという体制は、創価学会の内部での独裁的な支配を確立していることを示している。このような体制は、組織の健全性に対する大いなる疑問を投げかけるものである。
政治権力への野望: 創価学会が政治権力を握ることを目的としており、そのためには手段を選ばないことが指摘されている。教義の変更や他宗との妥協など、政治的な目的のためには何でもやるという姿勢は、宗教組織の倫理観を疑わせるものであり、さらには真の日蓮仏法を掲げて弘めているとは言い難いものである。
宗門に対する圧力と統制: 宗門を学会の支配下に置くために、経済力や集団力、有力な僧侶に対する懐柔や威迫を用いていることが明らかにされている。御本尊と法主の権威を弱体化させようとする戦略は、宗教的伝統を揺るがすものであり、強い批判に値する。
対決のための戦略: 創価学会と対決するために、僧侶たちが一致団結し、具体的な証拠を挙げて教義上の問題を訴え、信者を組織化することが提案されている。この戦略は、宗門が学会に対抗するための具体的な行動計画を示しており、組織の存立を守るための決意が感じられる。
内部の粛清と分裂の覚悟: 宗内で態度のおかしい僧侶の粛清や、学会側の見通しに基づく対応策が述べられている。内部の粛清を行い、小分裂も辞さない覚悟で臨む姿勢は、組織の浄化と統制を図るためのものだが、同時に内部の対立を深める要因ともなる。
マスコミや政治権力との関係: マスコミや政治権力との関係を利用し、学会が宗門への圧力を強める様子が描かれている。状況が変われば再び報復や弾圧を加えるとされており、学会の戦略の冷徹さが際立つ。
総じて、「ある信者からの手紙」は、創価学会の内部事情と戦略を暴露し、宗門との関係の本質を鋭く描き出している。池田大作の野望と独裁的な支配、宗教組織の倫理観の欠如、そして宗門が取るべき道を明確に示しており、非常に深い洞察を提供している。これらは、組織の持つ権力の危険性と、それに対抗するための具体的な戦略を考察する上で、重要な示唆を与えている。
山崎正友は、前述したが、池田大作の忠実な弟子であり、様々な謀略を含めて、池田大作の指導・思想を忠実に受け継いでいるといえる。また、それを支えているのは、彼が言うように、純真な日蓮正宗への信仰心だ。
日蓮の本来の教えに背き、己義を構え、多くの純真な信者を巻き込んで争い合う修羅道の者たちの姿は、釈尊と提婆達多以来にわたって、仏教史の大いなる汚点であるといえよう。
本来、日蓮の教えは、人を救済する教えであり、成仏という人間としての完成を目指す教えである。信仰心から、創価学会と日蓮正宗の争いを収拾させようとしていた山崎正友の心中を察するが、この手紙は、両者の争いの火に油を注ぐ結果となった。この結果から、日蓮の教えが正しいとすれば、両者が、日蓮の教えを誤って理解していたと判断せざるを得ない。
宗教的な教えが政治的な野望や権力闘争に利用されることは、信仰の本質を歪めるものであり、信者にとっても大きな混乱を招く。
ここでは、宗教の持つ力とその誤用の危険性が鋭く浮かび上がる。信仰の本質を見失わず、真の意味での救済と成仏を目指すことが、何よりも重要だと感じる。拙論文が、いまだ洗脳から覚めていない学会員や日蓮正宗の信者、またその他の非科学的宗教の信者たちにとっての、今後の信仰生活において、すなわち現代の科学的英知に目覚めて真の幸福である仏界(人間としての完成を目指す境涯)の境涯の確立に向けて、大切な指針となることを願っている。
■関連略年表 昭和53年~54年
●昭和53年1月2日 細井日達、第七百遠忌について「池田大作を慶讃委員長に任じ」と訓諭発布(『大日蓮』2月号、『聖教新聞』1月4日)
1月4日 細井日達、本山で池田会長、北条理事長、辻副会長に対し「会長本仏論を本としている。改めなければ本宗の信者と認めない」と発言
1月6日 池田会長、学会教学部師範会議で「『減劫御書』の『智者とは世間の法より外に仏法を行ず』の文について、『行ぜず』が正しいと判明」と発表(『聖教新聞』1月7日)
1月6日 細井日達、全国末寺住職寺族初登山で早瀬総監の「本従の師云云」の発言を「弟子でありながら師匠を卑しみ、信徒にへつらって、唯自分の生活を豊かにしようと考える者が今日の僧侶にあるならば誠に残念。我々の師はどこまでも、大聖人であるということをどうぞ忘れずそれ以外に本従の師だなんてそういう間違った事を言う人があったらば、どうかこれを呵責して…」と述べ、池田大作を師匠とする創価学会の体制を批判(『大日蓮』2月号)
1月8日 池田、東北・信越合同本部長会で再び会長本仏論を釈明(『聖教新聞』1月9日)
1月11日 竹入委員長、公明党第十五回定期大会で「自衛隊の存在は既定の事実として認めなければならない」と発言
1月13日 池田会長、各部代表者会議で「さまざまなことが過去も現在もいわれてきているが、一切学会には不正などはない」と釈明(『聖教新聞』1月14日)
1月15日 『聖教新聞』「宗門と学会、本年初の連絡会議。戒壇の大御本尊の威光に照らされ、一段と僧俗和合の前進」と報道
1月19日 細井日達、本山対面所で僧侶約二百人に対し「遠からず学会と縁を切るから末寺は檀信徒名簿を整備しておけ」と発言
1月28日 池田大作が「広宣流布の拠点をつくることは、宗教本来の姿」と発言
2月9日 細井日達、僧侶の第1回時事懇談会で「戸田会長時代にも、創価学会との摩擦はいろいろあったが、こと教義に関してはなかった。ところが昭和四十七年に正本堂が建立された直後から、創価学会の態度がおかしくなってきた」等と非難。出席僧侶も激しく非難、結局、日達が、学会「五原則」は突き返す、宗務院案は撤回、手を切るか強調する為のアンケート実施の3点を裁断。
宗務院・阿部信雄(後の法主日顕)が信濃町の料亭で、これらを池田に内通し深夜まで対策会議。
2月12日 池田大作は、多額の御供養金(一説では数億円)を持って登山し、細井日達に「学会が誤っているところは改めますから、どうか破門だけはやめてください」と手をついて詫びるふりをする。細井日達は御供養金受取りを拒否。
2月14日 池田大作は再度登山し細井日達へ嘆願。
2月16日 池田大作は聖誕報恩記念勤行会で「いささかたりとも御法主上人猊下の御宸襟を悩ませることがあってはならない」と発言(『聖教新聞』2月17日)。
2月18日 細井日達は全国僧侶代表集会で「池田会長や学会がこんなに謝ってきているのだ。宗門としても、ここはガマンにガマンを重ねて学会を破門せずにやっていこう」と語る
2月22日 細井日達、再度全国僧侶代表集会開き「池田会長が頭を下げたんだから仕方がない、手をつないでやっていこう」と発現
2月24日 大石寺大化城で、学会のしかけた盗聴器が発見される
3月5日 池田大作は『聖教新聞』紙上(3月6日)で「会長本仏論」を再び否定し、弟子に責任を転嫁する。
3月5日 宗務院が、全国の僧侶に学会に対する意見書の提出を求める。
3月14日 細井日達は全国教師指導会で「破門をせず、学会と協調する方向で協議してほしい」と発言。
3月 宗門僧侶間に学会批判の怪文書が乱れ飛ぶ。
3月30日~31日 細井日達は、第十七回妙観会で「学会の幹部が私の写真を足で踏みつけ皆にも勧めた」と憤る。
4月19日 池田大作は、細井日達に中日友好協会副会長趙樸初の伝言を報告(『聖教新聞』4月20日)。
4月19日 細井日達講述の「日興遺誡置文」(二十六箇条)が『聖教新聞』に掲載。依然として「時の貫主たりと雖も」の一条文を〝管長の人事権〟と歪曲。
5月12日 創価学会、全国県長会議で学会版経本の作製中止を発表(『聖教新聞』5月13日)
6月8日 反学会僧侶代表、学会青年部幹部と教義問題について堅持院で会談
6月19日 宗門、全国僧侶の報告に基づき作成の教学上の質問状「創価学会の言論資料について」を学会に送付。回答を求める(『蓮華』7月号)
6月27日 創価学会、宗門の質問状に回答。但し両者とも御遺命の歪曲には触れず
6月29日 宗門、全国教師指導会で学会の回答を披露。細井日達は反学会先鋭僧侶を説得
6月30日 創価学会『聖教新聞』に「教義上の基本問題について」を掲載
7月13日 創価学会の〝お詫び姿勢〟の曖昧さに対し、反学会僧侶が末寺の御講で一斉に学会を厳しく批判。
7月27日 『週刊新潮』が池田大作の「マジック事件」現場写真を公開
7月29~30日 細井日達は法華講連合登山会で、創価学会の折伏と、「信心があれば謗法をしてもよいと考えるのはもってのほか。大聖人からの法体の血脈相承を無視した、信心の血脈の流れにも浴しない者」と創価学会のあり方を厳しく批判(『大日華』9月号)
8月1日 浄信寺住職佐野知道が「創価学会言論資料集」発行。この類書は反学会末寺で頻りに発行。
8月4日 細井日達は行学講習会で「最近はまた、よく新聞や雑誌に出ている解り易い教義を、正宗の真実の教義と思ってそのまま使用して、正宗の教義そのものを忘れてしまう。誠に残念なのであります」と、僧侶が創価学会の教義解釈に順ずる風潮を批判(『大日蓮』11月号)
8月14日 日蓮正宗重役常在住職・本種院日成能化が逝去
8月26日 池田大作は、第八回東海道本部長会で、脱会して檀徒となった者と争わないよう指示する。
8月26~27日 全国檀徒(学会脱退者)総決起大会が大石寺で開催され、六千四百名参加。席上細井日達は脱会者を激励。創価学会の教義解釈を批判する。
8月30日 細井日達は、教師講習会で「折伏しない者は地獄に堕ちるという御書を私は見たことがない。この間、学会からこちらの質問に対する回答があった。あのように質問状をきちんと出した。あれこそ折伏」と発言(『大日蓮』11月号)
9月3日 創価学会、御本尊模刻を認める記事を聖教新聞に発表
9月10日 早瀬義孔、常在寺住職となる(『大日蓮』11月号)
9月11日 創価中学・高等学校教職員組合が、池田大作に公開質問状を提出
9月11日 池田大作と宗務院役僧ら一行が、中国訪問に出発
9月14日 反学会僧侶代表と創価学会本部側が、寿福寺で会談。僧侶側の明確な〝お詫び〟要求に対し、学会側は十一月下旬まで猶予を求む
9月20日 反学会僧侶は、学会の本尊模刻事件を未曽有の大謗法と宣伝(無辺寺檀徒会会報『勇猛』)。
9月23日 池田大作は、本部幹部会で「学会員が五万や六万減ったってどうということはない」と発言。
9月27日 細井日達は、法華講連合会婦人部大会で「私は百万遍唱えたとか、十万遍唱えた徒か自慢する人がおりますが、それは本宗の信心ではない。信心なくして何万遍唱えてもしようがない」と創価学会を批判(『大日蓮』11月号)。
9月28日 創価学会は模刻本尊八体のうち、七体を総本山に納める。
10月3日 細井日達は、創価学会の本尊模刻事件に関して、一切の論議を禁じる旨の院達を発する。
10月15日 花野充道ら、細井日達の意を受け法華講連合会機関紙『慧燈』を発刊。妙信講を批判する。
10月15日 常修寺檀徒会の名で「真実の僧俗一致のために」のパンフレットが発行される。この種の学会批判の文書が全国の反学会寺院より多数刊行される。
11月2日 創価学会代表(山崎、原田、野崎、原島)、反学会僧侶五名(渡辺、佐々木、秋山、坂井、菅野)とが、ホテルニュージャパンで会談。創価学会側は十一月七日の和解内容を提示。
11月2日 反学会僧侶らは東京で集会を開き、学会の十一月七日の〝お詫び登山〟の欺瞞性を警戒し激論。
11月 「日蓮正宗全僧侶に訴う」の怪文書が宗内に出廻る。内容は創価学会の和解姿勢を偽装として全国僧侶に警戒を促すもの。
11月7日 池田大作が、幹部二千人を引き連れお詫び登山。辻副会長「①御本尊を勝手に模刻したが、今後は宗風を重んずる②宗門の法義を尊重したが今後は法主上人の指南にいっさい従う③会長への行き過ぎた表現はしない」等と宗門に詫びる
池田大作は「これまでいろいろな問題について行き過ぎがあり、宗門をお騒がせし、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で深くお詫びいたします」等と発言。
細井日達は「信徒が寺院を非難中傷し、圧迫するようなことがあれば、僧侶はまことに悲しい思いをいたして、否応なく反論しなくてはならないのであります。賢明なる幹部の皆様がこの辺をよく理解の上、正しい寺檀関係の確立に努力されるなら、各僧侶も信頼と感謝をもって応えるにやぶさかではない。大聖人以来、七百年間守りつづけてきた伝統の教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならない。これをふまえなかったらば、かりにこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったのかとの後世の批判を受けよう。今日以後、真の僧俗の和合を実現して我が宗門を守って頂きたい」と挨拶(『大日蓮』12月号・号外)。
11月7日 池田大作は〝お詫び登山〟後の県長会で『僧侶の前で私に頭を下げさせたが、私は広宣流布・令法久住・全学会員を思うが故に頭を下げたのだ。必ず五年から十年の間に私が今何をやってきたかわかる時がくる。その時は坊主ども全員に頭を下げさせてみせる」と発言。
細井日達も池田の〝お詫び〟発言後の全国僧侶集会で「一~二年学会を見て、もしまた同じようなことが繰り返されたら、それが最後だ。その時は僧侶が一丸となって学会と立ち向かう」と語る
11月19日 涌化寺檀徒大会開催。反学会僧侶が多数参加
11月24日 細井日達は、富士学林研究科後期講習会閉講式で「……今、学会の方針についていかれない人が檀徒となっておる。その檀徒の方々の面倒をみて、本当の日蓮正宗の信者としていくことが、我々僧侶の役目」と発言(『大日蓮』54年1月号)
11月26日 細井日達は、法華講青年部大会で「本宗において少しも謗法をしたことがない、日興上人の二十六箇条、あるいは日有上人の百二十一箇条の化儀抄に謗法がやかましく誡めておられる」と発言(『大日蓮』54年1月号)
11月30日 『週刊現代』、宗門と創価学会の抗争・和解は金銭問題として「和解の生臭すぎる真実」を報道
12月4日 宗門、『週刊現代』に対し、抗議文送付(『蓮華』54年1月号)
12月6日 反学会僧侶約二百名が大阪源立寺で決起集会。〝お詫び登山は偽装〟として今後の行動を協議する。
12月10日 徳島県・広徳寺、千葉県・仏心時、仙台市・仏眼寺等で一斉に檀徒会集会開き学会攻撃強める。
●昭和54年1月 学会批判の書『蓮華八十七号の正しい読み方資料』を、本山・各末寺で販売
1月1日 『中外日報』は「改めて問う〝現代の僧宝〟論」掲載。創価学会を弁護し正宗僧侶を批判。
1月5日 住職寺族が初登山で「折角学会の指導では正しくないとみてお寺を頼りにして来た檀徒を、いま改めて学会の人が大勢来るから、そんな者追い出してくれと云ったらすぐ追い出して大勢来た方へついて行くと。そういう僧侶があるということは誠に私は情けなく思います」と語る(『大日蓮』2月号)
1月7日 細井日達は、山口法興を妙真寺住職に任命し、東京における反学会活動の活発化を策す。
1月16日 宗門は、『中外日報』に対し抗議文を送付(『蓮華』1月別冊号)
1月20日 細井日達は、学会脱会者・藤野喜久命に法華講寿福寺時支部組織を許可(『大日蓮』3月号)。
1月27~28日 日蓮正宗檀徒第二回大会が大石寺で開催。学会脱会者五千五百名、僧侶二百五十名が参加。細井日達も出席し「僧侶達が学会に対してその誤りを指摘してそしてここに結束して皆様と共に檀徒を作って日蓮正宗の根本の精神を広宣流布する為であるという深い赤誠であることを認めて貰いたいと思うのであります。……今後できるだけ間違った教義だけをどこまでも追及して正宗の七百年来の大聖人の御本意である広宣流布を正しい道において守って貰いたい」と、反学会僧侶と脱会者を賞讃し親学会派僧侶を批判(『大日蓮』2月号)。
3月6日 福島源次郎創価学会副会長が、大牟田市で「墓地問題で御本尊を抵当に入れて借金した僧侶がいたり、カツラかぶって酒を飲みに行ったクソ坊主がいた」「会長本仏論というのは、我々が先生を尊敬するあまりに誤解されたことである。本山においても、池田先生がいれば皆ワッと寄ってくる。しかし猊下が通られても、どこのおじいさんだ、という感覚しかない」と発言して物議をかもす。
3月12日 宗務院庶務部長藤本栄道は、福島発言の件で創価学会へ抗議書提出(『継命』4月28日号)
3月13日 総本山内事部も、福島発言で創価学会へ抗議書提出(同)
3月15日 総本山内事部、再び福島発言への抗議書と質問書を創価学会に送付(同)
3月15日 源立寺住職菅野憲道が、学会へ公開質問状を発する(同)
3月16日 創価中学・高等学校教職員組合が、再び池田大作へ公開質問状を提出。
3月24日 創価学会が本山内事部へ回答。福島発言は逸脱と認め、讃岐本門寺関係については事実無根と釈明(『継命』4月28日号)。
3月31日 法華講連合会が細井日達の意を受け、池田大作に対し総講頭辞任を勧告
3月31日 細井日達は、妙観会で「学会の功績は大きいが教義が間違い、宗門から逸脱してしまえば何にもならない。……(創価学会の逸脱は)昭和三十八、九年のころからもうすでに十六、七年に及ぶ、だから今紛争が起きておるんです。僧侶は腹を決めて教義の間違ったところを指摘していかなければならない」と挨拶(『大日蓮』4月号)。但し妙信講の指摘する御遺命違背には一言も触れず。
4月2日 総本山内事部、創価学会の三月二十四日付回答を不満とし、再回答を求める勧告書を送付。
4月2日 池田大作は、山崎正友に『私は、総講頭と会長をやめようと思う。そのことで、いまのさわぎを、君の手で完全に収束してくれないか』と依頼し、渋々引き受けさせる。
4月3日 総講頭辞任勧告記事を掲載した『大白法』号外大量に出廻る。
4月8日 北条浩創価学会理事長は、福島発言を「信徒にあるまじき不穏当・不謹慎なもの」と、宗門に陳謝の談話発表(『聖教新聞』4月8日)
4月10日 細井日達は、知見寺落慶法要で「本従の師」について「世間では之を間違って一般的に世間の人、或は僧侶にもっていく、これではなくして之は仏である」と、創価学会と法道院のありかたを批判(『大日蓮』6月号)
4月12日 創価学会、菅野憲道に詫び状を書く(『継命』6月1日号)
4月19日 細井日達の喜熟寿祝賀会が開かれる
4月21日 池田大作の会長・総講頭辞任について、創価学会代表と反学会僧侶代表が、都内ホテルで打合せ。
4月22日 池田大作が、会長及び総講頭の辞任を細井日達に申し出る。
4月24日 池田大作は、創価学会会長を辞任し名誉会長になる。後任会長に北条浩が就任
4月24日 創価学会は「創価学会会則」ならびに「宗教法人・創価学会会則」を改訂・公表。
4月25日 早瀬日慈能化が日蓮正宗総監を辞任。
4月26日 池田大作は『聖教新聞』に会員へのメッセージを寄せ「近年、御宗門との関係で皆様方に多大なご心労をおかけし、御法主上人猊下のご宸襟を悩まし申し上げてきたことに対し、過去の経過の一切の責任をとらせていただくものであります」と辞任理由を説明する。
4月26日 池田大作は、法華講総講頭を辞任する。同日名誉総講頭の称号を細井日達より贈られる。
4月28日 宗門は教師代表者会議を開き、細井日達が、池田大作の会長辞任に至るまでの経過を説明。「宗門としても一応解決したものと思う。今後、学会から無理に檀徒として引っ張ってくることはいけない」と反学会活動を抑える。細井日達に対する批判的な質問が反学会僧侶らから続出。
北条会長ら学会首脳幹部、教師代表者会議に出席し、外護と法義の厳正を誓う。創価学会幹部に対し、反学会派僧侶が集中質問し、細井日達が反学会僧侶の発言を抑える。
4月28日 創価学会、既刊の学会版経本の使用を中止し、大石寺版に限ることを決定。
4月28日 日蓮正宗全国檀徒新聞『継命』(責任者・山口法興)創刊。細井日達、祝辞を寄せる。
5月1日 細井日達「①御講等において教義以外の説法は固く禁ずる②学会員に対しては、自発的に檀徒となることを希望する者は受け入れてもよいが、それ以外は一切働きかけを固く禁ずる③今日以後これに違背する者は処分も辞さない」との院達を発す。
5月3日 創価学会は第十四回本部総会を開催。細井日達が出席し「これまでの経緯は水に流して、大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に協力していただきたい」と挨拶(『聖教新聞』5月4日)
5月7日 宗務役員の新人事が発表される。総監・阿部信雄、渉外部長・吉田義誠、庶務部長・藤本栄道、教学部長・大村寿顕、海外部長・菅野慈雲、財務部長・丸岡雄道、それぞれが就任(『大日蓮』6月号)
5月8日 妙真寺で反学会派僧侶が集会を開き、院達等の新事態の対処を協議。管長への憤懣みなぎる
5月13日 「細井管長は速かに猊下を退くべし」の怪文書が、全国末寺に送付される。
5月14日 細井日達は、山崎正友や北条浩ら学会首脳六名を法華講大講頭に任命。
5月14日 初の最高教導会議が総本山で開催。細井日達「最高教導会議は法義の厳正を期すためのものである」と発言(『聖教新聞』6月15日)。但し妙信講の指摘する御遺命歪曲については依然指摘なし
5月 『週刊文春』は妙信講の立場について「国立戒壇は日蓮正宗の悲願でもあった。創価学会は宗門側を説得して、教義そのものから国立戒壇を抜き取ってしまった。……要するに宗門ぐるみで教義歪曲しておきながら、それに異を唱えた妙信講を破門してしまった」との記事を掲載(6月7日号)
5月29日 細井日達は、寺族同心会で『週刊文春』の記事を取り上げ、国立戒壇と妙信講を批判。また日興上人の二十六箇条の「時の貫首……」の一条の解釈について「私はまだ猊座に登る前には、今まで妙信講が云っておるようなふうに解釈しておりました。しかし猊座に登ってみて、いろいろ総合して考えてみると、これは違いがある。これは『時の貫首は何でもできるけれども、己義を構えて間違ったことをした――そのような者を用いてはいけない』これが本当である」と説明。さらに「今の若い人達の中には妙信講の宣伝に染った人もあると聞いております。また『国立戒壇は正しいのであって、宗門が間違ったんだ』というようなことを云ったという人のことも聞いております。(そのような人は)どんどんやめて頂いて妙信講へ行って結構です。妙信講でも僧侶が少ないから今も募集しているでしょう」と発言(『大白法』6月16日号)。
5月30日 細井日達、‶学会員への働きかけの禁止命令は僧侶に対してだけでなく、法華講・檀徒会員にも及ぶ〟旨の院達を発す。
5月31日 細井日達、僧侶ならびに法華講員に対し、五月十三日付怪文書と『週刊文春』の記事について釈明(『大白法』6月16日号)
7月22日 第六十六世細井日達管長御遷化