ラケットちゃん
ラケットちゃんの、日蓮や創価学会の仏法の考察、富士山麓の登山日記、セーラー服アイドルの随筆
P77, 神秘体験に関与する神経学的システム、科学の知見も感情の積み重ねの産物
はじめに、創価学会創立記念日である本日の夕方、創価学会名誉会長の池田大作先生が、3日前の11月15日に亡くなられていたことが発表されました。
池田先生のご逝去を悼み、衷心より哀悼の意を表します。
池田先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
次のページで日蓮仏法の根幹となった日蓮の瞑想を、それが脳内でどのようなシステムで起きたのかを説明するが、その前に、それを理解するために、日常我々が自己や世界を体験しながら生きている上で瞬時も離れず働き続けている、ヒトの脳と心についての解剖学的・生理学的なシステムについて、神経学者アンドリューの著作などを参考に、現在の研究で解明されていることを若干、説明しておきたい。
■脳と心
霊長類の進化において、その持つ脳の認知力も向上し、ついにヒトにおいては、その脳が自分自身を感じ考える(自我を持つ)ようになった。ヒトは、自分の脳が作るあらゆる知覚について考える。自身の頭の中には、個人的な意識や鋭い洞察力を持つ自己がいる。ヒトはこれら、感情や感覚や認知などをまとめて、『心』という現象として捉えるようになった。
ちなみにニホンザル以前の霊長類等にはこの能力はない。これは驚くべきことである。
アンドリュー・ニューバーグは、脳と心の関係について、こう定義し、以下の如く要旨を述べているが私も同じ考えで論を進めたい。
脳にはいろいろな構造があって、協力して感覚入力を変えて、頭の外の世界についての感じを作っていることが分かっている。
われわれの脳には、瞬間的に刻一刻と変化する周囲や環境からさまざまな種類の知覚を、極めて細かい方法で休むことなく持続的に処理している。この能力がなかったら、心の要素となる思考や感情はない。言い換えると脳は、鮮明で洗練された知覚と、心の要素である思考や感情を作らないといけない。
神経学の立場からは、脳がなければ心はないし、脳がある限り心を作る、すなわち脳と心は同じものの二つの面と考えるのが、いちばん合理的である。もし脳と心が別のものと考えるなら、一つのニューロン(神経)の働きも、ニューロン自体とは別々となり、一つの思考でさえ何十万個ものニューロンの複雑な連絡の結果であり、ましてや、脳の全体で起きている調和した神経学的活動の説明は到底不可能である。だから、心は脳を必要とし、脳は心を創造すると考えるのが、一番合理的である。
「『脳とは、感覚、認知、情動に関するデータを収集して処理する物理的な構造の集合であり、心とは、脳の認知過程から生じてくる思考、記憶、情動などの現象である』と定義しよう。
簡単に言うと、脳が心を生み出すのだ。今日の科学では、われわれの心は脳の神経学的な活動の結果として生じてくるとしか考えようがない」
脳と心の関係は、海と波の関係に似ている。波があるためには海水と、海水に形と動きを与えるエネルギーの両方が必要なのと同じように、
「ニューロンの機能と実体のどちらが欠けても心は存在しえない。脳から独立して振る舞う心や、自由に漂う意識があったとしたら、それは『魂』とでも呼ぶべきもので、神経学の対象ではないのだ」
そして我々ヒトは、神秘体験をする可能性がある。そこには生物学的な『脳』と『心』という不思議な現象との不可解な結びつきと、神秘体験を本物だと解釈する能力がみられる。
我々は変性意識状態に入れる。また、我々が感じる現実は、いろいろな神経学的活動の影響を受けている。
そして、神秘体験には自分より大きなものに没入するという共通点があることがわかった。この変性意識状態は、観察可能な神経学的過程と関係している。変性意識状態は、脳の正常な機能の範囲内にある。『神秘体験は、科学的に観測できるリアルな生物学的過程である』
アンドリューは、信仰を生物学的現象として理解するための、宗教行為と脳との関係についての科学文献では、神秘体験を科学的に分析する実験報告や、臨死体験、てんかんや統合失調症、ドラッグや脳への電気的刺激などに関するデータなどがある。科学以外の文献では古代の宗教儀式と脳の進化との関係が興味深い。神秘体験、儀式、脳科学のデータから、『神秘体験は、ヒトの生物学的構造と密接に関係している』。つまり、『ヒトは、生物学的にスピリチュアリティーを追求するようになっているのではないか』という仮説を立てた。
そして彼は、スピリチュアル体験の脳の活動を観察するために、SPECT装置を使った。そのSPECT画像は、宗教的な境地に達したヒトの脳が、仮説が予言するとおりに活動していることを示した。
彼はこの研究からいくつか疑問が出た。「ヒトは、生物学的に神話を作るのか?」「儀式が心にはたらく力は、神経学的にどう説明できるのか?」「偉大な宗教家たちのヴィジョンや洞察は、妄想なのか、正常な知覚なのか?」「性や生殖は、宗教的な法悦を感じる能力の進化に影響したのか?」などの疑問だった。
「宗教体験に共通する生物学的な起源を発見したのか?」。この疑問にイエスと答えるなら、ヒトがスピリチュアリティを追求する本質は、どう理解できるのか?
宗教に懐疑的な人たちは、神との合一やそのあこがれの生物学的な起源は、間違って発火した神経細胞の幻覚として説明できると言う。。
しかしSPECTスキャンは、方向定位連合野が普段と違うがリアルであることを示した。
彼らは瞑想者の脳のSPECT画像を見て、ヒトの脳にはリアルなスピリチュアル体験をする能力があると確信した。被験者ロバートは、瞑想で自分の深いスピリチュアルな要素と一体化し、それが絶対的・普遍的なリアリティーであり、他のすべての存在と結ばれていると言っていた。ヒトには、物質的な自己を超越する能力があるのだ。SPECT画像は、この能力の基礎になる神経学的過程の証拠なのではないか。
神秘体験の基礎には、このような我々の心を作る事実があって、生物学と宗教とをつなぐ深い絆になっている。その本質に迫るには、心の土台となる情動や神経学的要素を脳が作る仕組みについて知っておく必要がある。
■脳のしくみ
ヒトの脳は、高次の認識機能を担う新皮質と、基本的な生命維持システムや情動を制御する皮質下構造に分かれている。新皮質は左右の半球に分かれていて、左脳は分析的で言語や数学的処理に優れているが、右脳は抽象的で全体的で、言語によらない思考や視覚による位置の知覚、感情の知覚・調節・表現に優れている。両半球は脳梁という神経線維束でつながっているが、ここで情報の伝達が単純化されてしまうので、両半球の脳が世界を正確に把握することはできない。
ここが切断されるか機能不全に陥ると分離脳となる。例としてはてんかん発作を防ぐため手術を受けた人々の脳が挙げられる。分離脳患者は、左右の半球に別々の意識(自己)があるように見える。彼の左脳は分析的で言語に優れているが、右脳は抽象的で全体的で、感情や視覚に優れている。彼の両半球は情報を伝えることができないので、脳が世界を正確に経験することはできない。これで判明したことは、ヒトの意識は、両半球の調和的統合から生まれていることである。
ヒトの神経系はニューロンという細胞でできていて、刻一刻と変化する周囲の世界から受けた感覚器官からの神経インパルスを固い頭蓋骨で保護された脳に伝える。脳では、神経インパルスは感覚器官の種類ごとに別々の神経経路に振り分けられて、情報処理領域へと導かれる。最初、第一次感覚野、続いて第二次感覚野、そして連合野などに伝えられる。第一次感覚野と第二次感覚野では、予備的な情報と緻密な情報が取り出される。連合野では、さまざまな感覚器官からの情報が統合されて、意識の基本要素となる豊かで多層的な知覚が生じる。連合野は記憶や情動の中枢とも連絡していて、外界を正しく体系化し、適切に反応することを可能にしている。これらの営みは、脳が生きている限り瞬時も途絶えることがない。
■神秘体験に関する脳の機能
神秘体験に関して脳の重要な働きの部位として視覚連合野がある。
視覚情報は、視神経を経由して脳に伝わる神経インパルスから生じる。脳では、第一次視覚野で取り出された情報を第二次視覚野でふるいにかけられてイメージが完成し、意識される。 それが次に伝わる視覚連合野では、他の感覚器官からの情報や記憶や情動の要素と統合されて、豊かで多層的な知覚が生じる。
ちなみに第一次視覚野に損傷を受けた人々は、視力を失っているのに、無意識のレベルでは視覚情報を感知できる。これを『盲視』という。また、友人や家族や自分自身の顔などを認識できなくなることがある。
視覚連合野は、視覚イメージをともなう宗教的な神秘体験にも深く関与している。視覚連合野に電気刺激を加えると、さまざまな視覚体験をさせられることがあるし、無意識のうちに、ここに貯蔵されているヴィジョンが想起され関連付けられたりしていることがある。
神秘体験に関しては、この視覚連合野のほかに、方向定位連合野、注意連合野、言語概念連合野が重大な関与をしている。
①自分がどこにいるかを知る――方向定位連合野
脳の後頭葉と頭頂葉の境界にある方向定位連合野は、触る感覚だけでなく、見るや聞く感覚も処理して、『身体』の感じを作り、空間での自分の場所を決めている。
つまり自分の身体や物体の位置や方向を認識する機能を担っている。
さらに言えば、方向定位連合野は、自分の身体の一部や全体の感覚像を作り出す「身体像」や、自分の身体と外界の関係を表す「身体スキーマ」を形成するのに重要な役割を果たしている。また、自分の身体や物体の位置や方向を認識するだけでなく、それらを操作するための運動計画や制御にも関与してる。 方向定位連合野が損傷されると、「空間無視」や「空間錯誤」という症状が起こることがある。空間無視とは、自分の身体や視野の一部を無視してしまう現象で、例えば、自分の左半身や左側の物体に気づかなくなったり、左側の文字や数字を読み飛ばしたりすることがある。空間錯誤とは、自分の身体や物体の位置や方向を誤って認識してしまう現象で、例えば、自分の身体の一部が自分のものでないと感じたり、物体の形や大きさを正しく見分けられなかったりすることがある。方向定位連合野は、自分の身体や外界との関係を正しく認識し、適切に行動するために必要な部位である。
この部分は左右の脳半球に一つずつあり、それぞれが違う役割をしながら、協力している。左の方向定位連合野は、身体の形を作り、右の方向定位連合野は、身体がいる周りの空間の感じを作る。つまり、左は自分の感覚を、右は自分の周りの世界を作っているのだ。
自分と他人を区別する詳細過程は判明していない。しかし例えば、左の方向定位連合野には、近い物に反応する細胞と、遠い物に反応する細胞がある。これは、左の方向定位連合野が、自身の手に入るか入らないかで、現実を二つに分けることができるということだ。自分と他人を分けることも、この判別によるという考え方もある。
自分という感覚も、自分が動く世界も、左右の方向定位連合野が一緒に作ったものだということは重要だ。もっとも、自分や世界が感覚から脳内で作られたからといって、自分の身体や周囲の世界がないということではない。ただ、自分を知り、自分と世界を感じるためには、常に脳の働きに頼らなければならないのである。
自分や時間や空間の感覚が変わる神秘体験や宗教体験には、方向定位連合野が関係している。方向定位連合野は、基本的な感覚を作る部分だからだ。
②行動を決める――注意連合野
注意連合野は、脳の前頭葉と頭頂葉にある部位で、専門的には前頭前野という部分で、身体の動きや目標のための行動を制御するのに大事な働きをしている。つまり、物をつかんだり、移動したりする動き、集中したいものや考えに意識を向けたりする働きがある。
自分で行動を決めるのに注意連合野はとても重要で、多くの研究者は、注意連合野が『意志の座』だと考えている。様々なな研究で、この部分が邪魔な感覚を消し、目標に集中させるから、重要なことに集中できることが分かっている。これを簡約化という。雑然としたレストランで本を読んだり、人ごみで夢想したりできるのも簡約化のおかげである。
この部分が傷ついた人は、集中力がなくなり、未来の行動を考えられず、複雑な課題も解決できなくなる。スケジュールを立てたり文章を書いたりすることができない人もいるし、感情や意志がなくなり、外界に興味がなくなる人もいる。観察や画像研究で、この部分を含む前頭葉は感情の処理や制御にも関係していることが分かっている。
ある実験は、何かを数えるとき、声を出す時と出さない時とで脳の活動に違いがあり、声を出す時は、運動野が活発になり、声を出さない時は、注意連合野が活発になることがわかっている。前者は、舌や口の動きを表していると思われ、注意連合野が活発になるのは、動かないで集中しているときである。
別の説明をすれば、注意連合野とは、外界からの刺激や内的な目標に応じて、注意を向ける機能を担っている。注意連合野は、「選択的注意」や「持続的注意」といった、さまざまな種類の注意を制御するのに重要な役割を果たしている。選択的注意とは、多くの刺激の中から、自分にとって重要なものにだけ注意を集中する能力で、例えば、雑音の中で友人の声を聞き取ったり、本を読んでいるときに周りの動きに気を取られなかったりすることである。持続的注意とは、一定の時間にわたって注意を維持する能力で、例えば、試験や仕事などに集中したり、長い会話や講義についていったりする。
注意連合野が損傷されると「注意欠陥」や「注意散漫」という症状が起こることがある。注意欠陥とは、自分にとって重要な刺激に注意を向けることができない現象で、例えば、話を聞いている最中に他のことに気がいったり、物事に飽きやすくなったりすることがあります。注意散漫とは、注意を維持することができない現象で、例えば、物事に集中できなかったり、忘れ物やミスが多くなったりすることがある。
注意連合野は、自分の意思や目標に応じて、注意を調整するために必要な部位なのである。
そして、注意連合野は、いろいろなスピリチュアル体験にも関係している。脳画像研究で、瞑想している人の脳では、注意連合野が活発になっていることが確認された。他の研究でも、注意を続けているとき前頭葉の電気的活動に変化があることや、座禅をしている人で特に大きいことなどが分かっている。
集中が最高になったときの脳電図は今のところ一つしかない。集中するのは難しいし、測定装置につながれたらもっと難しい。この脳電図を見ると、注意連合野と方向定位連合野に変化があることが分かる。
宗教行為で注意連合野が活発になるのは、感情に深く関わっているからかもしれない。神秘体験は、強い感情を伴うことが多い。だから、瞑想中や神秘体験中の人の脳では、注意連合野は、感情の基礎となる他の部分と重要な相互作用をしていると思われる。
ここは前頭前野と言われる部位でもあるが、注意連合野とはどう違のか。
前頭前野は、大脳皮質の前頭葉の前方にある連合野で、精神活動(知能や情緒)に関わる機能を担っている。前頭前野は、外側部、内側部、眼窩部の3つに分けられ、それぞれが認知・実行機能、社会的行動、情動・動機づけ機能などに関与している。意図的な行動や目標達成のために、注意や計画、判断、自己抑制などを行っている。
注意連合野は、前頭前野の一部で、特に外側部の前方に位置する領域である。注意連合野は、注意や集中、反応抑制、行動の切り替え、ワーキングメモリーなどの認知・実行機能に重要な役割を果たしている。注意連合野は、「意志の座」とも呼ばれ、自分の意図に基づいた行動を選択し、実行することができる。
つまり、前頭前野と注意連合野の違いは、前頭前野が精神活動の機能全体を担っているのに対し、注意連合野がその中でも特に注意や集中に関わる機能を担っているということだ。前頭前野と注意連合野は、互いに密接に連携して、人間らしい活動を行うために必要な機能を提供しているのである。
③言葉と概念で世界を分ける――言語概念連合野
側頭葉、頭頂葉、後頭葉の境目にある言語概念連合野は、主に、抽象的な考えを作ったり、言葉とつなげたりする働きをしている。概念を比較し、対立する概念を整理し、物や種類に名前をつけたり、文法や論理を使ったりするこの部分は、言語の使い方や理解に必要な認知作用のほとんどを担っていて、意識の出現と、意識の言語化にとって不可欠な部分である。
当然、言語概念連合野は、精神機能全体に大きな影響を与えていて、宗教体験にも関わっていると思われる。ほとんどの宗教体験には認知的・概念的な要素があって、それを考えたり、理解したりできるからだ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校のV・S・ラマチャンドランは、側頭葉てんかんの人が、宗教の言葉や、宗教に関係する言葉に強く反応すると述べている。この発見は、側頭葉が宗教的な神秘体験で重要な働きをしていることを示している。さらに、この部分には、因果的思考という大事な働きもある。因果的思考は、神話を作ったり、儀式で神話を表したりするのに必要な働きである。
言語概念連合野は、言語中枢と呼ばれることもある。言語中枢は、言語に関与する脳の部位で、ブローカ野やウェルニッケ野などの他の領域とも密接に連携している。
さらに詳しく説明すれば、抽象概念の生成、言語と概念の結びつけ、概念の比較と整理、文法と論理の適用など、様々な働きをしている。
抽象概念の生成――具体的な感覚や記憶から、一般的な特徴や関係性を抽出して、抽象的な概念を生成する。例えば、「赤い」という概念は、赤い色を持つさまざまな物体から、色という属性を抽出して作られる。抽象概念は、思考や理解の基礎となる。
言語と概念の結びつけ――抽象概念に対応する言語記号(単語や文など)を選択し、概念と結びつける。例えば、「赤い」という概念に対して、「red」という単語を選択し、概念と単語を結びつける。言語と概念の結びつけは、言語の表現や理解に必要である。
概念の比較と整理――複数の概念を比較し、類似性や差異性を評価する。例えば、「赤い」と「青い」という概念を比較し、色という属性では類似しているが、波長という属性では差異があると評価します。言語概念連合野は、また、相対する概念を整理し、対立や階層などの関係を構築する。例えば、「赤い」と「青い」という概念を対立する色として整理し、「色」という概念の下位に位置づける。概念の比較と整理は、思考や理解の深化に必要である。
文法と論理の適用――オペレーター言語記号に対して文法と論理の規則を適用し、正しい言語表現や推論を行う。例えば、「赤い」と「青い」という単語に対して、形容詞という品詞の規則を適用し、「赤い花」と「青い空」という正しい言語表現を作る。また、「赤い花は美しい」と「青い花は美しい」という命題に対して、論理和という論理の規則を適用し、「赤い花か青い花は美しい」という正しい推論を行う。文法と論理の適用は、言語の表現や理解の正確さに必要である。
言語概念連合野は、この四つの主な働きを通して、言語の利用と理解に関わっていて、人間の高度な精神活動にとって重要な部分である。
以上、四つの連合野は、神経学的にはとても複雑な構造を持っている。我々が感じる現実が明確で、全体としてつながっていて、流れがスムーズで、その流れを理解できるのは、連合野の働きがあるからだ。もちろん、感覚が完全になればなるほど、生き残る確率も高くなる。
自己を知ることに関わっている脳の部分は、これら以外にもいくつかある。例えば、以下にあげる部分である。
扁桃体:情動的な表情や刺激に反応する機能がある。自己の感情や共感にも関係している。
側頭極:顔や声などの社会的な情報を認識する機能がある。自己の記憶や自己認識にも関係する。
これらの脳の部分は、互いにネットワークを形成して、自己を知ることや他者を理解することに貢献している。自己を知ることは、社会的な交流やコミュニケーションを円滑にするために必要な認知機能の一つである。
■脳の感覚と意識のしくみ
「魂の力は、被造物に触れるたびに、被造物から作られた像や似姿を受け取り、それを吸収する。魂は、このようにして、被造物についての知識を得る。被造物は、魂にこれ以上は近づくことができず、魂は、像を自発的に受け取ることによってのみ、被造物に近づくことができる。魂は、像の存在を介して、創造された世界に近づく。なぜなら、像は、魂がそれ自身の力を用いて作るものであるからだ。魂が、石の、馬の、人間の本質を知ろうとするとき、それは像を作っているのだ。(マイスター・エックハルト)」
これを引用して、アンドリューは、こう論じているが私もこう考える。
中世ドイツの神秘家マイスター・エックハルトは、神経学が生まれるずっと前に、この学問の基本原理の一つを直観していた。
それは、『われわれが現実だと思っているものは、脳が作る現実の解釈にすぎない』という原理である。
つまり、そのままの形で意識に入るものはなんらなく、現実を直接的、客観的に感じることはできないのだ。
同じ論理は、量子論の先駆者シュレディンガーの著作「精神と物質」の中でも述べられている。
われわれの心が感じる思考、感情、予感、記憶、洞察、欲望、啓示などはすべて、脳の情報処理の結果である。
脳は、先述した通り、たくさんの神経インパルスや感覚知覚、脳のいろいろなところで認知された要素などを組み合わせることで、これらを作っている。
われわれが感じる現実、つまり、われわれの経験のすべてが、客観的にリアルなものやそうでないものの『間接的』な表現だということは、人間の真実や、スピリチュアル体験の本質に対して、深い疑問を投げかける。
例えば、アンドリューたちがチベット仏教徒やフランシスコ修道会の修道女の協力で行った実験によって、彼らのスピリチュアル体験が、科学的に観測できる神経活動と関係していることが分かったが、この結果の意味は、現実の感じ方の間接性についてどう考えるかによって変わる。還元主義者は、実験で、宗教体験が想像の産物であり、神が『心の中にいる(つまり、心の中にしかいない)ことが証明されたと思うかもしれない。しかし、この結果を、脳と心が現実を作り、感じる方法についての知見と合わせると、違う解釈ができる。
■ アップルパイのリアリティーと、神のリアリティー
たとえば、あなたが大好物のアップルパイを食べているところを想像してみよう。パイの情報は、あなたの感覚器官から入って神経インパルスになって、脳のいろいろな領域で処理されて知覚ができる。視覚中枢はパイの色を、嗅覚中枢はパイの香りを、触覚中枢はパイの食感を、味覚中枢はパイの味をそれぞれ感じて、これらが合わさってはじめて、『アップルパイを食べる』というあなたの体験となる。
ここで、あなたの脳で起きている神経活動を、SPECTスキャンで見てみる。PCモニタに出た明るい色の点は、パイを食べるという経験が、本当にあなたの『心の中にある』ことを示している。
しかし、パイが現実にないとか、パイのおいしさがリアルでないという意味にはならないことは、お分かりだろう。
同じように、瞑想中の仏教徒や祈りをする尼僧たちの宗教的な神秘体験が、観測できる神経活動と関係していることが分かったとしても、その体験がリアルでないことの証明にはならないのだ。
神は確かに、概念としても現実としても、脳と心の能力を通して感じられ、心の中にしかいない。しかし、アップルパイを食べるような普通の体験についても、それは同じなのだ。
逆に、皿の上のアップルパイのように、神が本当にあって、あなたの前に現れたとしても、あなたは、『神経活動が作る現実の解釈』以外の方法で神を感じることはできない。神の顔を見るには視覚が必要だし、恍惚になったり、畏怖に満ちたりするには情動が必要だ。神の声を聞くには聴覚が必要だし、メッセージを理解するには認知が必要だ。神からのメッセージが、言葉じゃなくて、神秘的な方法で来たとしても、その内容を理解するにはやっぱり認知が必要だ。
だから、神経学の立場からは、『神があなたに来るとき、その道は、あなたの神経回路しかない』と断言できる。
現段階ではスピリチュアル体験の本質は分からない。我々は、本当にある現実を感じているのかもしれないし、神経活動を解釈しているだけなのかもしれない。
どちらにしても、我々が現実として体験していることで意味があることは全部心の中で起きている。つまりは我々の心は、神秘家になれるようにできている。ヒトがそう進化した理由は不明である。しかし、自律神経系や大脳辺縁系、脳の分析機能などの基本的な部分や働きの中に、その神経学的な根を見つけることはできる。
■ 興奮か抑制か! 二系統の自律神経系
我々脊椎動物の神経系は、中枢神経系と末梢神経系に分かれる。中枢神経系は脳と脊髄で、末梢神経系は体の各部と中枢神経系をつなぐ。末梢神経系は、随意運動や体性感覚に関わる体性神経系と、呼吸や消化などを調整する自律神経系に分かれる。
自律神経系は、脳の支配から独立して働くと思われていたが、実際には、脳の情報を利用して生体の機能を調整したり、感情や気分を生じさせ上下させたりする。 自律神経系は、交感神経系と副交感神経系という二つの部分からできていて、多くの器官はその両方の支配を受ける。
交感神経系が活性化すると、体はエネルギーを利用して活動しやすくなる。危機や好機に対応するときに交感神経系が活性化する。ここでは交感神経系と関連する脳や副腎などを「興奮系」と呼ぶ。副交感神経系が活性化すると、体はリラックスし、エネルギーを蓄えやすくなる。眠気や消化などを促進する。ここでは、副交感神経系と関連する脳の部分を「抑制系」と呼ぶ。
興奮系や抑制系の活動が最大になったとき、もう一方の系統を活性化させ、変性意識状態を誘発することがある。
この変性意識状態は、身体・精神活動に没頭するときや、儀式や瞑想などの宗教行為によって誘発することができる。
ここで、自律神経系が宗教体験を構成する要素ではないかと推測されるのである。
そこで、自律神経系の状態を四つに分類して、変性意識状態を理解し、自律神経系と宗教体験との関係を探ることにした。
①深い眠りのような――超抑制状態:極端にリラックスした状態で、無限の平和と至福を感じる。
②空中戦におけるパイロットのような――超興奮状態:大量の興奮刺激によって気分が高揚し、意識が研ぎ澄まされる状態で、巨大なエネルギー源につながっていると感じる。
③至福とエネルギー――興奮系の活性化をともなう超抑制状態:抑制系の活動が極端に強まると、かえって興奮系が活性化する状態で、大いなる至福感とエネルギーが充満した感覚を経験する。
④クライマックス――抑制系の活性化をともなう超興奮状態:興奮が最高レベルに達したときに、抑制系が活性化する状態で、オルガスムなどのエネルギッシュな恍惚を感じる。
自律神経系は、脳の情動をつかさどる部位と密接に関係していて、宗教体験を構成する重要な要素なのではないかと推測される。
■ 情動をつかさどる脳大脳辺縁系
感情を司る脳の構造である大脳辺縁系には、視床下部、扁桃体、海馬という三つの主な部分がある。
視床下部は、脳幹の上端付近にある最も古い構造で、自律神経系の主要制御装置として機能している。自律神経系は、交感神経系と副交感神経系の二つの部分から成り立っており、体の機能を自動的に調節している。ここは、交感神経系と副交感神経系のバランスをとりながら、恐怖や喜びなどの原始的な情動を喚起し、調節している。
また、視床下部は、脳からの指示を自律神経系に伝えたり、自律神経系からの神経インパルスを脳に伝えたりすることで、脳と身体の連結を担っている。
視床下部の活動は、ホルモンの分泌にも影響を与える。瞑想などの宗教行為によって、視床下部で調節されるホルモンの分泌が変化することが確認されている。
扁桃体は、側頭葉の中央部分にある構造で、視床下部と同様に原始的な器官で、脳が受ける膨大な量の感覚刺激の中から、生存に関わる好機や危機の存在を示唆する重要なものを嗅ぎ出して、注意を向けさせる。
扁桃体が興奮系を活性化させると、心拍数が上昇したり、恐怖を感じたりするようになる。
扁桃体は、愛情や友情などの微妙な感情も弁別し、表現できるようになっている。
海馬は、側頭葉の扁桃体のやや後方にある構造で、扁桃体の活動に大きく影響されている。
海馬は、感覚刺激と記憶や学習とを結びつける機能を持っている。
また、海馬は、視床下部を通じて、自律神経系の反応を調節したり、脳の他の部位への感覚入力の流入を遮断したりすることができる。海馬は、情動を喚起することはないが、情動の調節には重要な役割を果たしている。
大脳辺縁系は、日常的な知覚に関与するだけでなく、宗教体験やスピリチュアル体験にも関与している。
宗教体験やスピリチュアル体験は、神や超越的な存在との合一や交流を感じたり、自分の意識や存在が変化したりするような体験である。
大脳辺縁系に電気刺激を与えると、夢のような幻覚や外界離脱体験などを引き起こすことがある。これらは、宗教体験やスピリチュアル体験の際にも報告されている現象である。
大脳辺縁系は、脳の高次の精神機能にも影響を及ぼしており、思考や視点の基礎になっている。
■ 認知オペレーター
アンドリューは、これらの認知オペレーターが、宗教的や霊的な体験に影響を与えると考えた。例えば、観察オペレーターが強化されると、神や超越的な存在を感じることができる。また、認知オペレーターの働きは、個人の信仰や実践によって変化するとも考えた。彼は、神経画像や脳波などの科学的手法を用いて、認知オペレーターの働きを測定しようと試みた。
アンドリューは自著「脳はいかにして〈神〉を見るか――宗教体験のブレイン・サイエンス」2003/3/28、PHP研究所、P77-84には、脳が自己や世界を認識・分析するシステム「心が機能する癖のようなもの」を認知オペレーターと定義し、以下の8つを挙げいる。
アンドリューは、これらの認知オペレーターが、宗教的や霊的な体験に影響を与えると考えた。例えば、観察オペレーターが強化されると、神や超越的な存在を感じることができる。また、認知オペレーターの働きは、個人の信仰や実践によって変化するとも考えた。彼は、神経画像や脳波などの科学的手法を用いて、認知オペレーターの働きを測定しようと試みた。
その8つの認知オペレーターを、私なりに説明を加えた。
「①木の集まりは森である――ホリスティツク・オペレーター」
世界を構成する多くの要素を、ひとつのまとまりとして見ることができるのが、ホリスティック(全体論的)・オペレーターという心の働きである。例えば、樹皮や葉、枝などを見て、それが木だとすぐにわかるのは、この働きのおかげだ。この働きは、右脳の上の方で起こっていると考えられている。
すなわち、ホリスティツク・オペレーターは、物事をより単純な要素に分解するのではなく、全体として捉えて理解することができる心の機能である。この機能は、現実を理解する強力な道具で、物事の本質や関係を見つけたり、新しい概念や言語を作ったりすることを可能にする。脳の右半球の頭頂葉に関係していると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事の還元や統合を正しく行えなくなる。ホリスティツク・オペレーターは、物事の還元や統合を表現する方法として、芸術や音楽や詩などの概念を利用する。
「②森は木の集まりである――還元オペレーター」
全体を構成する要素に分けて見ることができるのが、左脳の分析的な働きによる還元オペレーターという心の働きである。この働きのおかげで、われわれは地球環境の一部としての局所的気候について考えることができる。
すなわち、還元オペレーターは、物事をより単純な要素に分解して、その性質や構造を理解することができる心の機能である。この機能は、現実を分析する強力な道具で、物事の本質や関係を見つけたり、新しい物事を作ったりすることを可能にする。この機能は、脳の左半球の頭頂葉に関係していると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事の還元や統合を正しく行えなくなります。還元オペレーターは、物事の還元や統合を表現する方法として、数学や論理学やプログラミングなどの概念を利用する。
「③心の分類学者――抽象オペレーター」
左脳の甄頂葉の働きによる抽象オペレーターは、事実から一般的な概念を作ることができる。たとえば、いろいろな犬を見て、「犬」というカテゴリーを作るのは、この働きのおかげだ。カテゴリーができると、脳の別の部分がそれに「犬」という言葉をつけることができる。抽象オペレーターがなければ、概念や思想に名前をつけられない。
抽象オペレーターには、もっと複雑な働きもある。それは、事実の間の関係に気づかせる働きだ。科学理論や哲学的仮定や信仰や政治的理念など、事実に基づいているけれども事実ではない概念は、抽象オペレーターの働きから生まれているといえる。
すなわち、抽象オペレーターは、物事の共通点や特徴を抽出して、一般化や分類をすることができる心の機能である。この機能は、現実を理解する強力な道具で、物事の本質や関係を見つけたり、新しい概念や言語を作ったりすることを可能にする。この機能は、脳の前頭前野や側頭前野などの部位に関係していると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事の抽象化や具体化を正しく行えなくなる。抽象オペレーターは、物事の抽象化や具体化を表現する方法として、数学や論理学などの概念を利用する。
「④数学的な心――定量オペレーター」
定量オペレーターは、見たものから量を出すことができる。数学の問題だけでなく、生きるための問題にもこの機能が必要だ。「食糧はどのくらいあるのか」「敵はどのくらいいるのか」などは、定量オペレーターの役割である。また、時間や距離を計ったり、物や事を順番に並べたりするときにも、数学的な処即が必要だ。定量オペレーターの機能は、遺伝子に入っていて、赤ん坊でも、足し算や引き算などの数学の基本をわかるという研究がある。
すなわち、定量オペレーターは、物事の量や数を理解することができる心の機能である。この機能は、現実を計測する強力な道具で、物事の大きさや重さや速さなどを推定したり、比較したり、計算したりすることを可能にします。この機能は、脳の頭頂葉や側頭葉などの部位に関係していると考えられています。この部分が傷ついた人は、物事の量や数を正しく認識できなくなる。定量オペレーターは、物事の量や数を表現する方法として、数学や統計などの概念を利用する。
「⑤なぜ? どうして?――因果オペレーター」
因果オペレーターは、世界を原因と結果のつながりとして見ることができる。事象に原因があるかどうかを判断し、原因があれば、その内容を予想し、特定する。例えば、呼び鈴が鳴ったら、誰かが来たと思うのは、因果オペレーターの働きだ。呼び鈴が鳴るのは当たり前と思うかもしれないが、脳が正しく処理しなければ、そうは思えない。脳の因果関係の処理に関わる部分が傷ついた人は、単純な事象の原因もわからなくなる。玄関で呼び鈴が鳴っても、どうすればいいか分からない。
因果オペレーターのおかげで、われわれは、事象に興味を持ち、面白い事物や自分と関係がある事物の原因を探す。科学や哲学や宗教など、宇宙の謎を解こうとする努力の背後には、因果オペレーターの働きがある。
すなわち、因果オペレーターは、物事の間にある因果関係を理解することができる心の機能である。この機能は、現実を分析する強力な道具で、物事の原因と結果を推論したり、仮説を検証したり、介入や実験を行ったりすることを可能にする。この機能は、脳の前頭前野や側頭前野などの部位に関係していると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事の因果関係を正しく認識できなくなります。因果オペレーターは、物事の因果関係を表現する方法として、有向非巡回グラフやポテンシャルアウトカムなどの概念を利用する。
「⑥「これ」対「あれ」――二項対立オペレーター」
二項対立オペレーターは、この世界を対になる単純な概念に分けて、物事の本質を見ることができる。この機能は、現実を整理する強い道具で、物質的な世界で、自信を持って、効果的に動くことを可能にする。
原因の存在と同じで、対になる概念の存在は、当たり前のことと思うかもしれないが、因果オペレーターの機能がなければ原因を推測できないように、二項対立オペレーターの機能がなければ、「……ではない」という観点から物事を定義できない。二項対立オペレーターの機能は、下頭頂葉の活動から生じていると考えられていて、この部分が傷ついた人は、事物や言葉を提示されたとき、それと対になる物や言葉をあげられない。彼らは、「ボーリングのボールとビー玉とはどこが違うか?」と聞かれると、困ってしまう。なぜなら、「……より重い」「……より小さい」などの考えは、彼らの心にないからだ。二項対立オペレーターは、物理的な世界と観念的な世界との区別にも関わっている。
すなわち、二項対立オペレーターは、物事を対になる単純な概念に分けて理解することができる心の機能だ。例えば、「上」と「下」、「内」と「外」、「左」と「右」、「前」と「後」などである。この機能は、現実を整理する強い道具で、物質的な世界で自信を持って効果的に動くことを可能にする。この機能は、脳の下頭頂葉の活動から生じていると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事を対になる概念で定義することができなくなる。二項対立オペレーターは、物理的な世界と観念的な世界との区別にも関わっている。
二項対立オペレーターは、現代文の読解や解答にも役立つ。 二項対立オペレーターを意識することで、筆者の主張や対立する立場を読み取りやすくなる。また、二項対立を踏まえて解答することが求められる場合もある。さらに、二項対立についてあらかじめ知識があれば、文章の展開をある程度予想できる。よくある二項対立の例としては、「東洋と西洋」、「伝統と新しい価値観」、「自然と人間」などが挙げられます。これらの二項対立は、文化や社会における諸問題や現象を考える際によく用いられる。
⑦出口なし――実存オペレーター
実存オペレーターは、感覚情報に存在感や現実感を与える。実存オペレーターの存在は、最近の研究の結果で裏づけられている。
ある研究では、赤ん坊にボールを左から右に転がしてみせ、反応を観察した。テーブルの右端にはついたてがあって、ボールはついたての下で見えなくなる。すぐに、ついたてを取り去って、ボールの状態を赤ん坊に見せる。第一の状態では、ボールは少し先で止まっている。第二の状態では、箱があって、ボールは箱の左側で止まっている。第三の状態でも箱があるが、ボールは箱の右側で止まっている。
三種類の状態に対する赤ん坊の反応を観察した研究者たちは、第三の状態で、赤ん坊がボールを見つめる時間が長くなっていることを確認した。彼らはこれを、第三の状態が普通には起こり得ないことを赤ん坊が理解している証拠だと主張する。現実のボールが現実の箱を通り抜けるはずがない。赤ん坊は、現実の堅固さを生まれつき知っているのだ。
現実体験には、情動が重要だ。だから、実存オペレーターの一部は、大脳辺縁系にあると思われる。でも、現実感を抱くには、感覚的な要素も必要だ。われわれは、手で触れたり、耳で聞いたり、鼻で匂ったり、舌で味わったり、目で見たりして、それが現実だと判断する。このことから、実存オペレーターは、感覚連合野の機能も、一部、使っているのかもしれない。
すなわち、実存オペレーターは、感覚情報に存在感や現実感を与える心の機能だ。この機能によって、私たちは自分がこの世に存在することを認識し、物事の本質や堅固さを理解できます。実存オペレーターの機能は、脳の大脳辺縁系や感覚連合野などの部位に関係していると考えられている。この機能が損傷されると、物事の対になる概念や関係を把握できなくなったり、現実と観念の区別がつかなくなったりする。実存オペレーターは、人間の自覚存在や主体性にも関わっている。
⑧出来事を感じる――情緒的価値判断オペレーター
認知オペレーターは皆、われわれヒトが、人間らしい方法で世界を解釈し、生きるのに役立っている。われわれを取り巻く世界は、たくさんの要素からできている。われわれが、これらの要素の量や秩序や原因や全体や対や集合体として理解できるのは、認知オペレーターのはたらきがあるからだ。でもこれらは、脳が知覚した内容を解釈しているだけで、そこに情緒的な価値判断は入っていない。
情緒的価値判断オペレーターは、我々が知覚し、認識する要素の一つ一つに情緒的な価値をつけ、動機づけをする。このオペレーターがなければ、世界を理解し、効率的に分析することはできるが、それだけでは高性能のロボットと同じだ。恐怖や喜び、生きることへの意欲などの動機づけがなかったら、ヒトという種が今日のような成功をおさめることはなかっただろうと言われている。
アントニオ・ダマシオが『出来事を感じる』という著書で論じているソマティック・マーカー仮説からも、情緒的価値判断オペレーターの重要性はよく分かる。ダマシオは、ヒトが物事を吟味したり、理性的に思考したりする際、感情が非常に大きな役割を果たしていると主張する。このはたらきがなかったら、ヒトは、友人を求めたり、配偶者を欲したり、子供を愛したりしなくなるだろう。我々の脳は、こうした重要な行動に高い情緒的価値を認めることで、生きることへの情熱を守っているのだ。
つまり、情緒的価値判断オペレーターの機能は、我々の心の中にある強力な道具であり、我々は、この機能を使って、自分の存在や物事の意味を感じている。この機能がなければ、私たちは、ただのAIのついた機械と同じだ。
■我々は理性で把握し、感情で決断・行動する
我々は日常、周囲の状況を把握し、自身の信念や自我に基づいて様々な行動を行なっている。その行動の選択に最終的に関わっているのが情緒的価値判断オペレーターであると思われる。これは右脳が主に担当する感情を司る機能であるが、つまりは我々は、当初は主に理性で把握し、最終的には感情で決断・行動しているのだ。
後述するシュレディンガーの論述にも関わるが、最先端科学の発展に貢献している研究者たちさえ、その判断するのは人間の脳であるから、客観的論理さえ、感情の産物の蓄積といえるのであり、物事の正邪善悪・高低浅深を理性で判断できても、その行動を変えることが容易でないのは、こうした我々の脳のしくみに基づいているからである。
反社会的集団やカルト宗教からのマインドコントロールから脱却することが容易でないのも、依存症の治療がうまくいかないことも、依存症を成り立たせている共棲関係やその組織・団体から脱却するのが困難なことこうした脳のシステムが大いなる原因なのである。
■さらなる認知オペレーター
認知オペレーターは、さらに、アンドリュー・サルターの知見等を参考に、以下のようなものも追加で考えることができる。
脳の認知機能は複雑多岐にわたっており、この概念は、もっと追加できるものであろう。
観察オペレーター:外界からの刺激や内的な感覚を観察し、記憶や知識と結びつける。
理解オペレーター:観察した情報に対して、意味や価値を与える。
評価オペレーター:理解した情報に対して、論理的や感情的な判断を行う。
実行オペレーター:評価した情報に基づいて、行動や言語を選択し、実行する。
観察オペレーターは、物事を注意深く見て、その特徴や変化を理解することができる心の機能で、現実を知る強力な道具である。物事の原因や結果を推測したり、仮説を検証したり、学習したりすることを可能にする。この機能は、脳の後頭葉や側頭葉などの部位に関係していると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事の観察や記憶を正しく行えない。観察オペレーターは、物事の観察や記憶を表現する方法として、図や写真や言語などの概念を利用する。
理解オペレーターは、物事の意味や目的を理解することができる心の機能である。この機能は、現実を理解する強力な道具で、物事の本質や関係を見つけたり、新しい概念や言語を作ったりすることを可能にする。この機能は、脳の前頭前野や側頭前野などの部位に関係していると考えられている。この部分が傷ついた人は、物事の理解や表現を正しく行えなくなる。理解オペレーターは、物事の理解や表現を行う方法として、論理学や哲学や文学などの概念を利用する。
評価オペレーターは、物事に対して価値判断をすることができる心の機能であり、現実を評価する強力な道具である。物事の良し悪しや重要度を判断したり、自分の感情や意見を表現したりする。この機能は、脳の前頭前野や側頭前野などの部位に関係していると考えられ、この部分が傷ついた人は、物事の評価や表現を正しく行えない。評価オペレーターは、物事の評価や表現を行う方法として、論理学や哲学や倫理学などの概念を利用している。
実行オペレーターは、外部のプログラムやコマンドを実行することができる心の機能で、現実を操作する強力な道具である。物事の変化や結果を確認したり、新しい物事を作ったりすることを可能にする。この機能は、脳の前頭前野や側頭前野などの部位に関係していると考えられてる。この部分が傷ついた人は、物事の実行や制御を正しく行えない。実行オペレーターは、物事の実行や制御を行う方法として、プログラミングやシェルコマンドなどの概念を利用する。
■科学の知見も、感情の積み重ねの産物
1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱し基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、シュレーディンガーの猫を提唱するなど、最先端物理学である量子力学の発展を築き上げたことで有名なエルヴィン・ シュレディンガーは、それだけでなく、我々の精神的な心、神秘体験についても深い考察をし、科学と宗教のどちらも包含する統一理論の形成を試みた。
彼の著「精神と物質」(1987/8/12、工作舎)には、
観測された事実と科学的理論について、論及している。(コメント1)
「私たちが最後に得た理論的な描像は、直接の知覚を通して得た諸々の情報の複雑な配列に、まったくよりかかっております」(同書P152-153)
「自然科学のすべての知誰は知覚に基づいているということ、そして、それにもかかわらず、このようにして得た自然の過程に対する科学的な観点には、感覚的性質というものが欠如しており、したがってこれを説明できない…観察されたことがらは、常に感覚的な性質に依存しているものですから、理論はこのような感覚的性質を説明してくれると安易に考えてしまうのです。しかしながら、理論は決して感覚的性質を説明するものではありません。」(同書PP144-145)
すなわち、我々は、目で見たり耳で聞いたりすることで、現象について知ることができるが、それだけでは、現象がどうして起こるのか、その理由や法則を知ることはできない。だから、私たちは、目や耳で得た情報をもとに、現象を説明する理論を作る。理論は、情報を整理したりつなげたりするものだが、情報そのものを含んでいるわけではない。我々は、理論を使って現象を理解しようとするが、そのときには、理論が情報に基づいているということを忘れがちである。例えば、光が波であるという理論は、実験の結果から導かれたものであって、誰かが勝手に考えたものではないということを、我々は覚えておくべきである。
こうして一般に自然科学では、我々は目や耳などの感覚器官で自然の現象を観察し、現象の原因や法則を見つけるために、理論というものを作る。理論は、観察した事実を整理したりつなげたりするものだが、観察した事実そのものではない。理論を作るときには、たくさんの事実を覚えておくのは大変だから、科学者は、元の事実を省いたり、学術用語で置き換えたりする。これは、事実を覚えやすくするために便利だが、観察と理論の違いを忘れてしまう危険がある。観察した現象は、色や音などの感覚的な性質を持っているが、理論は、そのような感覚的な性質を説明できないのである。
つまり、アンドリューが、神秘現象が脳内で起こる神経学的反応によって説明できると述べているのと同じように、最先端物理学や自然科学で更新し続ける理論や法則も、常に我々の感覚・知覚からえた「心」によって作られているものなのだ。
この事実を洞察した古代の人として、彼は紀元前五世紀のデモクリトスをあげているが、多くの東洋の神秘家たちが洞察していた内容にほぼ共通していることなのである。
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1.
コメント
「現象を直接知覚しても、その客観的な理的性質(通常私たちがそう呼んでいるもの)に関してはなんら得るものはありませんし、直接的な知覚は最初から情報源としては見すてられているのであります。にもかかわらず、私たちが最後に得た理論的な描像は、直接の知覚を通して得た諸々の情報の複雑な配列に、まったくよりかかっております。
要するに私たちの描像はそのうえにあり、それらをつなぎあわせたものなのですが、本当にそれらを内包しているとは言えません。私たちが通常そのような描像を用いるときには、この事実を忘れてしまっております。ただし、光の波動という考えが、変り者の偶然の発明ではなく、実験に基づいたものだと思われているような、一般的な事例は別であります。」
シュレディンガー著「精神と物質」、1987/8/12、工作舎P152-153
「自然科学のすべての知誰は知覚に基づいているということ、そして、それにもかかわらず、このようにして得た自然の過程に対する科学的な観点には、感覚的性質というものが欠如しており、したがってこれを説明できないということなのであります。一般的な論評をもって結論を申しあげましょう。
科学的な理論は、私たちが観察や実験で発見したことがらを概観するのに役立ちます。科学者は誰でも、諸々のか実につきまして、それをまとめたなんらかの理論的な描像ができあがるまでは、かなり多量な事実を頭に納めておくのがなんと困難なことかよく知っております。したがいまして、次のことはちょっとした驚きでありますが、しかし元の論文や著書を小いた著者が決して責められてはならないことであります。論理的で首尾一貫した理論ができあがってからは、著者たちは、発見された
元の事実や、読者に伝えたいそのままの事実については記さずに、これらの事実をその理論や他の理論の学術用語のなかにおおいくるんでしまうのであります。このようなやり方は、うまく順序だてられたパターンとして事実を記憶しておくのに有用なのですが、実際の觀察と、それを元にして築いた理論との区別を消し去ってしまうことになるでしょう。観察されたことがらは、常に感覚的な性質に依存しているものですから、理論はこのような感覚的性質を説明してくれると安易に考えてしまうのです。しかしながら、理論は決して感覚的性質を説明するものではありません。」
(シュレディンガー著「精神と物質」、1987/8/12、工作舎P144-145)