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P70, 師弟不二アップデートの試み(1)、私の創価学会体験

■ 私の創価学会体験の一例

 これまでも度々言及してきたが、こんな私も、そんな創価学会組織の学会二世であり、組織のなかで育ち、つい3年前までまでは創価学会の変遷する教義に疑問を持ちながらもその組織内で自己のアイデンティティーを形成してきた。

 ここで一旦話を変えて、自身の創価学会経験について述べたい。
 以下は、学童期から今日に至るまでの私が見て聞いて実践してきた創価学会の活動についてである。
 その実態については多くの著作があるが、それらの記述と多くが重なっている。

 組織内では、毎日毎日御本尊に強情に祈って勤行・唱題を行ない、仏法対話や公明党の票取り、機関誌や関連出版物・関連団体のチケットの購入を通じて友人に無償で配布し創価学会の理解の輪を広げながら、最終的に入会・本尊流布、そして幹部への昇格まで、紹介者を先頭として末端組織全体で連帯して行う。
 この組織活動(自行化他にわたっての実践と称する)を貫いていくと即身成仏・一生成仏という最高に幸福な境涯が得られると説く。
「どんな願いも叶う、どんな困難にぶち当たっても乗り越えられる」と確信をもって頭からオルグされるし、自身も会員や非会員にオルグしてきた。

 仏法対話とは、ある時期から「折伏」から「仏法対話」と名称変更された勧誘活動に相当し、会員は友人にまず「池田先生の正義」、「池田先生の偉大さと実績」を宣伝しながら学会組織のすばらしさを訴えることである。
言論出版妨害事件の謝罪後は、活動の名称としては折伏ではなく主に仏法対話というようになっていった。特にこの近年10年間は、折伏という言葉自体を聞くことが稀になった。
 先に仏法対話の内容が深まったところで日蓮仏法の基礎の話に入っていくことが一般的になっている。
 会員や末端幹部が自身の仏法体験を発表する場が月一回の座談会である。
 座談会ではたいていは来賓の幹部がやってきて最後のシメをくくる。
 来賓幹部はたいていは支部長、本部長、県長など、この順に高位になっていくが、副会長が来たことは私には覚えがない。
 そして選挙が近づくと、早ければ半年前ぐらいからそれとなく候補者がよく座談会や幹部の会合に顔を見せにくる。
 最近では毎年の如く国会議員選挙や地方議員選挙があるから、それが近づくと、早ければ公示の2~3カ月前ぐらいから、自分の居住している地域は当然のことながら、その地域を超えて全国的に選挙の票取りに邁進する。
 あるときは電話、ある時は遠距離訪問(例えば年末年始、ゴールデンウィークや秋の連休期間などの期間が多いが、おもに友好期間と称して)を促される。
 たとえば東京都議会選挙などは東京居住者のみならず全国津々浦々の会員が訪問したり電話したりして票取りをする。
 これは東京だけにとどまらず、たとえば沖縄選挙戦などでも、広島選挙区の自民党の河井杏里議員の票取りのとき(このときは原田会長みずから広島選挙区に訪れてカツを入れている、兵庫の選挙区での当選が厳しいのでそこでの自民党の支援を取り付けるためのバーター取引であると、あるジャーナリストは指摘している)など、選挙区で当選が厳しい状況があればなおさらである。
 だから世間から公私ともに「政教一致」などと言われる。

 昭和時代は、先述した呪術的な洗脳がほとんどであった。
「願いとして叶わざるはなしの御本尊」だから、どんな願いも叶い、どんな悪い宿業も転換できるとして、その体験が――それがたとえ些細な偶然であっても日常的なラッキーであっても――信仰体験として座談会などで語られ讃嘆された。
 また、池田先生は偉大な人――池田先生の正義を訴え、理解者をふやそう――と、個人的に友人へ対話し、入会が見込めそうになったら上の幹部が同行して勧誘し、毎日の勤行・座談会の参加・聖教新聞の購読を経て、そして入会決意(入決と称する)を取りつけて、御本尊を受けさせる(本尊流布と称する)ことが当面に課された布教活動であった。
 私の経験では、自身や同僚、先輩・後輩たちと一緒に大学の学内や地域の文化センター内の公的スペース、喫茶店やファミレスなどで、3人、4人でつるんで、最初は1対1、見込めそうなら2人、3人と偶然を装って合流しオルグしたこともあった。
 そしてその成果(入決(=入信決意)と本流(=本尊流布))の数を競っていた。(これらの行為などは、最近では安倍首相銃殺事件を発端として、統一教会の問題や宗教二世の問題の一部分としてマスコミに大々的に取り上げられ、問題視されていることの一つでもある。)
 これらとともに機関紙である聖教新聞や公明新聞の購読部数の拡大(新聞啓蒙と称する)は、組織の目標でもありノルマでもあった。
 一ケ月予約を1点(近年では1ポイント)として、組織として月別目標があって、足りない分は担当幹部などが複数購入するなどで肩代わりしていた。
 また、小説「人間革命」「新・人間革命」など池田大作著の刊行物もノルマとして組織を通じて配布された。その上、こういった活動のために時間的に不可能であるにもかかわらず、民音(民主音楽協会という、創価学会の関連企業による芸能活動)のコンサートチケットの購入数にもノルマがあり、責任者たちが売れない分を肩代わりしていた。
 そういった配布物は、「池田先生」や創価学会理解の輪を広げるためと称して友人や知り合いに無償で配布されたりしていた。しかし、仕方なくそうやっていた人は少なく、むしろ広宣流布のため――これをやると確実に功徳がある――と思いこんでやっていた人がほとんどであると思われる。
 考えてみれば、これは物体としての御本尊――破門前は板マンダラ、破門後は日寛書写のマンダラをパッチワークした創価学会配布の掛け軸マンダラ――や創価学会組織との、相対的な「取引」にすぎない。心理学的には事実上は経済的な契約に近く、原始仏法や日蓮仏法で説く御供養――見返りを期待しない布施――とは大きくかけ離れている。だから、仏法で言うところの「善業」がどれだけ含まれているかは大いに検討の余地がある。

 こうした組織活動の目標の達成数や信仰体験などは確実に座談会で発表され讃嘆しあい、ほぼ確実に上部組織へ報告されていた。
 とくに入決と本布は高く評価され、多くの会員に絶賛され、期待された幹部へ昇格していった。この、他人を讃嘆・評価することは善業にあたる。
 また信仰体験については、かつての当面の奇跡的な度合いが高くなればなるほど高次の会合(本部総会以上)などで発表され、その人はより高い幹部へ昇格していった。
 これらのヒエラルキーは、仏法の理解(創価学会の教学の理解)如何とは関係なくそれなりのやる気がある会員――日蓮が指摘している八風のなかの利(うるおい)・誉れ・称え・楽しみに犯されている会員――とっては格好の役割を担っている。
 不治の病に直面した・会社がクビになった・会社が倒産した(しそうである)・家族が危篤になった…このような不幸や困難に直面した会員のために、度々、組織の熱心な会員が個人会場や地方会館に集まって唱題会が行われ、病克服、再就職実現、成仏などを祈願していた。この、その祈る対象はともあれ、他人の幸福のために祈ることは善業である。
 池田大作が失踪(公から姿を消)した後、世間で病気説が広がると、ある組織ではある時期にその全快を祈る唱題会が死ぬほど行われたことがあったが、すぐに行われなくなった。本部からの打ち出し(元気です)が徹底されたからだ。
 まあ、その全快を祈る唱題会が死ぬほど行われたとしても、その祈りが叶うことは100%ありえないだろう。そうしたら、願いとして叶わざる事はなしという教えがウソだったということになってしまう。創価学会の執行部を始め、純真に熱心な幹部達は、このことを最も恐れてはいるだろう。

 しかしながら、私はこうした姿(善業を積む行為)は素晴らしいと感動してはいたが、ほとんどのその結果は当事者や関係者の努力の程度によるきわめて常識的な経過であって、奇跡的なことが発生したためしはなかったと思う。
 とくに病気については、医者になってからはそう感じていた。
 まあ、科学的にはありえないことであろう。
 人の死亡率は100%。
 この世の中でほとんどすべてのことは不確定・不確実なことであるが、私やあなたが死ぬことは、100%確実なことなのだ。
 だから日蓮も、まず死ぬ事について学んでから、他の事を学べと、下記の如く述べている。
「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」(妙法尼御前御返事(臨終一大事)、御書P1404)
《日蓮は幼少のときから仏法を学んできましたが、念願したことは――人の寿命は無常である。吐く息は吸う息を待つことはない。「風の前の露…」というのは譬えではなく真理である。賢者も愚者も、老人も若者も、一瞬先はわからない(死ぬかもしれない)のが真実の法則である。なので、まず臨終のことを習って、その後にその他のことを習うべきだ――と思って、釈尊一代の聖教と論師や人師の論や解釈の書をすべて考え集め、これを明鏡として一切の人々の死ぬ時と臨終の後とを引き合わせてみたら、少しも疑問がなくなりました》(私風現代語訳)

 話は戻るが、こうした会員は、組織のみんなで支え合って祈ったからこそ、苦痛もなく無事に安らかに成仏した・給料は下がったが別のいい会社に採用されたなどと、都合がいい善き評価をしあいながら、お互いを讃嘆していたし、今もそうである。
 これらは、申し分なく善業を積み重ねる姿である。
 毎日配達される聖教新聞や月刊の大白蓮華にも、そのような内容が多く記載されている。
 これは、そのような記事を望む純真な会員が幾分か存在していて、その人たちに歓喜をもたらすのみならず、それ以外の組織の会員を鼓舞する役割を担っている。
 そんな記事を読むこと自体が楽しいというのが熱心な一部の会員なのである。
 これはフロムが指摘していたことの証左である。
 ちなみに私などは、正直なところ、もう20年以上前からこのような記事には飽き飽きしている。
 非活の人たちにとってもそうであろう。

 だから、創価学会の純真な会員や幹部は、他人の評価・讃嘆能力に長けている。
 世間で見れば全く以って取るに足らないこと・常識的にあることなども、奇跡的な信仰体験として持ち上げられる。決して、そんなことは誰にでも経験できる常識的なものであるなどと突っ込まれるようなことはなく、むしろそれは事実上タブーである。
 そして、こうした活動を愚直にやっていけば、どんな些細なことでも、その人を評価し持ち上げる能力――過大・誇大評価能力――が確実に身につく。会員同士の悪口は聞くことすら稀であったが、聞こえないよう広がらないように巧みに隠蔽されていた分もあるかもしれない。
ちなみに私も、こうした能力はある程度身についていると自負しており、患者さんを治療する臨床の場で役立てている。

 私は、このような末端の純真な会員同士の共感・共生の姿は、たとえ間違った時代遅れの教義に基づいているとはいえ、また隠蔽されてはいるが先述してきた組織の独善的体質や中心幹部の腐敗・悪徳等があるにせよ、これらとは切り離して、まことに素晴らしいと評価している。
 教義をぬきにして行動だけに限れば、皮肉なことに、完成を目指す未完成の姿――真の即身成仏の姿――に近いといえるのである。


■御書の勉強と教学試験

 御書の勉強は、月刊の大白蓮華に教材が載っていて、座談会用などがある。その熱心さは組織によってばらつきがあるが近年では大抵は読み合わせ+αぐらいで終る。また、主に新たに入会した会員の理解のため、また学会二世・三世のため、未来部を育成するために、教学試験が年に一回行われる。
 任用試験、初級試験、中級試験、上級試験の順に難易度が上がっていく。
 上級試験の合格者は、たいていは後に創価学会教学部教授という名誉に輝く。
 過去には、中級試験合格には面接試験があり本尊流布一人の実績が絶対条件であったらしいが、池田会長辞任の昭和54年からは筆記試験のみになった。
 試験内容は、任用試験では仏法の一般的な用語、小説「人間革命」や、かんたんな御書の切り文、創価学会の歴史と理念などである。
 日蓮正宗から破門後は、当然のことかもしれないが日顕宗(日蓮正宗)の独善的な破折が加わった。

 ちなみに私はかなり前に上級試験に(御書教材であった観心本尊抄全編を丸暗記して)合格し、その後教学部教授に昇格、その後も度々御書講義や仏法セミナーを組織内外で行っていた。
 私は御書(堀日亨編の日蓮遺文集)を少年部~学生部活動の時から常に携帯し、学生時代に全篇読破、さらに大学卒業してからも十数回ほど全篇読破、小説「人間革命」も十回ぐらいは全篇読破している(結果的にそうさせられていたといえる)。
 だからこそか、日々更新されゆく科学的根拠に基づいて就業する職業がらもあってか、破門前後から今に至る創価学会や日蓮仏法の様々な疑問・非科学的容態について思索する機会に恵まれたと考えている。
 しかしながら、私は大学卒業後は創価学会では学生部を離れて男子部に所属し、多くの友を入決・入会させ本尊流布も4世帯を成し、結果、副部長まで昇進した。
 その間においても御書講義の担当者を除いて、御書を常に携帯して会合に訪れる幹部を、来賓幹部を含めて、一人も見た覚えがない。
 ほとんどすべての会合においては、御書を紐解く事はなく、大白蓮華に載っている部分のみ取り上げられる状態である。
 これでは、真の日蓮仏法を創価学会の会員が学習する機会は乏しい。
 私は座談会や活動者会などのほか、家庭訪問の時などにも常に御書を携帯して紐解き、大白蓮華や聖教新聞と対照比較し、補足や検討しながら、現場に対応してきた。御書に関する質問にはその都度適切な御書のページを紐解いて遺文を根拠に返答してきたし、結婚して壮年部に移行した今もそうしている。
 自慢ではないが、創価学会が利用する御書の切り文は、毎年から数年単位でお決まりの切り文がこの2~30年間繰り返されてきている。教学試験での教材もほとんどお決まりの様であるため、そのような切り文は、街中でたまたま会った会員をはげます時にも、自然と暗唱できて利用している。彼ら彼女らは、御書の一節を根拠とした私の話を聞くとやはりよく納得する。むろんもっぱら、池田大作の過去の指導の方が喜ばれて説得力があるようではあるが。
 重たい御書を常に携帯して会合に訪れる幹部を、来賓幹部を含めて、一人も見た覚えがないと、ある中堅幹部に言ったら、最近はみんなスマホで検索しているから御書を携帯しなくても良いのだと反論されたことがある。
 確かに、ごもっともである。公式ページに御書検索もある。しかしながら当の本人の携帯していたのは長年使いこなしたようなガラケーであった。
 それに、ほとんどの会員や幹部は、そんなものを現場では利用してはいないし、そういう姿をみたこともない。そして、創価の公式ページどころか、インターネットが一般化する以前からも、御書を常に携帯して会合に訪れる幹部を、来賓幹部を含めて、一人も見た覚えがないのである。
 一方、なにを隠そう、私は、ガラケーがネットにつながるようになる以前から、聖教新聞社版の日蓮大聖人御書講義全巻を参考にして、PCに御書全編と通解を入力し、ラップトップPCに入れて、活用してきた。今となっては45MB前後ぐらいのデータであるので、持ち運ぶのがラップトップからノートPCへ、やがてスマホやタブレットのSDカードの中に入って、ネットがないところでも検索に役立てている。
 私が若い頃は、若さ故か、現場の空気に関らず幹部の指導・解釈の矛盾や間違いを質問と称して指摘していた。そのほとんどすべての幹部や責任者は最終的にはしどろもどろとなって困惑し、本部に照会して回答するとして逃げるのが精一杯だったし、その後も未だかつて明確な答えが返ってきたためしがない。まあ、真実を知らない・知ることができないだけでなく、根本と謳っている御書すら全編を読んでいないだけでなく、大白蓮華に載っている部分だけをなぞっているのみで教材となっている遺文の全体の真意も計れない幹部がほとんどであろうか、また上の幹部にお伺いをたてなくてはならない人たちにとっては、まさに「ないものねだり」であることは知りながらであったので、今思うと、私もたいそう意地悪であったことだけは確かであると反省している。ある幹部は、私がなまじっか、医者であるから増上慢に陥っていると思っていたに違いないし、まさにその時には、私は増上慢になっていたのである。

 こんな私は、創価学会組織にとって、立場が医者(ドクター部)であるとして、仏法セミナーにも講師として役立ち、また末端会員の指導的貫禄も期待され、医療上において困ったときにの格好の相談相手になってきたため、末端組織にとっては少しの看板にはなっているし、広布部員(財務、つまりそれなりの寄付をしている)でもあるので侮れないとしても、幹部達から見ればしばしば煙たい存在であったことは、私に対する組織幹部たちの――時に腫れ物に触るような――対応からして、明らかである。

 ともあれ、私は、この日蓮の遺文、
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
《行学の二道を励んでいきなさい。行学が途絶えてしまえば仏法ではないのである。自分も行い、人にも教えていきなさい。その行学は信心から起こるのである。能力があれば一文一句であっても人に語っていきなさい》(私風現代語訳)
――これは諸法実相抄の結びの部分である(御書P1361)――を、少年部時代から忠実に実践してきた誇りはある。
 創価学会の会合では、この部分だけ取り上げられることが多いが、その結びの部分には、「此文には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給へ・意得させ給うべし…」がある。まさに日蓮仏法の重要な論理である諸法即実相――現実の森羅万象がすなわち真実の姿であるという科学的な方程式(まあ、あらためて常識的といえばそうであるが、けっして現実の奥に真実が隠されているのではない、つまりは現実の指導によくあることの一つである「真実がわからなくても御本尊や創価学会に任せていればそれで成仏ができる」というのは誤りである)――が説かれている遺文である。これはアニミズムや呪術的なことなどではない。しかし、座談会でこの部分が取り上げられても、「日蓮が大事の法門ども」である諸法実相抄全体を学び、日蓮の真意を肝に銘ずる機会は、創価学会の会合では私は稀にしか出会ったことがないのである。
 まさに、組織内では「一文一句なりとも」が「一文一句しか」語っていない状態――切り文でしか語られていないのである。つまりは、大事なことをやれとはいうが、取り上げる内容は都合のいい少しの部分だけ、あとは自分でやれという、きわめて意図的・不十分な取り扱いに止まっている。
 まあ、次の選挙の票取りに余念がない状態では仕方がないかも知れない。

 話は変わる。幼少期からの思い出も含めてであるが、創価学会末端組織においての互助会的な支え合いは、他の地域社会のそれと比べ優るとも劣らないものであった。
 私が成人するまでは、様々にお世話になった。
 少年部・中等部の担当者(大抵は男子部の幹部)・諸先輩に、学業の事・進路についてなどはもちろん、いじめで悩み続けていた自分を終始支え、時には悪奴を追い払っていただいた。
 大学卒業までは貧乏だったので生活物資など経済的にも大変お世話になった。
 医者になってからは、臨床が多忙なのであまり会合に参加できなくなったが、男子部・女子部・壮年部・婦人部の先輩たちと共に、病気に悩む会員のお世話・相談相手だけは自身の使命・恩返しであるとして、多忙の中でも時間をやりくりして家庭訪問・診察・医療機関の紹介などをしてきた。
 この中でも特に私のアイデンティティとして、御書を根本・根拠に引用しながら自身の体験や医学的なことも含めての指導へと演繹していたので、会員のみならず特に組織幹部に喜ばれてきて、仏法と医学についてのセミナーの講師も盛んに引き受けてきた。それらは近隣の組織のみならず遠方の組織からも要請があり、ある時には(遠方の地域での選挙も絡んではいたが)旅行がてらに赴いたこともあった。
 当然ながら、その際には、組織内外の病気に悩む人たちが多く集まって来ていて、講演後には個人的な相談を一人ひとりすべての人に行なっていた。
 もちろん組織勧誘・入会・本尊流布の目的が伴っているわけだから、御書の一文を適切に引用・根拠にて、相談・指導してきた。
 その後その人たちのなかで入決・本尊流布があったとの報告を受け、また見事に困難を克服したという報告をうけたときの感激・歓喜も五本の指では数えきれないほどあった。


■選挙の票取りと「政教分離」について

 選挙が近づく、つまり翌年に国政や地方選挙がひかえてくると、当選が危ぶまれている候補者が度々座談会に顔を見せるようになる。
 具体的に選挙をお願いしますとは建前上一切言わない。
 しかし、こうした阿吽の呼吸・暗黙の了解が組織内で徹底されており、幹部の口からでる話の内容が普段は池田大作の実績や指導の話ばかりだったのが急に公明党の実績や候補者の話になるので、熱心な活動家会員には雰囲気として確実に伝わっている。
 いやむしろ、最近は話のほとんどが選挙の話題である。
 選挙期間中には、会員はF、〇外などと称される数をノルマとして課され競い合う。Fとは候補者を直接依頼して承諾を得た友人、〇外とはFに候補者を依頼して承諾を取りつけた人、つまり友人の友人である。
 選挙期間に入るかなり前(2~3カ月前)には、友人に票頼みの電話や訪問が非公式に促進される。
 こういった票取りや候補者の当選を成した成果も確実に評価・絶賛され、幹部として昇格していく。

 選挙期間中はやはり個人会場や個人会館、時には地域の創価学会会館に集まり、候補者の当選(絶対勝利!などと祈る。会員は「仏法は勝負」というように祈れば絶対勝つと呪術的に信じている)を祈って唱題会が頻繁に行われる。
 むろん、日蓮が活躍した鎌倉時代では、病気の治療にしても相手と戦うにしても、「祈禱」が最大の科学的な手段として考えられてきた。日蓮が他宗の破折にこだわったのも、「祈禱」の正しい在り方や正邪善悪が民衆の幸福に直結すると考えられたためであろうし、当時の学問レベルでは、多くの人にそう思われていたのは、為政者が寺院仏閣を優遇して何かの際に利用してきた歴史が示していることでもある。

 話は戻って、私見ではあるが、創価学会の票取りの実態は、我が国の憲法に則った「政教分離」に違反しているとは、必ずしもいえない。
 創価学会の主張と内閣府の見解では、宗教団体の政治への参加は合憲なのである。
 憲法で禁止されていることは、「国家」が特定の宗教に対して優遇したり弾圧したりして介入することを禁止している。つまり、憲法で禁じている対象者はあくまで「国家」であるという建前なのである。
 だから特定の宗教団体である創価学会が組織を挙げて公明党の政治活動をする事は禁じられていないことになる。
 ところが本音・実態、非公式として隠されているのが、公明党が与党として政権に参画することによって、国家権力として公明党や創価学会の意見・利権が守られたり優遇されたりすることである。これは当然ながら憲法の政教分離に違反することになる。このあたりの現状の評価・解釈については非常に微妙な要素を含んでいる。

 現代の民主主義の世の中では、かつての独裁者とそれに従う国民というわかりやすい構図はとうの昔に消滅し、代わって様々な権力が多くの人や組織に分散され、あるときは自由気ままに行使されている。つまりは、一人一人は支配者でもあり被支配者でもあるという二面性・二律背反性を備える社会の構図になっている。
 創価学会は、総体革命と称して、官僚や有力企業、有力利権団体に多くの人材を輩出している。その人たちにも信教の自由はあるが、自身の立場や権力は広く一般国民に公平・平等に行使しなければならないのであって、手前勝手に権力を行使して公明党や創価学会に貢献することは法的に許されないことなのである。
 先述した後藤忠政氏の指摘にもある様に、このような実態が部分的にせよあることが想像に難くないのであるし、一々取り上げるのは煩わしいので割愛するが、現実にもその歴史上で、造反者や反創価の人たちやジャーナリストたちから指摘されてきたようである。
 だから世間から「政教一致」と言われる。
 このように、憲法で言う「政教分離」違反と、世間でいう「政教一致」とは同じではない。
 これは、現憲法の構造的欠陥ではないかとさえ思う。

 ちなみに欧米の自由主義国家においてはその悲惨な中世の歴史的経過への反省から、国家と教会(キリスト教教会)との完全な分離が原則としてなされている。これは”separation of church and state”と表現されている。
”church”(教会)という文字に注目したい。
 欧米の多くの国民であるキリスト教の人たちは習慣として日曜日に地域の教会に行き祈りをささげているのである。
 教会とは、宗教活動の場所であり拠点でもあるだけでなく、地域住民の宗教活動そのものによって成立している。
 だから、この活動を教会が利用して国家に介入してはならないし、国も教会に介入してはならない。
 宗教活動の場である教会が民衆や国家を牛耳っていた中世暗黒時代を振り返ってみたら、その悪弊がよくわかるだろう。

 これが、どういうわけかアメリカGHQ占領下において現憲法で言う「政教分離」となったものであるが、これを我が国に正確に翻訳すれば「宗教施設やそこにおける宗教活動」と「国家権力や政治活動」との分離のことである。
 つまり宗教活動と政治活動は、場所も時間も原則もすべて一切が実体として分離されてこそ、欧米でいうところの”separation of church and state”といえるのである。

 欧米人も日本人も同じ人類・人間であり、危惧することも全く同じである。
 欧米にはキリスト教系の宗教政党があるが、教会とは分離されている。
 ところが、従来から創価学会において、一切の文書やデータなどの証拠を残さず(証拠が出れば隠蔽し、スマホやボイスレコーダーなどの持ち込み禁止などの対策を徹底し)暗黙の了解のもとで、創価学会の活動の一環としてその施設や個人的な宗教会場が政治活動に利用され、また官僚や有力企業、有力利権団体にいる人材がそこの宗教活動において権益を吸い上げて事実上行使している実態は想像に難くなく、世間から「政教一致」と言われるのもやむを得ないであろう。
 かつてのヨーロッパ中世暗黒時代のような宗教的支配を目指していると危惧されるのも無理なからんことではあろう。


■財務と称する寄付

 そして、何といっても締めくくりは財務である。
 財務とは創価学会への寄付のことで、かつては供養と称していた。
ひと口1万円で、多いほど良い、功徳があると喧伝されている。
今でも、本当にご供養という建前の意味で、暗黙の了解となっている。
「真心の財務」と喧伝されて、近年は毎年秋ごろに、組織会員に促される。
 大幹部の間では、ノルマもあり、大口財務者は学会のリストに載せて貰えると聞いている。
 本当に真心なら、また、本当にご供養の精神で行うのなら、その時期や金額にこだわる体制自体がおかしいのである。
 その精神を素直に実現させようとするならば、誰がいつどこでやったかどうかや誰にもその金額や時期が分からないようにすべきであり、例としては一般的なお寺の賽銭箱のようにすべきであろう。これなら、組織の誰にも知られずに、いつでもできるし、一人でも思いついた時にできるのであり、これこそ仏法本来の、「真心による供養」といえるのではないか。
 いつからかしら、財務は銀行振り込みになったが、振り込んだ金額の領収書が封印されて送られてくる。それは郵送ではなく、組織担当者を通じてである。だからその過程のどこで封印されているのかは知る由もない。
 私も収入を得ていた学生部時代から公布部員として財務を行なってきた。
 かつては目立たないように夫婦二人の名義に分けて合計100万円を越えた寄付を行なったときもあった。
 なぜ目立たないようにしたかと言えば、事実上のノルマがあると感じていたからと、少しでも御供養の精神に近いようにしたかったからである。
 組織内での指導や空気には、「進まざるは退転」との常套句もあり、前の年より少額にするのが確実に憚られる雰囲気でもあった。
 ところが今まで振り返ると、財務の功徳については少ないときと比べてなんら変化はなかったと実感している。
 仏法の功徳の現れとして「冥益」(みょうやく)というのがあるから、一概には判断できないことではあるが、これは当然のことであるし、「貧女の一灯」や「砂の餅」の話にも参考になるところ、これも先述したが、真の仏法における御供養の精神に立ち返ってみたら自明なことである。
 私の行った財務は、たくさん供養したからその分「功徳」という見返りを期待するという一種の心理的「取引」から出ていたのであり、自らの愚かな姿勢からの財務であったと反省している。その後は組織内のそしりをうける覚悟で、仏法の真の精神にて財務を行ってきた。
 それというのも、本部ではなく末端組織の「純粋な会員」を支えようとの思いからである。

 こうして、組織の歪んだ原理(その根本として「日寛アニミズム」や、そこから同じ原理で派生した「師弟不二」)にマインドコントロールされながら会員たちやその二世・三世たちがアイデンティティーを形成していた。


「自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現出来なかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない」(エーリッヒ・フロム、「自由からの逃走」)というフロムの指摘もある。

 近年におけるコロナ騒動もワクチン接種においても、多くの人は「自由から逃走」したのだろう。
 これは多くの創価学会員にも当てはまることであろう。
 そもそも日蓮仏法の中にも含まれている一念三千の法理を理解していれば、創価学会という一組織に限らず人類全体の現代文明の病理やその解決法を十分に説明できうるものであるが、拙論文の趣旨を大きく超えるので割愛する。
 創価学会の末端組織や、中堅幹部、執行部に至るまで、熱心な人であればあるほど先述の組織の原理にマインドコントロールされ、ある人は経済的に、ある人は権威的に、ある人は権力的に、ある人は世間的に支配され、フロムの指摘する「自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現出来なかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりする」状態である。 そして、日蓮仏法が身近にありながら「気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない」ことを認識している人は少ない。
 組織内の活動や教義に疑問を感じ、もしくはそもそも魅力を感じなくなった人は、非活動家(通称:非活とか未活)化し、組織活動やそもそも仏法から疎遠になっていく。月一回の座談会さえ出席することなく、名前だけ名簿に載っている人が多くいるだろうし、現に私の所属する末端組織でも同様である。名簿上(統監と称する、引っ越ししてもその住所を伝えることになって自動的に組織移転の手続きがなされる)の僅か一割ぐらいしか熱心に活動していない。久しく会合に顔を見せない会員の方が圧倒的に多い。
 ただ、末端組織は地域の互助会的な要素もあるので、疑問を感じながらも反対意見を述べたり組織改革の必要性を訴えたりすることなく、査問・除名をされる人は、少なくとも私が知り得る身近な人の中にはいない。

 フロムの指摘する「他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である」ことは、十界論では地獄・餓鬼・畜生・修羅のみならず、人・天界も含めた六道輪廻の生命境涯の一表現である。これらについては「自分自身でないことほど恥ずべきことはなく」、そして「自分自身でものを考え感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない」ことは、十界論では声聞・縁覚・菩薩・仏界を表しているのである。


■救済・変革への道筋や解決法

 これまで述べてきた論理や経過で、本論文は概ね終了する予定であった。
 しかし、それだけでは、当の会員や組織、また世間一般についてもたらしている様々な問題の解決への基盤・前提となったのみであり、未来への救済・変革の道筋は未だ模索中なのである。
 私は、このような凋落傾向の創価学会のゆくべき道や変革について、自身の知り得る範囲、また洞察し得る範囲内で、その解決法や糸口の一つでも示すことが、一人の末端組織に所属する学会員として責任のある態度と考えている。
 そして、自身ではいまだ確証は得ているわけではないが、あらかたこの方向ではないかと推察できる部分くらいは提示すべきであるという、強迫観念に駆られている。
 教義の重要部分である「師弟不二」については、これまでしばしば述べてきたから割愛する。
 そして、そのアップデートの提案、次には、組織改革の提案などを試みてみたい。教義(ドグマ)については科学的・客観性を担保させる必要があり、これにはポッパーの批判的合理主義などを参考としたい。
 また、組織改革については、会員一人一人のメンタルについての歴史的背景や現在の分析を再度行いながら、提案する必要があると考える。


■師弟不二アップデートの一つの試み

 ためしに、池田大作著「指導集ー質問に答えて」(1967/5/3再版、聖教新聞社、P90—)に述べられている師弟不二の説明を、アップデートしてみる。

「師弟不二とは、師匠と弟子とが不二ということです」は、そういう定義で良い。

 しかし、何をもって師、また弟子とするか最第一に大切である。
 これまで検討してきた日蓮正宗や創価学会の理論や歴史から、まずこの次の定義「師匠は末法の御本仏・日蓮大聖人、すなわち御本尊になります」は、アニミズムに基づく誤りであり、依法不依人という日蓮仏法からも違背する。
 「師匠」――つまり学ぶべき対象――は、あくまで「法」、「法則」(だから永遠に相対的なもの、常に検討されて書き換えられ、アップデートし続ける法則)としなければならない。
日蓮大聖人の仏法も、絶対的な法則ではなくて、あくまで法の一つ・一部分であるという認識である。

「弟子は、日蓮大聖人の仏法を信じ行ずる私たちです」と定義するのは概ねは良い。
 ただし、それは創価学会員に限定されない。これは極めて重要なことである。これがないと「師弟不二」論理に客観性がなくなるからである。
 ちなみに日蓮の遺文には、日蓮の弟子について、客観性があるように述べられている。
「自他彼此の区別なく、水魚の思いをなして」(生死一大事血脈抄)
 また、「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(諸法実相抄)
とあるからである。
 所属団体は関係ないし、一人でも良い。それでなければ科学的客観性が担保できないのである。
 そもそも特定の団体でしかない(創価学会しかない)というのは、その団体への聖視・崇拝が含まれていて、科学的に誤りである。

「師匠の日蓮大聖人も、南無妙法蓮華経を唱えられました。弟子も同じく、妙法を唱えます。すなわち師弟不二であります」「また師匠は広宣流布に邁進あそばされました。弟子も同じく、広宣流布に精進しきる、これが師弟不二・師弟相対の姿です」も、これで良しとしよう。

「日蓮大聖人はまた、師匠は針であり、弟子は糸なりとも申されています」
 これは問題部分である。
 そもそもこの言葉は日蓮の遺文の中にはない。
 これは大石寺第22世日俊の『法華取要抄註記』の中にある言葉で、大石寺第26世日寛に先立つ、処世的なアニミズムのなかでの論理であり、非科学的である。
 科学的客観性を担保するには、法則や原理はポッパーの言うところの、批判を受けいれる余地のある論理でなければならない。
 つまり、師匠はたたき台であり、弟子は批判的検討者でなければならない。
 だから、それにつづく
「師の御金言どおり、生涯、人生を送ること、これ師弟不二であり師弟相対です」
 も、誤りである。
 日蓮の言葉もそもそもその時代(鎌倉時代)に限定されたものである。
この部分は
「師の御金言を常に検討・批判・修正・アップデートしながら、生涯、自己完成への人生を送ること、これ師弟不二であり師弟相対です」
 とすべきである。

「御本尊は、師匠であり、しかも師弟不二ですから、私たちを御本尊と同じ境涯にまでしてくださるわけです」とかあるが、
「私たちを御本尊と同じ境涯」とはおそらく「仏界」だろう。
が、これは全くの誤り、すなわちアニミズム、マンダラ崇拝の論理であろう。
「ただ、大事なことは信心になります」についてはこのままで良い。正しい法則を正しいと、深く信じなければならない。

「主師親の三徳具備の師匠との、相対の実践であり、生活であるがゆえに、人生に憂いなく常に安心です。師弟相対ですから、強く正しい毎日を闊歩していけるのです」とあるが、こんな保証はどこにもない。事実、創価学会や日蓮信者の中にも、人生に憂いや不安が常に伴っている人がいて、俗世の師匠を裏切ったり、犯罪の片棒を担いだりした人もいたではないか。これらは依人不依法のアニミズムを正しい・安心と信じて行じた結果ではないか。

「世界にはあらゆる大学の師、また、各専門分野の師というように、幾千万の師がいます。
 しかし、それらの指導者たちは、覚者ではありません。生命の根本問題解決の師は、仏様以外に絶対にありません」というが、これは、仏を絶対視するアニミズムである。
 実際は、生命の根本問題解決の師は、常に特定の時空(条件)に応じて根本にすべき法則を批判的に検討して行ずる自分自身の生命法則であり、日蓮も、そういう法(鎌倉時代当時の科学的レベルの法)を南無妙法蓮華経と定義し、万人救済・国家安寧の手だてとしたのではないだろうか。

「真実の師匠を知らないか、知っていても従わないがゆえに、世界には不幸と動乱がつづいているのです。その根本解決の師こそ日蓮大聖人であられるのです」とあるが、これも、日蓮を絶対視・崇拝するアニミズムである。

「日蓮大聖人は弘安五年十月十三日に御入滅になりましたが、草木成仏の原理によって、日蓮大聖人の御生命と同じ力をお持ちの一閻浮提総与の大御本尊を残されたわけです。この大御本尊を、信じ行ずることが、師弟不二であり、師弟相対です」について、
この「大御本尊」とは大石寺の板マンダラに相当するが、これに対するアニミズム崇拝、それが師弟不二であり、師弟相対であるという。
 その原理が、草木成仏の原理と称しているが、これを述べた日蓮の遺文「草木成仏口決」の内容を前提としているのであろう。
 草木成仏口決には、当時の仏像へのアニミズムを前提として展開している非情の成仏の論理があるが、具体的に他へ及ぼす物理化学的作用を説いた部分は見受けられない。
 そもそも草木成仏口決自体も、再検討すべき非科学的な部分がある。

「いかなるときでも御本尊を思い浮かべ、題目を唱える、これ常住に師弟不二です」について、これも同様にアニミズムである。
「いかなるときでも御本尊の内容である『法則』に帰命し、題目を唱える」のが正しい行いである。

「組織相対でもない、本部長相対でもない。芸術や学問相対でもない。根本は師弟相対でなくては、いっさいに功徳を与えることはできないのです」とあるが、これも同様である。
 そもそも「功徳を与える」との表現がその間違っているという証拠である。功徳とは、自らの努力で自ら生みだした結果のうち、自らが良いと評価し得た内容である。決して他から与えられるものではない。
 ハッキリ言えば、師弟ではなくて法則である。師弟相対は法則相対、師弟不二は法則不二と言い換えるべきである。

 「今度は、大聖人のおおせを、すなわち仏意仏勅を、果たさんと実践しているのが創価学会です」と主張している。
 こう主張するのは自由(信教の自由)であるが、手前勝手である。
 他にもあるだろう。一人でやっているひともいるだろう。
 他にいないとどうして断定できるのか。
 これを証明することは、故安倍元首相が言及した「悪魔の証明」といわれることに相当する。
 そもそも、無いことを証明することは科学的には不可能であるからだ。
 例えば今世の出自やその後の生涯にわたる様々な不平等・不公平をもたらす因果関係を無視して前世や来世がないことを客観的に証明できる人はいない。
 また、我々の住んでいるビッグバン宇宙以外に宇宙は存在しないことを、一体だれが客観的に証明できるというのか。


「戸田前会長の出現によって、日蓮大聖人の仏法は虚妄にならなかったのです」とある。
 これはまるで、それ以前の日蓮後継者たちすべてを誹謗しているようにも解釈できる表現である。
「御本尊を知ったのも、戸田前会長のおかげです。仏法哲理を理解できたのも、恩師の力です」と続いている。

 そもそも創価学会員以外でも、板マンダラを知った人はいたではないか。創価学会以外でも仏法哲理を理解している人は多くいるだろう。

「日蓮大聖人の仏法を、具体的な一つの教団として、誤りなく仏道修行させていく使命をもつのが、創価学会であり、その師匠が戸田前会長であったのです」と断じている。
 そう言うこと自体は自由であるが、あくまで、たったひとつの教団でしかない。創価学会以外の、他の多くの教団も、その使命を持っていないとどうして断言できるのか。

「御本尊を受けることは簡単です」という。これも問題ありだが、「だが、大聖人のおおせどおりの実践は、自分勝手では、けっしてできません」という。
 そもそも時代遅れの大聖人のおおせどおりの実践などできはしない。それを曲解したのが牧口・戸田の師弟であろう。

「師匠がいて、初めて正しい信心も修行もまっとうできるわけです」とあるが、これも、曲解であり、手前勝手な曲論である。
 ちなみに自分たちが本仏と崇拝する日蓮の世俗での師匠、すなわち清澄寺での修行のときの師匠は道善房であった。すなわち念仏の師匠であった。日蓮は師匠を乗り越えて全国へ遊学したでのはないか。そして師匠の過ちを破折したではないか。

 池田大作は、自分一人が戸田の弟子であると取り繕い演出してきた。
「学会についていく以外に、日蓮大聖人のお心にかなうことは絶対にない、と断言できるわけです」
 こういうのも、悪魔の証明である。
 過去に拙記事でも述べたが、法華経涌出品に出てくる地涌の菩薩の中には、眷属をもたずに独自で弘教をしている人も無数にいたことが述べられているのである。


 したがって、こういった思考・試行からも、師弟不二とは、前ページで述べたごとく、客観性を担保した論理へと定義しなおさなければならないのである。

この取り組みが一朝一夕で成就できるわけではなく、指導者や執行部の変革だけでできるとは到底思われない。それなりに甚大な作業、つまりは努力と時間を要することは明らかである。
 しかし、今迄もこれからも何度も指摘・提案することではあるが、地道に一歩一歩進めて行くしかない。



■諸法実相抄にある広宣流布の方程式

 日蓮の遺文にも以下の通りある。
「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来(この)かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄、御書P1360)

《いかにもこのたびは、この信心をして法華経の行者として貫き通し、日蓮の一門となりとおしていってください。
 日蓮と同意ならば地涌の菩薩だろう。地涌の菩薩であると決まっているならば、釈尊の久遠の弟子であることをどうして疑うことができようか。法華経涌出品第十五の「これらの(偉大な)地涌の菩薩は、私(釈尊)が久遠の昔から教化してきた」とはこのことを意味するのである。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者では、決して性別は関係ない。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることがない題目なのである。はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきた。未来もまたそのように伝えられていくであろう。これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか広宣流布の実現の時は日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするように明らかなことである》(私風現代語訳)


 たとえば、凋落傾向の創価学会組織の変革やその未来について、執行部がどうの、公明党がどうの、○○がどうの、それぞれの立場の人がそれぞれの意見を散見する。
 しかし、結局のところ、この日蓮の遺文にも様々な原理が指摘されている通り、一人ひとり・自身が即身成仏・一生成仏による利他の行動を末端組織の中で遂行していく――つまりは成仏の草の根運動を展開していくことに尽きる。
 その始めは日蓮ひとり、その後二人、三人、百人と広まってきた――つまり、地道に伝わっていく――これは未来の広宣流布の方程式でもある。
「法華経の行者」「日蓮の一門」とは、何度も述べるが、特定の組織や団体にとらわれずに、新たな真実が発見されながら進歩していく時代に合わせて真の日蓮仏法を更新しながら広めていく行者のことである。
 そして、南無妙法蓮華経と唱える人はすべて地涌の菩薩なのであり、性別――現代では多様な性自認(LGBTQを含む、性的指向)――はおろか、所属団体や様々な社会的立場・容態などについては一切云々や差別してはならないのである。
 広宣流布の実現の時は日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とする(大地を的として弓矢を放てば確実に大地にあたる)ように明らかなことである。
 ただ、この遺文の全体を見ないでこの部分だけを特定の団体に事実上所属することに限定するような解釈をすることはよこしまな妄想であって、それを主張すること自体は、御書や日蓮の真意を理解していない愚かなことであろう。
 そしてそのような解釈にこだわり言い張っている限りは、決してそのような手前勝手な広宣流布などは実現できないのである。このことは、凋落傾向の歴史がいみじくも示唆している。

 むろん、かつては創価学会末端組織でも仏法対話として(今はすっかり公明党の票取りにとって代わられたようにみえるが)組織拡大のための「草の根運動」を云々していた。
 真の日蓮仏法による民衆救済――広宣流布は、地道ではあるが、ほんの身近な、自身の即身成仏による利他行動を草の根運動として、凋落局面の組織のなかの一人一人を少しずつ変えていくことが、根本的な解決への道筋と考えられるのである。

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