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P79, 日蓮の見逃し,一なるものへの合一,神経神学の成果,瞑想のレベル,神話の形成,儀式の意味

■神経神学

 神経学者アンドリュー・ニューバーグは、fMRIなどの技術を使って、瞑想や祈りなどのスピリチュアルな行為が脳に与える影響を調べ、宗教体験や神秘体験の脳科学的な解明に取り組んでいる。
 彼の見解によると、宗教的体験は、方向定位連合野を中心とする脳の特定の部位の活動の変化によって引き起こされる現象であり、幻覚ではなく、測定可能な真実である。
 彼は、fMRIやSPECTなどの脳イメージング技術を用い、「Why God Won't Go Away」や「How God Changes Your Brain」など様々な著作で、以下のような見解を述べている。
 ①宗教や霊的な経験は、脳の構造や機能に変化をもたらす。例えば、祈りや瞑想は、方向定位連合野、前頭前野や側頭葉の活動に影響し、脳のストレスや不安を減らすホルモンや神経伝達物質の分泌を促進し、幸福感や共感力を増やす。
 ②宗教や霊的な経験では、方向定位連合野という自分と外界との境界を認識する役割を果たしている部分の活動が低下し、自分と宇宙との一体感や無我の境地を感じることができる。人間の脳は、自己や他者、宇宙や神といった抽象的な概念を理解し、意味や目的を見出す能力を持っていて、脳の進化にも関係している。
 ③宗教や霊的な経験は、自分の意志や目標を決める役割を果たしている前帯状回という部位の活動を高め、自分の信念や価値観に対する確信や情熱が強まる。人々の価値観や行動規範を形成し、コミュニティや文化を構築する役割を果たし、個人や社会に影響を与える。しかし、対立や暴力の原因にもなり得る。そのため、宗教や霊的な経験を科学的に理解し、寛容や平和に貢献する方法を探る必要がある。
(コメント1)


 最近日本語訳が出版された彼の著「神経神学」で、ニューバーグは、
「行き着くところ、科学と宗教の二つの力は、人間の脳の産物である。」
「たとえ脳の外部に神が存在し、宇宙の存在を可能にしていたとしても、それを信条という形で捉え、意味づけをするのも脳なのだ。私たちが服従し、生活の中に取り入れている聖書や儀式をつくり出したのも脳である。」(同書P4)
「つまり、私たちは永遠に自分たちの脳の働きの中に閉じ込められているということだ。」
「私たちの世界に関する信条や考え方が正確かどうかはわからない。なぜなら、まさに私たちが検定しようとしている脳によって処理されているので、決して確かであるとは評価できないのである。ともかく、脳から抜け出して外界を純枠に客観的に観察し、その観察結果と自分の主観的な世界体験を比較して、一対ーの対応関係があるかどうかを判断しなけれぱならない」

「脳を抜きにすることは事実上不可能と思われるので、私たちにとって最善な方法で世界を解釈することが残るのみである。宗教的・霊的な視点に立ち戻る人もいれば、より科学的な視点に立ち戻る人もいるであろう。究極の問題は、どちらが正しいか見分けられるかどうかである。」(同書P7)
 と分析・問題定義している。


 また、神経神学について、以下のように様々に述べる。
「宗教が本当に妄想なのか、もしそうであるなら、それが何を意味するのか」(同書P9)

「私たちは自分の脳というプリズンに閉じ込められているということだ。神秘体験は度々、自分が実際に脳から抜け出してしまった感覚をもたらす。脳の観点からはあり得ないのだが、神経科学的および室的な観点からいくつかの興味深い疑問が提起される。
①脳から抜け出す、ということは何を意味するのか、
② この体験は実際の体験なのか、脳自体の何らかの表現なのか、
③このような体験は現実の真の姿を明らかにするものなのか。私たちは、神経神学の視点から神秘体験の重要性と意味についての見解を探る。」(同書P12)

 その他、画期的なことをコメント2に挙げた。


 今世紀に入って機能的磁気共鳴画像(fMRI) 、ポジトロン断層法(PET)、脳血流シンチグラフィー検査(SPECT)脳画像技術などの発展で、認知神経科学は急速に進歩した。人間の脳の動きについて、単純な動作や感覚だけでなく、愛や道徳、注意や宗教などの複雑なことも研究が進んだ。
 以下には、ニューバーグの研究を参考として、日蓮仏法や私見をまじえながら述べていく。

 これで確かに分かっていることは、我々が完全に死んでいないかぎり、脳は常に活動していることである。
 目が覚めているときも、眠っているときも、夢を見ているときも、死の直前や昏睡状態にあるときも、脳は必ず何かをしている。リアルな臨死体験も、これを物語るものである。
 そして我々が行なうことや考えることや感じることは、すべて脳に影響する。
 これは仏法で言う因果応報・因果倶時である。

 脳は、外の世界からの情報を受け取って、解釈して、意味をつける。
 しかし、脳の解釈が頭蓋骨の外の世界と一致しているかどうかは、厳密な確定ができない。
 特に、宇宙や神といった宗教的・霊的なものについては、脳が作り出した信仰と現実との関係は、大いなる議論の余地がある。


「認知神経科学からわかっていることは、私たちは脳機能から自由になることはできない。私たちは永遠に自分の脳に閉じ込められて、外界を眺め、その意味を理解しようとしているのである。この認識を科学的にどんなに理解しようとしても、私たちの脳と私たちの意識は決して逃れることのできないプリズンのように思われる。」
 と、ニューバーグは述べている。

 我々は脳の中で世界を見て、意味を探し、判断している。
 彼のいう通り、つまりは、脳は我々の牢獄である。
 が、我々はその中で比較的満足(いわゆる幸せ)に暮らしている。
 脳は常々、我々が怖がらないように、ストレスを抑えてくれているからだ。
 脳は、我々が無知であっても、時には背徳的であっても、満足できるように、誤りや間違いや、時には倫理を隠蔽してくれている。
 脳は、我々が手品や錯覚に騙されても楽しめるように、現実を歪めてくれているのである。
 こうして、見かけ上は、脳は、我々にとって幸せな牢獄であるといえる。
 が、はたしてそれは、すなわち我々の脳の中で描写される世界は、本当の世界と同じなのだろうか。
 それは、誰もが脳の中で閉じ込められている限り、誰にも正確には分かることはあり得ない。



■科学と宗教との折り合い

 ところで、同じ真実を追究する科学と宗教はどうやってつながればいいのか。つながるとしたら、人類にとってどんな意味があるのか。
 脳は、我々が自分や世界を理解するための道具だが、同時に、物理的な現実の一部でもある。
 脳がどうやって意識や霊性を生み出すかを知れば、我々自身の実存的な発見につながる。
 祈りや瞑想などの霊的な実践が脳にどんな影響を与えるかを調べたら、宗教と健康の関係や、宗教と霊性の違いや共通点も明らかになってきた。


 我々は脳の中で世界を理解している。
 だから、我々は世界についての物語(神話)をいつも作っている。
 そして、我々のコントロール不可能な大自然や無限の宇宙を考えると、結局のところ何らかの「信仰」を持たずにはいられないことになる。
 宇宙の本当の姿は、我々の思い描いた信仰と同じかそれに近いかもしれないし、全く違うかもしれない。
 我々は、現時点ではそれを科学的に確かめることができないくせに、信仰を真実・現実だと思いこんでいる。
 神がいると信じる人もいれば、いないと信じる(これも信仰のひとつである)人もいる。
 神がいるかどうかは、我々の信じ方には関係がない。
 例えば見えない重力のように、実際にあるものはあるのだ。

 だが重力のように見えないものでも、我々は信じることで、それを知ることができる。
 これこそ、日蓮仏法で言えば「以信代慧」(信じることをもって智慧に代える)である。
 神に関しては、信者の方が神の存在を感じることが多い。
 神は彼らの信じる物語に合っていて、神のおかげだと思えることがあるからである。
 先述したSPECT画像についても、信者は、神の存在の証拠として解釈するのに対し、無神論者は神の非存在の証拠であると解釈するのだ。

 以下に、神経神学の成果を、ニューバーグの研究成果に基づいて、少し述べてみよう。


■ 方向定位連合野における「求心路遮断」

 様々な宗教やコンサートなどの儀式で参加者が一体感・全体感を得るまでの神経学的過程は、少々の違いはあるが基本的には同じである。
 ひとつは、そのときなされたリズミカルな発声などの感覚刺激や動きが視床下部や自律神経系に働き、脳の全体に及ぶからである。
 祈り、勤行、瞑想、心地よい音楽、激しい身体活動などの動作が、血圧を下げ、心拍敬や呼吸回数を減らし、「闘争か逃走」「ストレス」時に分泌されるコルチゾールを低下させ、それによって抑制されていた免疫系の機能を高めるのである。
 これらはすべて視床下部や自律神経系に制御されているので、安全が保障されているかぎり、これらの儀式が我々の肉体と精神に良い影響を及ぼすことは明らかである。
 
 たとえば、スフィーやブードゥー教徒は、儀式でとても興奮する。すると、彼らの脳の活動が強くなりすぎて、脳のバランスを保つ部分の海馬が、情報のやりとりを止めて落ち着かせようとする。
 すると、脳の他の部分が情報を受け取れなくなり、うまく働けなくなる。特に、自分と他人を区別したり、自分がどこにいるかを知ったりする部分、すなわち方向定位連合野が影響を受け、情報が少なくなったり、全く来なくなったりすると、神経学では「求心路遮断」と言う状態になって、自分の境界を決めるのがとても難しくなる。
 そうなると彼らは、自分と世界が一つになったような感覚になる。

 このような激しい儀式が興奮系が活性化され参加者を興奮させるのに対して、詠唱や観想、祈りのような穏やかな儀式では、抑制系が活性化されて穏やかになる。
 静まりすぎて抑制系の活動レベルが高くなりすぎると、海馬によって脳全体の情報にブレーキがかけられ落ち着かせようとする。
 これによって同様に方向定位連合野が求心路遮断状態になり、脳が感じる自己の境界があいまいになって、自分と世界が一つになったような感覚になる。


■ 標識動作や嗅覚の剌激

 もう少しかみ砕いて説明しよう。
 儀式で使われるダンスや歌や詠唱などは、何度も同じリズムが繰り返される。
 これらは、感情や気分を作り出す役割を持つ脳の大脳辺緣系や自律神経系と呼ばれる部分に影響を与え、喜び、興奮、恍惚状態を引き起こす。
 また、リズムのある動作は、視覚や聴覚や触覚など、さまざまな感覚が同時におこされるから、参加者は自分と世界が一つになったような感覚を味わうことがある。

 儀式といっても、一般的に行われる様々な集会や会合においても当てはまるので、ここではそれらも含めて、儀式という名称を使っておく。
 儀式で行なわれる普段の日常と違う動作も、脳に影響を与える。
 例えば、お辞儀をしたり、地面に寝そべったり、変な形に手を動かしたりすることなど、これらは、脳の扁桃体という部分に注目される。
 扁桃体は、感覚からの情報を常に監視していて、チャンスや危険を教えてくれる部分で、これらの普通でない動作は、扁桃体に危険信号として、普通の動作よりもより注意される。
 これが長びくと、人間は恐怖や興奮を感じる。
 この感情が、落ち着いた状態と混ざると、人間は宗教的畏怖という特別な感覚を感じる。

 さらに、儀式で使われる香りも、脳に影響を与える。
 香りは、扁桃体に直接届く感覚で、強い香りは、扁桃体を興奮させて、恐怖や興奮を感じさせたり、様々な感情を引き出す。 
 例えば、ラベンダーの香りは、リラックスさせたり、酢の匂いは、怒らせたり嫌な気持ちにさせたりする。
 宗教儀式では、いろんな香りが使われるが、これは、感情に効果的に働きかけることを経験で知っているからだ。

 儀式には、その意味や目的である思想や約束という要素もある。
 人間は、儀式で感じる感覚と、儀式に込められた意味とを結びつけて、自分の信仰を確かめたり、強めたりする。

 例えば、人間は、ドグマなどの神話・物語が教える人間と神との元来の一体を取り戻すことを、儀式で感じることによって、確信したり、安心したりする。
 表現は様々だが多くの神話は概ね、人間が神から離れてしまったことがすべての悩みの原因であり、人間は、神に戻ることで、それらの悩みから解放されると約束する。
 人間は、この約束を信じたいと思うが、それは単なる神話・物語への「思い」にすぎない。
 だから、現実の悩みの中で生きる人間が、客観的な保証がなく、心で信じるしかないこの約束を信じ続けて安心感・安定感を得るのはなかなか難しい。
 だから、人間は、儀式でそれを感じることによって、この約束を実現させようとする。
 そこで、儀式で自分と神が一つになったような感覚を味わうと、人間は神に近づいたと確信できる。これは、宗教儀式が、人間と神との距離を神経生物学的に縮める方法だと言える。


■神話を演じるのは、脳の仕組み

 こうして、人間が、神話・物語を演じるのは、脳の仕組みによるものである。
 脳は、思いを実行したいという仕組みを持っている。
 これは、どの文化にも儀式があって、目的が似ていることや、今でも儀式に惹かれる人が多いことを説明できる。

 神話・物語は、運命や死や人間の心など、誰もが気になることから実存的なことまでテーマにする。
 人間は、頼りたい神話を想像して、それを実行したいと思う。
 すると、儀式で感じる感覚が、神話のテーマや物語に加わって、効果的な宗教儀式が発生する。
 これによって、信者たち人間は、宗教のドグマである神話が約束する最高のことを感じることができる。
 だから宗教儀式の力の有無は、ドグマになった神話や経典が本当だと『証明』できるかどうかにかかっている。
 こうしてあらゆる宗教儀式は、神話のテーマを脳の神経学的な反応と結びつけて、神話を生き生きと再現させるのである。
 神話の世界に入った信者は、神話が示す深い謎を解くように感じる。
 その感覚は強烈で、人生に影響を与えることもある。
 その効果は、儀式のリズムと内容の両方に依存する。
(コメント5)


 儀式による一体感の強さは、儀式の種類によっても違ってくる。
 体力だけでいえば、穏やかな儀式、たとえばロザリオの祈りでは、穏やかな一体感を感じるが、長くて激しいダンスやヴィジョン・クエストでは、強い一体感を感じる。
 身体運動を使った儀式では、運動が激しくて長いほど、一体感が強くなるが、参加者や信者の体力には限界がある。

 ところが高レベルの神秘家は体力をあまり使わない『精神活動』によって最高レベルの一体感を得ている。 
 瞑想や観想の祈りでは、身体運動を使った儀式と同じ脳の仕組みが動く。
 しかし、精神は肉体よりも疲れにくく、訓練によって、一つの思いや一念をずっと持ち続けられる。
 だから、理論的には、一体感のレベルを最高まで上げられる。
 このとき、前ページで述べた、神経学者が『神秘的合一』と呼ぶ、深い一体感を感じることができるのである。



■日興門流~創価学会も同様

 先述してきたように、日蓮の直弟子たちは、時代が下るにつれて日蓮の血脈から離れ、マンダラ信仰・アニミズムや権威主義に陥った。
 日興門流は、先述の如く、江戸時代には南無妙法蓮華経を神格化し、僧侶も民衆も勤行・唱題という儀式を通じて日蓮仏法の広宣流布を夢見た。そして神社・仏閣を中心とした形式的宗教形態が確立し、それが昭和時代まで続いた。
 戦後は西洋の民主主義が導入され、従来の価値観が崩壊する中で新興宗教が台頭した。
 創価学会もその一つで、池田大作を中心に罰論や現世利益追求を掲げて折伏や政治活動を展開し、勢力を拡大した。
 しかし、その理念や信仰は、日蓮の生涯や血脈とは相容れないものであった。
 創価学会は権力側につき、日蓮が拒否した宗教施設を建立し、御書を切り文にして利用し、アニミズム的な一体感を信者に与えた。
 その核となるドグマが「師弟不二」「血脈」である。
 そして、それを描いた池田大作の小説「人間革命」「新・人間革命」が事実上の聖典とされた。

 創価学会の信仰活動は、日蓮の直弟子たちが受け継いできた「化儀」と呼ばれる儀式を変化させたものである。
 会合(儀式)や勤行・唱題によって生じる一体感は、生物学的に備わったものを利用している。
 その目的は、信者に対し池田大作の小説「人間革命」「新・人間革命」や「師弟不二」「血脈」というドグマを「真実」として信じ込ませ、鼓舞しながら組織拡大をすることにあった。
 信者たちは、座談会や幹部会で池田大作との一体感を感じ、創価学会が全世界に広まり理想社会を実現するという約束を信じるようになる。
 この理想社会のイメージは、御書の切り文を利用して作られている。
 例えば、組織への帰属意識を高めるために使われる立正安国論の一文「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(日蓮、立正安国論)は、創価学会組織についていきさえすれば成仏できるという誤解を与える。しかし、この遺文の本来の意味は、万物一切根源の法である南無妙法蓮華経を修行すれば、どんな存在でも即身成仏できるということが、その文脈から明らかであり、創価学会とは無関係である。

 また、如説修行抄には、広宣流布後の理想世界が記されている。
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄 御書P501)
 すなわち、すべての人々が南無妙法蓮華経と唱えれば、風も雨も穏やかで、不幸や災難がなく、人・法ともに不老不死の世となるというのである。(コメント7)
 この遺文は、私がよく聞く幹部会などで、時として利用されてきた。
 会員を選挙に動員する幹部指導などで、日蓮の遺文の切り文は、様々な選挙の票取りを「法戦」と呼び、その根拠とされるのだ。
 選挙で公明党を勝たせ、創価学会が広宣流布の理想社会を実現するというのが、地涌の菩薩の使命だというのである。


 創価学会は事実上、日蓮よりも創価三代会長を重視するという立場をとっており、その教義の中核である「師弟不二」を頻繁に強調している。
 昨年も創価学会創立記念日とされる11月18日(11・18と称する)に向けて、池田大作の入信や創価学会の歴史などを神話化した様々な活動を展開していたが、その最中に池田大作が老衰で亡くなった。
 しかし、会員にはすぐには知らされず、予定通りの行事が行われた。
 池田大作の死は、公から姿を消してから約13年後の11月18日の夕方に一般マスコミによって発表された。
 多くの会員は、学会組織や機関紙ではなく、この発表で初めて池田大作の死を知った。
 その後も、学会葬や聖教新聞で「師弟不二」や創価神話が盛んに語られた。
 また、戸田城聖の獄中の悟り「在在諸仏土常与師俱生」を引用して、池田大作との永遠の絆を確信する会合も多く開かれた。
 これらの会合は、会員に池田大作を永遠の師匠として仰ぎ、自身の成仏と社会の広宣流布の実現に向けて「師弟不二」を実践することを約束させる儀式的な効果を持っている。
 ただ、全盛期と比べると、今世紀に入っても、これらの効果は薄れてきているのが、創価学会の衰退傾向をみても想像できる。(コメント8)




■神経学が証明する事実

 科学と宗教はどちらも同じ究極のリアリティーを強力に追求するが、それぞれに欠点がある。
 歴史を振り返れば、この溝を作ったのは、科学の時代の無数の偉大な発見だった。
 最初の亀裂は、ガリレオ・ガリレイが、観測によってコペルニクスの太陽系の理論の正しさを立証したときに生じたと言ってよいだろう。彼の発見は、『地球は、創造主たる神の愛ゆえに、宇宙の中心に配置された』という、当時のカトリック教会の教義に真っ向から反していたのだ。この発見に対する教会側の態度が、亀裂を広げた。

 日蓮もまた、ガリレオ・ガリレイに約400年先立つ鎌倉時代に、立正安国論などを主張して、当時の学問や宗教に対して科学的な公場対決を求めた。
 この姿勢・態度が、日興門流(創価学会も含めて)などの後世に排他的・独善的なドグマを継承させ、長年にわたって他宗との分断状態を引き起こしてきた。
 しかし、日蓮の血脈は、決してそれを推し進めていたわけではないだろう。
 ただ、後述するように、万人の救済・広宣流布の理想の実現のためには自らの教義・法則をも更新しなければならないことだけが、欠落していただけである。



 さて、神秘家たちが言うことは、現実と違っていても、嘘ではなくて、脳が本当にそう感じていることである。これは、脳の仕組みを知っていると予想できるし、瞑想や祈りをする人の脳を調べても分かる。
 しかし神秘体験が脳で起こると分かったからといって、それが本当にあるということでも、また、ないということでもない。
 少なくとも、自我や自己がなくても、心や気づきがあるということが、科学で証明できる。
 この事実、すなわち神秘体験が脳で起こるということを根拠にして、スピリチュアリティーの深い意味を探るべきである。
 スピリチュアリティーの本質は何か?。
 心と脳は、何が本当かをどうやって決めるのか?

 ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、それは元々から神がいなかったという意味だった。ニーチェは神を科学に反するものと考え、科学や民衆の教育が発展すれば、神は消えるだろうと期待していた。
 しかし、AI時代になっても神は生き続け、様々な宗教やスピリチュアリティーは人気がある。
 ニーチェがこれを見たら、理性が感情に負けたと怒るかもしれないし、時の権力者に公の論争対決を迫った日蓮なら、もっと顔をしかめるだろう。

「信仰は、迷信と恐怖でできた欺瞞だ」という唯物論者もいて、人々が神を信じているのは、神なしの世界に耐えられないからだと嘲笑っている。有名なマルクスも「宗教は阿片である」と断じた。
 ただ唯物論者やマルクスの言うことは、全面的に正しいとは思えない。
 宗教がしぶとく生き続けるのは、後述するように、それが、心の弱さだけではなくて、深くて、単純で、健全なものに基づき、結果として個人や人類の生存確率を高めているからだと考えられる。



■多くの宗教は健康に寄与する

 宗教の基本は、神秘体験だ。
 宗教が昔から残っているのは、脳が信者に神や教祖と一体になる感覚をさせて、神の存在を信じさせるからである。この信仰や信仰に基づく行動が、人間に生きる上での利益をもたらし、進化がこの脳を作ってきたのであろう。
 多くの研究がこれを示唆している。
 例えば、肉体的には、宗教を信じる人は、信じない人よりも、病気になりにくく、免疫力が高くて、血圧が低いことが分かっている。
 また、一生の間で信仰を持たないことは、タバコを40年間にわたり1日に1箱吸うのと同じくらい死亡率を高めることも分かっている。
 また、精神的にも、例えば、信仰を持つ人は、ドラッグやアルコールにはまったり、離婚したり、自殺したりすることが少なく、憂鬱や不安にも強いことが分かっている。
 このように、ほとんどの宗教は、危険を避け、健康的で安定した生活を勧めるから、その教えに従う人は、自然に健康になる。
 社会的にも、宗教のコミュニティーが、メンバーの健康に良い影響を与える。
 友達や家族からのサポートが、心に良いことは当然だが、メンバーの体の機能を保つことにも役立っている。
 特に高齢者は、コミュニティーのおかげで、孤独にならずに、食事や病気の世話を受けやすく、外出しやすく、健康に暮らせることが多い。
 また、瞑想や祈りや礼拝などの宗教行為自体にも、不安や憂鬱を減らし、ことが分かっている。
 宗教が教える行動や態度が概ね大事なことは確かであろう。
 宗教行為自体にも、信者の健康に直接的に良い効果があるだろう。
 信者が静かに祈ったり、感動的な歌を歌ったり、瞑想をしたりするときには、抑制系が活性化する。その結果、免疫力が上がって、心拍数や血圧が下がり、ストレスホルモンが減って心が落ち着き、自信がつく。
 そして、人と仲良くして、人生に前向きになることを助け、心に良い効果をもたらし、幸せを感じる。
 このような反応をする宗教行為を毎日する人は、心も体も健康でいられることが多いだろう。



■宗教が洗脳で保証する様々な価値――意味や目的や安心感を与える(妄想か真実かは関係ない)

 恐怖や不確実性の多い世界で、人間は多大なストレスを感じる。
 宗教は、神や聖霊などの強い存在が世界をコントロールしてくれると信じさせて、ストレスを減らしてくれる。
 神は、信じる人間には理解できる存在で、人間のために世界に働きかけ、人間に力を貸し、安らぎを与え、苦しみから解放する(洗脳する)。
 神を信じる人は、自分の人生に意味や目的があると思える。 彼らは、生きるために一人でがんばっているのではなく、強くて優しい神に守られていると感じ、この世界への恐れが軽減する。
 神と一つになる感覚、神とつながっているという確信は、宗教がもたらす最大の利益である。
 神の存在の確信は、個人にも集団にも、希望と慰めと自信と目的を与える。

 人類の歴史や生存は、この確信のおかげで成り立ってきたと言っても過言ではない。

 なんといっても、この洗脳が、生存における様々なストレスを減らすのだ。
 これは医療においてのプラセボ効果とよく似ている。
 この神秘体験をする能力は、遺伝する。
 そして、人間に意味や目的や安心感を与えて、進化に役立ってきた。
 そして宗教は、歴史や地理や民族や政治によって、様々に変化したが、どの宗教も、神秘体験が根本にあって、神のリアリティーを示している。
 神秘体験をする能力やこれに基づいた信仰は、知性や理性よりも強くて、宗教を十分しぶとくさせている。
 合理的に説得しても、人の信仰を変えることは困難である。なぜならその人にとって神なる存在はいつまでもどこまでもリアルなのだから。

 熱心な創価学会員についてもこのことはあてはまる。
 先述してきたように、創価三代会長は俗世のみの師弟関係でしかないことを、理性でいくら説得したとしても、彼らの誤った信仰を修正することは極めて困難である。
 機関紙である聖教新聞などでは、亡くなった後も永遠化された池田大作に対して、戸田城聖の獄中の悟りともされている「在在諸仏土常与師俱生」を曲解した信念や決意のオンパレードが続いている。

 神秘体験や信仰が正しく解釈されるとは限らない。
 カルト教団の悲劇や、宗教がもたらす罪や罰論、その他の恐怖の教えのダメージなど、その例は多い。



■ 神仏は本当に客観的存在なのか?

 先述してきたように、神秘体験とは、神と一つになる感覚だ。宗教は、この感覚から発生した。この感覚は、脳科学で測定できるし、画像で見ることもでき、証明されている。
 だが、この発見は、次の深い疑問を投げかける。
 神秘体験は、脳の一部が強く働くだけなのか? 
 脳は本当に存在するものを感じているのか? 
 脳は、物質を超えて、もっと高いものを体験できるように進化したのか?

 神秘家たちは、本当にあるものに出会ったと言う。それは、物質よりもリアルなもので、そこでは、空間や時間や自己の境界がないと言う。
 もしかしたら、神がそこにいるのかもしれない。
 (そことは、世界なのか?、それとも脳の中だけなのか?)
 昔からの科学や常識では、そんなことはあり得ない。
 科学的な研究者達は「リアルなものは物質だけだ」と考えて研究してきた。
 しかし新しい科学である神経学では、驚くべき答えになった。
 それは、神秘家たちは本当にあるものに出会っていたのかもしれないし、神秘体験は、神のリアルさを見せてくれる窓なのかもしれないということだ。
 これは信仰ではなく、論理的な推理である。
 そしてこれは非科学的に見えるが、科学的な検証に十分耐えるのである。
 ただ、一般的な人格神や魂のように、それに人格や物理的性格を持たせると、そのリアリティーを損ねることになる。アニミズムになってしまうからである。



■科学的なリアリティー(測定可能)と、神秘的なリアリティー(測定不能)

 リアリティーとは何か? 
 客観的な物質の世界と主観的な心の世界のどちらが本当の現実なのか? 
 この問いに対する哲学的な答えは未だに見つかっていない。 科学者は物質の世界だけがリアルであると主張するが、神秘家は神との一体感が最高のリアリティーであると信じる。
 科学は神秘体験を否定するが、神経学は神秘体験も脳の活動として測定できることを示した。
(コメント9)

 例えばオペラの音楽を聴くときや思い出すときに、脳は同じように反応する。音楽は心の中にあるが、リアルに感じられる。
 同様に、物質の世界も脳が作り出すイメージである。
 これらはどちらも同様にSPECT画像などの脳画像で測定される。
 神秘体験は脳の錯覚なのか、それとも真の存在に触れることなのか? この問いに答えるためには、神経学や、万物の統一理論についての今後の発展が期待される。



■脳が作る自己と世界

 我々は脳によって自己や世界を知覚し、記憶し、意識する。

しかし、脳はどのようにして世界を構築し、自己を生成するのか。
 この問いには、進化論や神経科学や心理学などの観点から、様々な答えが提案されている。
 脳は進化の過程で、環境に適応するために、感覚や運動や認知などの機能を発達させた。
 脳は体を制御するだけでなく、自分と外界との区別や関係をつくる。
 脳は自分の行動の結果と、自分のコントロールできない刺激とを区別することで、自己と外界との境界を引く。
 この境界は、感覚の分類から始まり、自己の連続性や一貫性を保つ。

 意識は脳のすべての過程にあるわけではない。
 意識は、変化や新しさや重要さなどに応じて、感覚や記憶や思考や行動などを選択的に取り込む。
 意識は、学習や練習や習慣化などによって、自己の能力や知識や技術を形成する。
 そして意識は、自分の経験や信念や感情などに、意味や実在性を与える。ゼーモンは、これらの仕組みをムネメと呼んだ。
 意識は、心の作用であり、自己の生成である。
(コメント10)


■具象化と自己の発達

 具象化とは、心の内容に現実性を与えることである。
 脳は、感覚や思考や信念などに意味や実体を割り当てて、世界を構築する。
 具象化の能力は、物の本質を理解することや、物の存在を確信することを可能にする。この能力は、左脳の上部にある「実在オペレータ」という機能によって働く。
 具象化の過程は、自己の発達において重要である。

 例えば赤ん坊は、生まれてから物心つくまでは「自分自身に気づいてない」!
 そこで赤ん坊は、自分の感覚や行動を超えた外界を探索する。

 赤ん坊は、泣くなどして自分の作った音と、それに反応して帰ってくる母親の声などの自分の作らない音とを区別することで、自己と他者との境界を引く。
 この境界は、こうして感覚の分類から始まり、一生涯、自己の連続性や一貫性を保つ。

 こうして、自己は、心によって生成される。
 心は、記憶や情動などを脳に伝えて、自己を作る。
 自己は、心とは別のものであり、心の作品である。
 これが、自己の重要性であり、一貫性でもある。
(コメント11)

 その後における脳と自己の関係、脳と社会の関係についても参考としてコメント12~14に挙げた。



■真の自己の発見と神秘体験

 瞑想などにおいて、脳の中で自己を作る要素が失われると、自己も消滅する。
 これは、新しい感覚が入らないときや、求心路が遮断されるときに起こる。
 自己が消滅すると、純粋な状態になり、時間や空間や体の感覚もなくなり、すべてが一つになる。
 このとき、我々の最も深く、最も真実な自己が現れる。
 これを、神秘家は「普遍的な自己」と呼ぶ。
 神秘家は、自分を捨てることで、自分の本質を知り、単純で真実の世界に気づくと言う。
 神経学の脳のモデルでは、この純粋な状態や「絶対的一者」を体験する仕組みを説明できるが、その本質や根源を証明できない。
 神秘家の言う世界が、脳の状態なのか、それとも脳を超えるものなのかは、現在のところ不明である。
 しかし、神秘家の体験がリアルであることは間違いなく真実なのである。


■絶対的一者と真の自己

「絶対的一者」とは、すべてが一つになると感じる超越状態である。文化によって名称は違うが、本質は同じである。
 それは、純粋な気づきで、無の意識で、突然に、鮮やかに起こる。
 神秘家たちは、この最高の存在を、理屈ではわからないし、言葉では言えないと言うが、それでも表現しようとした。
 彼らの言葉は、難解で、矛盾しているように見えるが、それは、彼らの言葉が嘘だとか、彼らの体験が間違っているということではない。
 例えば、黄檗という人が「唯心」という超越状態について言った言葉は、以下のようなものである。

 「すべての悟りをひらいた仏陀、すべての感じるものは、唯心だけで、他には何もない。この心は始まりもなく、生まれもしなく、消えもしない。それは色もなく、形もなく、見た目もない。それは、あるものでもなく、ないものでもなく、新しい言葉でも古い言葉でも考えられない。それは長くもなく短くもなく、大きくもなく小さくもない。なぜならそれは、すべての限りや名前や跡や比べることを超えているからだ。ただ唯心に目覚めよ。」

 普通の人は、このような不思議な言葉を真実として受け入れることはできない。
 しかし、神秘家たちは、自分を信じることで、この状態を理解することも体験することもできると言う。
 この超越状態は、時間も空間も体の感覚もない状態で、物質の世界に気づかない状態である。
 また、この瞬間には、自分のことに気づかなくなると言う。

 つまり、我々は、心を使って、心を超え、自分の心をコントロールしなければ、超越できないことになる。

 仏法では、「心の師とはなるとも、心を師としてはならない」と説く。
 迷いの中にいる自分のことに「気づかない心」を理解することは難しい。
 既に自分のことに気づいている状態に慣れている我々は、「自分のことに気づいていない心」なんてあるのかと疑ってしまう。
 しかし、「自分のことに気づかない」心は間違いなくある。

 なぜなら我々は皆、この心の状態で生まれてきたのだから。
 人間の赤ん坊は、物心つくまでは「自分のことに気づかない」。

 自分のことに気づく――自己の形成――には、脳で特別な神経のつながりができることが必要なのである。
 しかし、一旦それが発達し、日常的に自己に気づきの状態であるとき、それが迷い(仏法では無明という)の状態であることに気づくことは困難である。前述の「唯心」が理解困難なのもこのためである。
 この迷いは、我々が自身の脳の中でしか世界を見れないことから生じているからだ。
 前述の超越状態は、我々が迷い(形成された自己)から解放された、我々の最も深く、最も真実な自己を示すと言われる。
 しかし、この自己は、我々が普段知っている自己とは当然ながら異なる。
 我々が普段知っている自己とは、この世界で生きて、いろいろなことをすることで、脳で特別な神経のつながりができ初めて実現する、いわば脳の中で心によって形成された「迷い」の自己なのである。


■神の歴史と不寛容

 カレン・アームストロングは、自著『神の歴史』で、一神教の信徒たちが神というシンボルを歴史的にどのように変化させてきたかを分析している。彼女は、魔女狩りや異端尋問や宗教戦争や原理主義など、神の名における様々な迫害や暴力について、以下のように述べている。

- 魔女狩りの神:一神教の神が人間の理性や自然に対抗する超自然的な存在として捉えられ、神の概念が人間の理性や自然との調和を失った。
- 異端尋問の神:一神教の神が唯一の真理として絶対化され、神の概念が人間の多様性や自由との対立を招いた。
- 宗教戦争の神:一神教の神が政治的な権力として利用され、神の概念が人間の平和や正義との矛盾を生み出した。
- 不寛容な原理主義の神:一神教の神が近代化や世俗化に対抗する反動として生まれ、神の概念が人間の多様性や自由との対話を拒否した。
- その他、ありとあらゆる迫害に名を貸した神:一神教の神が人間の権力や利益に利用されたり、人間の恐怖や偏見に付け込まれたりして、神の概念が人間の尊厳や幸福との関係を見失った。

 これらの残虐行為は、神がそれを望んでいるという理由で行われた。
 その根底には、自分たちの神こそが唯一の神であり、自分たちの宗教こそが真実に至る唯一の道であるという独善的な思い込みがあった。
 先述してきた日興門流~創価学会も、その形態は同様である。
 『神に選ばれた民』である自分たちには、『神の敵』と戦う権利もしくは義務があると考えた。
 歴史的には、宗教的な不寛容は、主として文化的な現象であり、その基礎には、無知、恐怖、外国人への偏見、自民族中心主義、熱狂的な愛国主義などがあったとされてきた。

 しかし、これらの不寛容の基礎には、単なる偏狭さを超える現実があると考えられる。
 それは、絶対的な支配力を持つ人格神への信仰を生み出した共通の、『一なるもの』へすべてを解消する超越的な体験、すなわち「絶対的一者」である。


■超越的な合一と宗教的不寛容

 ニューバーグは、超越の過程が極点に達すると、心は絶対的・徹底的な合一状態に直面し、真実をめぐるあらゆる解釈、対立、矛盾は『一なるもの』の中に解消すると述べている。(ニューバーグ著「脳はいかにして<神>を見るか」)
 そして、すべての宗教や神は、究極的には一つの超越的な合一体験に基づいており、どれか一つだけがリアルであるということはないと言い、以下についても概ね述べていて、私も同じ見解である。

 すなわち、超越状態には、日常的なものから、神秘家のような強烈なものまで、さまざまなレベルがある。
 しかし、究極の絶対的な合一状態では、真実は一つであり、信仰の対立は生じないはずである。
 ところが実際には、古今東西、様々な宗教戦争や宗教的対立が続いている。
 これは、神秘家たちの神秘的合一レベルが完全ではなく、それぞれの利己的・主観的な考えが残ってしまったことによると考えられる。
 すなわち、瞑想時における方向定位連合野の求心路遮断が不完全で、自己の経験や主観が神として映像化されたのである。

 その結果、原始的な文化では自然界の精霊、キリスト教徒ではイエス、イスラム教徒ではアッラーといった、揺るぎない強者・創造主としてのスピリチュアルな真実が生まれた。

 これらのスピリチュアルな真実により、神秘家や信者たちは、コントロール不可能な運命をコントロール可能にし、自分たちの生きる意味や死の克服を確信した。
 この確信は、神の存在が直接の神秘的出会いによって絶対的な真実となっているからだ。
 それを信じないということは、神の概念や神経学的過程に裏づけられた「確信」に対する攻撃となり、生存に対する重大な脅威となる。つまり、絶対的な真実は一つしかあり得ず、それ以外のものはすべて、暴き殲滅しなければならないという強迫観念が生まれる。

 言い換えれば、宗教的不寛容の基礎になる『排他的』な真実への思い込みは、不完全な超越状態から生じてくるといえる。

 つまり、この神秘的合一が不完全で、六道に侵された自我が残るから、それはファシズムにもつながるアニミズムとなってきたといえる。(コメント16~19)


■ 日蓮の悟りと見逃したもの、弘教の問題点

 先述したが、日蓮は、南無妙法蓮華経と定義した『法』への帰命を絶対的な悟りとした。
 これは、一なるものへの解消という超越状態である。
 しかし、その弘教の方法は、他宗を徹底的に破折・折伏するというものであり、当時の学問レベルに基づいてはいたが、将来の学問・科学の発展に対応できるかは疑問である。
 日蓮は、更新が可能な科学的な「法」を本尊とし、それを「血脈」として残したといえる。
 しかし、残念ながら、その「法」をアップデートすることまでを明確に示さなかった。
「法」なら、アップデートされ続けるものである。
 もっとも、日蓮の遺文や生涯を検討すれば、彼自身は自らの法をアップデートしながらの激動の生涯であったことは明白ではある。
 だが、後世にはそのことを明確に指示した遺文は見当たらない。
 そのため、すべての法が南無妙法蓮華経への「一なるものへの解消」につながり、他宗の中にも深遠な物理化学的真理を含むものを排除するドグマとなってしまった。
 結果、日蓮自身は、自らの信念と行動を貫き通したが、その後世は、先述してきたとおり、日蓮仏法をアニミズムや処施術、果ては誤った概念(師弟不二など)を信念とする創価学会など、日蓮の意向に反した様々な宗教組織を生み、総じて堕落させてしまったといえるのではないか。

 しかし、現在でも、日蓮仏法のすばらしさは、遺文の解釈の更新や個人の信行学の実践によって、所属組織はともあれ、多くの人の信念の中に伝えられている。

 あらゆる法則は、常に更新されてきたし、今後も新たな真実の発見によって、更新されていく。
 日常の常識から先端科学まで、常にアップデートしている。
 日蓮仏法が、人格神と違って、「法」を本尊としていることは、その余地が残されている点で、大いに優れているといえる。


 AI時代が進むことによって、宗教の役割が再評価され、すべての宗教が親戚であり、その多様性が、人格の尊厳性を増し、総じて人類の進歩につながっていくことが、近年にわたるスピリチュアルブームと、これを説明する科学の結論が、統一の方向へ向かっていることとして現れているように思われるのである。

 また、宗教よりも霊性に興味がある人が増えている。
 我々は、自分よりも大きなものが宇宙にあると感じていて、その大きなものの一部になりたいと思っている。
 それが、霊的な感覚である。

 宇宙意識、真我など、様々な表現が表れている。
 その感覚は、脳の一部が自分を超えたものにつながっていると感じることで生まれる。
 それは、宗教とは関係なく、霊性と呼ばれる。


 はたして日蓮は、科学と宗教がほぼ共通であった中世鎌倉時代で生涯を送ったが、未だ末法と言われる今日のAI時代で判明したこの事までも、十分に予想・認識していたのであろうか?





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19.
コメント19


宗教的不寛容とは、自分の宗教や信念を他の人に強制したり、他の宗教や信念を否定したり、差別したりすることです。宗教的不寛容が起こる理由は、複数ありますが、以下のように分類できます。

- 宗教的な信仰や真実を絶対化し、自分と違う人や宗教を否定したり、攻撃したりすること。これは、自分の宗教や神が唯一のものであるという独善的な思い込みや、神の名における残虐行為の正当化によって生じます。
- 宗教的な権力や利益を守るために、他の宗教や信者に対抗したり、排除したりすること。これは、宗教が政治的な役割を果たす場合や、宗教的なアイデンティティが民族的や国家的なものと結びつく場合に起こりやすいです。
- 宗教的な無知や恐怖によって、他の宗教や信者を理解しようとせず、偏見や差別を持ったり、暴力をふるったりすること。これは、宗教的な多様性や自由を尊重しない文化や教育によって生じます。
- 宗教的な超越状態が不完全で、自我が残ってしまうことによって、自分の神秘的合一体験を他のものと排他的に見なしたり、強制したりすること。これは、方向定位連合野の求心路遮断が不完全で、自己の経験や主観が神として映像化されたことによって生じます¹。

以上のように、宗教的不寛容は、宗教的な信仰や真実、権力や利益、無知や恐怖、超越状態など、様々な要因によって引き起こされる現象です。宗教的不寛容に対抗するためには、宗教の多様性や自由を尊重し、対話や理解を促進することが必要です。

¹: [『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方](^4^)

ソース: Bing との会話
(1) 「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか 統計調査を .... https://toyokeizai.net/articles/-/409378.
(2) 「不寛容」ではなく「無寛容」 - 東洋経済オンライン. https://toyokeizai.net/articles/-/409378?page=2.
(3) 8宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の .... https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hh.htm.
(4) 日本人の宗教的意識や行動は どう変わったか - NHK | 日本 .... https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf.

18.
コメント18


宗教的不寛容を防ぐためには、以下のような方法があります。

- 宗教の多様性や自由を尊重し、他の宗教や信者に対する知識や理解を深めること。宗教教育や対話の場を設けることが有効です¹²。
- 宗教的な信仰や真実を絶対化せず、自分の宗教や神が唯一のものであるという思い込みを捨てること。宗教的な寛容とは、本来容認できないことを容認することであり、自分の信念を他人に強制したり、否定したりしないことです³。
- 宗教的な権力や利益を守るために、他の宗教や信者に対抗したり、排除したりしないこと。宗教が政治的な役割を果たす場合や、宗教的なアイデンティティが民族的や国家的なものと結びつく場合には、特に注意が必要です⁴。
- 宗教的な超越状態が不完全で、自我が残ってしまうことによって、自分の神秘的合一体験を他のものと排他的に見なしたり、強制したりしないこと。超越状態において、真実をめぐるあらゆる解釈、対立、矛盾は『一なるもの』の中に解消するという考え方を受け入れることです⁵。

以上のように、宗教的不寛容を防ぐためには、宗教の多様性や自由を尊重し、対話や理解を促進することが必要です。宗教的不寛容は、人権や平和を侵害する行為であり、国際連合は、宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言を採択しています。私たちは、この宣言の精神に従って、宗教的に寛容な社会を築くことに貢献しなければなりません。

ソース: Bing との会話
(1) 寛容の鍛錬ーー多様化するこれからの日本社会のために | 森本 .... https://kangaeruhito.jp/trial/40146.
(2) 「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか 統計調査を .... https://toyokeizai.net/articles/-/409378.
(3) キリスト教伝統における寛容 - 宗教に対する寛容と宗教の多様性. https://www.scientologyreligion.jp/religious-expertises/religious-toleration/toleration-in-the-christian-tradition.html.
(4) 第9条 (宗教教育):文部科学省. https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/004/a004_09.htm.
(5) 道徳教育の内容項目「寛容」に関する基礎的研究 - 国立情報学 .... https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6199&item_no=1&attribute_id=31&file_no=1.

17.
コメント17

宗教的不寛容が起こる理由は、複数ありますが、以下のように分類できます。

- 宗教的な信仰や真実を絶対化し、自分と違う人や宗教を否定したり、攻撃したりすること。これは、自分の宗教や神が唯一のものであるという独善的な思い込みや、神の名における残虐行為の正当化によって生じます。
- 宗教的な権力や利益を守るために、他の宗教や信者に対抗したり、排除したりすること。これは、宗教が政治的な役割を果たす場合や、宗教的なアイデンティティが民族的や国家的なものと結びつく場合に起こりやすいです。
- 宗教的な無知や恐怖によって、他の宗教や信者を理解しようとせず、偏見や差別を持ったり、暴力をふるったりすること。これは、宗教的な多様性や自由を尊重しない文化や教育によって生じます。
- 宗教的な超越状態が不完全で、自我が残ってしまうことによって、自分の神秘的合一体験を他のものと排他的に見なしたり、強制したりすること。これは、方向定位連合野の求心路遮断が不完全で、自己の経験や主観が神として映像化されたことによって生じます¹。

以上のように、宗教的不寛容は、宗教的な信仰や真実、権力や利益、無知や恐怖、超越状態など、様々な要因によって引き起こされる現象です。宗教的不寛容に対抗するためには、宗教の多様性や自由を尊重し、対話や理解を促進することが必要です。

¹: [『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方](^4^)

ソース: Bing との会話
(1) 「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか 統計調査を .... https://toyokeizai.net/articles/-/409378.
(2) 「不寛容」ではなく「無寛容」 - 東洋経済オンライン. https://toyokeizai.net/articles/-/409378?page=2.
(3) 8宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の .... https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hh.htm.
(4) 日本人の宗教的意識や行動は どう変わったか - NHK | 日本 .... https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf.

16.
コメント16


宗教的不寛容とは、自分の宗教や信念を他の人に強制したり、他の宗教や信念を否定したり、差別したりすることです。宗教的不寛容は、人権や平和を侵害する行為であり、国際連合は、宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言¹を採択しています。宗教的不寛容の原因には、無知、恐怖、偏見、権力、利益などがあると考えられます。また、不完全な超越状態から生じる『排他的』な真実への思い込みも、宗教的不寛容の基礎になるという見方もあります²。宗教的不寛容に対抗するためには、宗教の多様性や自由を尊重し、対話や理解を促進することが必要です。

¹: [8宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言](^2^)
²: [『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方](^3^).

ソース: Bing との会話
(1) 「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか 統計調査を .... https://toyokeizai.net/articles/-/409378.
(2) 8宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の .... https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hh.htm.
(3) 8宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の .... https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hh.htm.
(4) 『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方:日経 .... https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600179/.
(5) 現代イスラーム世界をめぐる寛容のリアルポリティクス. https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/2003568/files/SP_47-40.pdf.
(6) en.wikipedia.org. https://en.wikipedia.org/wiki/Toleration.

15.
コメント15

■神の歴史

「カレン・アームストロングは、自著『神の歴史』において、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という同根の一神教の歴史を斬新な切り口で辿った英国の宗教学者である。
 彼女は、一神教の信徒たちが神というシンボルをいかに作り変えてきたかを歴史的に分析し、神の歴史性と変遷を綴っている。
 そして彼女は、魔女狩りの神、異端尋問の神、宗教戦争の神、不寛容な原理主義の神、その他、ありとあらゆる迫害に名を貸した神について、以下のように述べている。

 魔女狩りの神:中世から近世にかけてヨーロッパで起こった魔女狩りは、一神教の神が人間の理性や自然に対抗する超自然的な存在として捉えられた結果である。魔女狩りは「神の歴史」の中で「神の危機」という章で取り上げ、神の概念が人間の理性や自然との調和を失っていったことを示し、魔女狩りの歴史や背景について詳しく説明している『魔女狩り 西欧の三つの近代化』という本も書いている。
 異端尋問の神:中世から近世にかけてカトリック教会が行った異端尋問は、一神教の神が唯一の真理として絶対化された結果である。異端尋問は「神の歴史」の中で「神の絶対化」という章で取り上げており、神の概念が人間の多様性や自由との対立を招いたことを示している。彼女は、異端尋問の歴史や背景について詳しく説明している『聖戦の歴史』という本も書いている。
 宗教戦争の神:近代における宗教戦争は、一神教の神が政治的な権力として利用された結果である。宗教戦争は「神の歴史」の中で「神の政治化」という章で取り上げており、神の概念が人間の平和や正義との矛盾を生み出したことを示し、宗教戦争の歴史や背景について詳しく説明している『聖戦の歴史』という本も書いている。
 不寛容な原理主義の神:近現代における不寛容な原理主義は、一神教の神が近代化や世俗化に対抗する反動として生まれたものである。不寛容な原理主義は「神の歴史」の中で「神の再発見」という章で取り上げており、神の概念が人間の多様性や自由との対話を拒否したことを示している。彼女は、不寛容な原理主義の歴史や背景について詳しく説明している『神の名のもとに』という本も書いている。
 その他、ありとあらゆる迫害に名を貸した神:一神教の神が人間の権力や利益に利用されたり、人間の恐怖や偏見に付け込まれたりして、様々な迫害や暴力に名を貸したことを批判している。「神の歴史」の中で「神の失敗」という章で取り上げており、神の概念が人間の尊厳や幸福との関係を見失ったことを示している。彼女は、神の概念を再考し、人間の共感や寛容、平和を促進する神のイメージを提案している。そして彼女は、神の概念の再考について詳しく説明している『神の歴史』の続編『神の未来』という本も書いている。」


14.
コメント14

自己と社会の関係について、具体的な例をいくつか紹介します。

- 自己とは、他者との関係で形成されるものです。例えば、子供は親や友達や先生などの他者との相互作用を通じて、自分がどんな人間であるか、どんなことができるか、どんなことが好きか、どんなことが嫌いかなどを学んでいきます。これらのことは、自己の一部となります¹。
- 自己とは、自分自身との関係でもあります。例えば、自分の過去の経験や記憶や感情や思考などを振り返って、自分の性格や価値観や目標などを見つめ直すことがあります。これらのことは、自己のもう一つの側面を表します¹。
- 自己とは、社会の中で変化するものでもあります。例えば、社会の状況やニーズや期待などに応じて、自分の役割や立場や責任などが変わることがあります。これらのことは、自己の適応力や柔軟性や創造性を示します²。
- 自己とは、社会に影響を与えるものでもあります。例えば、自分の考えや意見や行動などによって、社会の問題や課題や方向性などに関わることがあります。これらのことは、自己の主体性や参加性や貢献性を示します³。

以上のように、自己と社会の関係は、様々な側面や次元を持っており、一様には説明できません。自己と社会の関係を理解するためには、自分自身の経験や感覚や思考などを通して、社会の中で自分がどのように存在し、どのように関わっているかを探求することが必要です⁴。

ソース: Bing との会話
(1) G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)、自我」とはなにか、意味に .... https://souzouhou.com/2022/06/27/geoge-herbert-mead-1/.
(2) 【社会学】「自我」と「自己」の意味の違いとは?重要概念を .... https://www.keny.jp/ego-self/.
(3) 社会学で扱っているテーマの例 | 日本社会学会. https://jss-sociology.org/school/voyage5/.
(4) 自己(じこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク. https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%B7%B1-518499.
(5) 第2章 個人と社会のあり方 - mhlw.go.jp. https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/01/1-3.html.

13.
コメント13

自己と社会の関係については、社会学や心理学や神経科学などの分野でさまざまな研究が行われています。自己とはどのように形成され、変化され、社会に影響されるのか。社会とはどのように自己を認識し、制約し、支援するのか。これらの問いには、歴史や文化や価値観などの要素が関係しており、一様な答えはありません。

自己と社会の関係についてもっと知りたい場合は、以下のような本や記事を参考にしてみてください。

- 『自己と他者の社会学』(中村桂子著、有斐閣)¹:著者は、自己意識や自己イメージが社会の中で他者とのかかわりを通して形成され、変化することを社会学的に分析しています。自己と他者の関係は、社会的なカテゴリーや役割やルールによって規定されるだけでなく、個人の主体性や創造性によっても変容することを示しています。
- 『不安定な自己は社会との関係でどのように構成されているのか』(片桐雅隆著、社会学評論)²:著者は、現代社会における自己の不安定化や心理化の現象を「認知社会学」の視点から考察しています。認知社会学とは、人々のカテゴリー化の作用に焦点を当てて自己や社会の存立を問う社会学であり、自己や社会は実体的なものではなく、相互のカテゴリー化によってそのつど生み出されるという考え方です。
- 『自己論を学ぶ人のために』(アンソニー・エリオット著、中村桂子訳、世界思想社)³:著者は、自己論の歴史や展開を概観し、現代の自己の課題や可能性について提言しています。自己は、社会や文化や技術などの変化によって常に変容し、多様化し、複雑化しているという視点から、自己の理解や表現や変革の方法を探求しています。

ソース: Bing との会話
(1) 不安定な自己は社会との関係でどのように構成されているのか. https://www.jstage.jst.go.jp/article/sstj/12/0/12_125/_pdf/-char/ja.
(2) 第2章 個人と社会のあり方 - mhlw.go.jp. https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/01/1-3.html.
(3) G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)、自我」とはなにか、意味に .... https://bing.com/search?q=%e8%87%aa%e5%b7%b1%e3%81%a8%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%ae%e9%96%a2%e4%bf%82.
(4) G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)、自我」とはなにか、意味に .... https://souzouhou.com/2022/06/27/geoge-herbert-mead-1/.
(5) 自己と他者の社会学 | 有斐閣. https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/464112275X

12.
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脳と自己の関係については、様々な分野や観点から研究されています。脳はどのようにして世界を知覚し、自己を認識し、意識を持つのか。自己はどのようにして形成され、変化し、社会に影響されるのか。自己は脳の一部なのか、それとも脳を超えるものなのか。これらの問いには、哲学や心理学や神経科学や社会学などの学問がそれぞれの方法で答えを探しています。

脳と自己の関係についてもっと知りたい場合は、以下のような本や記事を参考にしてみてください。

- 『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著、筑摩書房)¹:著者は、意識のもどらない患者や自己の感覚が変質してしまった患者の脳に見られる異常を詳細に解析することによって、意識や自己の感覚が生まれる可能性が見出された「安静時脳活動」について説明しています。
- 『脳機能マッピングから見る自己』(杉浦元亮著、日本心理学会)²:著者は、脳機能マッピングの研究から、自己を三つのカテゴリーに分けて考えることを提案しています。それは、物理的自己、対人的自己、社会的自己です。これらの自己は、脳の異なる部位や過程に関係しており、予測モデルという計算的な特徴を共有しています。
- 『感情をコントロールする心の正体。人間力を高める最新科学』(七田眞著、白揚社)⁴:著者は、感情の働きやコントロールの方法について、脳の構造や機能を分かりやすく解説しています。感情は、大脳辺縁系という部分で生まれ、脳幹という部分で全身の状態を調整しています。感情は、自己の心や体に影響するだけでなく、他者とのコミュニケーションや社会的な評価にも関係しています。
- 『心身医学と,自己・他者の心の理解の脳科学』(中村桂子著、日本心身医学会)⁵:著者は、心の理解の障害があるアレキシサイミアという状態について、心の理論とミラーニューロンという神経学的な概念を用いて分析しています。心の理論とは、自分や他者の心の状態を推測する能力のことで、ミラーニューロンとは、自分や他者の行動を観察するときに活動する神経細胞のことです。これらの概念は、自己と他者の認識の共通の基盤を探ることに役立ちます。

ソース: Bing との会話
(1) どうして「私」(という意識)が、「自分」(の肉体)に宿っ .... https://book.asahi.com/jinbun/article/13275412.
(2) 脳機能マッピングから見る自己 - J-STAGE. https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/57/3/57_279/_pdf.
(3) 感情をコントロールする心の正体。人間力を高める最新科学 .... https://www.shichida.co.jp/magazines/%E6%84%9F%E6%83%85%E3%82%92%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%80%82%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8A%9B%E3%82%92%E9%AB%98%E3%82%81/.
(4) 心身医学と,自己・他者の心の理解の脳科学 - J-STAGE. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhas/7/1/7_1_10/_pdf/-char/ja.
(5) 脳はいかに意識をつくるのか|白揚社 -Hakuyosha-. https://www.hakuyo-sha.co.jp/science/%e8%84%b3%e3%81%af%e3%81%84%e3%81%8b%e3%81%ab%e6%84%8f%e8%ad%98%e3%82%92%e3%81%a4%e3%81%8f%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b/.

11.
コメント11

「さらに、具象化ということが、大事である。
 具象化とは、考えを、現実のものにすることだ。脳のことで言うと、心が感じたり考えたり信じたりするものに、心が意味や実体を与えて、本当にあると認めることである。
 具象化の能力は、物の本当の性質を分かることを可能にする。スイカやベリーやココナッツや桃などを見て、これらが「果物」だと気づくのは、左脳の頭の上の部分が動く具象化の能力のおかげだ。具象化の能力は、他にも、物が本当にあると感じることを可能にする。先述した「実在オペレータ」という機能がこれにあたる。

 世界を現実のものにする具象化の過程は、自己の脳の発達において重要だ。
 赤ん坊は、生まれてから物心つくまでは「自分のことに気づいてない!」。
 赤ん坊が音をたてたり、体を動かしたりするとき、小さい脳は、自分の感覚や作用を超えた世界を探る。
 例えば、赤ん坊が声をあげて笑うと、その声は外の世界の一部になる。赤ん坊の脳は、この声を新しい感覚として受け取り、自分の脳の動きの結果として取り入れる。母親が赤ん坊の笑い声に手をたたくと、赤ん坊の脳は、その音に対応する自分の脳の動きがないことに気づき、それを自分以外の存在の行動と判断する。
 つまり赤ん坊の脳は、感覚を二つに分ける。一つは、自分の行動の結果の感覚で、もう一つは、自分が作らない、コントロールできない感覚だ。

 こうして我々の脳は、自己という内の世界と、外界という外の世界との間に線を引く。その最初の一歩は、感覚の分け方から始まる。
 外の世界を経験すると、子供の脳は、感じたり欲したり考えたり行動したり記憶したりなど、自分のものと感じる動きをわかる。それらは、一つのはっきりしたものになる。それが、現実としての、ずっと連続して在り続ける「自己」である。

 「心」は自己より先にあって、自己を作る。自己を作るために、記憶や情動などを脳に伝える。
 つまりは「自己」は「心」とは別で、「心」の作ったものだ。それが、重要なのだ。」(ニューバーグ著「脳はいかにして<神>を見るか」より、参考)

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神経細胞や脳は、進化の中で、環境に合わせて動けるようになった。脳はその中で一番すごい。脳ができることで体をコントロールできるようになった。しかし、脳だけがそうなのではなく、植物などは、違うやり方で脳みたいなことをしている。
 もし、脳ができなかったらどうなっていたか。脳がなかったら、世界を意識できなかったか。それとも、世界はなかったか。それでは、世界の見方がおかしいということになる。

 意識はすべての神経過程にあるわけではない。外からの刺激にすぐ反応する脊髄反射や、内部で起こる反射作用は、意識に関係ない。意識になるかならないかは、はっきりしないものもある。
 例えば。感じたり動いたりすることは、繰り返すと、意識から薄れて消える。しかし、変わったことがあると、意識に上る。意識に上るのは、変化したことだけだ。我々の経験でも、それは分かるだろう。

 意識から薄れ消えることは、心の大事な働きである。繰り返すことで上手になることの基礎である。ゼーモンは、これをムネメと呼んだ。
 一回だけの経験は、生き物にとってあまり意味がない。同じ状況と反応が何度もあると、これを覚える。この反応を覚えることに意味がある。
 我々は自分の経験で、新しいことを覚えると、「もう知っている」と意識することを知っている。アヴェナリウスは、これをノータルと呼んだ。
 日常で繰り返すことは、普通になり、興味がなくなり、意識から消える。そしてこの反応は、繰り返すと確かになる。詩を暗唱したり、ピアノを弾いたり、仕事に行ったりするときも、そうだ。
 しかし、状況が変わると、変化と反応が意識に戻る。そこで選ぶことが変わると、分かれ道ができ、選択も決まる。出勤時や帰宅時も、別れ道で無意識に道を選ぶ。
 こうして、変化や反応や選択が増えるが、新しいものだけが意識に残る。
 こうして生物は学習し練習して生きるが、意識は、その教師の役である。教師は生徒が上手になると、生徒にやらせる。
新しいことは意識になるが、古いことは意識にならない。
 ムネメは、ギリシャ語で「潜在意識に入る記憶」だ。マリア・モンテッソーリは、子どもの学習能力を表す言葉として使った。ムネメは、子どもが環境からいろいろなものを無意識に吸収して、知性や技能を作る力である。これは大人になっても、生きるためにずっと行っている。

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脳の活動を測定する方法はいくつかありますが、代表的なものは以下の通りです。

- 脳波検査(EEG):頭皮に電極を貼り、脳から発生する微弱な電気信号を記録する方法です。脳の機能や状態を調べるのに用いられます¹。
- 磁気共鳴機能画像法(fMRI):MRIの装置を使って、脳の血流量の変化を観測する方法です。脳の活動部位や構造を可視化できます²。
- 近赤外線分光法(NIRS):光源と受光センサーを用いて、脳の血液中の酸素濃度の変化を測定する方法です。脳波検査よりも空間分解能が低いですが、装置が小型で移動性が高いです³。
- 脳磁計(MEG):超伝導量子干渉計(SQUID)という磁気センサーを使って、脳の電気信号を磁気として捉える方法です。脳波検査よりも空間分解能が高く、外部の電気的ノイズの影響を受けにくいですが、測定環境に制約があります³。
- 侵襲式:体内に電極を埋め込んで、直接電気信号を取り込む方法です。最も高い感度と空間分解能を持ちますが、倫理的な問題や感染のリスクがあります³。

これらの方法はそれぞれに長所と短所があり、目的や条件に応じて選択されます。脳の測定方法についてもっと知りたい場合は、以下のリンクを参照してください。

- [脳波の測定方法と特徴](^1^)
- [fMRIとは](^2^)
- [【脳活動測定装置の紹介】研究室で学んだこと教えます](^3^).

ソース: Bing との会話
(1) 脳波の測定方法と特徴 - AI事業 - マクニカ. https://www.macnica.co.jp/business/ai/manufacturers/innereye/135742/.
(2) 脳波検査(EEG)|脳・神経系の検査 | 看護roo![カンゴルー]. https://www.kango-roo.com/learning/1489/.
(3) 【脳活動測定装置の紹介】研究室で学んだこと教えます .... https://shiganablog.com/experience/brain-measurement.
(4) 脳波の測定方法と特徴 - AI事業 - マクニカ. https://www.macnica.co.jp/business/ai/manufacturers/innereye/135742/.
(5) 脳波検査(EEG)|脳・神経系の検査 | 看護roo![カンゴルー]. https://www.kango-roo.com/learning/1489/.
(6) 【脳活動測定装置の紹介】研究室で学んだこと教えます .... https://shiganablog.com/experience/brain-measurement.
(7) ja.wikipedia.org. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%B3%A2.

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 創価学会にとっては、先述してきたが、日蓮よりも創価三代会長が重要であることは明白である。そのドグマである「師弟不二」は事あるごとに宣揚されてきた。
 11月18日は(厳密な歴史的事実はさておき)創価学会創立記念日とされており、昨年11月18日やその数日前から、それに向けて様々な神話(池田大作の入信神話を含む、虚飾演出された創価学会の歴史や神話・物語)を宣揚・確認・確信させる様々な会合・行事・儀式が行われた。この準備や行事群の真っ最中の11月15日に、心の支柱となっていた池田大作が逝去したが、直ちに会員たちに知らされる事はなく、予定されていた儀式・行事は、池田大作がまだ元気であるという認識の下でほぼ遂行された。
 池田大作の死は、それも老衰(もちろん急変ではない、十分な年数にまたぐ期間を要する病名)による死は、その3日後の2023年11月18日の夕方になって、一般マスコミによって公式に発表された。それは2010年に公から姿を消して約13年も過ぎた後だった。
 多くの会員は、自分が所属している学会組織からや機関紙等ではなく、YouTubuやマスコミによる発表を最初として、池田大作の逝去を流れ聞いたのである。
 その後は、学会葬などが行なわれた。機関紙の聖教新聞でも翌日の19日から報道され、これまた先述の「師弟不二」などの創価神話のオンパレードであった。
 また、戸田城聖の獄中の悟り「在在諸仏土常与師俱生(注、法華経化城喩品第七の文で、転生するあらゆる諸仏の世界に常に師とともに生まれるという意味。 最初に法を説いて下種した師匠と、下種を受けて結縁した弟子は、あらゆる仏国土にあっていつも一緒に生まれるという)を、多くの幹部・会員が、いたるところで語り、師匠として仰ぐ池田大作との契りの永遠性を確認・確信しあっているのである。

 こういった会合なども、儀式の範疇であり、会員たちに池田大作を永遠の師匠と仰ぎ「師弟不二」の実践をすることにのみ自身の成仏と社会の広宣流布の実現があるとの約束を、現実のものとして体験させる一定の効果があるのである。

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また、如説修行抄には、広宣流布後の理想世界が述べられている。

「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄 御書P501)
《すべての人々が一同に南無妙法蓮華経と唱えるならば、吹く風は穏やかで、枝を鳴らさず、降る雨も土壌を砕かず、代は羲農(昔の中国における伏羲や神農)の時代のような理想社会となり、人々は今生には不幸な災難を払い、長生きできる方法を得て、人法ともに不老不死であるという道理がはっきりとあらわれてくるのである。
その時をおのおの見てごらんなさい。「現世安穏」という証文の正しさは疑いないのである。》

 この切り文は、私が度々幹部会などの会合でも述べられているのを聞き、心に残っているものである。
これは、法戦と称して、会員の尻を叩いて選挙の票取りに扇動する幹部指導などによく利用される。つまり、選挙で公明党議員の数を増やすことで、創価学会組織を発展させ、上記のような広宣流布の理想社会を実現させることが、地涌の菩薩の使命であると宣揚するのである。

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たとえば、私がしばしば聞いた、組織内で帰属意識を高めるためによく語られる例として、先述もしたが、このような立正安国論の切り文がある。
「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(立正安国論、御書P
(小さな青バエも駿馬の尾につかまれば万里を駆け巡ることができ、立てない葛も大きな松の木につかまって千尋に伸びることができる)
 これを根拠に、創価学会の組織への帰属意識を高め、組織についていけば成仏できるという安心感を与える。
 また、どんな凡人でも人生における師匠(池田先生)や、気の通った仲間や先輩のいる組織は不可欠であるという指導や、創価学会の信仰活動によって自分はこんなに成長したなどという体験談も多い。
この立正安国論の一文は、その前にある「かたじけなるも大乗を学す」をきちんと把握しないで、初心者でも「創価学会に付ききっていれさえすれば」成仏できる譬えとして曲解され、組織の指導や体験発表などの主張においてもよく利用されているのを私は何度も経験した。
 もちろんこの遺文の正しい意味は、小さな存在であっても正しい法則である南無妙法蓮華経を修行することによって何時何処であっても即身成仏できるということであり、その組織が創価であるべき条件などはない。

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■ 儀式の効果は、儀式のリズムと内容の両方に依存する
 

「儀式のリズムが参加者の脳や身体に響かなくなったり、儀式の内容が時代や文化に合わなくなったりすると、儀式の意味は失われる。
 例えばローマ・カトリック教会のミサは、かつてこのような問題に直面した。ミサはイエスの「最後の晩餐」を再現する儀式で、信者たちがイエスの教えや約束を確認して、信仰を深めるもので、聖書の読み方と歌と祈りを組み合わせた、重厚で効果的なものだったが、ラテン語で行われていたため、普通の信者には理解できなかった。そこで、1960年代の改革で、各国の現代語でミサを行うようにしたが、信者たちは不満や違和感を感じた。信者たちにスピリチュアルな感覚を与えることが儀式の目的であるとすれば、この改革は失敗だった。信者たちが新しいミサに慣れて、古いミサと同じ満足感を得るまでには、時間がかかった。これは、ラテン語から現代語に変わったことで、儀式のリズムが崩れたためだろう。ラテン語の音自体が、儀式の重要な要素になっていたのだ。ラテン語の刺激に慣れていた信者たちの脳は、新しい言語のリズムに戸惑って、新しい共鳴点を探さなければならなかった。
 このように、どんな儀式も、時代に合わせて、リズムと内容を調整しなければならない。つまり、儀式は、体や心の動きのリズムで生まれるだけでなく、生き続けるために、もっと大きなリズム、すなわち、安定と変化のバランスを必要としている。」(ニューバーグ著「脳はいかにして<神>を見るか」)

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 アンドリュー・ニューバーグの研究成果は、宗教体験や神秘体験の脳科学的なメカニズムを明らかにすることを目的とし、fMRIやSPECTなどの脳イメージング技術を用いて、以下のような発見をした。

 ①瞑想や祈りは、脳のストレスや不安を減らすホルモンや神経伝達物質の分泌を促進し、心身の健康に良い効果をもたらす。
 ②瞑想や祈りは、脳の頭頂葉の後方にある方向定位連合野という部位の活動を低下させる。この部位は、自分と外界との境界を認識する役割を果たしているため、その活動が低下すると、自分と宇宙との一体感や無我の境地を感じることができる²。
 ③瞑想や祈りは、脳の前頭葉の前方にある前帯状回という部位の活動を高める。この部位は、自分の意志や目標を決める役割を果たしているため、その活動が高まると、自分の信念や価値観に対する確信や情熱が強まる。

 彼の研究は、宗教やスピリチュアリティが人間の脳や心にどのような影響を与えるかを科学的に解明するだけでなく、人間の生き方や社会にどのような意味や価値を持つかを考えるきっかけを提供している。

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神経学者アンドリュー・ニューバーグとは、**Andrew Newberg**という名前のアメリカの神経科学者で、ペンシルベニア大学の教授です。彼は、**神経神学**という分野の創始者の一人で、宗教や霊的な経験が脳に及ぼす影響に関する研究で知られています。

- [ペンシルベニア大学のプロフィールページ](https://www.med.upenn.edu/apps/faculty/index.php/g275/p8147481)
- [Andrew Newbergの公式ウェブサイト](http://www.andrewnewberg.com/)
- [神経神学の概要](https://www.britannica.com/science/neurotheology)


 彼の著書には、『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』³や『心をつなげる 相手と本当の関係を築くために大切な「共感コミュニケーション」12の方法』⁴などがあります。これらの本では、彼の研究成果や、宗教やスピリチュアリティに関する興味深い話題が紹介されています。もし、彼の見解についてもっと知りたいなら、これらの本を読んでみるといいかもしれません。

(1) 脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン .... https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E2%80%9C%E7%A5%9E%E2%80%9D%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%8B%E2%80%95%E5%AE%97%E6%95%99%E4%BD%93%E9%A8%93%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC-%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0/dp/4569626858.
(2) アンドリュー・ニューバーグ | 人名事典 | お楽しみ | PHP研究所. https://www.php.co.jp/fun/people/person.php?name=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0.
(3) 「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか ―
(4) 深い瞑想がもたらす「無我の境地」のメカニズムが分かりまし .... https://www.radiance.gr.jp/knowledge/meditation/selflessstate/.


(1) 神秘体験 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%BD%93%E9%A8%93.
(2) 「心をつなげる」特設サイト(東洋出版). https://www.toyo-shuppan.com/kokorotunageru/.
(3) 深い瞑想がもたらす「無我の境地」のメカニズムが分かりまし .... https://www.radiance.gr.jp/knowledge/meditation/selflessstate/.

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アンドリュー・ニューバーグ著「神経神学」2023・4・20、北大路書房より引用。

「宗教が暴力的行為を促す基盤となり、否定的な心理状態に関係する場合の分析である」(同書P9)
「神の存在は妄想であるのかどうかについて神経神学的見解を示す」
「結局のところ、私たちが脳に閉じ込められ、その内側から世界を覗き見ているのであれば、世界がどのように機能しているのか、そして私たちがその中でどのような位置にいるのかということについて、神話をつくり上げる以外に方法はないのである」
「神話を見直すことは、宗教の重要な要素の根底にある脳プロセスに光を当てるのに役立つ」(同書P10)

「宗教的、霊的な現象に関連する脳機能研究に関して神経神学の究極の意味について考察する。 一方では、このような研究は宗教を説明することになり、古くから考えられていたように信仰の終焉につながる可能性があると、主張される。他方では、神経神学は、少なくとも、人間が生きる意味や目的、価値、そして脳内の出来事と得難い宇宙との一体感を見出すのに役立つという点で、特定の宗教や霊性追求に手を貸すことになる。」(同書P12-13)

「しかし、科学は科学者と呼ばれる人間によって行われており、世界のあらゆる科学的理解は依然として人間の脳の中で生じている。さらに科学は、現実を測定可能なものと考えているようだ。しかし、もしそうでなかったらどうであろうか。科学は、私たちの脳というプリズンから外に出る方策を秘めているのであろうか。
実在の本質を認識論的課題だけで捉えるのでなく、哲学的な分析も必須だと私には思われた。そして自分自身の哲学的黙想を通してこうした疑問を追求していくと、科学、哲学、宗教で個別的に突き詰めていくだけでは、答えを出すのは達成困難であると気がついた。そのような課題に対応できる可能性をわずかでも見出せるのは、神経神学のような統合された学際的なアプローチだけだと考えた。」(同書P18)

「科学と宗教の決定的な相違の一つは、神のような超自然的または非物質的な実体が存在するか、またはしないかの問題に関係する」(同書P18-19)

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 ペンシルベニア大学の教授で、神経神学の創始者の一人であるアンドリュー・ニューバーグは、宗教や霊的な経験が脳に及ぼす影響に関する研究で知られている。祈りや瞑想などの宗教的な実践が、脳の構造や機能に変化をもたらし、人間の心理や行動に影響を与えることを示した。彼はまた、宗教や霊的な経験が、人間の脳の進化や社会の形成にも関係していることを主張した。人間の心や健康にもたらす効果や意義についても研究している。彼の研究は、宗教や霊的な経験を科学的に理解し、人間の幸福や平和に貢献する方法を探ることに意義があると考える。
 彼が創始した神経神学とは、宗教や霊的な経験が脳に及ぼす影響を科学的に研究する分野である。

 しかし、神経神学には、いくつかの問題や課題もある。まず、宗教や霊的な経験の定義や測定が困難である。宗教や霊的な経験は、個人や文化によって異なる意味や価値を持ち、客観的に観察や評価することが難しい。また、宗教や霊的な経験が脳に及ぼす影響が、必ずしも肯定的なものだとは限らない。宗教や霊的な経験は、狂気や暴力や偏見などの負の側面をも引き起こす可能性がある。さらに、神経神学は、宗教や霊的な経験の本質や真理については、答えることができない。宗教や霊的な経験は、科学的な説明だけではなく、哲学的や倫理的や芸術的な解釈や評価を必要とする。

 神経神学は、宗教や霊的な経験を科学的に研究する分野として、興味深くて有益なものである。しかし、神経神学は、宗教や霊的な経験の全体像や深層を捉えることができるとは言えない。神経神学は、宗教や霊的な経験の一面を明らかにすることができるが、宗教や霊的な経験の多面性や複雑性を無視することはできない。神経神学は、宗教や霊的な経験に対する他の視点やアプローチと対話や協力することが必要である。

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