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P63, 捏造・脚色の「創価学会正史」、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作

■ 創作された「創価学会正史」の完成

 1960年5月3日、日大講堂で開かれた第22回本部総会で、池田大作は戸田門下生を代表して広宣流布への指揮をとると挨拶し(会長講演集第一巻、1961年8月24日初版P1)、創価学会第三代会長に就任した。

 以後、順にその後の資料に基づいて、創価三代の師弟不二を宣揚する捏造・脚色が正史として造られていく過程をみていく。

 1962年5月 学会関連の鳳書院刊行の創価学会紹介解説書「創価学会」は、池田大作を折伏した小平芳平教学部長が著したが、P79で、
「池田会長は…十九歳のとき、当時、創価学会の再建に着手していた戸田城聖会長に会い、その深い確信と秀でた人格に感動して、昭和二十二年八月二十四日に入信しました。…中略…入信後まもなく、戸田会長の会社に入社し…」と、絶賛している。しかしこれらは事実と違う

 1962年5月3日の東大法華経研究会編「日蓮正宗創価学会」P451には、
「十九の時、当時、創価学会の再建に着手していた戸田城聖会長に会い、その深い学識と、すぐれた人格に感動して決意、昭和二十二年八月二十四日、日蓮正宗に入信している。この入信を決意したときには、『すでに一生涯、戸田会長に師事しとおす信念ができていた』と語っている」(『』は、筆者注)


 すなわち池田大作の創価学会第三代会長就任およびその入信に関するエピソードは、いくつかの文献で異なる描写がされており、これにより歴史の正確性が疑問である。
池田大作の実際の入信エピソードは、小平芳平教学部長による折伏であり、当初は信仰に対して抵抗感を持っていたことが記録されている。しかし、創価学会関連の解説書「創価学会」や「日蓮正宗創価学会」では、池田が入信時に戸田城聖会長と出会い、その深い学識と人格に感動して入信を決意したとされています。これらの文献では、池田が入信後まもなく戸田会長の会社に入社したとする内容も含まれているが、これは事実とは異なる。
これらの文献に見られる改竄や脚色は、創価三代の師弟不二を宣揚するためのものであると考えられる。池田が実際に折伏されたのは小平芳平教学部長であり、入信時の戸田の関与はなかったにもかかわらず、戸田との結びつきを強調することで、池田の権威を高め、創価学会の正統性を主張しようとしたのである。このような歴史の改竄は、信仰の純粋さや真実性を損なうものであり、信仰者に対する誠実さが求められる中で、これを裏切るものである。
さらに、池田はこのような改竄を通じて、創価学会の組織拡大に日蓮仏法を利用した。振り返って、日蓮は一生涯を通じて真実を追求し、民衆の救済のために真実の教えを弘めたのだ。この日蓮の精神に照らせば、史実を改竄することは絶対に許されない。真実を歪めて自己を美化することは、日蓮の教えに反する行為であり、日蓮が望むものではない。
池田大作の入信に関するエピソードと創価学会関連の文献との矛盾は、創価学会の内部での信仰とリーダーシップの在り方に対する重要な疑問を提起する。信仰は個人の主観的な体験である一方、真実と誠実さがその核心にあるべきだ。日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰が持つ真の力を再認識すべきである。


■ 1965年、後に池田大作の一番弟子と言われていた原島崇氏の著「創価学会」によると、
池田の入信の直接の動機は、その十日前に出席した折伏座談会で、戸田城聖の偉大な人格にふれたことで(P272)、戸田城聖との運命的な出会い以来、池田青年は、戸田城聖を終生の師と仰ぎ、公私にわたり、戸田を支え、学会の礎を築いた(P273)。
「一方、戸田も、初めて座談会に池田青年が出席した姿をみて、牧口会長をたずねていった〝二十歳〟の自己の青年時代を思い浮かべ、そこに仏法の師弟の宿縁の深さを実感していた。」(P274〝 〟は筆者)
戸田は池田を後継者として託していた(P321)
戸田は、池田を後継者として訓練し後事を託した。池田も事業面の再建など、戸田を公私にわたり守り、広布の基盤を確立してきた(P320)とある。
 ただ池田大作の戸田城聖の出会いの年は19歳だが、戸田城聖の牧口常三郎との出会いは「仏法の不思議」とは違い〝二十歳〟であった。

 戸田城聖自身の論文においても、それは〝二十歳〟である。
「私は牧口会長の死を知らなかった。……〝二十歳〟の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である」(「創価学会の歴史と確信」戸田城聖全集第一巻 池田大作編P301〝 〟は筆者)

 さらには、1970年青娥書房出版の戸田城聖著「若き日の手記・獄中記」にも池田大作は序文をよせているが、それにも、
「戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、先生が四十七、八歳、私が十九歳の時であった。」
と、戸田の年齢に関してはぼかしながら、決定的な瞬間と、取り繕っているのである。
しかも、これが恩師の13回忌にあたっての序文というのである。

 また、詳細は後述するが、元来、仏法において「師弟」というときは、師とは仏、弟子とは衆生であって、仏と衆生の関係を意味する。決して世間での師弟関係をいうのではない。

 すなわち、ここにも明らかな矛盾と改竄が見受けられるのである。
繰り返すが、原島崇の著「創価学会」では、池田の入信の動機が折伏座談会で戸田城聖の人格に感動したことであるとされ、池田が戸田を終生の師と仰ぎ、入信後すぐに戸田の会社に入社したとされている。しかし、これらの記述は事実と異なる点が多く、特に「入信後まもなく戸田会長の会社に入社し」という部分は正確ではない。
戸田城聖自身の論文では、彼が牧口常三郎と出会ったのは二十歳の時である。しかし、池田大作はこの年齢に関してぼかしている部分があり、入信時に戸田の年齢を正確に記述していない。これにより、池田が自己の信仰の道を美化し、脚色していることが伺える。
池田大作は、1970年に出版された「若き日の手記・獄中記」の序文において、戸田に初めて会ったのは昭和二十二年八月であり、それが生涯の決定的な瞬間であったと述べているが、これも事実と異なり、池田が自己の入信エピソードを美化し、創価学会の正統性を強調するために改竄しているのである。
元来、仏法における「師弟」というのは、師とは仏、弟子とは衆生を意味するものであり、世間での師弟関係を指すものではない。この点を考慮すると、池田が自らを美化し、戸田との師弟関係を過度に強調することは、仏法の本質から外れた行為である。
 これらからも、池田大作の入信エピソードやその後の信仰の道には、多くの矛盾と改竄が見られる。これは、創価学会の内部での信仰とリーダーシップの在り方に対する重要な疑問を提起する。信仰は個人の主観的な体験である一方、真実と誠実さがその核心にあるべきである。直ちに日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰が持つ真の力を再認識べきである。


■五島勉著「現代の英雄」での池田大作の生発言

1968年、五島勉氏は「現代の英雄」P37-39で、池田大作の生発言を紹介している。
「戸田城聖(創価学会第二代会長)と池田との運命的な出会いがおとずれたのである。
『いまでも昨日のことのようにおぼえています。焼け野原の中の小さな家で、戸田先生は何人かの若い男女を相手に日蓮正宗の根本をなす生命哲学を説かれておられた。そのときはたまたま、非常にわかりやすい初歩的な法理の説明で、お互いにその日一日を全力で生ききろう、苦しみを回避せず、苦しみを克服するなかに喜びを見出そう、というようなお話でした。
 それを聞いたとき、なぜか知らないが、私は体中がビリビリするような感動を受けたんですね。いま考えればごくやさしい訓話ですから、ほかの人から言われたのなら、あんなに感動したかどうかわからない。しかし、戸田先生の言葉のひとつひとつには、なんというか、ひとかけらのウソもてらいもない人間のギリギリの叫びみたいなものが感じられたんです』…中略…
 そして、池田がさらに戸田の話を聞いているうち、奇跡としかいいようのない神秘的な現象が、突然二人の間におこった。
『それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない、私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感でした。それまで、そういう運命的な直感などむしろ軽蔑していた私が、どうしてああいう気持ちに襲われたのか、いまもって不思議ですね。
 しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかったんですが、私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、〝このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いまオレはついに後継者とめぐりあった〟――と、ひと目で直感されたというんですよ。
 はじめて会って三十分もたたないうちですが、戸田先生と目が会ったとき、私はそのことを――先生がなにを感じられたか――をハッキリ知りました。先生のほうも私の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださったわけです』…中略…池田は、前後も考えず、その場で戸田に弟子入りを申し出た。戸田の信ずるものを自分も信ずることを誓った。むしばまれた肺への不安はまだ大きかったが、たとえ短い生命でもそれが尽きるまで戸田といっしょに働こうと――彼は生まれてはじめて自分の生きていく意義をハッキリつかんだ気持だった。」


 つまり、五島勉の「現代の英雄」によると、池田大作は戸田城聖と運命的な出会いを果たした。戸田の話を聞き、池田は深い感動を覚えた。戸田の言葉には、偽りのない人間の叫びが感じられ、池田は戸田の後を継ぐという強烈な直感を抱いた。同時に戸田も池田を後継者と直感したという神秘的な現象が二人の間に起こった。この決意を胸に、池田は戸田に弟子入りを申し出て、戸田の信じるものを共に信じることを誓ったというのである。
 すなわちここでの池田大作の発言は、これまでの資料と明らかに矛盾している。これは、池田が戸田城聖と初めて出会った瞬間に強烈な直感を抱き、戸田も池田を後継者と直感したという神秘的なエピソードを語っているが、以下の点からこの発言は信憑性に欠ける。
矛盾と改竄の証拠
小平芳平による折伏――池田の実際の入信は、小平芳平教学部長による折伏であり、戸田城聖は直接関与していない。これまでの資料から、池田が最初に信仰に触れたのは小平によるものであったことが明らかである。
御受戒時の抵抗感――入信時には池田は御本尊を受け取ることに対して強い抵抗感を持っており、むしろ信仰に対する疑念を抱いていたことも、五島勉の描写とは大きく異なる。
戸田との初対面の状況――五島の描写では、池田が初めて戸田と会った際に深い感動を覚え、互いに後継者としての直感を持ったとされているが、これは他の資料に対して大きく反している。
すなわち五島勉の著書における池田の発言は、明らかに池田自身を美化し、英雄的な物語を構築する意図を示すものである。このような神秘的で劇的なエピソードは、創価学会の信者や支持者に対して、池田のリーダーシップを強調し、そのカリスマ性を高めるための手段として利用されている。しかし、このような改竄や美化は、信仰の純粋さや真実性を損なうものであり、誠実さが欠如している。
 すなわちここでの池田大作の発言は、創価学会の内部での信仰とリーダーシップの在り方に対する重要な欺瞞を示す。
何度も繰り返すが、信仰は個人の主観的な体験である一方、真実と誠実さがその核心にあるべきだ。歴史を改竄し、自己を美化することは、信仰の本質に反する行為であり、これに対してはきちんと指摘して糺す必要がある。直ちに日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰が持つ真の力を再認識することが求められる。


■ 自身の履歴を、小説「人間革命」の内容にあわせて捏造

 その後こうして、前資料での「前言」を覆し、捏造した著作を、池田大作自らが事実として世間に対し著作物を出していく。

 1969年、毎日新聞社出版の池田大作著「私はこう思う」では ”人生に負けてはいけない〟P86-93で、その入信の時の様子を、小説「人間革命」第2巻に準じて語っている。(1969年といえば創価学会による言論出版妨害事件が明るみに出た年でもある)これは後に文庫本にもなり、聖教新聞社版ではP78-85に掲載されている。
1975年 聖教新聞社刊の池田大作著「青春抄」では「師との出会い」でP220-227(1969/1/10)
後の青春抄文庫本ではP230-237(1969/1/10)
1981年 池田会長全集第2巻P57-61(1968.11.7))
1989年 池田大作全集第18巻P88-95(昭和四十四年一月『人生の恩師』所収)に、
何度も何度も掲載している。一部のかなと漢字が異なるが文章が同じである。
これらによると、――池田大作は、昭和22年、19歳の夏の夜に初めて戸田城聖と出会った。当時、家業の海苔製造業は戦時中から細々と続き、戦争に奪われた四人の兄弟たちは一人戦死し、残りの三人はまだ帰還していない状況だった。池田は友人たちと小さな読書グループを作り、その友人の家で「生命の哲学について」の会に誘われ、好奇心から参加した。そこで初めて戸田城聖の名前を知った。
戸田の話は即物的で、観念的な要素がなく、真剣に聴き入る庶民たちに向けて語られていた。池田は戸田の話に感動し、戸田と視線を交わすことで親しみを感じた。友人に紹介されると、戸田は池田を親しげに迎え、「十九歳か」と述べ、自身が19歳で初めて東京に出てきた時のことを思い出した。池田は、人生や社会についての疑問を自然に質問するようになった。
こうして池田は、19歳の夏に初めて戸田城聖と出会い、その日の講話に感動し、日蓮正宗に入信した。初めての出会いから10日後の8月24日に入信し、創価学会員となった。彼は昼は企業で働き、夜は学生として学校に通いながら、仏法哲学の正当性を理解し、戸田の人格を知った。その後、自然な成り行きで戸田が経営する出版社に勤めることになった。
敗戦後の日本経済の中で、池田は戸田の事業の困難に直面しながらも、恩師を信じて孤軍奮闘した。池田は戸田の教えを受け、法律、政治、経済、物理化学、天文学、漢文などを学んだ。戸田の教育は池田の人生に大きな影響を与え、池田は戸田を一生涯の師と仰ぎ、創価学会の広宣流布の使命を担うことになった――というのである。

「私が、先生に、はじめてお目にかかったのは、昭和22年、19歳の夏の暑い夜であった…中略…ある日、その友人の家で『生命の哲学について』の会があるからと、誘われたのである。この時、戸田城聖という名を、はじめて耳にし…中略…読者仲間もつれて出かけたのである」(私はこう思うP86-88)
「話が終わると、友人は私を先生に紹介した。…中略…
『君、いくつになったかね』
…中略…
『十九歳です』
『十九歳か』と、先生はなにかに思いあたるようにいった。『十九歳といえば、僕が東京に出てきた時だ。…』…中略…
 ――正しい人生とはどういう人生をいうのですか。真の愛国者とは? 天皇制について? 仏法の神髄とは?
 先生の解答は、はなはだ、直截でよどむところがなかった。…中略…私は充分に満足し、真理がこれほど身近にあることに、生れてはじめて感動した」(青春抄P222-224)
 戸田は「十九歳で上京し、生涯の師・牧口常三郎にめぐりあい」、「私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師にめぐりあい、師弟の道を貫くことができたことである。」と述べた。
(昭和四十四年一月『人生の恩師』所収)」(池田大作全集第18巻P92-95)


■池田大作著「私の履歴書」――これにも捏造した入信神話と師弟の出会いを記す――

 そして、池田大作著「私の履歴書」が、1975年5月、日本経済新聞社から刊行された。
ここにも同様の内容を述べている。すなわち先述したように、誘われて会場に行って戸田城聖に会い、
「この人物が、私の人生を決定づけ、私の人生の師となった戸田城聖先生であった。」(私の履歴書P72-75)
池田は、「正しい人生とは・本当の愛国者とは・天皇をどう考えるかを質問し、簡明直截で誠実な答えを得て「『これだ!』と思った。この人のいっていることは本当だ! 私は、この人なら信じられる、と思った。…中略…私にとって、戸田先生との邂逅は決定的な瞬間となってしまった。…中略…その日、自分の所懐を即興の詩に託して誦した。
…中略…戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである。…中略… 十日後の八月二十四日の日曜日、私は東京・中野にある日蓮正宗寺院で授戒を受け、創価学会の一員として出発することになった。
 それからの日々、私は戸田先生との運命的な出会いを深化させながら、生涯、人間革命を断行し…以下略」(私の履歴書P76-81)

 つまり、ここでも――池田大作は、終戦から2年目の夏に、友人に誘われて「生命哲学について」の会に参加し、戸田城聖と初めて出会い、その講話に強い感銘を受けた。戸田の話は非常に誠実で、理論的にも明快だった。池田は「正しい人生とは何か」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」という質問をし、戸田の回答に感動した。戸田の過去の行動や信念にも感銘を受け、池田は宗教の道を歩む決意を固めた。10日後、池田は日蓮正宗寺院で授戒を受け、創価学会の一員となった。以後、池田は戸田との運命的な出会いを深め、人間革命、宗教革命、社会革命に自分を捧げることを決意した。――とあるのである。


 これをうけ、学会関連の第三文明社発刊「年譜・池田大作Ⅰ 限定版」1981年1月2日 年譜・池田大作編纂委員会編P26-27では、以下のように記される。
「8月14日 小学校時代の同級生に誘われ、創価学会の座談会に、「協友会」の友人二人を伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。戸田城聖と出会う。立正安国論の講義が終了した後、戸田に紹介される。その際、これまで思索し続けてきた「正しい人生とは、どういう人生か」「本当の愛国者とは、どういう人のことをいうのか」「天皇をどう考えるのか」との三点について質問し、戸田の明快な回答を得る。さりげない話のなかにも、簡明直截な確固とした心理があることを直感し、また、戸田の屈託のない誠実な人柄に感銘する。しばらくして、突然立ち上がり、「先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます」(『人間革命』第二巻 二四頁)とお礼の言葉を述べ、さらに即興詩を披露して感謝の意を表す。「正直いって、その時の私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をした」(『私の履歴書』七八頁)
8月24日 小平芳平教学部長らに付き添われて、東京・中野の日蓮正宗歓喜寮(現・昭倫寺)において、住職の堀込奏栄尊師(後の第六十五世日淳上人猊下)より御受戒を受け、日蓮正宗創価学会に入る」
 ここでも「人間革命」第二巻が小説ではなく「事実」として引用されている。

 要するに、池田大作が、自身の入信経緯の歴史を、改竄した「人間革命」の内容に合わせて、公に出版し続けたことが、以上の著作より明らかである。
池田大作の著書「私はこう思う」「青春抄」等では、彼の入信エピソードが小説「人間革命」に準じて語られている。池田が初めて戸田城聖と出会い、その講話に感動し、信仰を決意するという内容である。しかし、これまでの資料から明らかなように、実際の入信は小平芳平教学部長による折伏である。「私の履歴書」における入信エピソードでも、小説「人間革命」に準じて語られている。池田が友人に誘われて戸田城聖と出会い、その講話に感動して信仰を決意するという内容だ。しかし、これも事実とは異なり、池田が自己の入信エピソードを美化し、創価学会の正統性を強調するために改竄していることが明白である。
第三文明社発刊の「年譜・池田大作Ⅰ 限定版」でも、池田大作の入信に関するエピソードが、池田の自著「人間革命」に準じた形で記述されている。ここでは、池田が小学校時代の同級生に誘われて座談会に参加し、戸田城聖と出会ったことが詳細に述べられているが、事実と矛盾しており、明らかに改竄が行われている。

 すなわち「人間革命」第2巻を含む以降の、池田大作の入信エピソードに関する複数の著作は、実際の出来事とは異なる内容を含んでおり、自己の信仰の道を美化し、創価学会の正統性を強調するための改竄が行われていることが明らかである。
池田は「人間革命」を通じて自己の入信エピソードを美化し、その物語を公に出版し続けることで、創価学会の内部での自身のリーダーシップを強調した。これにより、創価学会の正統性と自らのカリスマ性を高める意図が明白である。
このような、信仰の純粋さや真実性を損なう歴史の改竄は、信仰の本質を歪めるものであり、信仰者に対する誠実さが欠如している。
 何度も繰り返すが、信仰は個人の主観的な体験である一方、真実と誠実さがその核心にあるべきだ。歴史を改竄し、自己を美化することは、信仰の本質に反する行為であり、これに対してはきちんと指摘して糺す必要がある。日蓮仏法の精神に照らせば絶対に許されないことである。直ちに日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰が持つ真の力を再認識すべきなのである。


■ 今も語り継がれている入信神話

 さて、世間がコロナ禍で外出自粛がなされている最中、2020年5月3日発行の「池田先生 会長就任60周年記念『栄光の共戦譜』」が、創価学会員一世帯に一冊ずつ、「家庭訪問」にて配布された。
このP4にも、「1947年8月14日、19歳 、創価学会の座談会に参加。生涯の師・戸田城聖と出会う」と記載されている。
 こうして現在でも、訂正されることなく、この神話は事実として、創価学会組織内では語り継がれている。
 しかしながら、「永遠に正史となって残っていく…」のは、創価学会の熱心な信者やシンパの人たちだけで、一歩範囲外へ出たら、不都合な歴史の改ざんという恥に、更に上塗りを重ねていく永遠の傾向性(業)でしかない。
 悲しむべきことだが、小説「人間革命」をはじめ、これらの捏造に基づいた著作は翻訳され、世界中に出版されている。

 ああ、南無妙法蓮華経。宇宙一切根源の法よ。

 思えばこれが、科学的に見た、いわゆる非科学的宗教である。
三大世界宗教としてあげられているキリスト教、イスラム教、仏教の教えなども、非科学的な神話が多く存在し、それを「信じる」ことで成立し広まっている。
 だが、最新の科学の一つである量子論は、神の不在・非存在を証明して久しい。
 むろん、これは量子論という難解なレベルではなく、正確な情報と一片の理性がありさえすれば判別がつくレベルであろう。


 だが、私は池田大作の「私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師にめぐりあい、師弟の道を貫くことができたことである。」は、確かに永遠の真実と、個人的には思いこみたかったが、今では既に目が覚めた。

 この事実の経過と永遠の真実との乖離(のように見える矛盾)は、もはやどのような言い逃れも説得力がないばかりか、いかなる科学的再現性をもってしても説明できないことが判明した。

 そして既に最初から、創価三代の永遠性は、科学と袂を分かつ、いわゆる単なる呪術的「宗教」であったことになる。
 この事実・真実に向き合うことは多くの熱心な創価学会会員にとっての大いなる試練であろう。
これを乗り越えなければ、自身の生命に関する根本的矛盾を解決できず、自身の、創価でいう真の「人間革命」は遂げられないことになる。
 私は前々記事で思い立った、宗教へも科学のメスで強く深く鋭く切り込み、客観的に再現性のある真実の法則を明らかにすることにチャレンジし始めたばかりであり、この挫折感はとても大きかった。
 この師弟の出会いを創価三代の永遠性の基盤とする「師弟不二」およびそれに関連した様々な演出は、そもそも仏法でいうところの、「以信代慧」――信をもって慧に代える――べき崇高な論理ではなく、単なる虚飾・演出の代物であろう。

 私にとって、この試練は、まだまだ序の口であったが、だからこそそれに気づくまでは池田大作を「永遠の師」と仰ぐにふさわしい合理的法理と思い込んできたのだった。
 こういった特徴――無疑日信――疑わずに信じること――は、創価学会の重要でしかも一貫した、「師弟不二」の精神の重要な部分であった。
 だからこそ多くの熱心な会員は池田大作を「永遠の師」と仰ぎ、尊敬しているし、創価学会員として誇りを持っているのが実情であろう。
 この重要な点を踏まえていない(又は故意におべんちゃらのため覆い隠した)池田大作論は、たとえば白アリの巣喰っている柱を使っている豪邸のようである。


 なぜに「立派な」?――指導者である池田大作が、後から誰からでも指摘されるような、こんなあからさまな「捏造」をもっともらしく行い続けたのか。

 しかしながらこの性質は、その後の創価学会=公明党の歴史にも一貫して、受け継がれている仏法上の理念の一つなのだ。それはその後の多くの社会的軋轢を繰り返し引き起こした重要な要素である。
 だが、多くの批判本等は、表面的に反学会として指摘、単に貶めることのみに終始しているものも多い。

 だが、前拙記事のも記した万物一切根源の法、依正不二の原理をもとに、池田大作と、その側近から末端までの創価学会会員の両方の利益、時代の背景等も含めたその関係性に十分な光を当てると、これが明確に見えてくる。

 このような捏造・改竄をはじめとする欺瞞、そして日蓮仏法を利用しながらこれを創価学会の組織拡大に利用した様々な行為は、日蓮仏法のみならず、一般的な信仰の純粋さや真実性を明らかに損ない、信仰者としての誠実さを著しく欠くものであり、結果として信者や一般社会を欺くものである。また、この「人間革命」がノンフィクション部門でベストセラーとなっていて、その後に様々な著者から引用されている現実を見れば、池田の捏造に基づいたエピソードが社会に与える影響は到底看過しがたい。加えて、有力なジャーナリストや評論家たちがこれに騙されることで、また「人間革命」が英語などの多国語に翻訳されて世界中に出版されたことで、創価学会の宗教団体としての正統性に対する大いなる誤解を、結果として世界中に弘めた。これによる創価学会組織内での影響や、日本社会やグローバル社会に及ぼした影響は非常に大きい。
このような、歴史を改竄し、自己や自己組織を美化することは信仰の本質をないがしろにし、宗教団体としての社会性・正当性に泥を塗りたくる行為である。それどころか、掲げている日蓮仏法を毀損し、他の日蓮の教えを信じる人々や後世に対しても恥をさらす行為である。日蓮は一切の現世利益にとらわれず、万人の救済を目指す仏法の最勝の教えを説き、世間の咎一分もあらずを貫き、生涯にわたって清貧を貫き、権力や一般庶民からの迫害を耐え忍んだのである。その日蓮が今世に生きていれば、先述の改竄や欺瞞の行為や、現世利益にまみれて権力におもね参画する有様を真っ先に破折するであろう。直ちに、日蓮の教えを実践する指導的立場にある者やそれを支える組織としての創価学会は、大いに反省・懺悔し、日蓮仏法の本質に立ち返り、信仰の真の意味を再考して、自らその姿勢を正し、改善すべきである。


つづく。

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