ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討
ここにきて、池田大作の人物像の原点を再確認する必要を感じた。
■ 池田大作の入信当時の、信憑性の高い資料
私の池田大作観を始めるに、最初に取りあげるのは、入信当時の状況についてである。
1956年「新心理学講座第4巻 宗教と信仰の心理学」小口偉一編集のP57-59には、創価学会の組織者として、実名ではないが、その内容から確実に池田大作と分かる、テープに収録された生発言の体験談と、その解説が見られる。読者の皆様や後世の正確な検討のため、一字一句そのまま、読みやすいように適宜改行のみ加えて引用した。
「Ⅴ 創価学会E(男)
話しぶりも、人柄からうける感じも強い信念に燃えているような感じがみられる。
青年期まで病気ばかりしていた人とはとうてい思えない。
折伏のときには強い戦士として教団内にも著名な人であり、青年部の部長をしている。
現在大倉商事(金融会社――前出)に勤務中。
『生まれは大森のノリ屋です。三歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。
小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい体が非常に弱かったんです。
終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性(コウモンネンパクビラン)のもので、耳や鼻などみんな悪く、血啖が出てたんです。
終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって、学校時代の友人にさそわれて創価学会の本部へいきました。
その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。
私は友人と二人で行ったのですが、三、四〇人もいたでしょうか。
五時間くらいもそこで締めあげられたのです。
南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。
負けたのでシャクにさわってしかたがない。
その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。
それだのに相手は確信をもって話している。
こちらは観念的で浮いているような感じがしたのです。
そのときの話というのはこうなんです。
『これから先のこと、二〇年先のことがわかるか。
これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるがそれならば今のうちに考えたらいいではないか。
自分の宿命は自分でも知らないではないか。
誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。
宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。
この四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。
わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ』
というのです、
私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。
それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。
友人は入信しないで黙っていました。
それから御本尊をお下げするという話で、私は三〇分間ほどいりませんとがんばったんです。
すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました。
家に帰っても三日間おがまずに ほっておきました。
三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。
それは高校をでて蒲田に勤めて出張していたときのことです。
それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。
それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。
それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。
前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。
全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。
その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。
二年目に「立正安国論」の講義を聞いてから、よし、よい勉強をしようと考えるようになりました。
三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。
信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくて仕方なかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。
十四、五人の研究会からの仲間からもやられました。
そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい。
という願いをして御題目を六〇万遍唱えることにしました。
逃れなければやめようと思っていたのです。
それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。
その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。
私の体験は三年だけです。
信仰しなかったならば二三くらいで死んだだろうといわれています。
信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。
わたしは今それから六年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。』」
このインタビューに対し、小口は、彼の病弱の克服や劣等意識からくる精神的気魄と意志が、折伏や行動力に転化していると評した。
これは1956年7月出版の書だから、この時点で池田大作は入信9年であり、おそらく、入信当時を語る池田大作の生発言としては最古のものだろう。小口は、これだけでは彼の戦闘的行動を説明できないが、長い闘病生活や肉体的な弱さの劣等意識からくる求道的精神を培ってきて、病弱克服後も折伏の行動力になっていると評価した。
これによれば、池田大作は幼少期に病弱であり、数多くの病気を経験してきた。終戦の反動で何かを成し遂げたいという気持ちがあり、友人に誘われて創価学会に参加した。彼は最初、南無妙法蓮華経に反対していたが、理論で説得され、むりやり信仰することにならざるを得なかった。当時の感想として、相手の確信に対して自身は観念的で浮いているような感じがしたと述べている。御本尊を受け取る話になった時、最初は抵抗したが、幹部に押し付けられる形で受け取った。その後彼は御本尊を3日間放置したが、雷に驚き、思わず唱題を始めたことで御本尊を信仰するようになった。経済的に困難な中で御本尊に願掛けをし、唱題を続けた結果、状況が好転し、信仰が自身の生活における重要な支えとなった。このエピソードは、池田が信仰に入るまでの葛藤と、その過程で感じた違和感、、個人が信仰に入る際の心理的な抵抗と、その克服の過程を示して信仰の力が困難な状況を克服する手助けとなり得ることを示している。しかし、池田の経験が信仰に基づいた結果であるかどうかは、科学的に実証されていないことを考慮する必要がある。すなわち池田大作の経験は、信仰が個人の生活に大きな影響を与える可能性を示しているが、その効果が主観的なものであり、科学的に検証されていない点も重要である。信仰が人々にどのように影響を与えるかを理解するためには、さらなる研究と分析が必要である。また、信仰が個人の心理的な支えとなる一方で、その根底にある科学的な疑問も無視できない。
余談になるが、この本は宗教人の心理学の講義であり、実例として取材に応じてくれた人の言葉をテープにとって検討している。その中には創価学会の教祖として戸田城聖が実名で解説されている。また、創価学会D(男)もいる。彼は「創価学会―その思想と行動」佐木秋夫,小口偉一著P63-64から、当時の東京都議・小泉隆氏と考えられるが、詳細は割愛する。
話を戻して以下、古いものから順にたどっていく。
その約1年後の1957年10月18日、聖教新聞第6面には、同年10月6日新潟県長岡市での指導会の時に、池田自身が入信当初を振り返り、以下のように語ったのが、顔写真付きで掲載されている。「私の初信当時」「池田参謀室長の場合」の欄に、大きな見出し〝生涯、信心しぬくぞ〟と〝腹すわるまで一年間悩む〟がついている。ここで彼は、
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。どういう理由で信仰したかというとそれは三つあるんですよ。折伏されたのは、前の本部です。…私はそこで教学部長から折伏されたんですよ。」と語った。更に、人生は明日の命も分からず、一寸先は闇で、10年、20年先の生活の確信を問われて、彼はあると威張った。続いて、"光陰矢のごとし"のようにすぐ白髪の老人になるが、そこで悲しんでも始まらない。事故や重病などの宿命打開、そして死の解決には信心以外にないなどとと説得されて、なるほどと思った。
青年は向上を目指し、勉強し給えと説得され、いやだったが一応信心する気になったが、ずい分悩んだとある。
「『えらいことやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気狂いだと思うだろうなあ!』などと、ずい分苦しみました。」だが必ず幸福になれると述べた。さらに、戦時中に創価学会が、日蓮大聖人の仏法をもって、創価学会以外は全部邪宗教であると断言し、天照大神では日本の国は救えないと軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生、現会長先生始め二十何名の人々が投獄されたことは、学会に真実の宗教があるのだろうと感じた。
だが彼は迫害されるのを恐れ、もし、難があって退転するなら、始めから信心をやめよう、信仰しきって行けるなら一生涯信心していこうと、一年間、悩んだ。
そして「『よし、この立派な会長先生のもとであるならば、何でこの身を惜しもうか、学会のためにつくそう、広宣流布のために、凡愚の身であるがつくさせて頂こう』と決心して十年目です。だから信心してきたんです。退転なんかできませんよ。」
等と述べていた。
いかがだろう。生々しい池田大作の発言が載っている。
以上は、改めて「会長就任」後に「初信当時の確信」と題して、会長講演集第四巻、池田大作著 昭和36年12月23日初版P31-34に掲載されている。
ここでは、池田が信仰を始めたのは1947年8月24日であり、その理由は三つあり、一つ目は、人生の先行きが不確実であり、未来の生活に確信を持てないこと、二つ目は、老後の目的と人生の意味を考える必要性を感じたこと、そして三つ目は、宿命や死の問題を解決できる信心の重要性を説かれたことだった。池田はこれらの理由に共感し、信仰を始めることを決意したとある。これらは彼の信仰の動機と初期の葛藤を示している。初期の信仰の動機は、未来への不確実性、老後の意味、そして宿命と死の問題という普遍的な人間の悩みに根ざしていた。これらの問いに対する創価学会の教えは、池田にとって非常に説得力があった。彼は、人生の根本問題を解決するために信仰を受け入れることを決意したが、同時に信仰に対する疑念や葛藤も経験した。この葛藤や経験が、池田が信仰を通じてどのように成長し、確信を持つようになったか、信仰の力がどのように個人の人生に影響を与えるかを示している。
更に彼は、信仰を始めた当初、多くの悩みを抱えた。南無妙法蓮華経を一生唱え続けることに疑念を抱き、周囲に狂人だと思われるのではないかと苦しんた。しかし、「発心真実ならずとも正境に縁すれば功徳多し」と、必ず幸福になれると信じた。池田の胸を打ったのは、創価学会が戦時中に軍部と対抗し、日蓮仏法の哲理をもって日本を救おうとしたことだった。彼は創価学会が真実の宗教であると感じ、他宗を邪宗と断言する確信に共鳴し、一年間、信仰と向き合い悩み続けた結果、池田は戸田のもとで広宣流布のために尽くすことを決意し、退転せず信心を続けてきた。言い換えると、信仰が彼の生活における重要な支えとなり、信仰を通じて自己を超越しようとする姿勢を持ち続けた。しかしそれが主観的なものであることを考慮する必要がある。すなわち、彼の経験が信仰に基づいた結果であるかどうかは、科学的に実証されていないことを考慮する必要がある。彼の体験は、信仰がどのように個人の心理的な支えとなり得るかを示していますが、それが主観的なものであることを無視することはできない。
池田大作の信仰の動機とその深化は、信仰が個人の生活に与える影響を示している。彼の経験は、信仰が持つ力とその限界を考える上で重要である。信仰が主観的なものであることを理解することで、より深い洞察が得られる。科学的な視点からの検証が求められる一方で、信仰が個人の心理的な支えとなることの重要性も認識されるべきである。
次に、神立孝一氏は、論文「創価大学における池田研究の現状と課題」(創価教育研究第4号)にて、『聖教新聞』1959年2月6日、「池田参謀室長の指導から」を紹介している。
「折伏と一口にいってもなかなか大変なのですが、参謀室長が折伏をはじめられたときは、どのようでしたか?」
「私が信心をしたのは満18歳のときで、小学校の同僚で女の人から折伏されたんです」
(前記の「入信当初を振り返る」では、小平教学部長から折伏されたとあり、つまり、複数の人から折伏されている。)
「それが運命を変えちゃっていました。いま思えば本当に幸せだと思いますね。
"やります"と返事をしたものの、一生涯若いのに題目はあげるなんて、いやだなあ一、と3日間ねられなかったよ」
「やるならやる。やめるならいまのうちと腹をきめて、先輩のいわれる通りにやりました。
『折伏をしろ』というから、私は自分の友だちを10人ぐらいよんだのです。
信心してから間もなくのことですよ。
一生懸命いいました。御本尊様の話を。
一度なんかは、会長先生がわざわざ私のおよびした会合に出てくださったこともありました。
しかしだれも信心しないのですよ。
一生懸命やってもね。
みな友達がはなれちゃうんだよ。
私ひとりぼっちになっちゃって、これはえらいことをはじめてしまったと思っちゃった。
だから、勤めに行くのでも、折伏をしてくれた家の前を通るのがいやだから、ずっと遠まわりして、帰りも遠まわりしていたんだ。
別にだれも見ていないのだが,,,はじめはそんなものだ」
この結論部分では、
「はじめの3年間というものは、いわれた通り、気違いみたいになって、一生懸命折伏をやりました」
いろんな失敗をしたが、
「御本尊様の話をしていくのが折伏だから、ちゃんと功徳が自分のところにもどってくるんですよ。
ご飯を食べると同じように、当然、もう話をするのだという気持ちが大事だ思うのです」と述べられている。
さらには、「参謀室長が1日に沢山の題目を唱えて、闘争されたときのようすをお聞かせ下さい」という質問に対し、
「私が信仰したのは22年8月24目で、ちょうど3年目の25年8月23日に、自分にとって最大の三障四魔があったんです」と述べられている。
その”三障四魔”とは、このちょうど8月の段階で戸田先生の事業が失敗し、誰も彼もが離れていって、池田先生だけが残っていくという状況の時であり、大きなポイントの一つになっていくと指摘している。
「その時、私も体が弱くて、随分やせていました。血タンはでてくるし、寝られないし、そのうえ家では信心に反対だ、親せきには行けないし_一体どうしようかと思った。その時、私はどうか御本尊様、この仕事の苦しみからのがして下さいと、はじまったのです。それまでの3年間の信心なんて、なってない状態なんですよ」と述べている。
つまり、初めから「いいんだ」と思って入信したわけではない。
しかし、一番の拠り所としていたのは戸田先生の存在だったこと。
このあたりが非常に重要であり、この段階から、青年池田大作がぐっと大転換をしていくと指摘している。
すなわち、池田大作が信心を始めたのは18歳の時で、小学校の同僚の女性から折伏された。彼は一生題目をあげることに抵抗を感じたが、「やるならやる、やめるなら今のうち」と腹を決めて先輩の指示に従った。友人を集めて折伏を試みたが、誰も信心しなかった。その結果、友達が離れてしまい、孤立感と挫折感を経験じた。そのため、折伏をしてくれた家の前を遠回りして通るなど、苦しい思いをした。
また、彼は信仰を始めた初めの3年間、言われた通りに一生懸命折伏を行ったが、多くの失敗を経験した。それでも、御本尊の話をすることが功徳をもたらすと信じて続けた。彼は1950年8月24日に信仰を始め、1953年8月23日には最大の試練(三障四魔)を経験した。この時期、戸田先生の事業が失敗し、周囲の人々が去っていく中、池田だけが残った。その時、体が弱く、家族からの反対や親戚との疎遠さに悩んた。彼は御本尊に祈り、苦しみからの解放を求めた。この体験を通じて、池田は初めて信心の本当の意味を理解し始め、戸田の存在を一番の支えとした。この段階から、池田の信仰と人生が大きく転換した。
彼の経験は、信仰の初期段階における葛藤と、他者との関係性の変化を浮き彫りにしている。信仰を深める過程で、池田がどのようにして自己確信を持つようになったのか、その一端を垣間見ることができる。自身の健康状態や家族の反対、親戚との疎遠さに悩みながら、御本尊に祈り、信仰の意味を初めて理解し始め、戸田の存在が彼の一番の支えとなり、信仰と人生が大きく転換したことを通じて、池田の信仰はより深まり、確固たるものとなった。
彼の信仰の初期段階とその深化は、信仰が個人の生活にどのように影響を与えるかを示し、信仰の力とその限界を考える上で重要である。
繰り返すが、信仰が主観的なものであることを理解することで、より深い洞察が得られる。科学的な視点からの検証が求められる一方で、信仰が個人の心理的な支えとなることの重要性も認識されるべきである。
さらに、創価学会会長に就任後、1962年2月17日、中野昭倫寺での入仏落慶法要の際の挨拶が、聖教新聞 1962年2月20日で見られる。「池田会長あいさつ **東京・昭倫寺で** 〝全魂こめてご奉公 日淳上人への報恩胸に〟」という見出しと、ご自身の写真付きである。
ここでは十五年前の、小平教学部長と日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、だった三人だけの御受戒の様子を述べ、長い勤行に驚き、「日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と…”信心は結構でございますから、今日は御本尊様はいただかないようにします〟」と申し上げて押し問答になったが負けてしまって、はじめはみっともない状態だった。日淳猊下のむりやりのおかげで、弟子となることができ心から感謝している、その日淳上人のご報恩感謝、ご恩返しのためにも、創価学会や戸田先生、日蓮大聖人から褒めの言葉を頂けるよう全魂込めて戦うと決意を述べ、参加者を鼓舞している。
これも、改めて「昭倫寺落成に」と題して、会長講演集第六巻、池田大作著 昭和37年7月20日初版 P51-53に掲載されている。
すなわち、池田大作は1962年2月17日、中野昭倫寺での挨拶において、15年前にこの寺院で日淳上人から御受戒を受けたことを述べている。当時、小平教学部長と矢島尊師に連れられて参列し、御受戒の際に御本尊様を受け取ることに抵抗したが、日淳の強い勧めにより受け取った。池田は当初、信仰に対して抵抗感を持っていたが、この体験を通じて日淳の弟子となり、信仰の道を歩み始めた。彼は、この経験に感謝し、日淳、日達、日蓮、そして恩師戸田への報恩のために全力を尽くすことを誓った。
これは、池田が信仰に対して最初から確信を持っていたわけではなく、他者の影響や強い勧めが重要な役割を果たしたことを示している。このように、信仰が個人の意思だけでなく、周囲の影響によっても形成されることを示唆している。この経験を通じて信仰の重要性を理解し、それが彼の人生における大きな転機となった。この感謝の気持ちは、池田が信仰に対して深い敬意を持ち続けていることを示している。日淳・日達・日蓮、そして恩師戸田への報恩のための誓いは、彼の信仰が単なる個人的な経験にとどまらず、より大きな使命感と結びついていることを示している。すなわち彼の信仰は、個人の幸福だけでなく、広く社会に対する貢献を目指していることが明らかである。
ここでも、彼の信仰の始まりとその深化は、信仰がどのように個人の生活に影響を与えるかを示し、信仰の力とその影響を理解するための重要な洞察を提供している。一方で、信仰が主観的なものであることを理解することで、より深い理解が得られる。信仰が個人の心理的な支えとなる一方で、その科学的な根拠や検証が求められることも認識されるべきである。
さらにこれらは、謙遜もあるが、池田大作の平凡で標準的な信仰体験と思われる。
どこの末端組織でも普段の座談会や本部総会等でよくみられる、新入信者の体験発表のような、初々しく涙が出る、素晴らしい信仰体験である。こうして多くの同志がみんな、御本尊のすばらしさ(=功徳)を身に刻み、成長していったことであろう。
さて、ここで、今の二世・三世の創価学会員の同志に、前向きに伝えたいことがある。
折伏ができなくても、御本尊送りができなくても、落ち込むことはない。
聖教新聞啓蒙がなくても、選挙でFが取れなくても、なおさらひがむことはない。
ただ一人師弟不二の道を貫いたと仰る池田大作でも、最初は以上のように語っている。
溺れる者は藁をもすがる、だが、すがったものが藁では溺れてしまう。
池田大作のすがったものが、何の役にも立たない藁ではなく、一応は、その理解は日寛アニミズムではあったが、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経だったことである。
そして、入会からかなり経って2年後の昭和二十四年、戸田城聖にスカウトされ、「日本正学館」に就職し、現実的に師弟の道へと入ることになった。
だが、再度念を押すが、この師弟不二の道は、あくまで仏法への一つの縁としての重要性に限られるのであって、それ以上に、本来最も重要とされるべき内容とは、池田大作のすがったものが、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経だったことである。
■ 創作された小説「人間革命」、「創価学会の正史」
昭和40年ごろから聖教新聞に、小説「人間革命」の連載が始まる。
これは、一応、小説であるが、現代の御書ともいわれる創価学会の聖典であり正史である。学会員は地区活動や座談会や勉強会で、その切り抜きを集めたものを読み合わせて、師弟不二の精神を学んでいた。これを集めて発刊した小説「人間革命」は第1巻~12巻まであり、その後に発刊の「新・人間革命」が全30巻で完結している。昭和時代には小説ではなくノンフィクション部門扱いでベストセラーになっている。その人間革命第2巻初版では、入信の時の様子が、山本伸一(=池田大作)として、雄大に描かれている。
その内容の詳細は後の改竄の検討材料になる。
池田大作の師弟の最初の出会いの描写が、いかに史実を改ざんし創作されているかを、先述の史実と比べながらじっくりと見てみたい。
8月14日の夜、山本伸一は三川英子から哲学の話があるといって座談会に誘われて参加した。そこには戸田城聖がいて、仁丹を噛みながら質問を聞き、明快に答えていた。
山本伸一は生真面目で、はったりを好まない性格だったが、この光景に深く感動した。
質疑応答が終わると、三川英子は戸田に山本を紹介した。
戸田は笑顔で、「山本君は、いくつになったね?」と尋ねた。
「十九歳です」
「そうか、ぼくも十九歳の時に東京に出てきた。知り合いもお金もなくて心細かったよ」
一座は暖かい雰囲気に包まれた。突然、山本が元気な声で順次質問した。
正しい人生とは?、本当の愛国者とは?、南無妙法蓮華経とは?、天皇をどう考えますか?
いずれの質問にも戸田は明快、懇切丁寧、誠実に答えた。
山本は戸田の指導を信じることに決め、感謝の詩を詠んだ。
「旅人よ、いずこより来たり、いづこへ往かんとするか…」
戸田は山本の健康を気遣い、再び会うことを約束した。山本は入信を決意し、十日後に御受戒を受けた。
戸田は自分の若い頃を思い出し、山本に期待を寄せた。
「彼は、十九歳より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代は移り変わり、自分にも、真実の黎明の如き青年の弟子が現われることを、心ひそかに期待して居ったであろうか」(人間革命第2巻(昭和41年5月20日6版)P221-254)
以上が、まさに「正史」にふさわしい、素晴らしく描写された池田大作の師弟の出会いとその後である。
見事な創作であり、同時に歴史の改竄を伴っているのが明らかである。その中には、牧口ー戸田の出会いにおける師弟の年齢を38歳ー19歳とし(現実は戸田の年齢は20歳)が、戸田ー池田の出会い時の年齢を無理やり一致させている。
後に検討するが、その当時の学会員は、これが故・篠原善太郎氏の代作などとは、夢にも思わなかったであろう。
すなわち、この部分は要するに「人間革命」第2巻では、――山本伸一(池田大作)が女性の友人に誘われ、哲学の話を聞きに行く場面が描かれ、山本は戸田に紹介され、戸田から「正しい人生とは何か」と質問した。戸田は、正しい人生の答えが難しいが、日蓮の仏法の大生命哲学を実践することで自然に発見できると語り、山本に励ましの言葉をかけた。山本(池田)は戸田に対して「本当の愛国者とは何か」と質問した。戸田は、南無妙法蓮華経が一切の諸法則の根本であり、宇宙のすべての現象がそれに基づいていると説明した。また、人間の不幸の根本原因は間違ったものを正しいと信じることにあると述べた。さらに、山本が天皇について尋ねた際、戸田は天皇も仏様から見れば同じ人間であり、重要なのは日本が敗戦の苦しみから立ち上がり、平和で文化的な国家を建設することであると語った。この戸田の誠実な態度と明快な回答に感動し、山本は信仰を深める決意を固めた。この場面では、山本伸一(池田大作)が戸田城聖の前で質問をし、その後、感謝の気持ちを即興詩で表現する様子が描かれた。彼は、戸田の誠実な態度と明快な回答に感動し、信仰を深める決意を固めた。座談会には創価学会の首脳幹部が多数出席し、山本の入信の決定を祈るように見守っていた。戸田の説得力と温かさが山本に影響を与え、彼は信仰を決意した。その後、彼は三島由造と山平忠平に付き添われて中野の歓喜寮で御受戒を受けた。――というのである。
つまり、ここでは、彼が哲学の話に誘われ、戸田城聖との初対面を果たす場面、彼の信仰への第一歩が描かれ、戸田の人間性とその誠実な態度が池田に深い感銘を与えたことが強調されている。特に、「正しい人生とは何か」という難問に対する戸田の回答や「本当の愛国者とは何か」という質問に対する説明が、池田にとって決定的な瞬間となったという。これは、池田の信仰の始まりとその背景をより深く理解する手助けとなるが、この描写は、先述の三つの文献で示された内容と矛盾しており、史実の中に小説としてのドラマティックな要素が含まれているのである。
続いて強調されるのは、戸田城聖の誠実な態度と明快な回答である。戸田の言葉に感動した山本は、即興の詩を読んで感謝の気持ちを表現した。これは、山本が信仰を深めるきっかけとなり、戸田の誠実な指導が彼の信仰の基盤を形成したことを示している。戸田の指導は、単なる理論ではなく、具体的な行動と実践を通じて信仰を深めることの重要性を強調している。これにより、山本は信仰の道を進む決意を固めたとするが、これも小説としてのドラマティックな要素である。
最後に描かれるのは、山本伸一が中野の歓喜寮(昭倫寺)で御受戒を受ける場面で、信仰に対する山本の複雑な感情や不安が描かれている。最終的に戸田の存在が彼の入信を決定づけ、信仰の道を進むことを決意させた。ここでのポイントは、信仰が個人の成長や自己確信にどのように影響を与えるかという点である。また、戸田の強いリーダーシップと影響力が、池田の信仰の形成に大きな役割を果たしたことが明らかにされている。これもまた、小説としてのドラマティックな要素である。
ここでは、池田大作の信仰の始まりとその深化、信仰が個人の生活に与える素晴らしい影響を示しているが、小説はあくまでも作り話であり、「人間革命」に描かれるエピソードは、信仰の重要性を強調する一方で、実際の出来事とは異なることを把握していなければならない。
更には、先に挙げた様々な文献より、実際の池田の入信時には、戸田は池田を折伏していない。池田を折伏したのは当時の教学部長出会った小平である。御受戒を受ける場面やその前後の体験も、いやいやながらの入会であったのが明らかである。
ところが、池田が現実として存在したとする史実として書いた「人間革命」は、自分自身を美化した創作であり、これは明らかに史実の改竄にあたる。後に検討するが、その当時の学会員は、これが故・篠原善太郎氏の代作などとは、夢にも思わなかったであろう。
池田はこうして、創価学会の組織拡大に日蓮仏法を利用した。日蓮は、このような改竄をはたして許すのだろうか。日蓮は一生涯、権力や世間からの迫害に耐え忍びながら、真実を主張し続け、民衆の救済のため真実の教えを弘めたのである。だから、日蓮は、きっと顔をしかめているだろう。
言い換えると、池田大作の入信時のエピソードに関する複数の文献と、小説「人間革命」における描写には明確な矛盾が見られるのである。これらの矛盾点は、池田が自身を美化し、実際の体験を脚色して創作したものであることを如実に示している。
実際の文献によれば、池田の入信は小平教学部長による折伏であり、戸田は関与していなかった。御受戒を受ける際も、抵抗感を持ちながらの入会であったことが明らかである。一方、「人間革命」では、池田が哲学の話に誘われて戸田との初対面を果たし、その誠実な態度に感動して、直ちに入信を決意する、という美化されたエピソードが描かれている。すなわち史実と創作が対立しており、池田が史実を改竄し、自己のイメージを作り上げたことが明らかである。
池田は、このような改竄を通じて、創価学会の組織拡大に日蓮仏法を利用した。日蓮は一生涯を通じて真実を主張し、民衆の救済のために真実の教えを弘めた。この日蓮の精神に照らせば、史実を改竄することは絶対に許されないことである。真実を歪めて自己を美化することは、日蓮の教えに明らかに反する行為であり、日蓮が望むものではない。
日蓮は、常に真実を追求し、真の仏法を民衆に伝えることを重視した。池田の行為は、この精神に反しており、日蓮が耐え忍びながら弘めた教えを歪めるものである。日蓮仏法の本質は、信仰と行動を通じて真実と成仏(真の幸福)を追求することであり、自己の利益や組織の拡大のためにそれを利用することでは絶対にない。
したがって、池田大作の入信エピソードに関する史実と、創作であるのに正史とする「人間革命」の矛盾は、創価学会の内部での信仰とリーダーシップの在り方に対する重要な疑問を提起する。
信仰は個人の主観的な体験である一方、真実と誠実さがその核心にあるべきだ。直ちに日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰が持つ真の力を再認識すべきである。
つづく。