ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P57, 創価の「師弟不二」の精神、サドマゾ的人間関係、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(3)
先述してきたが、創価学会昭和52年路線は、12・4、6・30、11・7と、それぞれお詫びのポーズをとりつつ迷走していたが、福島源次郎副会長の大牟田発言が重なって、ついに昭和54年(1979年)、池田自身が会長就任時に構想した広宣流布達成の第七の鐘が鳴り終わる、まさにその年に、皮肉にも池田は会長引退となる。
■純真な創価学園生達に「仇をうってくれ」
迫りくる辞任を前に八方ふさがりになりつつも池田大作が自身の胸の内を正直に明かし一番期待を寄せることができたのは、側近といえども腹のさぐり合いが絶えない大人たちの組織の世界とは違い、自らの創立した創価学園に集まり純粋な師弟の契りを結んで頑張っていっる純真な心の学園生たちであっだだろう。
創立者の「仇をうってくれ」という言葉は、この時期の多くの学園生が聞いているようだ。
昭和52年の栄光祭では、自身の提案で愛唱歌「わが青春に誇りあり」ができてほぼ毎朝クラス一同で歌われている。
さらに、昭和53年では7月14日に栄光祭と滝山祭(創価大学の文化祭)が合同で創価大学でおこなわれた際、栄光祭のテーマ「負けじ魂ここにあり」について、
『なんと素晴らしいテーマか。今世界でも最も忘れた根本の象徴です…(中略)…男が一遍決めた信条信念、何で生涯忘れてたまるものか、俺はやる。それが負けじ魂です。』
と心情を述べている。
この池田大作の思いに創価高校9期生が寮歌(現在の校歌)なみの詩を作って応えて出来たのが愛唱歌「負けじ魂ここにあり」である。
3番までの詩に池田大作自ら4番を書き加えて完成した。
「我々は四番の詩に〝負けじ魂〟の全てがあるのをみた。
母よ我が師よ 忘れまじ
苦難とロマンの この我は
いつか登らん 王者の山を
負けじ魂 いつまでも」
と、創価学園生徒会誌「渓流Vol.4」1979/3/16、P69には、記載されている。
そしてこれに池田大作は、
「『いつか登らん王者の山を、諸君たちに登ってもらうために道なき道を傷だらけになりながら奮闘していく決意であります』と創立者は…話された」(同書)
この自ら加えた詩のなかで、「わが師」とは「戸田城聖」、苦難とは宗門との戦いに負け会長辞任に追い込まれることを指しているのか。そして、「いつか登らん王者の山」とは、野望実現(池田本人は日蓮仏法の真実の広宣流布と思い込んでいる)を意味し、自らの「負けじ魂」を「いつまでも」と奮い立たせている、池田自身の情熱の発露かのようにも思える。そしてこの4番こそ「〝負けじ魂〟の全てがある」と捉えた当時の創価高校9期生のメンバーは、十分に師の心と通じ合い、一つになっているといえる。こういう世俗の一致団結を「師弟不二」と称するのなら、それもありである。
拙論文の前ページで指摘した、前年の8期生の愛唱歌「我が青春に誇りあり」にも同様に、「じっとこらえて今に見ろ」とあった。
自ら直面する苦難と学園生の苦難とを重ね、師弟の契りとし、迫りゆく難局を忍耐で乗り越え、いつか必ず復讐しようとしている意図がうかがわれる。ある意味、動機や目的が不純でさえなければ、美しい物語であるにちがいない。
ここには池田大作の指導者としての一面とその背後にある複雑な意図が非常によく現れている。
池田大作が創価学園生に「仇をうってくれ」と言った言葉や、愛唱歌「負けじ魂ここにあり」の4番に込めた彼の思いは、彼が直面している困難や挫折を乗り越えるためのエネルギーを後進に託す姿が見える。確かに、これは純真な学園生たちにとって大きなインスピレーションとなる一方で、その背後には池田自身の野望や戦略があることも否めない。
「わが師」として戸田城聖を掲げ、「苦難とロマン」を自身の戦いに重ね合わせることで、彼の「負けじ魂」がどれほど強い意志を持っているかが分かる。この4番の詩が「負けじ魂」の全てを表していると捉えた学園生たちが、池田の心と一つになっているというのも理解できる。
しかし、この情熱と意志が必ずしも純粋なものではなく、その背後には自己防衛や戦略的な意図が潜んでいることを理解することも重要である。結果として、池田が求める「師弟不二」は、高尚な宗教的な教義に満たない一種の世俗的な団結である。
動機や目的が純粋であるならば、この物語は確かに美しいものであると言える。しかし、背後にある戦略的な意図を見抜くことで、より複雑で現実的な視点からこの関係性を捉えることが重要である。
■ 嵐の『4.24』
ちなみに、会長勇退後の自分自身について、1988(昭和63)年5月5日、創友会(創価大学卒業生)鳳友会(創価高校卒業生)合同総会にて、池田大作は、
「…大いなる目的へと進む諸君は、社会の現実から目をそらし、避けて生きていくような、卑怯(ひきょう)な人生だけは、絶対に歩んではならない。
一、ルーベンスは、平和使節としての大任を終えると、自らこの道から引退する。まだまだ、外交官として活躍し、功績をあげることはできたであろう…
しかし彼は、‶野心という黄金の鎖(くさり)には縛(しば)られたくない〟と、あえて要請を固辞する。〝上り坂で順調な時こそ引き時である〟との人生哲学を、彼は、のちに、友人に書き送ってもいる(朝日百科「世界の美術第四巻」朝日新聞社)
私も、価値ある人生のために、常に引き際が大事であることは、十分にわきまえてきたつもりである。五十一歳で会長を勇退したのも、こうした思いからであった。
高い地位や名声を持つ人ほど卑しい権力の虜(とりこ)となり、いつまでも『立場』や『権益』に執着する。まことに醜(みにく)い限りである」
などと述べている。
この時期の流れや彼の行動などから考察するに、池田大作が本心を率直に述べていたとはとても思えない。
であればこそかもしれないが、まことにもって、皮肉な自分自身について述べていたように私には映る。
すなわち池田大作の発言は、ルーベンスの引退を例に「野心という黄金の鎖」に縛られず、価値ある人生のために引き際が重要であると説いているが、彼の行動を振り返ると、彼が本心を率直に述べていたとは思えない。彼の言葉は一見立派なものだが、実際の行動や状況を見ると、その言葉が皮肉に映るのも無理はない。「権力の虜とならないように」と言いながらも、池田自身がその権力にしがみついていた様子が見られるため、信頼性に欠けるという指摘は客観的である。
そのような背景を踏まえると、池田が「引き際が大事」と述べたことがかえって自己矛盾に満ちた発言である。言葉と行動の乖離が、彼の指導者としての信頼性に大きく影響しているという客観的事実は、公人として、また宗教指導者として、また日蓮仏法を掲げて後継する者として、池田大作を評価する上で重要である。
これとは違って、池田のこの時の様子や思いは、その後20年も経過した1999年4月27日、聖教新聞に随筆「新・人間革命」として記載され、随筆「桜の城」2000/6/6聖教新聞社 P53-61に、以下のように掲載されている。
「嵐の『4.24』断じて忘れるな! 学会精神を 一九九九年四月二十七日」
「…ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。『私が会長を辞めれば、事態は収まるんだな』。(ママ)
沈痛な空気が流れた。やがて、誰かが口を開いた。
『時の流れは逆らえません』
沈黙が凍り付いた。
わが胸に、痛みが走った。
――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
しかし、時流とはなんだ! 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き元弁護士たちである。
それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
情けなく、また、私はあきれ果てた。
戸田会長は、遺言された。
『第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ! そうすれば、必ず広宣流布ができる』と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神はどこにあるのか!…中略…
やがて、暗き四月二十四日を迎えた。火曜日であった。
全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集ってきた。
しかし、〝七つの鐘〟を打ち鳴らし、新たな出発となるべき、意義ある会合は、
私の『会長勇退』と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。…中略…
『あんなに暗く、希望のない会合はなかった』と、当時の参加者は、皆、後に、怒り狂っていた。
私は、厳然として言った。
『私は何も変わらない。恐れるな!
私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!』と。
あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ
夕闇せまりて 一人 歩むを
…中略…」(池田大作著「随筆 桜の城」2000/8/10 聖教新聞社、P53-61)
ここでの、「あの悪名高き元弁護士」とは、元々自ら若手の時から育てた直弟子の山崎正友であった。
側近の幹部とは、北条浩、秋谷栄之助、原田稔などがいる。会長職についた者もいる。
「随筆 桜の城」は、聖教新聞に連載された池田の「随筆 新・人間革命」を破格の美装本として単行本化したものだが、後日、絶版となった。
この事実は、ある種の因果な雰囲気を醸し出す。
池田はここで「私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と、自分こそ戸田の唯一の弟子であって、その道をつらぬいたのに、学会幹部は自分を結局護らなかったと口惜しがっている。
ところで、
「戸田会長は遺言された。
『第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる』と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神はどこにあるのか」
というこの池田の思いの部分は、その後出版された「民衆こそ王者」で、同じ時期を描いた部分では削除されている。
小説「新・人間革命」の最終部分で、「自分こそ、その一人…中略…」が削除されているのと、通じ合うようである。
そもそもここでの戸田の遺言も、池田のおきまりの捏造に見える。
そもそも第三代会長を決めずに(その余裕もなく急に)亡くなった戸田の遺言が、『第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる』は、その時点では有り得ないだろうし、日蓮の遺文からも想像できず、そもそもその保証もない非科学的な主張である。
その後2年間も会長が決まらなかったことも、それを裏付けている。
更には、自分こそ戸田の唯一の弟子であったのに、周囲は皆、私を護らなかった、裏切ったという思いが記されているが、周囲を敵視し、裏切っていたのは、他ならぬ池田自身であったように見える。後述する人たちの指摘にもある。
すなわち、池田大作が1988年に述べた言葉と、1999年に発表した随筆「桜の城」での述懐を比べると、彼の発言に内在する自己矛盾が浮き彫りになる。
引き際の美徳――池田が会長を勇退した理由を、価値ある人生のために「引き際が大事」として説いた1988年の発言。しかし、その後の行動や発言を見る限り、実際には権力に執着していたことが明らかである。彼の引退理由が自己矛盾であることを示している。
恩師戸田城聖との関係――池田が「私は戸田先生の直弟子である」と強調し、恩師の遺言を持ち出して自身を正当化する姿勢は、信者に対する訴求力を高めるための戦略と考えられる。しかし、その遺言自体が捏造である可能性があること、そして周囲を裏切っていたのが池田自身であることが、彼の信頼性を大きく損なう要因となっている。
側近幹部との対立――「随筆 桜の城」で描かれた幹部との対立や池田の孤立感は、組織内部での権力闘争の一端を示している。池田が幹部たちを敵視し、自らの立場を守ろうとする姿勢は、彼の指導者としての姿勢に大きな疑問を投げかけている。
信頼の欠如と矛盾――池田が会長辞任を決意した際、「私は何も変わらない」と述べたが、実際にはその発言と行動が一致していないことが多くの批判を招いていた。彼の発言がその後の出版物で削除されるなど、自己矛盾が露呈していることは信頼性に大きな影響を与えている。
拙論文では、池田大作の発言と行動の矛盾を鋭く分析し、その信頼性に対する重要な洞察を提供するものである。これらの指摘は、宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を再確認させるものであり、非常に価値のあるものと確信する。
■側近に隷従を強い、造反者を徹底的に批判
池田自身の思いについて、乙骨正生がFORUM21通巻23号2003/2/1、P23—の以下の指摘である。
「龍氏(註・竜年光)が戸田会長に今後の学会の敵を尋ねた場面は、『人間革命』第十二巻にも記述されている。それによれば戸田会長の言う『敵は内部』とは、組織利用を図る悪しき幹部ということになっているが、同時に、『人間革命』では、それは龍氏自身のことを指すとして、九頁(聖教文庫版)にわたって延々、龍氏批判を展開している」
ここでの「人間革命第十二巻」(1993/4/2初版P271-273)には、戸田城聖の言葉として、池田大作自身と会員一人一人の精神の結合にこそ学会の強さがあると喧伝しながら、戸田は学会組織を自己利益に利用する者の出現を予見して滝本に「敵は内部だ」と答えたが
「それは同時に、滝本(註、竜年光)自身に対する戸田の警鐘でもあった…」とある。
この乙骨正生による指摘は、戸田城聖が「学会の強さは、一人ひとりの同志との精神の結合にある」と述べつつ、「学会の敵は内部にある」と指摘している。これは、組織を自己利益のために利用しようとする悪しき幹部に対する警鐘であり、特に側近の龍年光に向けられたものであった。このエピソードから見えるのは、池田が組織内の結束を強調しながらも、内部の敵を警戒し、自分に忠誠を誓わない者や反旗を翻す者に対して厳しい姿勢をとっていたことである。この「内部の敵」という概念は、組織内の批判や造反を防ぐための強力なツールとして使われ、池田自身の権力を維持するための手段となっていた。
池田が純真な創価学園生たちに「仇をうってくれ」と訴えたのも、こうした背景があるからこそであろう。彼は自分の理想と現実のギャップを埋めるため、忠実な若者たちに期待を寄せ、その忠誠心を固めることに力を注いでいた。
池田の言動には、多面的で矛盾した部分が多く、指導者としての正統性を自ら疑わせる一方、信者に対しては強力なカリスマ性を発揮し続けた姿が見て取れる。彼の一挙一動が、学会員の信仰と忠誠心を試すものであったことは疑いようがない。
その後8ページにわたって龍年光に対する以下の批判を展開。
「『滝本の行為は、畜生の命さながらだ。信心を利用する許しがたい行為だ…』…『滝本はいつ退転してもおかしくない男だ…』…それから、伸一の顔を見すえ、語気を強めて言った。『しかし、ひとたび、学会に牙をむき、仏子の和合を破壊しようとしてきたなら、その時は、徹底的に、相手を叩きつぶすまで戦うんだ…』
戸田は未来を見通すかのように…『これから滝本たちが政界に出てゆくのが、私は心配でしかたがないのだ。政界というのは権力と野望と駆け引きの魑魅魍魎の世界だ…私利私欲に狂えば、広布を破壊する魔の働きになってしまうだろう…』…
戸田城聖は…滝本をまじまじと見つめて、もう一度、言った。
『敵は内部だよ……』
彼は、私生活にだらしなく虚栄心の強い滝本が、最後まで心配でならなかったに違いない」
とある。途中で山本伸一(池田大作)を持ち上げ、戸田の言葉をとる形で竜年光を批判している。
滝本欣也のモデルである竜年光は、拙論文でも先述したが、1991年「池田創価学会を解散させよ」を著した元側近で、昭和21年10月入信、以後創価学会では青年部参謀、壮年部長、理事、総務、教学部師範などの要職を務めた人で、また昭和30年より60年まで、品川区議、都議、党都議会幹事長、都議会副議長を務めた人である。
すなわちここでは、戸田城聖が「敵は内部だ」と述べ、滝本欣也(龍年光をモデルにしている)の行為を厳しく批判している。滝本の行為が学会の精神を損ない、私利私欲に走ることを警戒している。
龍年光は、昭和21年に創価学会に入信し、要職を歴任した後、1991年に「池田創価学会を解散させよ」を著した元側近である。池田が龍に対して抱いていた不安や疑念が、戸田の言葉を通じて明確に描かれている。
このエピソードは、内部の敵を警戒し、忠誠心を試す池田の姿勢を示しており、組織内の権力闘争の一端を浮き彫りにしている。池田が側近に従順を強い、造反者を徹底的に批判する姿勢が明らかになっているのである。これにより、彼の指導者としての在り方と、組織の内部運営の厳しさが際立っている。
また同署P150-154では、石川幸男というキャラクターを通じて第三代会長候補とされていた石田次男を痛烈に批判している。
学者肌と実践力の欠如――石川幸男は教学に力を入れ、編集者としても力を発揮したが、実践力に欠け、人への配慮が乏しいとされている。
酒癖と慢心――石川は酒を飲むと周囲に絡み、慢心が現れることが指摘されています。戸田城聖はこれを憂慮し、注意を重ねていた。
次期会長候補としての失望――戸田は石川の成長を願いつつも、その観念的な傾向と慢心に対して警鐘を鳴らし、九州での戦いを通じて彼の信仰と慢心を打ち破ることを期待していた。
すなわち池田大作の作品内での石川幸男への批判は、石田次男への個人的な人格攻撃と権力闘争の一部として見ることができる。池田は自身を持ち上げつつ、石川(石田)の欠点を詳細に描くことで、自身の正当性を主張している。これは、宗教組織内での権力闘争と忠誠心の試みとしての側面を持ち、内部の敵を警戒する姿勢が如実に現れている。池田が側近に従順を強要し、造反者を徹底的に批判することで、自らの権力基盤を強固にしようとする姿が浮き彫りになっている。
石田次男の自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」P199には
「『私を守れという逆不惜身命』
――一つ 愚ン人は大作に忠節を尽くすを本文とすべし――
池田謗法ダイジェスト(要約)、美学優先情報主義に基づく乱行
絶対許すまじ! 御宝前大前机へののさばる裸の寝そべり王(註、正本堂の大御本尊の前に置かれた裸のレリーフ像。顔が池田大作にそっくりである)
〈全権力一局集中〉を実現した池田神話裏側オフレコの数々
池田氏は〈相対革命〉なる得体の知れない新語を創り出して唯一の〈革命指導者〉を気取る。…中略…学会はこの総体革命実施団体でなければならない・という。ここから氏の〈勝手論法〉が際限なく羽根を伸ばして来る。
『学会は法を守り且つ広める団体である。だから学会を守ることは法を守ることである。学会は会長たる池田無くしては在り得ない。会長(である池田)を守ることは学会を守る事である、つまり会長である私を守る事は法を守る事である』――この三段論法が、池田が『私を守れ』という〝正当なる〟理由である。この論理、池田氏も学会も〈無謗法〉だったら或る程度は通用するかも知れないが。だが〈身軽法重〉にも〈依法不依人〉にも逆行している事は明らかだ…」
同著P131には、
「一体、『私を守れ』『池田家を守れ』と言った仏法の諸師が過去二千五百年間に居るものだろうか。更に、居てよいものだろうか…公明党歴代委員長は池田コンパニオン(相棒)であるべく・ガンジガラメに位置付けられている。否応なく池田氏を〈守〉ら〈されて〉いる。
こういう種類の人達は、自分は手を汚さずに何かを誰かに遣らせるには恰好な人物である。明らかに依人不依法なのだが…」
とある。
ここでは、池田大作の行動とその背後にある論理を以下のように鋭く批判している。
逆不惜身命――池田大作が「私を守れ」という逆不惜身命の姿勢を示し、学会員に忠節を尽くすことを求めている。石田はこれを「池田謗法ダイジェスト」として批判し、池田が美学優先情報主義に基づく乱行を行っていると指摘している。
裸のレリーフ像――正本堂の大御本尊の前に置かれた裸のレリーフ像が池田大作に似ていることを挙げ、池田が全権力を一局集中させたことを批判している。
相対革命――池田が「相対革命」という新語を創り出し、唯一の革命指導者を気取っていることを批判。学会が総体革命実施団体でなければならないとする池田の論理が、勝手論法であると指摘している。
三段論法――池田が「学会を守ることは法を守ることであり、会長である池田を守ることが学会を守ることだ」という三段論法を展開していることを批判。この論理が依法不依人に逆行していることを指摘している。
依人不依法――石田は、池田が「私を守れ」「池田家を守れ」と言ったことが仏法の諸師に存在しないことを指摘し、池田の行動が依人不依法であると批判。公明党歴代委員長が池田の相棒として位置付けられていることも批判している。
これらの石田次男の批判は、池田大作の行動とその背後にある論理を鋭く分析し、宗教指導者としての倫理に疑問を投げかけている。池田が学会員に忠節を尽くすことを求め、自身を守ることを正当化する姿勢は、信仰の本質から大いに逸脱していると指摘している。また、池田が新語を創り出し、自己賛美のための論理を展開する姿勢は、宗教指導者としての信頼性を大きく損なうものである。
更に池田の行動が、日蓮の教えである依法不依人に反した依人不依法であることを強調し、宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を再確認させるものです。これらの指摘は、宗教組織内部での権力闘争と忠誠心の操作を鋭く浮き彫りにしている。
また「人間革命」第十二巻P236-238、P244-245には、藤川一正のモデルとなった藤原行正を、これまた痛烈に批判している。
「区議会議員となった彼には社会の栄誉や権力の威光が、よほど尊く、まばゆく思えたにちがいない…戸田は怒りを込めた声で山本伸一に言った。『藤川は、一将功なりて万骨を枯らすことになる…女房も女房だ。あの見栄っ張りの性格が、ますます亭主を狂わせている。悪いのは女房だ。今度の事故も、上司の藤川に社員を思いやる心があれば、あるいは防ぐことができたのかもしれない。大野の死は…藤川は真摯に自分を反省する機会としていかねばならない…』…」
と、後輩の大野英俊の事故死をとりあげて批判、その後も、
「戸田城聖は、翌日、藤川が通夜にも参列しなかったと知ると、顔を真っ赤にして激怒した。
『なにッ!藤川は人間として許せん。先輩でありながら、無責任極まりない態度ではないか。今後、藤川のことは、いっさい信じるな!』」としている。
藤原行正は1989年「池田大作の素顔」を著した都議で、拙記事にもしばしば先述した。
「この『人間革命』第十二巻は、龍氏が池田、森田、秋谷の各氏に最終勧告と最終通告を出して創価学会と絶縁した平成三年十月十二日以後、創価学会ならびに池田氏が日蓮正宗から破門ならびに除名となった後の平成四年から五年にかけて執筆され、刊行されたものである。絶縁宣言した生き証人の龍氏を、池田氏は『人間革命』誌上で、戸田会長の言葉を借りて中傷し、自己弁護を図ったのである」と乙骨正生は前掲書にて述べている。
すなわちここで「人間革命」では、藤原行正への批判が展開されている。彼が区議会議員としての地位に溺れ、事故死した後輩の通夜にも参列しなかったと非難し、無責任で自己中心的な人物として描かれており、戸田城聖の言葉を借りて中傷されている。池田大作が彼を「人間革命」内で攻撃し、自己弁護を図ったことは、池田の指導者としての姿勢に大きな疑問を投げかけている。
乙骨の指摘によれば、「人間革命」第十二巻は、池田大作が日蓮正宗から破門された後に執筆・刊行されたものであり、池田が自己弁護と内部批判者への攻撃を行っていたことが明らかである。
人物批判としての藤川一正批判――池田大作が藤川一正(藤原行正)を批判することで、自身の正当性を強調した。藤川の無責任さや事故死に対する態度を厳しく非難する姿勢は、池田が権力を維持するための策略としての側面がある。
内部批判者への攻撃――池田が「人間革命」内で、内部批判者を攻撃し自己弁護を図る姿勢は、指導者としての誠実性に疑問を投げかける。藤原行正への批判は、宗教組織内部での権力闘争を示しており、池田が自身の立場を守るために批判者を徹底的に攻撃する姿勢が浮き彫りになる。
批判の時期と背景――「人間革命」第十二巻が、池田が日蓮正宗から破門された前後に執筆されたことは、池田の自己弁護と内部批判者への攻撃を示している。この背景を理解することで、池田の言動の裏にある戦略的意図が見えてくる。
このように、池田大作の発言と言動の矛盾とその背後にある権力闘争を鋭く分析できる。これは彼の指導者としての信頼性を判断する重要な洞察を提供し、日蓮仏法を掲げる宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を改めて考え確認させるものであり、非常に価値のあるものと確信する。
■創価の「師弟不二」の精神
小説「人間革命」第十二巻、1993/4/2初版、P426には、「師弟不二」の精神として、以下のようにある。藤原行正の指摘を裏付ける内容である。
「この(註、牧口ー戸田の)生死を貫く師弟不二の共戦のなかに、創価の精神はある。牧口と戸田を不二ならしめたものーそれは、根源の師・日蓮大聖人の御遺命である広宣流布に殉じゆく強き信心の一念であった。
山本伸一は、戸田という師なくしては、広宣流布もなければ、民衆の幸福も、世界の平和の実現もありえないことを、命に感じていた。事実、日蓮大聖人の御精神は、ただ一人、牧口の弟子戸田城聖に受け継がれ、広宣流布の未来図は、彼の一念のなかに収められていた。
仏といっても、決して仮空の存在ではない。衆生を離れては、仏はありえない。法を弘める人こそが仏使であり、その人を守るなかにこそ、仏法の厳護はある
それゆえに伸一は、戸田の手駒となり、徹して師を守りぬいてきた。その億劫の心労を尽くしての精進のなかで、彼は、自らの使命と力とを開花させていった。そして、戸田の精神を体得し、師の境地に迫っていったのである」
これは、石田次男等の指摘にもあるが、
①日蓮の精神は、創価の精神である師弟不二によって、ただ一人、牧口の弟子戸田城聖に受け継がれている。つまり戸田という師がなければ広宣流布がない。
②法を弘める人こそが仏使であり、その仏使を守るなかにこそ、仏法の厳護はある。
③伸一(池田大作)は、戸田の手駒となり、徹して師を守りぬき、戸田の精神を体得し、師の境地に迫っていたから(次の師である会長となっている。)池田大作こそが仏使であり、池田大作を弟子達である側近や会員が、手駒となって守りぬく事こそ仏法(師弟不二)である。
という三段論法である。
これを連発することによって、池田は側近達に、自らの手駒(すなわち奴隷)となることを要求した。そして、側近たちはこれに耐え、池田を持ち上げ続けたのであろう。
こうして創価学会は、池田大作を頂点とした、厳格なヒエラルキーの組織であった。だから、池田大作が会長を勇退しても、むしろその厳格性がより強固になった。これは、池田の会長勇退後にも細井日達や日蓮正宗僧侶たちの失望を生むことになる。
すなわち池田大作の「師弟不二」の精神と、その影響についてまとめると、
師弟不二の精神――池田が強調する「師弟不二」とは、師匠である戸田城聖と弟子である自分(山本伸一=池田大作)の精神的な結合を指し、それを通じて創価学会の精神が確立されるというものである。しかし、この教義は池田が自らの立場を絶対化し、組織内での忠誠を強いるために利用されている。
三段論法の操作――池田が「戸田という師なくして広宣流布も民衆の幸福もない」「法を弘める人こそが仏使であり、その人を守ることが仏法の厳護である」「池田大作(伸一)は戸田の手駒として師を守り抜き、次の師である」という三段論法を展開することで、自らの地位を仏法に直結させている。この論法を繰り返すことで、側近や会員たちに池田への忠誠を求め、その忠誠心を確認し続けている。
ヒエラルキーの強化――池田が頂点に立つ創価学会の厳格なヒエラルキーは、彼の会長勇退後も維持され、むしろその厳格性が強まった。これは、池田が辞任後も実質的な権力を保持し続けたことを示しており、組織の内外に失望感を生んでいることが分かる。
すなわち池田大作が「師弟不二」の精神を強調し、それを通じて自らの立場を正当化し、組織内での忠誠心を強化する姿勢は、指導者としての誠実性に疑問を投げかける。この指摘は、池田の言動が組織内での権力闘争と忠誠心の操作として利用されていることを鋭く分析しており、非常に価値のある洞察を提供する。宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を再確認するための重要な教訓となる。
■創価学園生への指導とは真逆の行動
そして、池田大作は、側近たちを信用できず、常に自分より下の立場に抑え込んできたことが、造反した幹部たちによって明かされている。
この行動は、前ページで先述した以下の如き創価学園生への指導や期待とは真っ向から反する。
「今の世の中は、あらゆる社会が、自分より上に後輩を行かせたくない、なんとか抑えつけておきたい、そして自分自身の優位を勝ちとっておきたいとする姿がほとんどであります。しかし、真実の姿は、『先生』よりも『後生』の方が一段と成長し、偉くなっていかなければなりません…どうか後輩が自分よりどんどん成長し、偉くなっていってもらいたい。そういう意義が、この言葉には込められております…若き諸君は頭脳においても、情熱においても、あらゆる学問の知識においても、身体においても、『先生』よりも、はるかに上回って、立派になっていくようであっていただきたい。それが、人類社会をより進歩、発展せしむる真実の人間道のあり方なのであります」
このように自ら指導した、これに準ずる扱いを側近に対しても行なっていたら、創価学会はもっと違った歴史を歩んでいた事であろう。
更に、池田が側近をイジメている指摘文献を挙げておく。
「幹部たちとの会食のとき、池田大作の食卓だけは、特別豪華な皿が並ぶが、池田大作は一箸、二箸を付けると、それをお下げ渡し、居並ぶ幹部に回し食いをさせるのである。山崎正友は、こうしたとき、食べるふりをして、フカヒレやメロンには手を付けず皿を次へ回す。これを目ざとく見つけても、池田大作は怒らなかった。もっとも、
『どうだ、友さん、うまいか』
と、声をかけて、”ちゃんと見ているぞ”という牽制球を投げたが……」(山崎正友著「月刊ペン事件 埋もれていた真実」2001/4/30、第三書館、P48-49)
「最初、山崎正友を…自分の参謀役として…本部機構の中心に置くに当たって、池田大作は山崎正友を一室に呼んで、こう言った。
『私は身も心も、戸田先生(二代会長)に捧げ、仕え切った。その功徳で、三代会長となった。『私が人を殺せと言ったら、お前はその人間を殺すのだ。それが師弟の道だ』と戸田先生に言われた。私はハイと返事し、その覚悟で仕えた。
私も、多くは言わん。この、創価学会の危急存亡の時に当たって、役に立つのは君だけだ。まさに”時に当たっての人”だ。どうだ。私が人を殺せと言ったら、君は殺せるか‼
山崎正友は一瞬、心臓が凍りついたような表情をしたが、一息置いて、
『はい、先生の命令ならそうします』
と答えた。
以来、山崎正友は、池田大作の絶対とも言える信頼のもとに、創価学会にふりかかる難事を身体を張って次々と処理してきた。もちろん、法律とか常識とかは頭から無視し、奇想天外な手法で、ただただ創価学会と池田大作会長のために”勝ち”を拾った。
創価学会では、世法に反しても仏法にかなえば成仏する、それが人生最大の価値である、と教えられる。
公明党候補支援のために選挙違反を犯しても、”英雄”とされるし、組織のために、どんな卑劣な手段を取ろうと勝ちさえすれば許された。
山崎正友はある意味でその創価学会至上主義を実践し池田大作の信を得てきたのである」(前掲書P66)
「『君は、他の幹部と違って、自尊心をへし折って使うことをしなかったなあ』
と、みずから言うような待遇をした。」(前掲書P122)
他の造反者にも、似たような記載が暴露されている。
ここで、池田大作の行動と創価学園生への指導が真逆であることは、非常に興味深い。彼が創価学園生に対して「後輩が自分より成長し、偉くなってもらいたい」と説いた一方で、側近たちを信用せず、常に自分より下の立場に抑え込んでいたことが明らかになっている。
まとめると、
矛盾する指導と行動――池田大作が創価学園生に対して「後輩が自分より成長し、偉くなってもらいたい」と説いた言葉は、理想的な教育者としての姿勢を示しているが、実際には側近たちを信用せず、抑え込んでいたことが明らかになっている。この矛盾は、彼の指導者としての信頼性に大きな疑問を投げかける。
側近への扱い――山崎正友の証言によれば、池田大作は側近たちに対して厳しい態度を取り、彼らを抑え込むことで自身の権力を維持していた。特別豪華な食事を側近に回し食いさせる行動や、山崎に対して「人を殺せと言ったら殺せるか」と尋ねる姿勢は、池田が側近たちを従順な手駒として扱っていたことを如実に示している。
創価学会至上主義――池田大作が創価学会至上主義を掲げ、法律や常識を無視してでも組織のために勝利を追求する姿勢は、信仰の本質から逸脱している。山崎正友がその姿勢を実践し、池田の信頼を得ていたことは、創価学会内部での権力闘争と忠誠心の操作を浮き彫りにしている。
自尊心の抑圧――池田が他の幹部に対して自尊心をへし折るような待遇をしていたことは、組織内での権力維持のための手段として利用されていたことを示している。これにより、側近たちは池田に対して従順であることを強いられていた。
総じて、池田大作の行動と創価学園生への指導の矛盾は、彼の指導者としての信頼性に大きな疑問を投げかけるものである。側近たちを抑え込み、従順な手駒として扱う姿勢は、宗教指導者としての倫理に反するものであり、信仰の本質から逸脱している。これらの指摘は、宗教組織内部での権力闘争と忠誠心の操作を鋭く浮き彫りにしており、非常に価値のある洞察を提供するものと確信する。
■北条浩への酷い仕打ち
特に、次期会長となった北条浩への待遇は、それは酷いものだったという。
以下は藤原行正の指摘である。
「大勢の幹部や本部職員たちの前で、人望の篤い北条さんを罵倒し徹底的にいびった。…五歳も年長の相手を『浩ちゃん』などとわざとバカにする。そうやって自分の優位を誇示して見せたのだ…
その代表的な出来事に『唐辛し入りウドン事件』…
ある日…昼食時となりソバの出前を取った。その時、池田は何を思ったかテーブルに運ばれてきたウドンのひとつに大量の七味唐辛しをばらまきはじめたのである。やがて丼の中身はウドンも汁も真っ赤に染まった。池田は意地の悪そうな笑顔さえ浮かべながら、その唐辛し漬けのウドンを北条さんの前に差し出した。『食え!』という意味であった。さすがに周りにいた人間が息を呑んだ。が、北条さんは黙って丼を受け、『おいしいですね』を連発しながら丼を空にした。北条さんの顔は汗でビッショリ濡れていたという…
池田が北条さんにわざと唐辛し入りのウドンを食べさせたのは権力誇示のためだけだった。北条さんでさえ自分の命じることはなんでもやる、ほかの幹部がオレのいう事を聞いて当然だ。創価学会名誉会長・池田大作はそんな策を弄する男である…
一方、北条さんは池田の無理難題に黙ってしたがうことで創価学会ナンバーツーの立場を約束されていた。当時もいまも、そういう人間関係でしか成立しないのが池田支配下の創価学会のわびしい実態なのである」(藤原行正著「池田大作の素顔」P154-156)
この藤原行正の指摘によれば、池田大作は次期会長となった北条浩に対して非常に酷い仕打ちを行っていた。まとめると、
公然の罵倒といびり――池田大作は大勢の幹部や本部職員の前で北条浩を罵倒し、徹底的にいびった。特に、北条が五歳年上であるにもかかわらず「浩ちゃん」と呼び、バカにすることで自分の優位を誇示してた。
唐辛し入りウドン事件――池田は昼食時に大量の七味唐辛しをばらまいたウドンを北条に食べさせ、「食え!」と命じた。北条は黙って従い、「おいしいですね」と言いながら丼を空にした。これは池田が権力を誇示するための行動だった。
権力誇示と従順の強要――池田は北条に無理難題を押し付け、従わせることで自分の権力を誇示していた。北条は池田の命令に黙って従うことで創価学会ナンバーツーの立場を約束されていた。
すなわち池田大作の行動は、指導者としての倫理に大きく反するものであり、信頼性を損なうものである。彼が北条浩に対して行った仕打ちは、権力を誇示し、側近たちを従順にさせるためのものであり、創価学会内部での権力闘争と忠誠心の操作をいみじくも示している。
こうして、池田が創価学園生に対して説いた「後輩が自分より成長し、偉くなってもらいたい」という理想的な指導とは真逆の行動を取っていたことが明らかである。彼の言動の矛盾は、指導者としての信頼性に大きな疑問を投げかける。
以下は山崎正友の指摘である。
「池田氏の発作的なサディズムは、北條浩氏、和泉覚氏、秋谷栄之助といった最高幹部ですら、その対象となることを免れられない。
ある会食のとき、突然カレーライスに、こしょうをいっぱいふりかけ、北条氏に『食べろ』と命令した。
北條氏は、〝ハイ〟と答えてひたいから脂汗を流しながら、全部たべた。
『さすがは弟子ナンバーワンの北条さんだ。先生のいわれることは何一つたがえないで従うものだ』と、周囲は感心し、池田氏は、絶対の権威を示して、鼻をうごめかした。
本部長会、理事会、あるいは本部幹部会などで、首脳が、きまじめに演説をぶっているとき、
『ヤアヤア』
と入ってきた池田氏が、演説を中止させ、北条氏ら首脳に、『春が来た』の童謡に合わせて躍らせたりすることがよくあった…
これが、日頃、池田氏から虫ずが走るほどきらわれている、小川元代議士、藤原都議(註、藤原行正)らになると総括は、こんなものではすまない。ことあるごとにいやみをいわれ、どなりつけられ、そしてワビ状や誓約書をとられる。
かくいう私も、わけのわからぬことで、何度もワビ状を書かされた。
要するに、部下を、いつも生殺与奪の権をにぎった状態におき、そして、それをいつも誇示していなければ気のすまぬ性分であったから、周囲はピリピリしている」(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」P123-124)
つまり、彼は側近をいじめ、いじめに耐えることで自分自身への忠誠を、師弟の道として強要していたといえるのではないだろうか。
しかも、師という立場、戸田の弟子という立場を悪用しながら。
はたして宗祖の日蓮は、自身の門下に対して、このような姿勢であったのであろうか。そんな姿勢は微塵もない。
御書直結・日蓮大聖人直結と主張する人たちの組織内が、こういう様相であったことは、一体何を物語っているのだろうか。
このような出来事は、造反者の複数の著作に見られる。
山崎正友はさらにこう指摘する。
「…中堅以下の幹部や会員には、ガラリとかわった、にこやかな仏様の顔と振舞いを見せるが、最高幹部には、ごう然たる態度でのぞむ。最高幹部の会議のときなど、仏前にそなえた果物などを、まるで猿にエサをなげるように、大勢の中に投げ与えて、皆が右往左往することがよくあった。
最高幹部達の中には、池田氏に対しては、何をされようと絶対服従で耐えるかわり、下の幹部に対して、池田氏のまねをしてウップンをはらす傾向のものも少なくはない…こうした池田流をそっくりまねて実行した幹部がいた。千葉県のある寺院で会合を開いたあと、庭に集まっていた婦人部幹部達に縁側から菓子を投げ与えて拾わせ、よろこんでいたのが、後に、池田辞任劇の際クビになった福島副会長だったといわれる…
このような、極端なサドマゾ的な人間関係は、私には、正直いって、いくら年月がたってもなじまなかった…
今、北条氏はともかく、秋谷、竹入、矢野、和泉氏といった人達が、本心からマゾになっているとはとうてい思えないのであるが、座っているポストや役得が、その不快感を上回る価値があるものなのであろうか」(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」P124-125)
この山崎正友の指摘によれば、池田大作は側近たちに対して非常に厳しい態度を取り、彼らを抑え込むことで自身の権力を誇示していた。まとめると
発作的なサディズム――池田大作は北条浩、和泉覚、秋谷栄之助といった最高幹部に対しても発作的なサディズムを発揮し、彼らをいじめていた。カレーライスに大量のこしょうをふりかけて北条に食べさせるなどがその例である。
権力誇示と従順の強要――池田は側近たちに対して無理難題を押し付け、従わせることで自分の権力を誇示していた。北条浩が池田の命令に従う姿勢を見せることで、池田は絶対の権威を示していた。
最高幹部への態度――池田は最高幹部に対してごう然たる態度で臨み、仏前に供えた果物を猿にエサを投げるように投げ与えるなどの行動を取っていた。これにより、最高幹部たちは池田に対して絶対服従を強いられていた。
サドマゾ的な人間関係――池田の行動は極端なサドマゾ的な人間関係を生み出し、側近たちは池田に対して従順であることを強いられていた。これにより、創価学会内部での権力闘争と忠誠心の操作が浮き彫りになっている。
すなわちここでも池田大作の行動は、指導者としての倫理に大きく反するものであり、信頼性を損なうものである。彼が側近たちをいじめ、従順を強要する姿勢は、宗教指導者としての信頼性に大きな疑問を投げかける。山崎正友の指摘は、池田の行動の裏にある権力闘争と忠誠心の操作を鋭く浮き彫りにしており、非常に価値のある洞察を提供している。
繰り返すが、池田が創価学園生に対して説いた理想的な指導とは真逆の行動を取っていたことが明らかである。彼の言動の矛盾は、指導者としての信頼性に大きな疑問を投げかける。宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を再確認するための重要な教訓となる。
竜年光の指摘もある。
これは全く酷い内容である。
「『死んだ北条さんと私達二人、ずっと三人でやってきた仲間じゃないか。これからも一緒にやろうよ』
『その北条さんが亡くなった時の学会葬で池田が喋ったことを、君も覚えているだろう』
会場に池田が遅れて入って来るや『暑いなぁ、暑いなぁ、こんな暑い時に死ぬのはやめようよ』と暴言を吐いて皆を唖然とさせたことをいうと、森田は渋い顔で言い訳をしてきた。
『俺も聞いていたけど、あれはジョークだよ、ジョーク』
『ジョークだって?』…
『お葬式でジョークをいう奴がいるか。君はできるか』
『いや……俺はできないよ』
『そうだろう。みんな驚いていたじゃないか。あれは異常だよ。北条さんほど、池田を守った人はいない。君が一番よく知っているはずだ。北条さんは、池田の不始末一切を一人で背負って死んでいったんだ』…
『それに、君の地元の神奈川文化会館で、池田が北条さんの死後間もなく、『北条は学会に五十億の借金を作った』といったのも覚えているだろう』
『……覚えている』
『それこそ、死者に鞭打つようなものじゃないか』
『いや、そんなことは……』
森田はまたも絶句した。
…森田にとっても、そこで吐かれた北条に対する池田の暴言は、心に刻みこまれているはずだ」(竜年光著「創価学会を解散させよ」1991/8/1、日新報道、P76-79)
この指摘によれば、池田大作は北条浩に対して非常に酷い仕打ちを行っていた。まとめると、
学会葬での暴言――北条浩の学会葬で、池田大作が「暑いなぁ、暑いなぁ、こんな暑い時に死ぬのはやめようよ」と発言し、会場を唖然とさせた。これはジョークとして受け取られたが、葬式での発言としては非常に不適切である。
死者に鞭打つ発言――北条浩の死後間もなく、池田が「北条は学会に五十億の借金を作った」と発言した。これは死者に鞭打つようなものであり、北条が池田の不始末を一人で背負って死んでいったことを考えると非常に残酷である。
権力誇示と従順の強要――池田は北条に対して無理難題を押し付け、従わせることで自分の権力を誇示していた。北条は池田の命令に黙って従うことで創価学会ナンバーツーの立場を約束されていた。
すなわちここでも池田大作の行動は、指導者としての倫理に大きく反するものであり、信頼性を損なうものである。彼が北条浩に対して行った仕打ちは、権力を誇示し、側近たちを従順にさせるためのものであり、創価学会内部での権力闘争と忠誠心の操作を示している。
ここでも池田が創価学園生に対して説いた「後輩が自分より成長し、偉くなってもらいたい」という理想的な指導とは真逆の行動を取っていたことが明らかである。彼の言動の矛盾は、指導者としての信頼性に大きな疑問を投げかける。
公明党の重鎮であった矢野純也も、指摘している。
「自分に仕え、献身した部下をこれほどないがしろにしてきた人もいない…側近中の側近『闇の帝王』山崎正友氏も離反した…誰よりも献身的に支え続けた北条氏は急死し、『こんな暑いときに死にやがって』と池田氏から悪態をつかれた。
昔からの側近で今も仕えているのは秋谷氏などほんの一握りである。その秋谷氏も二〇〇六(平成一八)年、任期途中で突如辞任した。その前から秋谷氏は池田氏に不信の目で見られていたようだ。とにかくおおぜいの会員たちの前で、池田氏は秋谷氏を叱咤するのである。それは罵倒に近い感じだった」(矢野絢也著「私が愛した池田大作」『虚飾の王』との五〇年 2009/12/21 講談社、P273-274)
矢野純也は、同書P276にて、
「『そうだ、俺を守るのは当たり前だ。それを乗り越えていくのが、広宣流布だ』
池田氏からはそんな指導をいただいた覚えがある」と指摘している。
その矢野純也も、1970年の言論出版妨害事件の最中に、箱根研修所によばれ、
「池田氏からはげしい総括を受け、マジナイと称して、皆の見ている前で数珠で頭を殴打されたのであった」(山崎正友著「闇の帝王、池田大作をあばく」P244)
この矢野純也の指摘によっても、池田大作は自分に仕え、献身した部下をないがしろにしてきたことが明らかである。すなわち、献身的に支え続けた北条浩に対して「こんな暑いときに死にやがって」と悪態をついた。これは、北条が池田の不始末を一人で背負って死んでいったことを考えると非常に残酷である。側近中の側近であった山崎正友も離反した。仕えているほんの一握りの秋谷栄之助も池田から不信の目で見られていた。池田は大勢の会員たちの前で秋谷を叱咤し、それは罵倒に近いものだった。矢野純也も池田から激しい総括を受け、数珠で頭を殴打されると言う暴力を伴う指導を受けた。池田が側近たちに対して厳しい態度を取り、彼らを抑え込むことで自身の権力を誇示していたことが明らかである。
総じて、藤原行正・竜年光・山崎正友・矢野絢也の指摘は、池田大作の行動の裏にある権力闘争と忠誠心の操作を鋭く浮き彫りにしており、非常に価値のある洞察を提供している。宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を再確認するための重要な教訓となる。
■犀角独歩の指摘
犀角独歩「創価学会は一つでない2」宗教問題3 2013/4/10 白馬社 P51-53では、この時点での様子を、会員の立場からこう述べられた。すなわち池田が会長を辞任し姿を一時的に現さなかったが、池田の「鶴の一声」で自在に動かす独裁体制を、会員の大半は歓喜し陶酔していた。池田失脚を密かに狙っていたのが四代会長となった北条、五代会長となった秋谷であり、宗門から糾弾されたときに、池田は自分の真の敵は北条と秋谷だと内部の者に語った。宗門と学会の修繕された関係はうわべだけで、宗門も学会執行部も池田の人気にあやかるほかなく、次期会長は職権が事務方のみに制限された。指導者である「先生」は、池田であり続け、会長が名誉会長と名前を変えただけで、池田の絶対性が補完された。
つまり、嵐の4.24で、池田が名誉会長に退いた後、創価学会執行部は北条会長・秋谷副会長体制になったが、結局は池田の威光がなければ組織運営ができないことを執行部は悟った。名誉会長はそのまま最高指導者にかえりざいたと犀角独歩は述べている。
世間にもマスコミにも概ねこのように映っていた。
「池田の絶対性は、むしろ補完されることになった」のは正しい指摘ではある。加えて、側近の北条浩と秋谷栄之助を敵視していたことはやはり驚きの一つではあろう。
もっとも、池田大作のこんな言も指摘されている。
「『秋谷はずるい奴だ。決して危ないことにはかかわらず、自分の手を汚さない。いつも肝心なところになると逃げる』…」(山崎正友著「『月刊ペン事件』埋もれていた真実」P64)
犀角独歩の「池田を偶像にまつりあげる」との指摘は、1969年の言論出版妨害事件の発端となった藤原弘達著「創価学会を斬る」において、早々に指摘されていたことである。その事件の謝罪会見内容も拙論文で検討したが、創価学会の組織の本質はその後10年経っても全くもって変わらないまま、同様の歴史を刻んでいくのである。
痛ましいのは、この日寛アニミズム・池田本仏論の言い換えに過ぎない「師弟不二」や「血脈」が真実の日蓮仏法であるとし、そしてこの創価学会の組織を拡大すること自体が日蓮仏法の広宣流布であると、純真な会員に対して、昼夜洗脳し続け、また純真な会員や幹部達もそれに陶酔しながら一緒になってもりあげてきたことであろう。
少なくとも師弟不二は、牧口の時代にはなく、戸田時代に成立した、いわば戦後の創価学会出現において作られた論理で、人や組織への崇拝を常に誘発する。まさに依人不依法であり、日蓮の言う依法不依人とは真逆である。
そして師弟不二は、組織拡大のために使われ、池田大作の時代になって盛んになり、今でも根本教義となっている。それは御書(日蓮の遺文)をも超える根本の扱いのようである。なぜなら御書は切り文扱いで、御書を持ち歩いて組織活動している会員を、私は近年見かけたことがないからである。
このような世俗の師弟不二は真実の日蓮仏法にはない。
以上言い換えると、犀角独歩の指摘も含めると、池田大作が会長を辞した後も、その絶大な人気と影響力は変わらず、むしろ補完されていった。
池田大作の「鶴の一声」と称された独裁体制に対し、会員の多くはむしろ歓喜し、池田に憧れていた。しかし、一方で池田の失脚を密かに願っていた者たちも存在していた。
池田は四代会長の北条浩と五代会長の秋谷栄之助を敵視していた。特に、大石寺との関係が悪化した際、池田は「私の真の敵は北条と秋谷だ」と叫んだとされている。
しかし池田の絶大な人気は変わらず、彼を偶像化する方向へ早々に転換した。名誉会長として池田が依然として最高指導者の地位にあり続けた。創価学会の執行部は彼の絶大な影響力に依存していました。これは、池田が単に名誉会長としての役割を超え、依然として組織内で絶対的な権力を持っていたことを示している。彼の存在が会員にとっての信仰の中心であり続けたこと、そして側近の北条浩と秋谷栄之助を敵視していたことは、創価学会の内部での権力闘争の一端を如実に示している。
犀角独歩の指摘は、池田の辞任後の影響力と、側近との複雑な関係を鋭く浮き彫りにしている。池田の絶対性が補完されることで、むしろ彼の影響力がさらに強固になったことが明らかである。これは、宗教指導者としての権力の在り方や、その影響力の持続について考える上で非常に重要な視点を提供している。
また池田大作は秋谷栄之助を「ずるい奴」と評し、危険なことには関わらず、自分の手を汚さないと批判していた。これは、池田が側近に対して厳しい態度を取り、彼らを抑え込むことで自身の権力を誇示していたことを示している。
犀角独歩の「池田を偶像にまつりあげる」との指摘は、1969年の言論出版妨害事件の発端となった藤原弘達の著書「創価学会を斬る」においても早々に指摘されていた。これは、創価学会の組織が池田大作を偶像化し、彼の絶対的な権威を維持するための手段として利用されていたことを示している。
そして「師弟不二」や「血脈」は、日蓮仏法の真実とは異なるものであり、池田本仏論の言い換えに過ぎない。これらの概念は、戦後の創価学会の出現において作られたものであり、人や組織への崇拝を誘発するものである。これは、日蓮の「依法不依人」とは真逆のものであり、信仰の本質から逸脱している。
更に「師弟不二」は、組織拡大のために利用され、池田大作の時代に盛んになり、現在でも根本教義として扱われている。これは、御書(日蓮の遺文)をも超える根本の扱いを受けており、信仰の本質を歪めるものである。
総じて、池田大作の行動と創価学会の組織運営に関して、宗教指導者としての倫理と信頼の重要性を再確認するための重要な洞察を提供した。池田が側近に対して厳しい態度を取り、彼らを抑え込むことで自身の権力を誇示していたこと、そして「師弟不二」や「血脈」が信仰の本質から逸脱していることが明らかだ。ここに、宗教組織内部での権力闘争と忠誠心の操作を如実に明らかにした。
つづく