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P65, 多くの池田大作著が代作、池田大作著「科学と宗教」とは乖離した欺瞞、造反者の告発と正眼の指摘

 なお、このページは、過去の拙記事「私の池田大作観(1)ページ5」を一部改訂・アップデートして再掲載したものです。

■ 小説「人間革命」のゴーストライター:篠原善太郎

 池田大作が公の場に出てこなくなってから久しいが、創価学会の一部の熱烈な会員や幹部が執行部を巻き込んで(執行部も支持して)、こぞって代作や過去の歴史の書き換え・意味の読み替えが盛んになりつつあるという。
 その間にもそれらを根拠として名誉称号などの授与が続き、池田大作の名前で代作書物が発刊し続けている。

 多くの池田大作著が代作であることは、もはや公知の事実である。
 否定するのは熱心な創価学会員ぐらいだろう。

 1977年5月、池田大作自身が著作「随筆人間革命」P49、友への手紙(昭和46年2月3日)で、「人間革命」の執筆にあたる言及があり、これは1981年の池田会長講演集第3巻P259にも掲載されている。すなわち執筆にあたっての支援者たちにお礼を述べ、
「S氏にいたっては、資料の収集はもちろんのこと、文体の運び方、文章の調子、結構までご協力を戴き、感謝の言葉もない。益々のご協力をたた乞う。」
とある。
 むろん、文章の「結構」とは、「一つのまとまった組織・構造物・文章などを作り上げること」であり、「文体の運び方、文章の調子、結構までご協力」したなら、これはつまり「代作」ということといえる。
 これも、当時は「もう結構…池田代作論」などと揶揄されてもいたが、「人間革命」代作説の裏付け根拠となっている。



■ 組織内の「代作」グループ

 原島崇氏は2007年出版の著書「絶望の淵より甦る―」P125-126で、次のように語る。すなわち彼は昭和三九年四月に聖教新聞社へ入社以来十数年にわたって、池田大作の「代作業」すなわち池田の著書・講演・外部の寄稿文等一切の「代作」の責任者となり、
「人間革命だけは、篠原善太郎氏(故人、元東西哲学書院の社長)が代作しました。それ以外は九〇%以上、そのつど池田の指示によって、私が責任者となって推進しました。池田大作の著書はすべて、そのつど指示だけはしたものの『代作』であり、池田自身、内容を知らないものさえあったのです。」




 学会本部職員を解雇され学会を除名されてもなお池田大作を師と仰ぎながら書いた元本部職員による著作「実名告発 創価学会」(野口裕介・滝川清志・小平秀一共著、2016/11/18、金曜日、P57-61にも、「『聖教新聞』を使っての〝師匠利用〟の実態」と題して、膨大な池田大作著やメッセージの作製過程を告発している。
「そもそも私たちは、『新・人間革命』をはじめ、師匠の指導や会合へのメッセージが、本部職員によって作られている実態を知っていた…中略…師匠の仕事を代行する『学会奉仕局』という職場に所属していた。そこで、師匠が自身の仕事を弟子に託している実態をつぶさに見て、体験してきた。…そのチームは、全国、全世界で開かれる一日に何百という数の会合に対して、師匠からのメッセージを発信している。
 また『聖教新聞』に連載される『新・人間革命』や『わが友に贈る』も、師匠が弟子に一任している実態を見聞きしてきた」と告発されている。また、
「『新・人間革命』は聖教新聞社の中に作成するチームがあり、資料集めから原稿作成に至るまで担当し、最終的に第一庶務がチェックして完成させている。『わが友の贈る』も『聖教新聞』の記者が作成し、やはり第一庶務がチェックをして完成させる」
「書籍『法華経の智慧』や、師匠と世界の識者との対談集の作成も、実際は師匠が『聖教』の局長、部長クラスの新聞記者に著書の大方針を伝え、その後は担当した弟子(『聖教』記者)が作成していると職場上司から聞いていた」
「ローマクラブ共同代表のヴァイツゼッカー博士も、『池田名誉会長との対談集は、直接名誉会長と会って作っている訳ではなく、ドイツSGIが日本の学会本部との間に入ってくれて作っている。池田先生とは数年前に創価大学の卒業式で一度会っただけなのです』と証言している」(同書P58-59)


 柿田睦夫も自著「創価学会の‶変貌〟」で、こう言っている。
 「『SGI提言』はどうか。…中略…全国紙では『朝日』、『毎日』、『産経』はいずれも『創価学会の池田大作名誉会長(注・SGI会長ではない)は平和提言を26日に発表する』というスタイル。つまり提言の作者は池田氏だとして伝えた。
『読売新聞』は違った。
『創価学会は……提言をまとめた。『平和提言』として池田大作名誉会長名で26日に発表する』と書いた。提言を作成したのは創価学会であり、池田氏の名前を使って発表するという内容だ。
どちらが正確かはいうまでもないだろう。読売新聞は17年からこの記述に変えている。少なくともその段階で『池田大作著』の実相を見切ったのだろう」(創価学会の‶変貌〟柿田睦夫著 P85-86)





 島田裕巳著「『人間革命』の読み方」も、これについての考察があり、大いに参考になる。

 たとえ代作であっても、その内容は俗世においてだが、会員のため・人間の幸福のためという師弟の精神が含まれ、これに熱心な会員は励まされ、同時に支持・宣揚している。一部の正義や真実も評価すべき素晴らしい事である。

 確かに、現在池田大作が意思表示ができないと思われる状況での「代作」「代筆」は、師匠の意思も精神も失われているどころか、本部執行部の不正を正当化することになりかねず、師匠を利用する以外の何物でもないと元本部職員の前掲書は警告している。

 しかし、私には、これそのものが、元来の池田大作の意思・遺志と精神そのもののように映る。
そもそも誤り多き凡夫だからこそ、偉大になるためには改竄が必要である。
 この、自身を偉大に見せるための改竄・演出そのものが池田の「人間革命」であって、その結果は悲惨であると溝口敦は早くから指摘していた。
また、拙論文で先述したが、それを指摘・警告したのがさかのぼる1969年の言論出版妨害事件が明るみに出る発端となった藤原弘達著「創価学会を斬る」である。

 そして仏法でいえば、これそのものも、「煩悩即菩提」という即身成仏の方程式を借用した実体のない論理であって、それを奇しくも幻想にしか過ぎない「人間革命」として、地涌の菩薩気分の会員たちが寄ってたかって創価三代に群がり、末法の現代に伝えているのではないか。
 そしてこの原点は、言うまでもなく、池田大作と戸田城聖との現世の師弟の出会いを、池田自身やそれに群がる者たちにとって都合よく書き換えたことから始まったことである。ここにもフロムの指摘する「サド・マゾヒズム的」心理(エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」)が見える。
 こうして池田入信神話の作成あたりから、これが顕著に表れていると、根拠を示して指摘できるのである。

 何のための書き換えだったのか。
 それはひとえに集まった会員の激励・歓喜を与えるためであり、同時にそれは、集まった会員にとっては、厳しい現実からの逃避を一時的に可能にして夢を持ち、自分自身の理想を重ね合わせる絶好の主人像・指導者像・父親像(仏に備わるという主の徳、師の徳、親の徳)、そしてアイドル像の必要性だったのだ。

 先述した高瀬広居著にある、昭和40年(会長就任5年目)池田大作が言った言葉。
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』
 また、池田大作は第50回社長会(1971/7/8)でこう述べている。
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえることだ」(「継命」編集部編「社長会全記録」、1983/6/10、継命新聞社、P222)

 そして池田大作に自ら「手ごまとなって」仕える、お応えする実践を自らすすんで没頭していく会員たち。財務(寄付)も機関誌の配達から、公明党候補者の票取りなど、厳しい戦いに自己の生活や財産を犠牲にしてひたすら実践する熱心な会員たち。

 つまりは、池田大作は己を偉大なる権威として演じ、会員は彼を偉大なる権威として仕立て上げ、常に会員のために、創価学会のために、理想的指導者像・アイドルを演じ演じさせ続けてきたのだった。そしてこれに自ら進んで「奴隷のように学会につかえ」、本来の自己を喪失しながら幻想の歓喜を得る熱心な会員たち。
 ここに見えてくるのは、池田大作と熱心な会員との共棲――サド・マゾ(権威者と権威に進んで隷従する者)がどちらも共に相手なくしては存在・持続し得ない共棲関係(フロム著「自由からの逃走」より趣意)――である。

 これが池田大作と熱心な会員との「師弟不二」の実態の主たる側面である。 

 池田大作は第20回社長会(1969/1/22)でこう述べているのも、これを裏付けている。
「皆んなは公私混同、公私混同というが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ。」(「継命」編集部編「社長会全記録」、1983/6/10、継命新聞社、P100)

 また、元創価学会本部広報部副部長の小川頼宜はこう述べて、これを裏付けている。
「戸田の言動を絶対無謬と仕立て上げ、自らを唯一の後継者として信じ込ませることができれば、絶対無謬の神話は自らのものとなる…打ち込んだ情熱はやましいものだが、学会員に熱と力を与えた。それは強い副作用を伴うものだった。数々の犠牲を出しながら、試みはなんとか成功した。いまや池田大作は二度目の自公政権を実現せしめるに至った」(元創価学会本部広報部副部長小川頼宜、「池田大作と原島家―池田大作を会長にした原島宏治とその家族」2014/3/10原島昭著、P9-10)

つまりそれは、妥協の世界である政治にも持ち込まれ、現在でも日本の政治を左右する影響力を及ぼし続けているのである。
 
 かつての、小口偉一氏が指摘するように、教祖に対する法難やバッシングは、信者をますます教祖への信仰にかりたてた。
「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如く」(椎地四郎殿御書、御書P1448)その勢いは旺盛になった。


 ところで、こうした事情が創価の歴史であった観点から振り返ると、代作された膨大な範囲にわたる「池田大作著」を主な根拠として、様々な池田大作の評価を続けてきたジャーナリストや学会シンパのメンツは、はっきりいって地に落ちたと言わざるを得ない。
 だから私は、原点に戻って事実の根拠になる信憑性のある1960年代あたりの文献を、長々と積み重ねて前述してきたのである。
 だが、地に落ちたといっても、そこにはなお光り輝いている現実も膨大に描写されている。
 今後は、評価するなら、この事実をきちんと把握したうえで、池田大作と共棲関係にあった創価学会の一部の熱烈な池田大作ファン達の共同制作の思想や行動としてとり扱うべきであろう。
 かつての法華経の仏典結集のように。



■造反者の告発、批判された事実

 これよりかなり以前、昭和55年(1980年)原島崇の自著「池田大作先生への手紙―私の自己批判をこめて 」P105-107には、かなり生々しい告発がある。
「小平芳平(元公明党参議院議員)氏と、ある仕事のことで静岡研修道場に呼ばれました。昭和五十四年六月のことだったと思います。ふとあることで小平芳平氏が『〝創価学会仏〟と戸田先生が言いましたものね』と語ったのです。すると先生は『そうか、あんたも聞いたか』とといい、小平氏は『ハイ!』と答えました。そして、別の機会に私は小平氏に聞きました。『戸田先生は、本当に創価学会仏といったのをあなたは直接聞いたのですか?』――これに対し、小平氏は記憶が定かではないとして『いや、よくわからない。池田先生から聞いたのかもしれない』と正直に答えてくださいました。私は、これはどうも先生のつくりごとか、あるいは戸田先生が事実言われたとしても、決して日蓮大聖人以外に創価学会仏なるものを想定されたこととはどうしても考えられません。それは別として、とにかく、先生はつくりごと、すりかえ、自分の言ったことを他の人の言にしてしまうこと、それも既成事実化してしまうことの名人です。
たとえば戸田先生が最後に遺言として残されたとする有名な言葉「追撃の手をゆるめるな」というのは…中略…池田先生が戸田先生に伺った言葉として、それが一つのバックボーンになっていたのですが…それは私にも他の人にも「あれはオレがつくったんだよ」と明確に、真実を語ってくれました。もちろん、一般会員の方にそんな〝真相〟は明かしません。…
『人間革命』における入信の場面で、そこで即興詩を詠んだという事実はありません。小説だからと理由づけされるかもしれませんが、会員はぜんぶ真実と受けとめているのです。
 それにしても『私を創価学会師と定めるのが正しい』ということは、創価学会仏とあがめよというのに等しいと思いました。仏は、主師親の三徳具備であられます。しかし、師の徳のなかに、主の徳、親の徳をふくめる場合もあります。したがって、池田先生は創価学会仏なのです。どんなに建て前上、私は凡夫であるといっても、本音は、仏と思っている人なのです。…中略
あるとき『大白蓮華』の昭和四〇年ごろのある個所に『池田先生の一切の振る舞いを仏と拝し』とあるのをお見せした…中略…
私は昭和三七年ごろ、私の先輩から、『池田先生の振る舞いを仏と拝していくと、先生の行動が一切わかってくる」と教えられ…私も、そのようにかたく信じておりました。
昭和五二年ごろ…学会本部の近所の寿司屋で、原田稔氏(現副会長)と野崎勲氏(現総合青年部長)と私の三人でひそかに語り合ったことがありました。原田氏と野崎氏は『池田先生は日蓮大聖人の再誕であると思う』と主張していました。私は『いや、久遠元初自受用身の再誕だろう』と言ったのです。
このように、先生の後継ぎとといわれる中枢の人々でも、先生を御本仏と考えていたのです」

(原島崇著「池田大作先生への手紙―私の自己批判をこめて 」P106-107)


 ここで、先述したが高瀬広居著にある、昭和40年(会長就任5年目)池田大作が言った言葉を確認しておく。
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』

 原島崇は池田大作から直弟子証第一号を与えられた側近中の側近であったから、自らの懺悔を伴った告発は、信憑性が高く、大変重い事実である。
 池田の側近であった山崎正友はこう述べる。
「創価学会は著者を〝闇の帝王〟と非難するが、昭和51年(1976年)7月3日、池田大作の直弟子証を与えられていた。ちなみに第一号は原島崇氏である」(山崎正友著「創価学会と『水滸会記録』」2004/6/10第三書館)


 原島昭は、当時の事実を述べている。
「私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和十五、六年のことです。父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏(創価学会最高顧問)、小泉氏の紹介で辻武寿氏(元公明党議員)らが、次々と入信しました。
 さらに辻さんが、蒲田の糀谷に住む三宅家を折伏しました。そして昭和二十二年になり、この三宅家の次女・淑子さんに連れられて初めて座談会会場に来たのが、まだ若かりし頃の池田大作でした」
と、更に続いて、
「このように、池田と我が原島家とは、浅からぬ因縁があったのです。しかし、池田との因縁が深い、と感ずる父の思い入れこそが、後々まで池田の実態を見破れなかった大きな原因であった、と思います。」(「池田大作と原島家―池田大作を会長にした原島宏治とその家族」2014年、P22)

 原島昭の父原島宏治は、創価学会理事長を務め、池田大作を第三代会長に推薦した張本人であるという。

 1989年4月刊行藤原行正著「池田大作の素顔」では、以下のごとく暴露されている。
「池田の創価学会入信は昭和二十二年夏。からだをこわして、西新橋の印刷屋を一年ほどでやめ、しばらく自宅でブラブラしていた時期である。その時、池田は十九歳。たいした学歴もなく、からだも弱く、カネもなく、夢らしい夢もない。孤独でうら寂しい青春を送っていた。
 十九歳の池田が密かに想いを寄せる幼馴染の女性がいた。近所に住んでいた四人姉妹で二番目のAさん。ある日、Aさんから学会の集まりへ誘われ、喜んだ大作少年は一も二もなくついて行く。その会合には気易く語り合える仲間がいた。平凡な入信パターンだが、これが池田大作と創価学会との出会いである。
 入信後、健康が回復すると同時に自宅近くの小さな職場へ事務見習いとして再就職し、二十三年春からは大世学院(現・富士短期大学)夜間部へ通った。が、翌二十四年夏には学資に困って中途退学、池田が拾われるように戸田城聖の会社へ入社したのはその前後の時期である。…」(同書P33)

「複雑な家庭環境を他人に知られるのが嫌だったらしく、若いころの池田は自分の生い立ちや家族の話になると急に口をつむぐことがよくあった。
 また、池田の入信、戸田会長との出会いの真相に特別の事情があったわけではない。その事実は学会草創期からの古参幹部ならだれでも知っている。ところが池田は三代会長就任後、自分を偉く見せるために過去の都合の悪い事実を消して、デタラメなつくり話を仕立て上げた。その典型例が入信のいきさつだ。…中略…
 戸田先生との出会いに感謝して、十九歳の池田が披露したという即興詩がふざけた代物なのである。その冒頭は次の言葉で始まっている。
『旅人よ、いずこより来り、いずこへ往かんとするか 月は沈みぬ 日は いまだ昇らず……』
 私はこの詩を目にしてバカバカしさに言葉も出なかった。というのは、戸田先生の『国士訓』に『『不幸』よ! 汝はいずこよりきたり、いずこへ去らんとするか』という一節がある。なんのことはない、池田少年が即興で暗唱した青春の詩なるものは恩師の言葉をそのまま真似ただけのものであった。
 真相は要するに、戸田会長との出会いも即興詩もすべてあとから池田が自分の偶像化のために都合よくつくりあげた話なのだ。三代会長になったあと、『国士訓』の一節をコッソリ借用して、自分の古い日記に書き加え、出会いの劇的な光景は筆の立つスタッフが創作した。ちなみに、この『人間革命』の代作者は篠原善太郎という元作家志望の学会幹部だが、明治四十一年生まれの篠原が高齢となったため、〝池田大作のライフワーク〟は未完のまま執筆が中断しているのである。
『いや、藤原君、これはフィクションだから』
 このつくり話が活字になったとき、池田がさすがにそう弁解した。しかし、池田はのちに側近幹部を動かして、『人間革命』を『現代の御書』だとして、学会内で大宣伝させた。そのため事情を知らない一般会員は先を競って『人間革命』を読んだ。やがて学会全体に三代会長の虚像が広まっていったのである。」(藤原行正著「池田大作の素顔」P33-35)



 また同書では、戸田本仏論はなかったことと池田本仏論の実態が示されている。
「仏法は勝負である
昭和二十年代の東京で、社会の片隅から少人数で再出発した創価学会という宗教団体は戦後四十年間で公称七百九十五万世帯(千七百三十六万人)まで膨れ上がった。その原動力となったのは『仏法は勝負である』とする戦闘的な戸田説法とその実行部隊、創価学会『青年部』の存在であったと思う…
 酒好きで、女好きで、話のうまい苦労人。そんな人間臭さと峻烈な宗教的カリスマ性を表裏一体にして備えた戸田城聖という指導者にみんなが心酔していた。戦後社会に嵐を巻き起こす直前の時期、戸田創価学会の古きよき時代の空気がそこにはあった。
 生身のオレが仏なわけがない
青年部の会合の席で、いま創価学会の長老格で副会長の辻武寿が戸田会長からこっぴどく怒鳴られた日があった。
『戸田先生は仏さまのご再来です!』
 辻は師に心服するあまり、思わずこんな言葉を口にしたのだ。それを聞いた戸田先生は珍しく激昂した。
『生身のオレが仏なわけがあるか!』
『こんな間違いばかりする仏がいてたまるか』
 そう叱った。が、すぐ顔を和らげ、戸田先生はしょげかえっている辻をこう諭した。
『ただし、この信仰、ご本尊に間違いはないぞ』
…中略…
ところがいま、池田大作はいう。
『私だけが師匠の教えを寸分違わず実践している。私の言葉は戸田先生の言葉だ』
『私に間違いがありますか、みなさん。私はなんでも知っている。いいですか、私が間違いなんかするわけがない。私を疑うとバチがあたるよ』
」(同書P30-31)
 ちなみに先述の『国士訓』の一節は、戸田城聖全集第一巻P93-94にある。

■「サヨナラ私の池田大作―女たちの決別 」

 2013年、創価学会・公明党を糾すOB有志の会編「サヨナラ私の池田大作―女たちの決別 」(2013/7/31、人間の科学新社)で三宅妙子氏は言う。、
「小説人間革命の入信決意の描写は、事実とは異なります。座談会で詩を諳んじたというのも、全くのフィクションそのものです。私は生き証人です。」(大作さんからのラブレター P40 三宅妙子)
と、現在、創価学会で言われているような、池田大作と戸田城聖の伝説的な出会いはなかったことを言っている。三宅妙子氏はまさに、池田大作を座談会に誘った女友達の妹であり、のちに彼女にあてた池田先生のラブレター画像が週刊誌で話題になった。
「『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、"今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい"と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした」(三宅妙子『週刊新潮』H15.12.18)



■正眼の指摘

 溝口敦は指摘する。
「池田がここでいいたいことは、牧口と戸田、戸田と池田、それぞれの出会い時の年齢の一致と、それによる呪術的ともいうべき池田自身への正統性、神性の付託である。この原始的な思惟に基づく発想は、池田の会長就任時に早くも表れている」(池田大作「権力者の構造」P69)

 この指摘のもとでは以下の機関紙の報道が白々しい。
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに仏法の不思議!」(聖教新聞1960年5月13日)

 丸山照雄は、自著で上記をともに指摘しつつ、こう述べている。
「最近『週刊文春』誌が、『人間革命』に記されている池田大作と戸田のであい、池田入信の動機についての虚偽の事実を摘発した。
 その内容は、河出書房から刊行された『新心理学講座4・宗教と信仰の心理学』で、池田大作自身が語った入信の経過が記録されている。その事実と『人間革命』の記述とはあまりにもちがいすぎるではないか、という指摘である。…池田の入信にいたる経過は、まことにあわれをとどめる心理的経過をたどっているのである。溝口敦氏は、すでに早くからこの点をもとりあげて分析している。
 いずれにせよ、入信時から会長になるまでの必然的経緯を、因縁話風に美化しようと彼は努力してきた。『人間革命』は小説風の記述であるが、学会内部では経典的価値があるのだとしてあつかわれてきた書物である。この長大なる駄文をしたためた池田の目的はどこにあるのか。
 戸田城聖の山師的実態をおおいかくして、いかにも聖者的人格者であったように創作することもひとつである。だが、なによりも自己の会長継承が戸田の遺志であり、池田入信のときからの必然であったという一点を、宣伝これつとめることにあったといえる。溝口氏のいう会長就任の聖性の付与が目的であった。
 このような、嘘に嘘を重ねてこれを美化し、聖者的存在であることを主張してやまないということは、創価学会内部に彼の会長就任を疑問視し、正統でないと考える人々がいかに多いかを示している(…以下省略)」(丸山照雄著「創価学会池田大作 自滅の構造」1979/3/25、P47-51)


■ 批判拒否の体質

 歴史は重い。反逆者を多く出した今となってはこの指摘も、概ね真実であったと是認せざるを得ない。特に自らの懺悔を伴った告発は、信憑性が高く、大変重い事実である。
 しかし、こういった指摘に対して、池田大作以下創価学会執行部は、会長講演集や小説人間革命などを挙げるまでもなく、批判拒否で独善的であった。

「偏見とやきもちと、無定見なる、大三類の敵である評論家ども」(会長講演集 第13巻P182)
「一流の評論家が、学会に対し、日蓮正宗創価学会に対し、あらゆる点から、悪く論評すること。またもうひとつは、指導階層である政治家が、さまざまな観点から日蓮正宗を、そして創価学会をいじめよう、解散させよう、なんとか悪者にしきって世間に宣伝していこうという姿が、僭上増上慢のひとつの姿であります」(会長講演集 第5巻P25)
「『わが学会を、悪口する者は、妙法使徒の集団を悪口することであって、現罰がなくてなんとしましょう』…戸田城聖は、学会批判には、経文に照らし、御書に照らし、必ず現罰ありとの大確信を、世間に向って、宣言したのである」(人間革命第2巻 P96-97)

 もっとも会長就任挨拶後の講演で、一切の宗教は、非科学的で邪教であり、低級宗教であるが「まことの宗教は、仏法の真髄は、日蓮正宗の仏法を認識しなければ、絶対に批判はできない…」(会長講演集 第1巻、昭和36年8月24日初版 P5-6)
 と述べ、そもそも批判自体には真摯に耳を傾ける姿勢ではなかったことがうかがわれる。

 また、昭和34年6月12日聖教新聞「参院選後の批判に答える」にては、『日蓮が悪名、天下にとどろけり』の御書を挙げ、「学会は今回の選挙で世界に波動を与えた。これは善につけ、悪につけ、世界公布の宣言になっているのである」(会長講演集 第4巻、昭和36年12月23日初版 P89)と、開き直ったような答えをしていた。



■池田大作著「科学と宗教」とは乖離した欺瞞

 世間一般への自らの著書に矛盾した演出を重ねる一方、自らがよって立つ教義にも矛盾を抱えている。
 例えば先述の批判が「非科学的」というならば、確かに会長就任5年後の池田大作の自著「科学と宗教」P20には、
「いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合、それを〝ほんとうのこと〟というのである。…いつ、どこで、だれが行なっても、同じ結果が得られる場合、われわれは、それを『科学的』と呼んで信用し、尊重する。宗教とて同じことである。…」
P24には、「科学的法則には必ず例外がつきものであるが、正しい仏法によるところの生命理論には、けっして例外はない。いつ、どこで、だれが実践しようとも、すべてきちんとした結果が得られる。」
またP44には、「…仏法の生命論はまったく例外のない超科学である。」
「このように、真実の宗教は、本来、もっとも科学的なものであり、科学となんら矛盾するものではない。むしろ、科学が進歩すれば、するほど、仏法の正しさが証明され、その理解がますますたやすくなるのである」(池田大作著「科学と宗教」)
と述べている。
 私も同感であるし、科学的真実を言及するには、こういった再現性を最も重視している。だが、それならば、批判は真摯に受け止めなければならない。そうでなければ科学ではないし、自分たちが訴えている宗教の科学性、すなわち真実を証明することにはならない。先述の批判拒否・独善的な態度で臨むならば、皮肉にも自分たちの主張する宗教が真の宗教であることを自分たち自らが否定することとなっている。
そもそも科学的真実の追求においては、対立する理論をたして2で割る妥協など、最も忌み嫌われ、ありえないことである。(こういう点は政治や一部の学問の世界とは異なる)


 原島嵩著「創価学会」(昭和40年)は、原島嵩氏が池田先生の一番弟子時代に、387ページにわたって創価学会を喧伝した書であるが、そのP36には「科学をリードする宗教は、あくまでも科学性に貫かれた宗教でなければならない。『科学なき宗教』は盲目であり、盲目のリーダーのもとにあっては『不具なる科学』はますます迷路に入るのみである。科学のより以上の発達、科学文明の一層の発展を願うからには、一切を達観した偉大なる仏法を求め、根底におくべきことを重ねて訴えておきたい」
と主張し、池田大作の指導の下、日蓮正宗創価学会を、唯一の科学的宗教として訴えていたのである。

 だが「科学と宗教」の「いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合、それを〝ほんとうのこと〟というのである。…宗教とて同じことである。…」」との記載にしたがって、今、きちんとした理性と常識をそなえた1万人の人を集めて、前述のすべての経時的事実を提示し、科学的に分析してもらったとしたら、いったいどのくらいの人が、〝ほんとうのこと〟としている今の創価学会の主張する正史や、根本教義である師弟不二についての科学性を、証明できるだろうか。できるはずはなかろう。
「『科学なき宗教』は盲目であり、盲目のリーダーのもとにあっては『不具なる科学』はますます迷路に入るのみ」という一面が、衰退局面の巨大集団である今の日本の創価学会の内部の現状なのではないだろうか。
 私はこのことを最も恐れ、危惧していて、今後の正しい仏法の広宣流布を担う多くの創価学会の同志に指摘したいのである。

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