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P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

 初めに、高橋公純著「冬は必ず春となる「創価学会の虚構と真実」」(1991/5/27、恒友出版、P74—P89)に、お詫び登山の決定的誘引となった血脈論と御本尊模刻の全貌についての記載があるので、振り返っておく。(以下〝…〟は中略という記号として使用する)

■ 血脈論について、

 高橋公純は、ここで、このように述べている。すなわち、正信覚醒運動のさなかに、元創価学会顧問弁護士の山崎正友が池田大作から受け取った「広宣流布血脈の新弟子たるを証す」という証書が突然出現し、大騒ぎとなった。この証書は、釈尊が菩提樹の下で悟りを開いた後の四十二年目に説いた法華経の中で、舎利弗に対して未来世での成仏を約束した「成仏への受記」と関連付けられている。日興は、日蓮の滅後に本弟子六人を定め、その後、新弟子六人を設け、「弟子分与帳」を作成し、弟子の功罪を克明に記した。池田大作の「血脈の新弟子証」は、釈尊の成仏への記別と日興の「弟子分与帳」を想定したものであり、弟子を励ますための証書だったが、「血脈」という言葉を使ったことが問題視された。「血脈」には「法体の血脈」と「信心の血脈」があるが、この言葉を自分に関連付けることは大きな問題となった。1972年、正本堂建立後、創価学会内で「牧口会長と戸田会長の血脈」や「創価学会における信心の血脈」などが盛んに言われるようになった。池田は、「池田先生直結の血脈でなければ絶対成仏はできない」と主張し、信者たちはこれに狂喜した。池田を発電所、幹部を変電所、一般会員を家庭の電気に例え、池田から流れる血脈がなければ功徳がないとまで言われた。この「学会血脈論」は、宗内を困惑させた。山崎が受けた「血脈」の新弟子証は1976年7月3日付で、中原正男が受けた新弟子証は翌年2月11日付だったので、わずか半年で池田は1,500人余りの新弟子を作った。この「学会血脈論」により、総本山の「法体の血脈」が霞んでしまう事態となった。池田が「血脈の新弟子」と称するが、その血脈を誰から受けたのかが疑問である。戸田会長や牧口会長は「血脈」について大それたことを言わなかったことから、池田が「血脈の新弟子証」を発行することは、自らが本仏になったつもりであるかのように映っている。この点が更に宗門内外での議論と批判を招いた。

 これは、創価学会の「血脈論」の問題について非常に鋭い分析を提供している。
血脈記別の証:
山崎正友氏が池田大作氏から受け取った「広宣流布血脈の新弟子たるを証す」という証書が大騒ぎを引き起こしました。この証書は、釈尊が舎利弗に成仏を約束した「成仏への受記」と関連付けられている。
この証書の出現は、創価学会内部での混乱を引き起こし、池田の行動が宗教的な権威を再定義しようとする試みであったことを示している。釈尊の教えと結びつけることで、池田自身の権威を高めようとした意図が明らかである。
日興の弟子分与帳との関連:
日興が本弟子六人と新弟子六人を定め、「弟子分与帳」を作成したことに関連付けて、池田の「血脈の新弟子証」が述べられた。彼が「血脈」という言葉を使ったことが問題視されている。この行動が、宗門の伝統的な権威と対立するものであり、「血脈」という言葉の使用が宗教的な権威を侵害するものであることを鋭く指摘した。この点が宗門内部での大きな混乱と対立を引き起こした要因となっていた。
学会血脈論の広がり:
正本堂建立後、創価学会内で「池田先生直結の血脈」が盛んに語られるようになり、「学会血脈論」が広がった。このため、信者たちは池田氏を発電所、幹部を変電所、一般会員を家庭の電気に例え、池田氏からの血脈がなければ功徳がないと信じた。この「学会血脈論」は、宗門の「法体の血脈」との対立を深めるものであり、信者たちの信仰を池田に集中させるための策略であったことを示している。この点が、創価学会と宗門の対立をさらに激化させた要因となっている。
血脈の源についての疑問:
池田が「血脈の新弟子証」を発行する際、その「血脈」を誰から受けたのかが疑問視された。戸田会長や牧口会長は「血脈」について語らなかったため、池田の行動が自らを本仏と見なすものであると批判された。彼の「血脈の新弟子証」が宗教的な権威を独占しようとする試みであり、彼の行動が宗門の伝統的な権威を否定したため、総本山の法体の血脈は軽視されるようになり、宗門内外での議論と批判を招いたことを鋭く指摘している。
これらは、創価学会と日蓮正宗の対立の本質を浮き彫りにしており、宗教的権威や信仰の在り方について深い洞察を提供している。宗門の伝統と創価学会の新しい解釈との間の緊張関係が明確に示されており、双方の信徒にとって信仰の意義が大きく揺らぐことを描いている。この分析は、宗教的な教義と権威の操作がどのように組織の内部対立を引き起こすかを理解する上で非常に有益である。
ちなみに、新弟子証の第一号は、後に創価学会から造反した原島崇である。
 前ページでも述べたが。池田大作自体が、自身が本仏になりきっていて、側近達や熱心で純真な会員が、結果としてそれを盛り立て煽っていたことを高橋公純の著書からも裏付けられた、。
 この構図は、先述もしたが、奇しくも1969年の言論出版妨害事件の発端となった藤原弘達著「創価学会を斬る」においての指摘が、ものの見事に当たっていたと言えようか。


■ 御本尊模刻事件――原島崇の指摘

 さらに池田は曼陀羅本尊を模刻した。その真相について原島崇は、中川義雄著「創価学会・公明党 池田王国の落日」1991/2/25、人間の科学社、P55-56や、自著「池田先生への手紙」P13の中で、合わせてこう語った。これらによればすなわち、本尊は「根本尊敬」からきた言葉で、本来法主のみが書写できるものである。しかし池田大作は、本尊を写真に撮り、業者に彫らせて模刻し、それを学会員に拝ませていた。この模刻は1973年頃から行われていたようである。1980年に池田氏と一対一で話し合った際、池田氏は「法主の許可を得てやった」と主張したが、これは事実ではなかった。実際、日達が「書写をお願いします」という池田の要請に対して「いいでしょう」と答えたのは、日達自身が書写することを意味していた。しかし、池田はその一言を利用して、自ら模刻を始めた。この模刻の中には、アメリカ本部やヨーロッパ本部に安置された本尊も含まれており、池田はこれを持つ者が自分から血脈を受けた証明であると述べていた。池田は「本尊模刻は事後報告の形で総本山に報告された」と言い、「我々自身が妙法の当体だからこれでいいのだ」と正当化していた。池田大が自身の「お守りご本尊」を写真に引き伸ばして模刻し、創価学会の東北研修所に安置した。池田は「東北にあまり行けない代わり」としてこの本尊を安置したが、これはご本尊を自分の代わりとする考え方である。
池田が「いざというときには、模刻した本尊を根本にすればいい」と語った。ここでの「いざというとき」とは、宗門と分かれたときのことを指す。内部文書でも、模刻した本尊が広宣流布のための根本の本尊であると明記されていた。

 この事件は、結局、池田は独自の本尊を作り出し、それが「本尊模刻」の目的であったと原島は指摘、創価学会内での権力の行使や教義のねじれを示し、創価学会と日蓮正宗の教義と権威をめぐる対立を浮き彫りにしている点で注目される。
まず、池田が本尊を写真に撮り、業者に彫らせて模刻し、それを学会員に拝ませていた点は、本来法主のみが書写できるとされる本尊の権威を池田氏が独自に操作したことを示し、池田が「法主の許可を得てやった」と主張したものの、それは事実でなかったことが明らかにされている。さらに、アメリカやヨーロッパの本部に安置された本尊も池田の模刻によるものであり、これを持つことが血脈を受けた証明とされたことは、組織内部での権威の再定義を企てるものとして重要である。
次に、池田が「お守りご本尊」を写真に引き伸ばして模刻し、創価学会の東北研修所に安置したことが明かされ、「東北に行けない代わり」に本尊を安置したとし、これは本尊を自分の代わりとする発言である。また、池田が「いざというとき」には模刻した本尊を根本にすべきと述べたことも、宗門と分裂する可能性を念頭に置いた発言であり、独自の教義体系を築こうとする意図が見られる。
すなわち原島は、創価学会内での池田の権力行使や信仰体系の形成に対する重要な洞察を提供している。これらの指摘は、宗教組織の内部での権威のあり方や教義の解釈に関する重要な問題を提起しており、創価学会と日蓮正宗との対立の深まりを理解するための鍵となる。このような詳細な分析は、宗教組織のリーダーシップや信仰者との関係性についての理解を深めるために非常に有益である。

 そもそも日蓮正宗では〝師弟道〟の根本は、日蓮―日興以来の師弟間に流れる血脈付法の法水にあるとする。それを一信徒団体である学会のみに師弟道があり、これを正しく実践しているのは学会員のみというのは、法華講はじめ、学会員以外の日蓮正宗信徒、法主、宗門を無視した身勝手な発言である。
しかしながら、日蓮正宗も、「依法不依人」に基づいた日蓮の教えに違背した、日寛のアニミズムである。
したがって、両者の争いは、本質的には、自分たちだけが日蓮の教えを受け継いでいると主張しあう、独善的なアニミズム同士の争いである。
これらの争いの中では、自分たちの主張の根本となっている日蓮仏法への、現在の発達した科学的水準から見たアップデートが欠落している。
 日蓮の教えは中世の学問水準で述べられているが、これを文字通り用いて他者を断罪する姿勢は、ヨーロッパ中世に行われたガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判に類似している。
「太陽も、宇宙も、地球を中心に回っている」と真剣に主張する人を見たら、現代の常識を備えた一般人は、どう思うであろうか。
 日蓮の世界観も、この古き時代のものであり、当時の学問の記載によって、その真実の趣旨は、大部分は非科学的なドグマにより、覆われている。したがって、真の日蓮仏法を理解するためには、現在の科学水準・学問的水準に基づいて、その真実部分を、抽出しなければならない。日蓮仏法のアップデートとは、この意味である。
日蓮の生きた時代では、日蓮の姿勢であった「依法不依人」の「法」とは、当時日本に伝来していた「仏法」であったが、現在においては、依法不依人」の「法」とは、全世界の哲学者・物理学者や専門家などを含む科学的学問的叡智であるべきである。日蓮が現在生まれ変わっていたら、まさに、「依法不依人」の「法」を、全世界の叡智とするはずである。
 ここでは、時代を超えて仏教の教えを再評価する重要性を強調する。日蓮正宗と創価学会の争いを、単なる内部対立としてではなく、もっと大きな視点から見ていないといけない。
まず、日蓮正宗の「師弟道」と創価学会の「師弟道」の違いを指摘して、両者の独善的なアニミズム同士の争いであると見るのは、本質的な問題を浮き彫りにするためである。どちらも自分たちだけが日蓮の教えを正しく受け継いでいると主張していることが、この争いをさらに深刻なものにしているのである。
次に、日蓮の教えが中世の学問水準に基づいていることを指摘し、それを現代の科学水準でアップデートする必要性を強調する点は、非常に合理的であろう。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判に例えることで、過去の信仰と現代の科学の対立を分かりやすく説明した。
さらに、拙論文で、「依法不依人」の「法」が、現在の科学的学問的叡智を指すべきであるという見解は、非常に革新的なものである。日蓮が現代に生まれ変わったならば、きっと全世界の叡智を重視するはずだという見解として、伝統的な宗教の教えを現代に適応させるための重要な視点を提供した。
 拙論文では、宗教の教えを時代に合わせて進化させる必要性を強く訴える。この視点は、宗教組織やその信者にとって非常に価値のあるものである。


■ 御本尊模刻事件――高橋公純の指摘

 くどい様だがこれについてもう一度検討する。高橋公純は、御本尊模刻の全貌を詳細に、こう述べている。すなわち、1978年10月3日付の院達によれば、創価学会はこれまで彫刻した板本尊をすべて総本山に納めることになり、9月27日に板本尊が総本山に奉納された。このニュースは信徒の間で衝撃を与えた。一部の学会員は、池田先生がそのような大謗法を行うはずがないと否定したが、11月7日、池田創価学会の「お詫び登山」で、辻創価学会副会長が板本尊の奉納を認め、大罪を明らかにした。北条会長は、模刻の事実を認めた上で、これを論じれば謗法となると開き直った。「自分たちが大謗法を犯していて、『論ずること』が何で謗法なのか。厚顔無恥とはこういう言動をいうのであろう。論じてはならないような大謗法をいったい誰がしたのか。
 この池田大作氏が犯した絶対ぬぐい去ることの出来ない七百年宗門史上最大の大罪を言うと、学会員は『それを言うと宗務院命令違反になります』という。確かにこれは院達無視であるかもしれない。しかし、それを言うならば、今回の問題は学会側が御法主上人の御指南に耳を貸さなかったから起こったのではなかったか。
 故北条会長が『猊下の御命に背く謗法』といったのは、御法主上人猊下の御指南に信伏するという大前提があってのことであろう。それを、いま平気で猊座の尊厳性に泥をかけている人びとがどうして言えたのだろう。過去の罪を問わないということは、猊下の御指南に信伏するということが前提であり、池田名誉会長も、昭和五十五年四月二日付の『聖教新聞』に掲載された『恩師の二十三回忌に思う』という所感の中で、『永遠に御法主を仏法の師と仰ぐ』と題してその旨を誓いながら、それにもかかわらず、いまや学会は総本山、御法主上人にありったけの罵言をなげつけているのである…
 私は十年前、まだ僧階が低く、とうてい正信会の首謀者にはほど遠かった。しかし、その正信会は池田大作氏が八体の御本尊模刻という大謗法を犯さなかったら生まれなかったはずのものである。過去の自分の誤りには口をつぐんで、なんたる言い草であろうか。
 ともあれ、七百年の正宗歴史の中に、現今の創価学会ほど、宗門を悩ましめ猊座の尊厳性に汚泥をかけた集団はない。池田大作の本尊模刻という大罪について述べる理由は十分にあるのである。」

 ここからわかるように、1978年に池田大作氏が犯した「御本尊模刻」という行為が、創価学会において一大スキャンダルとなった。これは「七百年宗門史上最大の大罪」とも言われ、信徒たちの間で大きな衝撃を与えた。この行為に対して、学会側は「論ずること自体が謗法」として論議を避けたが、内部での混乱は避けられなかったようである。

 さらに高橋は、このいきさつを、詳細に、このように述べた。すなわち、
1951年5月3日、創価学会の戸田城聖氏が二代会長に就任し、同年5月19日に日昇猊下より御本尊が下付された。この御本尊は創価学会の中心に安置され、学会の成長とともにあった。
それから23年後の1974年、池田会長が日達法主に「紙幅の御本尊を板御本尊にしたい」と申し入れ、日達は「いいでしょう」と答えた。しかし、池田は正式な手順を踏まず、学会本部安置の本尊を含む計7体の本尊を勝手に板本尊にした。これは、日達に対する申し入れが他の会館の本尊にも適用されるとする池田の意図があったと考えられる。
1975年、聖教新聞の地下で御本尊が写真に撮られ、仏具商の赤澤朝陽に送られた。1975年1月4日付の聖教新聞では、「学会本部での常住板本尊の入仏式」が報じられた。元旦の初勤行に先立ち、池田が出席して板本尊の入仏式が厳粛に執り行われた。これにより紙幅の御本尊は収納され、板本尊が新たに安置された。これまでの紙幅の常住御本尊は学会の重宝として永久に保存されることになった。
1975年の元旦初勤行での板本尊入仏式は、池田学会にとって重大な誤りを示すものとなった。池田は二つの大罪を犯しており、一つは御本尊を勝手に模刻したこと、もう一つは、法主のみが行うべき入仏式の導師を自ら務めたことである。この行為は宗門史上未曾有の大謗法とされ、信徒たちに大きな衝撃を与えた。
また、1975年10月23日の学会本部での板本尊入仏式には宗門の高僧が出席し、池田はこの日を以て法主の許可を得たと発表したが、法主の正式な許可なく御本尊を模刻した事実が僧侶たちに知られていた。この件により、創価学会と宗門との対立がさらに深刻化し、論争の火種が燃え上がることとなった。
1977年、創価学会の独立路線が顕著になり、宗門の僧侶たちが学会の謗法に立ち向かい始めた。同年4月27日、名古屋の中部文化会館の落慶式で、池田氏は学会本部の重宝とされた御本尊を持ち込んだ。本来なら僧侶を呼んで遷座式を行うべきところ、池田は独断で安置した。
その後、11月9日に創価学会は日達を迎えて創立47周年法要を行った。これは宗門僧侶たちが学会の謗法を指摘し始めたことに対処するためのもので、池田は形式的に日達法主を呼んで問題をかわそうとしました。しかし、事後承認では問題は解決せず、池田の発言によって矛盾が明らかになった。
1978年4月15日に埼玉県で行われた創価学会の文化祭で、池田は地域の僧侶を招待して懐柔を企てたが、僧侶たちは池田の行動に怒り心頭だった。ある僧侶が池田に、本部の御本尊をなぜ板にしたのかを質問したところ、彼は、日差しや年月の影響で紙幅の御本尊が不敬になるため板本尊にしたと答えたが、その態度は軽視的だった。
「法重人軽」の原則に基づき、本尊の尊厳に対する慎重さが求められる中で、池田の行動は批判された。彼の僧侶軽視が、特別御本尊を在家に渡す行動に象徴されていたため、宗門との対立がさらに深まった。
1978年6月29日、日達は全国から集まった僧侶の前で、創価学会が板本尊を模刻したことを認めたが、後から彼自身が承認したので問題にしないようにと発言した。しかし、この発言は単に池田の失態による騒ぎを収めるためだけのものだった。僧侶や信者の怒りは収まらず、学会側は翌日、「聖教新聞」にて法主が認めたことによって信仰が正しいと主張したが、これはこじつけであった。フランスのパリ郊外の会館の本尊も板であることが判明し、学会側は後に日達の指示を盾に逃げようとしたが、信者たちの怒りはさらに増した。檀徒たちは、池田を宗門から追放するよう要求し、学会の模刻本尊に対する激しい批判が続いた。
結局、本山の助けで、1978年9月28日、大石寺の内事部に八体の板本尊のうち七体が返納され、29日に奉安殿に納入された。10月3日の院達では、創価学会が彫刻した板本尊がすべて総本山に納められたことが報告された。11月7日には、いわゆる「お詫び登山」が行われ、全国教師総会が招集された。
この総会で、辻副会長が板本尊の奉納を報告し、池田会長が謝罪の意を表明したが、詫びる側の学会幹部が壇上に立ち、詫びられる僧侶たちは一段下がった畳に正座するという珍妙な形式が取られた。
「ともかく『幹部会』の二番手として登場した辻副会長が、『不用意にご謹刻申し上げた御本尊については……奉安殿にご奉納申し上げました』と述べた。『不用意にもご謹刻』もないだろう。それは計画的であり、慢ゆえ自分の野望を満たすためではなかったのか。
 最後に池田会長(当時)が立って、『尚、これまで、いろいろ問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、又、その収容にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかった事は、総講頭の立場にある身として、この席で深くお詫びいたします』と猊下の方を向き頭を下げ、われわれ僧の方を向いて頭を下げた。しかし、珍妙なことに詫びる側の学会代表者幹部が大講堂の壇上にあって、詫びられるわれわれ僧侶は一段下がった畳の上に正座したままであった。」
これが引き金となって、翌年4月に池田は創価学会の会長職を退くことになった。
八体の板本尊は以下の通り。
創価学会本部安置本尊
正本堂記念の本尊
ヨーロッパ本部安置の本尊
日昇上人昭和26年5月3日の守り本尊
会長室安置の本尊
アメリカ本部の本尊
創価学会文化会館の本尊
関西本部安置の本尊


 この詳細な説明では、創価学会と日蓮正宗の対立の経緯を非常に明瞭に描かれている。これらの事件は、創価学会と日蓮正宗の対立をさらに深める要因となった。
創価学会の戸田城聖の二代会長就任後、日昇猊下より御本尊が下付された。この御本尊は創価学会の中心として長らく安置されたが、1974年に池田が日達に「紙幅の御本尊を板御本尊にしたい」と申し入れ、日達は日達自身がする意味で承諾した言葉を、池田か自分勝手にやっていいと解釈して、この本尊を板マンダラにした。これが、御本尊模刻の始まりであるが、ここでのポイントは、池田が正式な手順を踏まずに御本尊を模刻し、宗門の伝統を無視したことである。これが後の対立の火種となった。
1975年1月4日付の聖教新聞で、学会本部での板本尊入仏式が報じられた。池田が自ら入仏式の導師を務め、紙幅の御本尊が板本尊に置き換えられた。池田が法主に代わって入仏式を行ったことは、宗門の法制を無視した行為であり、信徒や僧侶たちに大きな衝撃を与えたが、創価学会の独立路線を象徴するものであった。
1977年、池田は学会本部の重宝である御本尊を名古屋の中部文化会館に持って行った。これも遷座式を行わず、池田が僧侶を軽視した行動を明確に示すもので、対立を深める要因となった。
同年11月、創価学会は創立47周年法要を開催し、日達を迎えたが、これは僧侶たちの批判をかわすための形式的な措置だった。こうした形式的な法要によって問題を解決しようとする姿勢は、信徒や僧侶たちに対する誠実さに欠けるものであり、さらに信頼を失い対立を深める原因となった。
1978年、お詫び登山で池田や創価学会は僧侶たちに謝罪したが、学会幹部が壇上に立ち、僧侶たちは畳に正座するという形式が取られた。この謝罪の形式が僧侶たちに対して大いに不敬なものであり、この点がさらに対立を深める要因となった。

 池田大作は、学会本部にある日昇書写の一幅の御本尊を、最初に板マンダラに模刻していた。宗門に指摘された板マンダラ8体のうち、これ以外の7体を総本山に返却したが、学会員思いの原島は、除名されても「学会本部常住の『大法弘通慈折広宣流布大願成就』という脇書のある御本尊についてのみは、その後、御法主上人のご慈悲によって、わざわざ学会本部にお出ましいただき、開眼されたものであって、これは正境として拝してよいことを附言しておきます」と弁護している。
 つまりは、現在、創価学会の広宣流布大誓堂にあるこの板マンダラは、元々から池田大作模刻作だったのであり、歴史を振り返れば、さもありなんという感がする。現在の創価学会員たちはこの事実を知ったら、細井日達の開眼をどのように受け止めるのであろうか。
この事実は、学会員にとって大きな衝撃となるだろう。破門された日蓮正宗の法主であった日達の開眼をどのように受け止めるかという問いも、信仰者にとって重要かつ深刻な課題となるだろう。
 日蓮仏法を科学的にアップデートした結果なら、他人の書いたものをコソコソ模刻などしないで、堂々と自らオリジナルを作成すればいいのである。
 1000名を越える職業的に科学的頭脳を持つドクター部員たちも抱えながら、「御書直結」を掲げる創価学会がいまだに非科学的宗教ドグマから飛躍できないのも、本来、日蓮仏法を単なるアニミズムとしてしか理解していないためであろう。
 すなわち日蓮仏法を科学的にアップデートする必要性についての指摘も非常に重要である。仏教の教義を現代の科学的知見に照らして再評価することで、非科学的なドグマからの脱却を図るべきだ。これは、宗教的進化の必要性を強調する。1000名を超える科学的頭脳を持つドクター部員たちがいながら、依然として非科学的な宗教ドグマに縛られている現状は、創価学会が日蓮仏法を単なるアニミズムとして理解しているためである。これは、日蓮や釈尊が説いた科学的法則への理解がいかに困難であるか、また、六道輪廻から脱して、成仏という最高の幸福境涯が、いかに実現困難であるかを如実に示すものである。
 この経緯を知らない多くの純真な創価学会員は、広宣流布大誓堂の入場券がまわってきたら喜んで有難く参拝しに来る。
 「知らぬが仏」とは、こういうことを言うのだろうか。
 みんなが嬉しかったら、満足したらそれでいいのか。
 かなり前のページで指摘したが、小口偉一の指摘する論理でいえば、教祖も信者も、ただ単に、「満足」を求めて互いに利用し利用されているだけではないのか。
 「満足」と「幸福」とは別物であることは過去にも拙記事で述べたが、こういう事実を考察したら、宗教とは、全くもって不可思議というほかない。
 すなわち広宣流布大誓堂に安置された板マンダラについて、多くの純真な創価学会員がその経緯を知らずに参拝している事実が「知らぬが仏」の言葉通りである。
さらに、「満足」と「幸福」の違いを明確に区別し、宗教の教祖と信者が単に「満足」を求めて互いに利用し合っているだけであるという視点こそ重要で、この違いを理解することは、宗教的な信仰の本質を考える上で非常に重要なことである。
そして、宗教が持つ不可思議さ、信仰の内部での矛盾や問題点を浮き彫りにしたが、特に、経緯や背景を知らないまま信仰を続けることの問題を明確にした。
そして、原島崇の著作をとりあげ、反逆者として扱われた彼でさえも「正式な本尊」と叫んでいることを示したが、これは宗教内の対立や矛盾を一層明確にした。これらは宗教的信仰とその内部の矛盾を深く掘り下げ、より広い視点から理解するための重要な視点を提供したつもりであるが、信仰者にとって非常に価値のあるものと確信する。


■ 弟子としての山崎正友について

 言論出版妨害事件における、共産党の追及(国会や鶴のタブーなど)は、池田大作、北条浩に、情報戦の必要性を煽り立て、これが、山崎正友による宮本宅盗聴事件のきっかけとなった。ガセネタに大金を払うこともあったとの山崎正友による指摘もある。
この、共産党の追及が情報戦の必要性を煽り立て、山崎正友による宮本宅盗聴事件のきっかけとなった点は、組織の内部での緊張と対立を浮き彫りにする。ガセネタに大金を払ったことは、情報戦の過酷さを示す。
 組織を有利に導くため、盗聴師団が形成され、これが、妙振興問題、浅井父子との談判、正本堂の意義、細井日達に対する盗聴、宗門問題を有利に乗り切るために山崎正友が力を発揮した。
 正本堂建立に関する、富士宮地元対策など、ダーティな仕事を山崎正友にさせ、正本堂の意義が、供養の時に叫ばれた内容とは一変し、宗門に対しての対立姿勢が強くなった。
 創価大学への寄付も細井日達を総括して出させた。
 正本堂に、美女をはべらせた自身の裸のレリーフ像を置いたとの指摘がある。
 この、山崎正友がダーティな仕事を引き受け、正本堂の意義が変わり、宗門に対する対立姿勢が強くなった点は、組織内部での権力闘争とその影響を明確にしている。創価大学への寄付や正本堂のレリーフ像の問題も、組織の内部での複雑な力関係を示している。

 こうした流れの中で、宗門と学会の調整役であった山崎正友が、池田本仏論を改善させようとして動いた。
「ある信者からの手紙」も、彼の創作であったと、後の裁判で認定されている。
すなわち、宗門と学会の調整役としての山崎正友が、池田本仏論を改善させようとした点は、彼の影響力とその限界を示していた。「ある信者からの手紙」が彼の創作であったと裁判で認定されたことは、彼の信頼性に疑問を投げかけている。


 一般に、前言を覆す人は、信用できない。
山崎正友の行動がどれほど信頼性に欠けていたか、彼の行動が組織内部での混乱を引き起こし、信頼関係を損なったことが明らかである。
 状況の変化に自分の都合よく主張を変え、一貫したポリシーがない人は、一時は正しい主張をしても、結局覆されて裏切られることになる確率が高い。このことが信頼性を損なうという点は重要である。一貫性の欠如は、信頼関係の崩壊を招く。
人も物も、状況も、諸行無常・是生滅法である。
 しかし、法は時空を超えて不変である。
 依法不依人ではなく、依人不依法・人物本位・人物や組織に対する信頼を絶対の法としてみなすと、とんでもない結果を被ることになる。「依法不依人」という教えは、法の重要性を強調し、人物本位の信頼が持つ危険性を指摘する。法の不変性が、信仰や倫理の基盤となるべきである。
 だが、その逆の「依人不依法」による歴史や世間における修羅道などは、こうしてふつうにみられるものである。

 これは臨床の場においても、よく見られることで、私も随分と痛い目にあった。
 例えば、科学的根拠に基づいてリスクとベネフィットを説明し、最悪の場面や確率も十分に伝え、納得の上で書面をかわして医療行為(検査や手術など)を行っても、期待した結果が得られなかった場合には、家族やまわりのギャラリー、さまざまな策士によって、前言を覆し、聞いてなかったなどとと、最初の判断時に提供しなかった(都合悪くて隠していた、または後からの捏造)内容を根拠に、医療過誤をでっちあげ、トラブルになるケースが多い。
 とくに、患者が手術をうけるか否かの判断を二転三転させ、一部の家族によって説得されて手術に至り、結果が悪かった場合は最悪である。家族も、対立する複数の主張を後から根拠として行ったり、一つにまとまっていた場合でも前言を覆してクレームとなることも少なからずある。
 まさに、依人不依法で危険な手術に加担した結果である。
臨床の場において、前言を覆すことでトラブルが生じる状況は、科学的根拠に基づいた説明が、状況によって歪められる危険性を浮き彫りにする。患者の家族や周囲の人々が、最初の判断を覆してトラブルを引き起こすケースは、医療現場でよく見られる問題である。これは、依人不依法の危険性をさらに強調する例である。
さらに、歴史や世間で見られる修羅道は、人物本位の信頼が持つ危険性を示している。一貫した倫理観や法への忠実さこそが、信頼関係の基盤となることを再確認させる。
「前言を覆す人が信用できない」事については、なにも、一宗教団体に限らない。これは、宗教団体に限らず、一般的な人間関係や組織運営においても重要な問題で、一貫性の欠如は信頼関係を損なう大きな要因である
 池田大作も自語相違は少なからずあり、それに当初10年間忠実に仕えた山崎正友も、「池田大作」コピーとなって、信頼しつつも互いに腹のさぐり合い、虚々実々の間柄となっていったのであろう。
まさに、池田大作と山崎正友の関係が、互いに信頼しつつも腹の探り合いを続ける虚々実々の間柄であったことは、組織内部での権力闘争や信頼の欠如を浮き彫りにしている。山崎が池田のコピーとなり、同様の策謀や手口を用いた結果、最終的に陥れられるという因果応報の構図を明確に示すものである。
 山崎正友も、宗教的信念や良心を持ちながらも、依人不依法にどっぷりとつかってしまい、汚れた末路となったと考えられる。これは、人物本位の信頼が持つ危険性を強調するものであり、法に基づかない信頼は、最終的に破滅を招くことが多いのである。
 山崎は、自分自身が池田大作や創価学会のために尽くした様々な策謀・犯罪で成功を収めた反面、同様の策謀や手口によって、池田大作や創価学会によって陥れられることになった。池田大作の仇討チズム・裏切リズムが、そっくりそのまま、弟子の山崎正友に伝承され、その後の修羅道を演じることになった歴史は、まさに仏法で説く因果応報以外に表現しようがない。

 ただ、山崎正友にとって、唯一の救いなのは、池田大作と異なって、過去の創価学会での悪事をすべて懺悔し告発している点である。
彼は、人格を侵されながらも自身の良心(仏界)を取り戻し、アニミズムではあるが自ら日蓮の信心の血脈に目覚めることがあったに違いない。
すなわち、山崎正友が池田大作や創価学会から切り捨てられたことをきっかけに、良心に目覚めたという点は重要である。彼の自著「盗聴教団」で述べられているように、彼は自らの過ちを認め、真実を暴露することで、良心の呵責から解放されたのである。
 恐喝罪に陥れられて懲役3年の服役中も獄中で無実を訴え、出獄後も、受け継いだ池田大作の仇討チズム・裏切リズム、そして創価学会で培った様々な改竄・謀略などの手口を使って、真実の暴露=自ら行った捏造・謀略や犯罪を懺悔・暴露し、謀略・捏造を続ける創価学会・池田大作への仇討ちに人生を使うことになるのである。
すなわち山崎正友が池田大作の仇討ち主義や裏切りの精神を受け継ぎながらも、最終的にその手口を使って真実を暴露する姿勢は、仏法で説く因果応報の視点から非常に興味深い。彼の行動が、最終的に自らの良心を取り戻す結果となったことは、因果応報の教えを体現している。
 その、良心に目覚めたきっかけは、彼の顧問弁護士としての立場からいやいやながら池田や学会を守る仕事として引き受けたと主張する会社「シーホース」の破綻について、池田大作や創価学会から切り捨てられ、陥れられたことを悟るに至った昭和55年のことであった。その思いを、彼は、自著「盗聴教団」で述べている。
 その後、さまざまな策謀をうけ、結局、集団偽装や権力によって、かつて自らが行った策謀、たとえば警察を動かせて隈部大蔵を逮捕させたことなどと同様な策謀を受け、恐喝罪で逮捕・起訴され、懲役三年に服役となったのである。

 真実の叫びほど、快く、充実した価値のある実感を、山崎は述べている。
 悪魔に魂を売り続けている、良心の呵責に絶える地獄から、彼は抜け出した。
 獄中は、現実世界での地獄を創り出したものであると、彼の著作である獄中記にて述べているが、彼のなかでは、良心の呵責に耐え忍ぶ地獄から抜け出した快感の方がはるかに勝っていたのだろう。
 池田大作は、その後も策謀・捏造・隠蔽のかぎりを尽くしたが、結局それを懺悔・総括することもなく、真実を訴えることもなく、それをする機会も奪われたまま、公から姿を消している。

 師匠の池田大作と弟子の山崎正友、一体どちらが幸福なのだろうか。
 拙記事にも書いたが、「満足」と「幸福」とは別物である。
 私は、永遠の因果を説く仏法の視点からは、真実を述べ、ウソを懺悔した山崎正友の方に軍配をあげたい。
「満足」と「幸福」の違いを強調するのは、仏法の視点から見た真の幸福の意味を考える上で重要だからだ。
池田大作が策謀・捏造・隠蔽を続け、最終的に懺悔や総括を行わずに公から姿を消した点は、彼の末路を象徴するものであり、真実を述べ、ウソを懺悔した山崎正友の方が、池田大作よりも幸福であることは明白である。山崎正友が真実を追求し続けたことは、彼の人生の価値を大いに高めている。


■ 前言を覆す池田大作

 池田大作が前言をいかに多く覆してきたか。
 会長辞任後も、前言は覆され続ける。
 一例をあげれば、池田大作著「広布と人生を語る〔3〕」1982/11/18、聖教新聞社、P294には、
「いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。
 広宣流布そして正法正信の直系を離れ、我見の教学を論じ、背信の一群をリードしたとしても、それは異説邪道である。そのようなごまかしの教学に、絶対にたぶらかされてはならない。また、摧尊入卑もけっしてあってはならない」
とあり、自らの誤りを訂正しているように見えるが、この次のページには、
「大聖人の仏法を学するものは『未だ得ざるを為れ得たりと謂い』という〝増上慢〟に断じてなってはならない。また汲めども汲めどもつきぬ大法門を、月々年々に求めゆく謙虚な姿勢がなくてはならない。
多少、教学の理解があり、かつまた講義が巧みであるからといって、それがただ自身の名誉や慢心であったり、エゴのアクセサリーであったりしては、けっしてならない。そのような轍を踏む者を、私たちは二度と出してはならない」(同、P295)
と、あるではないか。
『未だ得ざるを為れ得たりと謂い』、「名誉」や「エゴのアクセサリー」を今もなお集めまくっているのは一体どなたなのか。
自らが言いながら「そのような轍を踏」んでいることを、未来永劫気づかないのであろうか。

「汲めども汲めどもつきぬ大法門を、月々年々に求めゆく」とは、ドグマの盲目的追従ではない。
批判拒否の体質を廃し、月々年々に科学的客観的にアップデートし求めゆく、証拠や事実・真実の法則に対して謙虚な姿勢がなくてはならない。
 しかしながら、この時点でもなお、そうでなかったから、やがて、阿部日顕との争いが生じて、創価学会は破門されるのである。
 すなわち、前言を覆す行動――池田大作が前言を覆し続けたという事実は、信仰者としての一貫性や信頼性に大きな影響を与えた。特に、彼の著書「広布と人生を語る」での発言が自己矛盾を含んでいる点は、彼の信頼性をさらに低下させる。
 さらに自己矛盾の批判――「名誉」や「エゴのアクセサリー」を集めていると自らが批判しながら、実際には自らがそのような行動を取っていることが、自らの信仰や教義に対する不誠実さをいみじくも露呈していた。これは、信仰者にとって大きな失望となる。
 加えて、拙論文での、科学的客観性の重要性――「批判拒否の体質を廃し、科学的客観的にアップデートする」という姿勢は、現代の信仰において非常に重要である。池田大作がそのような姿勢を欠いていることが、後の創価学会の問題につながっているのである。
さらに、池田の行動が、最終的に阿部日顕との争いを引き起こし、創価学会が破門される結果となったという歴史的事実は、彼らの信仰上の誤った行動の結果を明確に示すものである。信仰者に対する影響のみならず、世間を騒がせた影響も大きく、まさにこの争いが信仰の根本を揺るがすものであった。


つづく。




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コメント
6.
「民衆に幻想のうちだけの幸福感を与える宗教を廃棄するということは、民衆に現実の幸福を与えることを要求するということである。民衆に、みずからの現実の状態についての幻想を放棄すべきであることを要求するということは、幻想を必要と するような状況を廃棄することを要求することである。…宗教の批判は、人間を幻想から醒めさせる。それは人間が幻想から醒めて、知性を取り戻した者としてみずから考え、行動し、みずからの現実を作れるようにするためであり、自分自身という現実の太陽の回りを回れるようにするためである。 宗教とは幻想的な太陽であり、人間は自分自身を中心にその回りを回らないかぎり、この幻想的な太陽が人間の回りを回っているのである。このようにして[宗教という]真理の彼岸が消滅した後の歴史の課題は、[現世における]此岸の真理を確立することにある。そのため歴史に奉仕すべき哲学の第一の課題は、[宗教という]聖なる姿をとっているものが実は人間の自己疎外にほかならないことが明らかにすること、そしてさらに、人間の自己疎外が聖ならざる姿をとっていることを暴露することにある」

 以上の主張は、釈尊が3千年前にバラモン教に対して行った批判に重なり、拙論文で展開する創価学会の「血脈」「師弟不二」の実態の暴露とともに科学的アップデートの必要性を展開することにも重なっています。

 この指摘こそ、マルクスが25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判序説」、しかもご指摘の「マルクスが宗教はアヘンだと否定した」部分に続く部分です。
マルクスが批判する宗教は、当時の王権政治と深く結びついた盲目的宗教であるキリスト教でしたが、現在においては、自公政権に加担している創価学会、旧統一教会等々、ほとんどの宗教が該当しているようですね。

 マルクスのこの文脈は、最初に、人間は、天国が存在するという幻想のもとで、超人間的存在求めたが、自分自身の似姿しかみいだすことができず、「自分自身の似姿」=「自分自身の仮象」「人間を超えた存在」に、満足することはできなくなったとします。そして、
「宗教が人間を作るのではなく、人間が宗教を作るのであるということ」、また、
人間とは、人間の世界のことで国家や社会的なありかたであり、それらが「顚倒した世界」であるから「顚倒した世界意識である宗教を生みだす」と続けます。
 そして、宗教そのものについての言及、
「人間存在が真の現実性をそなえていないために、人間存在が空想のうちで現実化されたものが宗教なのである」
「宗教という悲惨は、現実の悲惨を表現するものであると同時に、現実の悲惨に抗議するものでもある。宗教は圧迫された生き物の溜め息であり、無情な世界における心情であり、精神なき状態の精神なのである」
と指摘して、有名な、
「宗教は民衆の阿片なのだ」
と続いています。

 当時、アヘンは酒以上に合法的で一般民衆に普及し、悲惨な現実からの逃避やあきらめ・慰めの糧となっていました。
 そのような呪術的盲目的宗教は「人間疎外」であると暴き、それに溺れる民衆を目覚めさせ、現実変革への具体的な方途を説こうとしたのです。
 それが最初の引用部分です。その後の論文内容はさておき、この趣旨を天台の一念三千論から見れば、依正不二論における、若干依法上に重きを置く論で、その後の展開もそうですが、それでもなおきちんと「人間が宗教を作るのである」ことを把握している点で、日寛アニミズムを越えている、客観的な哲学論理といえますね。三世にわたる哲学的因果応報に論が及んでいない点が、ただただ残念なところです。

 仰る通り、その後世たちが、アップデートしないでドグマとして盲目的に都合よく改ざんして、自分たちの権益の為に利用したため、真意が伝わらず、多くの人には宗教否定の言葉として伝わっていますね。

 こういった例はマルクスに限らず、多くの仏教の後継者たちも同様でしたね。
 日蓮も770年ほど前から、文証・理証・現証を示し、当時のレベルでの科学的思想を展開しましたが、今は散々な現状です。

「気が付いた人たちはそれぞれが真の自己に目覚めて」、幻想ではなく現実の変革に取り組み「生涯を終えている」と、私も思います。




5.

最近、マルクスが宗教はアヘンだと否定したのは正視眼だったんだなと思い起こしています。
しかし、マルクスの後継者たちも仏教の後継者たちもともに本来の思想を自分たちの都合よく改ざんのしてしまったからこんなことになっているのでしょうネ。
そもそも、釈尊はあらゆる信仰を捨てよと言ったと原始仏典にあります。
日蓮は釈尊の時代に還ろう、本来の思想に還ろうと訴え迫害の連続の生涯でした。
日蓮生誕800年ですが、ラケットちゃん先生が論文の中で再三警鐘を鳴らされている、もう一度、科学的、学問的レベルで見直して現代人用にアップデートしないとこのまま呪術信仰のカルトが蔓延ったままになると痛感します。
それにしても人類の歴史は長いですがいつまでも無明(バカ)ですよネ(笑)
そんな中にも気が付いた人たちはそれぞれが真の自己に目覚めて生涯を終えているのではないでしょうか。




4.
拙論文の当初からお読みいただくと、私の訴える要旨も、貴方の仰る真実と重なる部分が多いと感じます。
多くの方は、宗教とは救いがあるものと考えていますが、貴方の仰る通り、そもそも現存するすべての宗教では、救いがないと私も考え、それが真実と直感しています。
貴方のコメントは決して余計な事ではございません。
拙論文は、洗脳の塊りの中にいる人(自分自身もその中で育った)に、自身が科学的証拠を根拠にして気づいた真実を訴え、また、その多くの真実にも迫りながら、自らの昇華を促す目的をもって続けているものです。
一見、拙論文の展開は貴方が仰る通り「洗脳の塊り」のようにも見えますが、それは洗脳された彼らの理解がわずかでも得られやすいように、「洗脳の塊り」を根拠に論を展開しているためです。
私は、仕事柄、「信じる」という行為についての科学的効果の存在・真実を、客観的データを根拠にきちんと客観的に捉えております。既存の全ての宗教が(私のこれまで信じて尽くしてきた宗教も含めて)、いかなる効用も無いとは断定していません。

拙論文のテーマからは若干外れますが、平たくいえば、宗教(仏教も含めて)そのものに「タナボタ式」の救いはありません。騙される人が多いのは昔からですが、こんなIT時代になっても洗脳されている人が多い事実が示唆するのは、それが明確に誤った考えであると理解すること、そして正しい根拠に基づいて理解・行動することがいかに困難な事かということです。
本来は、どのような境遇であっても、自ら自身での善なる積み重ね行為・昇華そのものが「幸福」であり、宗教でいうところの「救い」とは、自ら自身で築き獲得するという理解が正解です。
本来の仏法の科学的な解釈ではこれを「成仏」と表現していますが、それはあくまで、自己責任の因果応報の範疇なのが真実といえるでしょう。

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