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P53, コメント集ーー池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化ーー

P53 コメント集

コメント26

「実は」と言っているくらいであるが、正本堂安置の御本尊も、例の板マンダラ(戒壇の大御本尊)と同じものを極秘裏につくらせていたという。これを指して、〝猊下と私だけの唯仏与仏だ〟といっているのだろう。
最近、私は、その画像を見た。


 また『三大秘法の二つは大聖人がした。一つは証明の本尊(文化会館七階ご安置の御本尊)だ』『大御本尊建立は、十月十二日、私が生まれたのは一月二日、戸田先生が亡くなったのは四月二日である』というような、大聖人のご生涯とご自身とを合わせることを、先生はたえずなさってこられました。
 また、『私の振る舞いが経である』とか、『私は福運の当体(そのままの体)』とか『私と感応妙があるかどうかで信心は決まる』とか、『私が行ってあげなければ福運がつかない』とかおっしゃいますので、一方でどんなに『私は凡夫』と建て前をいわれても、だれもが、いや『先生は仏様』と思ってしまうのもムリからぬことでしょう」
 と原島は指摘する。
 
 もっとも、彼は「この書の目的は、創価学会が、日蓮正宗の法義を曲げ、数々の謗法を行ってきた事実、そして、いまなお、表面上をとりつくろってはいるものの、(宗門からの指摘に対し)反省のまったくない事実を指摘すること」という。




コメント27

 本尊模刻の誤りを原島は以下のように指摘する。
「その考え方には三つの大きなあやまりがあります。一つは本尊を自分の権威主義のシンボルにしようとしたあやまり、要するに池田本仏化です。二つめは、本尊を写真に撮って、業者に彫刻させるという本尊をモノとして考えているあやまり、三つめは、その本尊をつくることによって、『会館へ』という会員の流れをつくってお寺に行かせないようにしたこと、つまり、金集めの道具にしたということのあやまりです。しかも、模刻本尊は私が知っているかぎりでは八体ですが、継命新聞社の調査での証言を見ると、数百体にのぼるといわれていますね」(中川義雄著「創価学会・公明党 池田王国の落日」1991/2/25、人間の科学社、P56)

 創価学会は「御書直結」「日蓮直結」の根本法理をアップデートしないで、いまだに古臭い日蓮本仏論の日寛アニミズムを妄信し、さらにはその物真似である池田本仏論(今では若干その建前・表現をかえてはいるが、実質は池田本仏)をかたくなに維持し、組織存続のための批判拒否・上意下達の体質は変わっていない。
そしてしばしば説論文でも指摘したが、「…創価学会しかない」という独善的主張を、ことあるごとに機関紙聖教新聞や大白蓮華で 連発している。
 これは、今回拙論文で指摘したころまでで確立し、池田大作が公私ともに姿をくらまして12年が経過した今でも、延々と続けられてきている。
 
 創価学会が、アニミズムから脱却し、戸田城聖が述べていた本物の科学的宗教へアップデートするには、この科学的検討・総括が必要であろう。
 池田本仏論の資料と成立過程を今回念入りに検討したのも、この故である。




コメント28

 初めに、謹んでお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。そしてご逝去を悼んで、ご遺族の方々へ心からお悔やみを申し上げます。

 話は変わりますが、因果の理法は、人の感情とは次元が違う。
 真実・本質は人の耳に逆らうことがまことに多い。
 人は往々にして感情のあまり、物事の本質に目を背けてしまうだけでなく、その本質を指摘する人に対して集団で矢を向ける傾向にある。
 日常お決まりの交通事故・飲酒事故・老人事故の悲惨さにはほとんどの人が他人事・感覚麻痺になっていて、何でも保険・何でもカネ等で解決しようとする。

 知床遊覧船事故は、高波3m等の科学的測定データ予報を無視し、不完全で安易な目で海を見て、アンテナが折れているのも知りながら、社長・船長が小型の遊覧船を出航させたもので、その他数々の過失が明らかにされている。「法」ではなく「人」の判断を絶対視した典型的な事故であろう。乗客も天気予報を確認していただろうが、万一船が沈んだら自ら低温の激しい波の中を岸壁まで泳ぎ着いてよじ登るしか生き残る道はないことぐらい、想像しながら乗船したはずであろう。万一…まさか…自分に限って…が、幾重もの因果が重なり、それぞれの業が熟して起きた悲劇といえるが、これも「法」ではなく「人」を絶対視した結果といえる。

 山岳遭難についての一般論であるが、大自然の変化に対して体力や知能も劣り、地図とコンパスを使いこなせないまま山に入ったら迷って遭難することぐらいは理解できそうなものである。遭難者は迷うことでケガをして動けなくなることもよくある。救助についても、山での遭難者を見つけること自体が相当困難なことは、救命に関わる人だけでなく普通の登山者でも分かっている。低山ハイキングであってもキャンプ地であっても、幼い子どもがいれば絶対に目や手を離さないことは最低レベルの厳守事項である。
 6日前にも医者が谷川岳で滑落死したばかり。谷川岳にも季節や天気さえ良くて安定していればガキがスニーカーで登れる尾根やコースもあるから、大自然を小バカにして安易に踏み入れる人の遭難・死亡が毎年絶えない。

 常識的な「法」ではなく、気ままな「人」の場当たり的な判断で、危険な場所へ導き・導かれてしまう…日常的な「依人不依法」の害毒である。
 また、もっと一般的にいえば、世間を賑わす犯罪・事故・過失などはすべて、「依人不依法」の害毒と考えることができよう。




コメント29

 詳細は割愛するが、釈迦族を滅亡させたヴィドゥーダバ王は、釈迦の予言通り、その7日後に油断のスキを突かれて他の敵によって滅ぼされる。釈迦族は、滅亡に際しても、虫一匹すら殺す事は無かったので、その善業により多くは天界など四聖の境涯に転生した。
この話は、三世永遠の生命・一念三千の法則に基づいて、畜生・修羅界の因果応報のみならず、さらに、報復の連鎖をも、釈迦族の姿のように善業によってのみ克服することができることを示している。
 報復の連鎖は、現在始まった核戦争の危機をはじめ、人類史上繰り広げてきた、またなおもくすぶっている地域紛争などに見られるばかりでなく、我々日常の社会でも様々に繰り返されてきていることは例を挙げるまでもなかろう。これらの報復の連鎖を断ち切るのに、この話は大いなる指針を示しているといえる。




コメント30 追伸

 今日は、5・3、創価学会の日、1960年5月3日、池田大作が第3代会長に就任した日である。
 今日の聖教新聞の、お決まりのごとく戸田ー池田の師弟宣揚、をはじめ、「各国に池田思想の研究所が設立」など、煌びやかな記事が目立ち、5面は、「ブラボーわが人生」第34回「92歳のあかんたれ」と題して「池田先生と奥さまをいつも胸に置いて…」と、戎谷マサ子さんの92歳の笑顔が大きく鮮明に写った写真が、体験とともに掲載されている。
 池田先生の今の笑顔も是非とも拝見したい…こう思う会員もほとんどであろう。
 今日は記念すべき祭典や行事が各地で行われているだろうが、池田大作には、とうていこの記事のような幸福な画像が出せないまま、良心の呵責に苛まれながらも虚飾を続けなければならない大勢の関係者の胸の内は、想像に難くない。
 そして「池田先生は元気です」という執行部の触れ込みをひたすら信じてついていく純真な末端会員が、私の周りにも多くいて、その人たちの瞳は澄んでいる…
 宗教とは恐ろしいものだ…と同時に、人間って、不思議なものだ…、まさに「妙」なのだ…
 今日の勤行にても私は、「世界の平和と一切衆生の成仏のために」と、彼らを含む創価学会の会員の成仏をひたすら祈った。

 私は、強信者の父母とともに、自らの人生そのものであった、さらに今後もそうであろう創価学会の中に貫かれたイデオロギーの誤りを、断腸の思いで、科学的に根拠・証拠を積み重ねて指摘し続け、また自身のアップデートを繰り返し続けて、早くも2年以上経過した。
 現在では入手不能・困難な資料のほとんどは、約2年前に処分する寸前であった父の遺産である。
 今まさに私の思いは近くは原島崇の著作に重なり、遠くは、日蓮が抱いた師匠道善房への思いにも連なる。
 しかし、私は、信念として、現在も創価学会の広布部員であり、座談会にもオンラインで毎月参加していて、地域や末端組織の会員を愛している。切っても切れない関係である。
 そして、きわめてわずかではあるが、この拙論文が、人類のため、後世のため、そして一切衆生の幸福のために貢献するものと確信している。
 この確信が実現し始める時ば、外圧からではなく、組織内から英知を吸い上げて結集し、組織に渦巻く批判拒否体質を改革し、自由でハラスメントのない科学的討論が活発に行われ、組織内外をまきこんでアップデートの流れが繰り返されていく中のことであろう。
 今は、ひたすら、その「時」を待っている。

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